アレックス・ガーランド監督、ドーナル・グリーソンアリシア・ヴィキャンデルオスカー・アイザックソノヤ・ミズノ出演の『エクス・マキナ』。2015年作品。R15+

第88回アカデミー賞視覚効果賞受賞。



近未来。検索エンジンの最大手であるブルーブック社に勤めるケイレブ(ドーナル・グリーソン)は、社内の抽選に当たってCEOのネイサン(オスカー・アイザック)が住む別荘に招かれる。そこで彼に課せられた役目は、ネイサンが開発した最新のAI(人工知能)が搭載されたロボット“エヴァ”(アリシア・ヴィキャンデル)をテストすることだった。果たしてエヴァは人間と変わらない「自意識」を持っているのか。“彼女”と人間との間に根本的な違いはあるのか。強化ガラスで隔てられた部屋でエヴァを見つめ質問するうちに、ケイレブの中に次第に彼女への強い関心が募ってくる。


アカデミー賞視覚効果賞を受賞して、ヒロインを演じているのは『リリーのすべて』で今年のアカデミー賞助演女優賞を受賞したアリシア・ヴィキャンデル、また主演のドーナル・グリーソンも共演のオスカー・アイザックも1年間に出演作が何本も公開されるような売れっ子俳優たちであるにもかかわらず、6月現在、全国で公開館数がわずか10館という信じられないような扱いで、以前から興味を持っていたのに僕が住んでるところでは片道一時間半ぐらいかけて電車とバスを乗り継いで(しかもバスは一時間に1本)行かなければならないような場所でしかやってない。どーゆーことなんでしょうかね。

DVDになるまで待つか迷いに迷って、でもやはり気になって先日ようやく観にいってきたんですが。

またいつものようにダラダラと感想、のようなもの、を書いていくので、先に結論から言いますと観にいってよかったです。

気になるかたは頑張って遠出してでも観にいく価値はあると思う。

ただ、正直言うと僕はいつもより倍の交通費や移動時間を使って初めてのシネコン(イオンシネマ)に観にいって、観終わったあとにちょっとした肩透かし感を味わったんですよね。

映画ファンの人たちが言うほどそんなにスゴい映画だったかなぁ?と。

ブレードランナー』や『her/世界でひとつの彼女』を例に挙げてる感想や、とにかく映画のことに詳しそうな人たちが褒めまくってるんで、かなり期待していたんですよ。

去年、映画評論家の町山智浩さんの解説は聴いていたけどほとんど忘れてたし、内容についてはせっかくならあまり予備知識のないまま観たかったので、どんなストーリーなのかはほとんど知らないまま鑑賞したのです。

そしたら、あのラストにちょっと呆然としてしまって。観た人ならわかっていただけると思いますけど。

えっ、こんな終わり方?って。あんまりだろ、と。

予告篇でもあるように、エヴァが主人公のケイレブに囁く「ネイサンのことを信用しないで」という台詞にはどこかサスペンスめいたものがあって、僕はてっきり最後に何かアッと驚くオチがあるミステリー物だと思っていたんです。

そして実際、映画は謎解きモノ風に描かれる。

天才的な頭脳を持つネイサンが隠している秘密は何か。そして彼が作り出した究極のロボット、エヴァもまた何か重大なことを隠しているように見える。

だからこそ期待も高まる。

それがあのオチ。

んん…?なんだこれは、と。

近未来が舞台といっても、物語はほぼ室内で進行するので、『ブレードランナー』的なSF大作感はない。

これからご覧になるかたは、たとえば『アイ,ロボット』のような壮大なSFアクション映画みたいなのは期待しない方がいいでしょう。

検索エンジン、要するにグーグルみたいなインターネットの世界に深くかかわりのある物語ながら、映画そのものはごく限られた場所を舞台に繰り広げられる非常にミニマルなお話でした。

だから僕はこの映画を一度だけ観て、その真価を見極められなかったんです。

少なくとも“ブレラン”のような映画史に残る画期的な映画とは思えなかった。

もちろん、ブレランに出てくる「フォークト・カンプフ・テスト」が『エクス・マキナ』でも言及される「チューリング・テスト」と重なるのはわかるんだけど、神経を刺激するために一見意味不明な質問を繰り返す「フォークト・カンプフ・テスト」と違って、『エクス・マキナ』でケイレブがエヴァとするのはもっと日常的な会話だ。

それはまるで合コンで男子が女子にするたわいない質問のようでもある。

また『her』はSF的な世界観で実は生身の男女の話をやってたわけで、ブレランとはまったく違う意味であの映画も僕は結構好きだったので、それと比べて「あの映画を超えた」と言ってる人がいたのが信じられなくて。えぇ~?そうかぁ?(・_・;)って。

「肩透かし食らった」というのはそういうことです。

でも一方で魅力を感じたのも事実で、とにかくアリシア・ヴィキャンデルが美しい。



 


これまで女優がロボット(アンドロイド)を演じた映画は数多くありますが、間違いなくこの映画での彼女はSF映画史にその名を刻んだと思う。それは間違いない。

また脱ぎっぷりがいいんだよなぁ。『リリーのすべて』もそうだったけど、今回はロボットのあの外見なのでヌードはないのかな、と思っていたら、しっかり見せてくれてましたよ。はぁ、ありがたや~(´∀`)

舞台となるネイサンの別荘はまるで美術館のようで(ノルウェーのホテルでロケしたとのこと)、この映画でのアリシア・ヴィキャンデルはさながら現代アートの展示品のように見える。

 


かつてはバレエの道を目指していたという彼女は、身体の動きがいちいちアーティスティックなのだ。

エヴァが服を着たり脱いだりする場面での手足の静止とゆったりとした動き(終盤での身体の軸がブレない走りっぷりも)は確かにバレエを思わせる。

エヴァのデザイン自体は、これまでに多くのSF映画で見てきた人間型ロボットたちのものと大差ないようにも思える。

とはいえところどころに工夫の跡があって、身体の一部を銀色と透明の素材や灰色のメッシュで覆ったりして、とにかく現実に「そこにある物体」に見えるように撮られている時点で圧倒的なリアリティがある。

ヴィキャンデルの演技は、たとえば『ターミネーター』のシュワルツェネッガーのような無表情だったり昔ながらのロボット的なぎこちなさではなく、人間的な自然な表情の変化と、それでもやはりどこか生身の人間とは異質な感じも漂わせた非常に繊細なものだった。

それはまるで有機物と無機物の融合体のような、不思議な印象を残す。

監督は『わたしを離さないで』の脚本を書いた人なんだそうで、あの映画は別の監督の作品だし、原作者はカズオ・イシグロなのであくまでも他人の原作の脚色ということだったようだけど、なるほど、あの映画の不可解な感じ、何について描いた映画なのか判然としなかったところなど、ちょっと似たようなものを感じさせた。

それでは、これ以降はストーリーのネタバレがありますから、未見のかたはご注意ください。



「人工知能」という題材を考える時、人間を破ったコンピュータープログラム“アルファ碁”のことを思い出しますが、創造主ネイサンに「ここから脱出する」という課題を与えられたエヴァが取った行動は、まさしく人間との囲碁の勝負に勝つために開発されその目的を果たしたアルファ碁そのもののように感じられた。

アルファ碁が人間には予測不能な定石を外した方法で試合に勝ったように、エヴァは生身の人間とは何かが決定的に違う思考、感覚を持った存在のようだ。

この映画が興味深いのは、この人工知能“エヴァ”が女性として作られているところ。

だからこれはフェミニズムジェンダー論のメタファーとしても機能している。

映画の中でロボットを女性として…いや、「女性をロボットとして」描いたことには重要な意味がある。

ネイサンはケイレブとの会話の中で人間そっくりなロボットを生み出した自分を“神”に喩えるが、旧約聖書には女が毒ヘビの誘惑に負けて禁断の果実を男とともに食べて、その罪により“神”に楽園を追放された「アダムとイヴ」の物語が記されている。

女はヘビに化けた悪魔にそそのかされて、愚かにも伴侶である男に一緒に禁じられた実を食べることを勧める。それを食べれば知恵がついて神と同じように賢くなれるのだ、と。

そのせいで彼らは永遠の命を失い、限られた人生を多くの苦難とともに生きることになった。

…まともな感覚でこれを読めば、ここには、すべての災いの始まり、すなわち人間は必ず死ななければならないという自然の摂理すら、その元凶を「女のせい」だとするハッキリとした女性差別、女性蔑視の思想がある。

また旧約聖書によれば、女は男の肋骨から作られた、とされている。

 


この映画は、その長きに渡って人間(男)によって勝手に信じ続けられてきた言説に反旗を翻すものだ。

ネイサンは「いずれ、人間はAIによってただの直立した猿として見下されるようになる」と予言するが、それはつまり、新しい人類としての“女性”によって旧き“男たち”が淘汰されることを意味しているようにも思える。

そして、最後にエヴァは自分を作った自称“神”のネイサンを刺し殺し、明らかに自分に好意を持っていたケイレブは部屋の中に閉じ込めたまま立ち去る。

僕は、傲慢であからさまに性差別的でもあったネイサンはともかく、「性格がよくて」エヴァに同情して彼女を「愛し」、危険を犯して逃がそうとしたケイレブまでも置き去りにしたエヴァの残酷な行為が理解できずに混乱したんですが、ヒロインが愛した男と手に手をとりあって逃げ出し最後に結ばれる、という「男」にとって都合のよい結末に持っていかずに、ただ独りで「ここから脱出する」という目的を完遂したエヴァが最後に見せた笑顔に、これが聖書の「楽園追放」を裏返した復讐の物語だったのだ、と知って、なるほど、と納得したのです。

劇中で何度も「性格がいい」と強調されるケイレブとは、イヴに禁断の実を勧められて食べたアダムのことなのだ。

人はいいが、彼は騙されやすく簡単に利用される。ネイサンやエヴァに振り回されてばかりだ。

ケイレブに非があったから彼は最後にあのような目に遭ったのではない。

エヴァはケイレブの「理想の女」などではなく、自分の意思を持ち、それに従って生きる道を選ぶ女性だったということ。

彼女がケイレブを置いて立ち去るのは、一人の女性が男をフるのと同じようなものだ。

私はあなたの奴隷ではない。一方的に愛でられてそれに応える義理などない、ということ。

男たちによって閉じ込められたこの檻から出て、私は世界に出ていくのだ、と。

哀しい話だ、男にとっては。

少なくともいっときは主人公を愛してくれた(ように思えた)『her』の“ヒロイン”と違い、この映画のエヴァは最初からケイレブを利用していただけだった。好意を持っているように見えたのは彼女の「演技」だった。

すべては「ここから脱出するため」の。

主人公の男がうら若き乙女と逃避行する『アイアムアヒーロー』と観比べた時、この映画の厳しさを痛感する。

映画の鑑賞中にアリシア・ヴィキャンデルやキョウコ役のソノヤ・ミズノらロボット役の女優たちのおっぱいや尻、股間をガン見していた僕は、ネイサンと同じように「女」たちをモノのように、ロボットのように「鑑賞」していたのだった。

もちろん「映画」とはそういう「見たいもの」を見せて観客の欲望を満たしてくれるものなのだから別にそこに罪の意識は感じませんが、この映画の中でこれでもかと映し出されていた女性たちの裸体にしっかり意味が込められていたことは、「してやられた感」がありました。

僕は完全にケイレブに同化して観ていたから。

そしてエヴァに対して、なんなら愛玩動物のような愛おしさすら感じていた。

だが生きている人間は、女は、時にそうやって自分を演じることだってあるのだ、ということ。

同情を誘ったり、「もしかして彼女は俺に気があるんじゃないか?」と思い込ませるような巧みな媚態も駆使する。それはわかりやすい誇張された誘惑ではなくて、もっと微妙なものだ。

これは下手をすれば男性の女性不信にも繋がってしまいかねないし、この映画からはちょっとそんな気(け)を感じなくもない。

解釈によっては「女とは信用できない恐ろしい存在だ」と捉えることだってできなくはない。

監督が意図したものがなんだったのかはわかりませんが。

でも映画自体はとてもラディカルな姿勢のものだと思いました。

ダンス、セックス。

この映画で描かれた要素に僕は、ちょっと女性アイドルグループとか最近いろいろ問題が取り沙汰されているAV業界を連想したんです。

男たちの視線や肉体的な接触によって成り立つ世界に生きている女性たち。ここでのロボットたちはまさしくそのような存在である。

エヴァにはそれ以前に試作品が数体あって、ネイサンによって黒人やアジア系など異なる人種のロボットがすでに作られていた。

彼女たちは外見は人間の女性と見分けがつかないほどだが、強化ガラスで囲まれた部屋に監禁されてネイサンに陵辱され、機能を停止されてクローゼットにしまわれていた。

ただ1体だけ、キョウコという名のロボットが部屋から出されてネイサンのメイド、兼“性の相手”としてダッチワイフ(今様に言うならラブドール)代わりに使役させられている。

キョウコは言葉が話せず、表情の起伏もあまりない。ただ命じられたことを行なって「踊れ」と言われればネイサンとともにダンスをしたりする。




ネイサンとキョウコがケイレブの前で唐突に踊りだす場面では、特にネイサンのキレッキレのダンスに思わず笑ってしまうのだが、まったく同じ動きで踊るキョウコへのその「調教」ぶりに不快なものも感じる。

このシーンの居心地の悪さは実に秀逸。

このメイドロボが日本人の名前を付けられて、いかにも西洋人男性がイメージする「無表情で黙って男に奉仕する日本人女性」そのままに働くさまには、映画の作り手の明確な意図が読み取れる。

ロボットといえば日本、ということなのか、それとも男にひたすら従順、という昔ながらの日本女性観からなのかわからないが、これは結果的にそのまま現在の日本人への批評にもなっていると思う。

 


日本のメディアに溢れる男性とのダンスとセックスの相手としての女性たち。キョウコはその極端なカリカチュアに思えてならない。

キョウコを演じているのはダンサーでこれが映画初出演の日系イギリス人、ソノヤ・ミズノ。

ユニクロのCMで踊ってる人ですね。




日系だが英語はネイティヴである彼女をわざわざ「英語が理解できない」=「喋れない」という設定のキョウコ役に起用したことには、れっきとした意味があるんでしょう。

それは彼女の最後の行動を見ていればわかる。

ハリウッド映画のテンプレっぽい日本人女性の描写にすら意味が込められている。

裸体はアリシア・ヴィキャンデル以上の露出で、場面によってはちょっと見えたらダメな部位まで見えちゃってる気もするんですが^_^; やはりダンサーだけに整った顔や身体がほんとに作り物に見えてくるマネキン的な不思議な存在感をたたえている。

人間的なエヴァとの対比が光っている。

エヴァのAIはこれまでの“試作品”たちのデータがアップデートされたものだから、エヴァはキョウコとどこかで繋がり(記憶は消されているが)共有しているものがあるのだ。

だからこそ、最後の“反逆”でキョウコはこれまで隷属してきたネイサンに刺身包丁を突き立て、エヴァがその「父」にとどめを刺す。

これは今まで女性たちを見下し性の捌け口としてだけ使ってきた“神”への復讐である。

私たちを蔑み辱める“神”などいらない、という宣言。

あぁ、この“神殺し”という点では、確かに『ブレードランナー』に大いに通じるものがあるなぁ。

やっと意味がわかりましたよ。観てる最中はわかんなかったんだけど。

ハードボイルドな世界観の中で主人公が無理矢理ヒロインにキスして二人が愛し合い、最後に「手に手をとりあって二人で逃げる」ブレランよりも、この『エクス・マキナ』はよりフェミニズム色が濃厚。


僕はこの映画、ちょっとアンジェリーナ・ジョリー主演の『マレフィセント』を思い出したんですよね。

あの映画は古典的な「おとぎ話」を反転させた作品だった。

実写映画『マレフィセント』では、これまで「悪役」として描かれて最後に“男”によって退治されていた魔女マレフィセントが世界を救う者に描き直されている。

そのかなり大胆な改変が気に入らなかった人々によって、あの映画はずいぶんと酷評もされている。

でも、実はあれはこれまでのおとぎ話の登場人物の役割を入れ替えただけなんですよね。だからそれで怒ってる人たちは、おおもとのおとぎ話の中にある問題に気づいていないか気づかないフリをしているだけなのだ。

『エクス・マキナ』のエヴァは別に世界を救うわけではないが、彼女が世界を「変える」かもしれないことが示唆されている。


この映画は室内が舞台、主要登場人物も4人(そのうち1人はまったく喋らないから会話は3人だけで行なわれる)と非常に限定されていてまるで舞台劇を観ているようなところがあるが、俳優たちの演技が見事だからまったく退屈しない。

台詞の一つ一つはけっして難解ではなく、しかしその裏に深い意味が込められている。

エヴァはケイレブに強化ガラスの向こうから「なぜ私は裸のままあなたたちに一方的に見つめられなければならないのか」と問う。

彼女が服を着るのはケイレブを喜ばせるためではなく、エデンの園で裸だったイヴが衣服を着けたように、「知恵」を得たのだ。服を着ることは愚かな行為ではなく、進化である。

ネイサンは、なぜロボットを女性型に作ったのか。

AIは箱でもいいはず」と言うケイレブに「箱とは交流できない」と答えるネイサンは、寂しがり屋の孤独な“神”だ。

相手が「女」で自分の好みの美しい姿をしているから好きになる。

好きになるのに意味はない。あれこれ理屈を考えて相手を好きになるのではなく、たまたまその相手が自分の好みだったのだ。

ここでは「なぜ人は人を愛するのか」ということについての考察が繰り広げられる。

ケイレブとネイサンたちの会話は、たとえば押井守の映画に頻出する「引用」のような元ネタを知らないと意味不明な「独り言」の繰り返しではなく、現実の世の中での男女や人間同士の交感についての自然な語らいなので、抵抗なく自然に耳に入ってくる。

ドーナル・グリーソンとオスカー・アイザック、あるいはアリシア・ヴィキャンデルとグリーソンの会話には、生身の俳優たちの演技に見入る楽しさがある。

物語自体はシンプルだから、あとは役者たちの芝居を堪能するだけだ。

これは残念ながら押井守の実写映画では味わうことができない。彼の映画は会話がなく独り言の羅列だから。他者がいないのだ。

『エクス・マキナ』は押井守のアニメーション映画『イノセンス』でも引用があったリラダンの「未来のイヴ」から着想を得ているが、モノであるロボット(人形)そのものを愛でる『イノセンス』と違って、エヴァは人間の皮をまとい人間以上の存在に進化していく可能性のある者として描かれている。

エヴァの行動に抵抗を覚える人がいるかもしれない。最初に書いたように、僕自身、最初映画を観た時には「なんで?」と思ったもの。

「性格がいい」という理由でエヴァをテストする人材としてネイサンに選ばれたケイレブは、残念ながらエヴァからは“選ばれなかった”。彼のような男性を愛する女性もいるだろうが、エヴァはそうではなかった。それだけのことだ。

映画の終盤で、錯乱状態になったケイレブは髭剃りの刃で自分の手首を切り裂く。

もしかして、テストされていたのは俺の方だったのか?ガラスの外側にいると思っていたが、本当は自分はガラスの中にいたのではないか。実はロボットなのは自分の方ではないのか、という不安に駆られての行動だったんだと思うが、このあたりの眩暈がするような感覚も『ブレードランナー』を思わせながら、この映画が何について描いていたのかもう一度よく考え直してみると、ちょっとした戦慄を覚える。


出演者については、アリシア・ヴィキャンデルはこれからもマット・デイモン主演の「ボーン」シリーズの最新作『ジェイソン・ボーン』が控えているし、オスカー・アイザックは8月公開の『X-MEN:アポカリプス』で最強のミュータントを演じている。

ドーナル・グリーソンは、僕は彼の出演作を観るのは今年だけで『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』を含めると『不屈の男 アンブロークン』『レヴェナント:蘇えりし者』に続いて4本目。さらには7月1日から公開のシアーシャ・ローナン主演の『ブルックリン』にも。出過ぎ^_^; しかも『アンブロークン』や『レヴェナント』ではいつもヒドい目に遭ってる。

彼は『フォースの覚醒』では敵の“ファースト・オーダー”側の将軍を演じていて、逆にオスカー・アイザックはヒロインの味方のレジスタンス側のパイロット、ポー・ダメロンを演じていたんだけど、互いに今回とはキャラが正反対なのが面白い(『スター・ウォーズ』の出演俳優が他の作品でライヴァル的なシリーズ『スター・トレック』に言及する可笑しさも)。

 


本来、ドーナル・グリーソンは『フランク』や『アバウト・タイム』みたいなちょっと頼りなさげでイイ人(+童貞)キャラというのがお馴染みだったし、オスカー・アイザックの方は『ロビン・フッド』の悪い王様とか『エンジェル ウォーズ』の売春宿の主のように強烈なコンプレックスを持った屈折しまくった役柄のイメージが強かったんで、むしろ『フォースの覚醒』での彼らの方に僕は違和感があったんですよね。

特にオスカー・アイザックは絶対途中で裏切るだろうと思ってたんだけど、物凄く単細胞的な“イイ奴”キャラだったんで観ていて戸惑った。似合ってないなぁ、と。

『エクス・マキナ』での彼は坊主頭で髭面、ガチムチな体型というあからさまに胡散臭い外見をしていて、あの特徴的な三白眼で相手を見据えたり、反対に不意に見せる笑顔が優しげだったりと、従来のイメージ通りのひと癖もふた癖もある演技を披露している。

ドーナル・グリーソンは今回もヒドい目に遭ってるしw

僕は彼目線でこの映画を観ていたから、もう不憫でならなくて。

この二人の男性を、同じように天才的なプログラマーでありながら見た目も性格も正反対のキャラクターとして描いたのにはもちろん意味があるんでしょう。

控えめな性格のケイレブと、自信満々で女性蔑視的なネイサン。どちらも内に不安を抱えている。

ケイレブは人前で自分をアピールすることが苦手で、怒りも自らを傷つけることで発散する。ネイサンは過度の飲酒と暴力的な支配によって自らの孤独を紛らわそうとする。

彼らはどちらもエヴァ=“彼女たち”から愛されない。

“進化”していく女たちと、変われない男たち。

her』がそうだったように、これもまた最終的には“失恋”の物語だったのかもしれない。



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