リドリー・スコット監督、ハリソン・フォード、ルトガー・ハウアー、ショーン・ヤング、ダリル・ハンナ、ブライオン・ジェームズ、ウィリアム・サンダーソン、エドワード・ジェームズ・オルモス、ジョアンナ・キャシディ、M・エメット・ウォルシュ、ジョー・ターケル出演の『ブレードランナー ファイナル・カット』。2007年(オリジナル版1982年)作品。

 

音楽はヴァンゲリス。

 

原作はフィリップ・K・ディックの小説「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」。

 

2019年、ロサンゼルス。人造人間“レプリカント”が反乱を起こしてロイ・バッティ(ルトガー・ハウアー)をリーダーとする数体が地球に降り立ち人間に紛れ込んだため、レプリカントの処刑を担う“ブレードランナー”のリック・デッカード(ハリソン・フォード)はその行方を追う。レプリカントを製造しているタイレル社を訪れた彼は、設計者であるタイレル博士(ジョー・ターケル)とその秘書レイチェル(ショーン・ヤング)に会う。

 

ストーリーについてのネタバレがあります。未見のかたはご注意ください。

 

 

現在公開中の35年ぶりの続篇『ブレードランナー 2049』の前章にして、SF映画のマスターピース。

 

すでに多くの人々がこの作品については語っているし優れた解説や評論も書かれているので、詳しくはそちらをあたられるといいと思いますが、僕も以前この映画の成り立ちから公開までを記した「メイキング・オブ・ブレードランナー」や町山智浩さんの著書「〈映画の見方〉がわかる本 ブレードランナーの未来世紀」を読みました。内容ほとんど忘れちゃったけど。

 

今さらそのヴィジュアルや設定の斬新さについて語るのもなんですが、何しろ最初のオリジナル版が公開されたのはファミコンが発売される1年前(この映画の2年前にはハリソン・フォードが出演した『スター・ウォーズ 帝国の逆襲』、前年には『レイダース 失われたアーク』が公開されている)だということを考えると、まるでオーパーツみたいに時代を飛び越えた作品といえる。

 

 

 

 

二つで充分ですよ!

 

 

 

 

 

 

撮影は大変だったようで、スタッフは家に帰れず離婚が相次いだんだとか。

 

とはいえ、この映画もいきなり無から生み出されたのではなくて、先行のいくつもの映画からイメージを引用している。

 

これまでにもたびたび紹介しているサイレント時代のドイツ映画『メトロポリス』(1927)はヴィジュアル面でこの映画にもっとも影響を与えていて、超高層ビルの景観などにそれはうかがえる。

 

 

 

 

 

また人間そっくりのロボットが登場するところなども似ている。

 

 

 

 

 

 

 

もっとも『ブレードランナー』に出てくるレプリカントは機械ではなくて有機体で、見た目は人間とまったく変わらない。だからこそより「本物と贋物」の区別がつきにくい。

 

主人公の男性性が脅かされているような描き方をしているところなど、原作者フィリップ・K・ディックの原作のテイストも残っている。

 

劇場公開時には当たらなかったけれど、映画に限らずその後の創作物の未来像(その混沌としたアジア的なイメージは7年後の『ブラック・レイン』で再び描かれる)を変えてしまった作品としてすでに高い評価を受けているし、今なおカルト的な人気がある。

 

僕も別に熱烈なファンというわけじゃないけど1992年と2007年に劇場で観てるからそれなりに思い入れはあるし、こうしてまた三たび映画館の大きなスクリーンで観られたことに喜びを感じています。何か人生の節目ごとにこの作品を観ている。

 

ちょうど今から10年前の2007年に仕事と私生活でいろいろと行き詰っていてつらかった時期に新宿バルト9で上映されているのを観て、映画の中で生みの親であるタイレル博士に「もっと生きたいんだよ、父さん」と訴えるロイ・バッティに妙な共感を覚えたのだった。

 

だから今回も映画を観ながらかなり感傷的になってしまった。

 

当時はまだ多くの映画館ではフィルムで上映が行なわれていてデジタル上映は珍しかったけど、その時はDLP上映で画面の鮮明さに驚いた記憶が。今では当たり前になってしまいましたが。

 

そうか、あれからもう10年経ったんだ、と思うといろんなことが頭の中を駆け巡ります。

 

まさしく「雨の中の 涙のように」時間は過ぎてさまざまなものが失われていく。

 

 

この映画はいくつものヴァージョンがあることでも知られてますが、僕はこの映画の初公開時には劇場では観ていなくて、TVの地上波(TBS)で放映された時が初見。多分、80年代の終わり頃か90年代初め頃の再放送時。

 

もちろん日本語吹替版で、ハリソン・フォード演じる主人公デッカードを吹き替えていたのはお馴染み村井国夫でも磯部勉でもなくて、堀勝之祐。

 

この映画のフォードはハン・ソロやインディ・ジョーンズのようなタフガイや活劇ヒーローではないので、堀さんのいい意味で普通、というか強い個性を感じさせない声はキャラクターと合ってました。

 

ルトガー・ハウアー演じるロイ・バッティの声は寺田農。『天空の城ラピュタ』のムスカ大佐とはまた違った色気があった。

 

ちなみに『ブレードランナー』の地上波初放映は1986年で『ラピュタ』の劇場公開と同じ年なんだけど、寺田さんの起用はそれと何か関係があるのかな。

 

VHSのヴィデオテープに録画してたまに観てました。

 

それは82年のオリジナル・ヴァージョンだったので、全篇にハリソン・フォードによるナレーション(もちろんTV版は堀さんの声で)が付いていた。

 

TVで放送された時にはすでに有名な作品だったからその存在は知ってたし、その後1992年に『ディレクターズ・カット 最終版』(ややこしいことに“最終”版ではなかったわけですが)が劇場公開されると勇んで観にいきました。こちらは字幕版。

 

「Time to die.」という言い回しをこの映画で初めて知った。

 

それまであったデッカードのヴォイス・オーヴァーやラストの緑の風景が続く空撮ショットがカットされ、デッカードの夢に出てくるユニコーンの場面が追加されて、現在のヴァージョンに近い状態に。

 

最終版からファイナル・カットで変わった箇所といえば、僕が気づいたのはホッケーマスクの踊り子のショットが加えられたこととハトが飛んでいくショットのバックの天気が変えられていたことぐらい。

 

ラストの空撮やデッカードによるヒロインについての説明の有無で作品の結末が大きく変わることになるから、オリジナル版とこのファイナル・カットとでは鑑賞後の印象も異なる。

 

オリジナル版は無理矢理ハッピーエンドにした感じで、レイチェルも寿命の制限はなかったらしい、みたいなデッカードの解説が付いていた。

 

それに比べて最終版を踏襲したファイナル・カットのいきなりぶった切ったように終わるエンディングは、より悲劇性が際立っている。

 

現行のネクサス6型レプリカントは寿命が4年と限られていて、仮にタイレル博士がデッカードに話したようにレイチェルが他のレプリカントとは違っていたとしても、死による二人の別れがそんなに遠くないことを暗示している。

 

この映画の魅力のひとつは、人造人間たちに仮託して描かれた人間の儚さだろう。

 

誰にでもいつか必ず「死」は訪れる。その事実を哀しくも美しく激しく表現している。

 

創造主のタイレルにロイ・バッティは「寿命を延ばしてほしい」と願うが、それは技術的に不可能だと言われてしまう。

 

タイレルを殺しても寿命が延びるわけではないのに、なぜロイは彼を殺したのか不可解だが、それはつまり運命への反逆ということだろうか。

 

僕はあいにくリドリー・スコットの最新作『エイリアン:コヴェナント』は観ていないんですが、その前の『プロメテウス』もそうだったように彼は最近何やら“神”と“被造物”の関係への興味を強めているようで、この『ブレードランナー』にも同様のテーマが見出せる。

 

“父”であり“神”でもあるタイレルを殺したロイは、同じくレプリカントで恋人のプリス(ダリル・ハンナ)が待つ老化病の技師J・F・セバスチャン(ウィリアム・サンダーソン)の家に戻るが、プリスがデッカードに撃ち殺されたため彼を追う。

 

 

 

 

追っていた者がいつしか追われる身となる。

 

限られた人生を燃焼させること、燃え尽きるまで生き抜くことこそ私たちにできうる精一杯の運命への抵抗。

 

寿命を定められ苛酷な環境で労働に従事させられる「奴隷」であったレプリカントたちは、もちろん人間の比喩だ。

 

上司のブライアント(M・エメット・ウォルシュ)に「権力には逆らえないぞ」と脅されて、辞めたはずのブレードランナーの仕事に渋々戻ったデッカードを追うロイは、「もっと頑張れ!」と彼に真剣に戦うことを要求する。

 

ラストでブライアントの部下のガフ(エドワード・ジェームズ・オルモス)が残していったのであろうユニコーンの折り紙を握り潰して頷くデッカードの脳裏には、ロイの生き様とその最期が浮かんでいたに違いない。

 

「彼女(レイチェル)も惜しいですな、短い命とは。しかし誰が長生きできるというんでしょうね」というガフの言葉は、つまりすべての人間のことを言っている。

 

デッカードのあの頷きには、覚悟のようなものがこもっていました。

 

限られた命の炎を燃やし続けるしかないのだ、ということ。

 

 

監督のリドリー・スコットは「実はデッカードはレプリカントだった」というアイディアに取り憑かれているそうで、確かに劇中で“ユニコーン”が意味ありげに用いられているしそのように解釈できる余地もあるんだけど、スタッフたちやハリソン・フォードからは反対されている。

 

もしもデッカードがレプリカントならいろいろとつじつまが合わなくなってくるし、そもそもレプリカントというのは人間のメタファーであって、デッカードはあくまでも人間だけど、人間ならざるレプリカントたちを通して「生きること」や「命」について描いていた作品だったんだから、「主人公の正体は、自分が追っていたはずのレプリカントでした」というどんでん返し風のオチは作品の象徴性を損なって、ただの安っぽい推理モノに貶めてしまうと思う。

 

続篇はまだ観ていないので、このあたりがどのように描かれているのかはわかりませんが。

 

 

ハリソン・フォードは長らくこの映画に対してそっけない態度(というよりもほとんど嫌悪していた)だったので、スター・ウォーズ同様にまさかその続篇に出演するとは思いもしなかったんだけど、月日の流れが何か心境の変化をもたらしたんだろうか。

 

続篇の予告にチラッとショーン・ヤングが演じたレイチェルの写真が飾ってあるのが映っていて、なんだかグッときた。

 

この映画でのショーン・ヤングは本当に彫刻のように非のうちどころのない美貌で、その謎めいたクールな表情が揺れる様子を眺めているだけでうっとりしてしまう。

 

 

 

 

 

 

彼女が演じるレイチェルは主人公と出会い愛し合うことになるが、最後までその心の中はよく見えない。

 

まるで男の幻想の中に棲む女性のようだ。彼女は男の「理想の女」として描かれている。

 

キスしようとするデッカードを冷たく見つめ返し、立ち上がって部屋を出ていこうとするレイチェルを彼は無理矢理ブラインドの方に突き飛ばして、「俺を愛しているか」と尋ねる。

 

 

 

これは芽生え始めた感情、自分の本当の気持ちに戸惑い躊躇するレイチェルをデッカードが「男らしく」うながしたということなのだろうし、バックに流れる音楽とともにロマンティックに演出されているけれど、今観ると抵抗を感じる人もいるんじゃないだろうか。

 

デッカードとレイチェルの関係については以前『エクス・マキナ』の感想で両作品の男女の描写を比較しましたが、『ブレードランナー』はハードボイルド・タッチで描かれていて、つまり男の幻想そのものの世界なんですよね。

 

しかし、デッカードはけっして男らしくもなければ強くもない。ハードボイルドというのは男の強がりや空威張りの世界だと思う。デッカードというキャラクターはそのパロディのようにも見える。

 

丸腰で逃げるレプリカントの女性ゾーラ(ジョアンナ・キャシディ)を背後から撃ち殺し、リオン(ブライオン・ジェームズ)にボコボコにされているところをレイチェルに救われ、やはり素手で向かってくるプリスを銃で殺す。体力や運動能力で勝るロイ・バッティにはまったく歯が立たず、追われながら最後には命を助けられる始末。

 

たどり着いた屋上でロイを前にしてへたりこんで後ずさるデッカードが内股気味なのは、リドリー・スコットが敢えてそう演出したからなんだそうで。

 

 

 

男性性の塊のようなキャラクターであるロイ・バッティによって激しく生きる姿を見せつけられたデッカードは、レイチェルとともにふたりで逃げ延びて生きていくことを選ぶ。

 

リドリー・スコットがこの映画の前に撮った『エイリアン』で、人間を餌食にする宇宙モンスターや狂ってヒロインに暴行を加えるアンドロイドが男性による女性へのレイプの恐怖のメタファーであったことを考えると、これは逆に何か「男性性」の不安について描いた物語のようにも読める。

 

ここでは男性性=生命力と言い換えてもいいかもしれない。

 

エイリアンの暴力性とその繁殖力に人間が恐怖を感じながら惹かれるように、『ブレードランナー』のレプリカントたちは人間たちよりも強くたくましい。

 

J・F・セバスチャンと出会った時にはおどおどしていたのが、その後、態度が豹変するプリスに妙な恐ろしさを感じたりもして。

 

殺す標的だったはずのレプリカントたちによって、逆にデッカードは生きることに目覚める。

 

正しいかどうかはともかく、この時期のリドリー・スコットは生命力と暴力を結びつけて描いていた。命を燃やし尽くして生きることは、暴力的であるということ。

 

同じく「神殺し」を描きながらも男の目線で描いた『ブレードランナー』に対して、『エクス・マキナ』では、男である“神”への女たちの逆襲が描かれていた。

 

非常に似たテーマを扱いながら対照的な2つの映画を観比べてみると実に面白い。

 

 

 

エンディングのテーマ曲は、最初聴いた時には「安っぽい音だなぁ」と感じたし、あまりに同じメロディが延々と続くんで「誰か止めてーヘ(゚∀゚*)ノ」ってなったけど、繰り返し聴いてるうちにだんだん中毒みたいになってきて今ではいつまででも聴いていられそう。

 

アナログの時代に生み出された見事な視覚効果。さまざまな解釈を誘うストーリー。

 

私は何者なのか。人間とは。命とは。愛とは。女と男とは。

 

デッカードとレイチェルが向かった先には何があるのだろうか。

 

これは答えを与える映画ではない。問いかけて彷徨わせ、浸らせる映画だ。

 

僕は次にいつこの映画を劇場で観られるのだろう(※追記:その後、この映画の舞台となった2019年にIMAXで上映)。

 

 

※ロイ・バッティ役のルトガー・ハウアーさんのご冥福をお祈りいたします。19.7.19

 

 

関連記事

『ブレードランナー ファイナル・カット』 IMAXレーザー2D

『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』

『ターミネーター2 3D』

『デューン/砂の惑星』

『アジャストメント』

『トータル・リコール』(2012年版)

『月に囚われた男』

 

 

 

 

 

 

 

にほんブログ村 映画ブログへ にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ