クエンティン・タランティーノ監督、レオナルド・ディカプリオ、ブラッド・ピット、マーゴット・ロビー、マイク・モー、ジュリア・バターズ、マーガレット・クアリー、ティモシー・オリファント、ダコタ・ファニング、オースティン・バトラー、マイキー・マディソン、カート・ラッセル、アル・パチーノほか出演の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』。PG12。
第92回アカデミー賞助演男優賞(ブラッド・ピット)、美術賞受賞。
1969年。落ち目の俳優リック・ダルトン(レオナルド・ディカプリオ)と、彼の相棒でスタントダブルのクリフ・ブース(ブラッド・ピット)。二人三脚で業界を渡り歩いてきた二人だったが、TV俳優から映画へと転身を図り失敗したリックは、主役の座から悪役へと移らざるを得なくなる。彼の家の隣には、少し前に映画監督のロマン・ポランスキーとその妻で女優のシャロン・テイト(マーゴット・ロビー)が越してきた。映画の都ハリウッドとその周辺を舞台に2月から“あの事件”があった8月9日までを描く。
前作『ヘイトフル・エイト』から4年(日本では3年)ぶりのタランティーノの9作目(「キル・ビル」2部作を1本として勘定。共同監督のオムニバス作品である『フォー・ルームス』は含まない)の最新作。
ディカプリオとブラピの初共演作。
二人ともタランティーノの映画に出演するのはこれが2度目(ブラピはタランティーノが脚本を担当したトニー・スコット監督の『トゥルー・ロマンス』にも出演している)。
予告篇でブルース・リーが登場していることが気になっていたし、タランティーノ監督作は『パルプ・フィクション』以降公開時に劇場で観てきたので、今回も当然のごとく映画館へ。
ただ、ここ何作かは僕はわりと辛口の感想を書いてきたし、正直彼の作品のファンのかたがたが褒めそやすような魅力を感じられなかったんですよね。
いや、見どころというか面白いところはあるし、だからこそこうやってずっと観続けてはいるんだけど、それよりも腑に落ちなさや疑問の方が残ることが多くて、観終わったあと満足感があまり得られなくてずっと不満だった。
だから、今回も相変わらずTwitterでは称賛の声をいくつも目にはしているのだけれど、あまり期待し過ぎないようにしていた。
タランティーノの映画はとにかく「上映時間が長い」のが特徴で、特にここ何作かは160分越えが続いてて今回も161分。
映画って一度観てストーリーを知ってしまうと2回目以降は意外と短く感じたりもするんで、彼の映画も繰り返し観るたびに結構さくさく観られちゃったりもするのかもしれないけど、正直あまり観返す気にならなくて、個人的にお気に入りの『パルプ~』を除くとほとんど劇場公開時以来観ていない。
1回で充分だな、と思えて(※今回は珍しく2回観ましたが)。
で、この『ワンス~』(しかしタイトル長ぇなぁ)はどうだったかというと、ラストシーンにはちょっとしんみりして、僕はリアルタイムでは知らない60年代の風俗、その最後の年の衝撃的な事件(映画の中では一切言及されないが)が象徴するものなどについて思いを馳せれば胸が熱くなるところもあるから、なかなか悪くない作品だった、と言えなくもない。
…なんか歯切れの悪い書き方なのは、それでもやっぱり「絶賛」というような気分ではなくて、これまでのように「不満」の方が際立ってしまっていたから。
なので、そんなに褒めていません。前作の『ヘイトフル~』よりは好きかな、ぐらいの感じ。
映画で描かれているのはフィクションでディカプリオが演じるリックもブラピ演じるクリフも架空の人物だが、ポランスキーやシャロン・テイト、チャールズ・マンソンなど実在の人物も登場して、リックたちは劇中でそれぞれ彼らと接点を持つ。
1969年8月9日にチャールズ・マンソン率いる「マンソン・ファミリー」のメンバーの手によって女優のシャロン・テイトが殺害された史実を最低限知っていないと終盤の展開やラストシーンに込められたタランティーノの意図がわからないので、鑑賞前に予習が必要。
町山智浩『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』を語る
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』徹底予習 ─ シャロン・テート殺人事件とチャールズ・マンソンとは
タランティーノ新作を見る前に、知っておきたい50年前のミステリー
なお、今回映画の本筋とはそんなに関係がない部分(とゆーか、タランティーノの映画に“本筋”などというものがあるのかどうか知らないが)であれこれゴチャゴチャと書きますので、「何言ってんだ、こいつ」と思われるかたもいらっしゃるでしょうし、特にタランティーノの映画のファンのかた、またディカプリオやブラピが好きなかたはイラッとされるかもしれません。中でもタラちゃんに対しては悪意ある書き方をしていますから、そういうの読みたくないかたは記事をそっと閉じていただければ。ネタバレもあります。
タランティーノの映画はずっと劇場で観ているし、他の監督にはない魅力のある作品を撮る人なのは間違いないから次回作も観るつもりですが、ここ最近の彼の評判(『キル・ビル』撮影時のユマ・サーマンに対する行為やハーヴェイ・ワインスタインの性暴力を見て見ぬふりした件など)が作品への悪印象に影響を及ぼしているのは事実。作り手とその作品を完全に切り離して考えることなど僕にはできないので、それは致し方ないことだと思う。
この何作かで気になっているのは、彼の映画で女性に対する暴力描写が目立ってきていること。観た人ならわかるだろうけど今回はそれにさらに拍車がかかっている。
もちろん、映画の中で暴力を描くのと現実に暴力を振るうのとはまったく別のことだから、フィクションの中で女性への暴力を描いたからってそれが悪いと言いたいのではないんだけど(そんなこと言ってたらホラー映画なんかは軒並み問題があることになってしまうし)、かつては『ジャッキー・ブラウン』や先ほどの『キル・ビル』、『デス・プルーフ』などで「強い女たち」を描いてきたタランティーノ作品で女性の登場人物の活躍が鳴りを潜めてしまっていることが不可解だったんですよね。
#MeToo運動で叩かれたのが原因なのかどうか知らないけれど、それ以前の『ジャンゴ』でもヒロインは活躍の場をまったく与えられず、『ヘイトフル・エイト』ではやはり女性はほとんどが暴力を振るわれるか殺されるだけ(今回も出演している、『キル・ビル』でユマ・サーマンのスタントダブルを務め『デス・プルーフ』でも車のボンネットに乗ってスタントをこなしていたゾーイ・ベルもあっけなく殺されていた)だった。
そして、この『ワンス~』では「女性嫌悪」を思わせるような要素が色濃くて、いつも踊ってて無垢な天使のように描かれるシャロン・テイト(マーゴット・ロビー)とリックに「これまでの人生の中で最高の演技だった」と耳打ちする子役の少女トルーディ(ジュリア・バターズ)を除けば、カート・ラッセル演じるスタントマンの妻(ゾーイ・ベル)もクリフが殺したと噂されている妻(レベッカ・ゲイハート)もガミガミうるさいだけの女でしかないし、クリフが車に乗せた娘“プッシーキャット”(マーガレット・クアリー)はマンソン・ファミリーの一員だったことがわかる。
わき毛美人のプッシーキャット
終盤でブラピ演じるクリフは、家に侵入したマンソン・ファミリーの3人の内の2人の女性をボコボコにする(残りの男は飼い犬に任せる)。そして仕上げはディカプーが火炎放射器でカリカリに焼き殺す。
あの場面はギャグとして「やり過ぎぶり」を笑うとこなんだろうけど、何か笑うことを躊躇わせるものがあった。タランティーノの女性への個人的な復讐心を晴らすのが目的だったようにも感じられてしまって。
現実にはあの3人はシャロン・テイトと友人たちを惨殺したわけで、だからそんな凶悪殺人犯たち*を映画の中で退治してやりたい、ということなんだろうけど、それにかこつけて女性への暴力をエスカレートさせていることに個人的に抵抗がある。
※映画の中では火炎放射器で丸焦げになっていたスーザン・アトキンス(演:マイキー・マディソン)は、実際には2009年に女子刑務所で病死。享年61。テックス・ワトソン(演:オースティン・バトラー)とパトリシア・クレンウィンケル(演:マディセン・ベイティ)は現在も服役中。
だって、あれ、どうせだったらシャロン・テイト自身にカルトの狂信者たちへ逆襲させることだって可能だったわけでしょう。どうせ作り事なんだから。そしたらクライマックスでのブラピやディカプーの活躍の場がなくなっちゃうけど。でもほんとにシャロン・テイトをリスペクトしたいんならそうすべきだろう。シャロン・テイトの「中の人」は『スーサイド・スクワッド』で暴れまわってた人なんだしさぁ。
タランティーノにとって守るべき大切な女性というのは彼のオナペットだった美人女優や自分の分身である主人公を褒めてくれる女の子だけで、うるさいこと言ってくる女どもは全員ぶっ殺しゃいいんだ、ぐらいに思ってるんじゃないのか。なんかそれがあの女性キャラクターたちの極端な描き分けにモロに出ている。
そういう邪念のようなものを感じるので、どうも評判のいいらしいディカプリオとブラピのコンビぶりにもイマイチ乗れず。
特にブラピ演じるクリフ・ブースはタランティーノの抱える“病理”を体現しているキャラクターで、ブラピの無駄脱ぎもあるイケオジぶりに惑わされそうになるが、この作品の中で凄惨な暴力を働くのは常にクリフである。
彼はマイク・モー演じるブルース・リーを小バカにしたうえ勝負を挑んできた彼を返り討ちにする。また、かつて働いていた映画牧場を再び訪れて借り物の車のタイヤをパンクさせた(と彼が判断した)男をぶちのめして血だらけにして、クライマックスではラリったまま女性二人の顔面を執拗に破壊する。マンソン・ファミリーに対しては彼の攻撃はいつも顔に集中している。
ブラピの飄々とした演技は確かにかっこよくもあるんだけど、クリフは異様なキャラだ。
その彼をちょっとヒーローっぽく描いているからこそ、余計に作品のイビツさが気になる。
どうやらタランティーノは、人を殺したこともないくせに人前で自分の格闘スキルを鼻にかけて大口を叩くブルース・リーを戦争の英雄であるクリフにお仕置きさせてやりたかったようだ。
実際にブルース・リーはしばしばああいう居丈高な言葉遣いで相手を挑発することがあった、というのがタランティーノの言い分なわけだけど、問題は、クリフは架空の人物だし、ブルース・リーがハリウッドで戦場帰りのスタントマンに車にぶん投げられたり組み手で苦戦して大恥をかいたという事実などないこと。
ブルースの遺族やダン・イノサントなど彼とかかわりのあった人々がこの映画に憤慨しているのは、その部分じゃないだろうか。
マンソン・ファミリーへの復讐はともかく、そもそも実在しないスタントマンにブルース・リーをシバかせて何が嬉しいのだろう。
映画『ドラゴン/ブルース・リー物語』でも描かれていたようにブルース・リーは1950年代の終わり頃にアメリカに渡り、まだ今よりもずっとアジア系への人種差別が激しかった60年代に映像の世界へと飛び込んでいった苦労人であり「先駆者」なんだよね(そして、この映画の舞台となった1969年の4年後にわずか32歳の若さでこの世を去った。来年は彼の生誕80周年だ)。
だから、もともと勝気な性格だったんだろうけど、劇中の台詞でも名前を出していたカシアス・クレイ(モハメド・アリ)同様に自分の存在をアピールするためにあえてビッグマウスを駆使していたとも考えられる。ただ傲慢な人間だったというわけじゃないでしょう。
優れたものは取り入れるのがブルース・リーが始めた「ジークンドー」の考え方だし、中国武術を肌の色に関係なく白人でも誰にでも教える、というのも彼の柔軟でリベラルな姿勢の表われだったんだろう(現実問題として経済的な理由もあったんだろうけど)。
香港で喧嘩に明け暮れて父親にアメリカ行きを命じられ、やがてかの地で武術の道場(スティーヴ・マックィーンも習っていた)も開いたほどだったブルースがガチの喧嘩と映画のアクションの区別がついていないわけがなくて、ブラピにドヤ顔で「ただのダンスだ」などとバカにされるまでもなく、本人が「本当のストリートファイトと見せる武術は別モノ」と言っている。
ブルース・リーはTVドラマ「燃えよ!カンフー」を企画して主演を務めようとしたが、人種的偏見から白人俳優に役を取られてしまう。その白人俳優がデヴィッド・キャラダインで、「燃えよ!カンフー」のファンだったタランティーノはのちにキャラダインを『キル・ビル』のビル役に起用した。
下手すりゃタランティーノは、ブルース・リーよりもデヴィッド・キャラダインの方が好きなのかもしれない。
キャラダインは『キル・ビル』ではろくに武術らしいアクションを見せなかったけど。まぁ、“オナニー拳法”の使い手(自慰中に誤って事故死)ではあったな。
この『ワンス~』では一切描かれていないけれど、ブルース・リーは白人たちに差別される側だった人で、実際アメリカ在住時には幾度も屈辱を味わい、彼が望んだアメリカン・ドリームを手にすることもできずに失意のうちに香港へ帰っている。
だから、僕はこの映画でわざわざ白人のブラッド・ピットに劇中でブルース・リーを痛めつけさせてその鼻をへし折ったことには、タランティーノの中にある人種的偏見を大いに感じる。彼の女性に対する偏見同様に。
この映画がタランティーノが夢想する「こうだったらよかった映画の都の歴史」だとすれば、ここでのブルース・リーの扱いには悪意しか感じられないから。
ブラピもブラピだよな。『ファイト・クラブ』では自らヌンチャク振り回してブルース・リーの物真似をやってみせていたのに、その本人に対してこんなに失礼なことやるのに抵抗はなかったのか。
なぜ「いやいや、リー師父にそんなことできないよ」って監督に反対しない?
もう、本物のブルース・リーに天国から降臨してもらって、“足らんティーノ”のあの長いアゴをキックで削ってほしいよ。あまりに舐め過ぎ。
ここにはかつてチャウ・シンチーが『少林サッカー』でやってたパロディと違って、リスペクトがないんだよな。同じ香港人のチャウ・シンチーがブルース・リーが退場するまで笑わせてくれたのに比べて、ただただ「いちびったチビ」を懲らしめる、という意図以外のものがない。
マイク・モーはブルース・リーのあの声や口調とか口を尖らせる喋り方などよく研究しているんだけど、グラサンをとった瞬間に“なだぎ武”そっくりの顔になっちゃう。
パチモンです。ややこしや~♪
ブルース・リーって、あの「目」が特徴的なんで、そこがまったく似てないんじゃ話にならない。
こちらは本物の李小龍
この映画を観て、僕はタランティーノが「ショウ・ブラザーズの武侠映画が好き」みたいなこと言ってたり『キル・ビル』でユマ・サーマンにブルース・リーの『死亡遊戯』のような黄色いジャンプスーツを着せて闘わせていたのは、ちょうどハリウッドの監督がゴジラのファンを公言しながらその本質の部分をまったく理解せずにでっち上げた代物を「これぞ本物のGodzillaだ」と自画自賛してるのと一緒で、表面的なかっこよさだけしか見ていなかったことがよくわかった。言いたかないけど、これだから白人は。
あるいは、かねてからセルジオ・レオーネ監督の『続・夕陽のガンマン』を生涯ベストに挙げている、自身もイタリア系のタランティーノがこれもイタリア系のディカプリオに「イタ公の西部劇なんか出られるか」と言わせているように「ただのジョーク」のつもりなのかもしれないが、彼がたとえそのつもりがなかったとしても“白人”のタランティーノが同じく“白人”のブラピを使って中国人のブルース・リーをコケにする行為は、別の意味合いを帯びてしまうのだ。そのことにあまりに無頓着過ぎる。
批判されても「だってブルース・リーってほんとにあーゆー嫌な奴だったんだもん」で済むと思っている。アゴ神め。
劇中の映画館でシャロン・テイトが観るディーン・マーティン主演の『サイレンサー第4弾/破壊部隊』(いくつかのショットではマーゴット・ロビーではなくシャロン・テイト本人が映っている)でも白人のシャロン・テイトが中国系の女優ナンシー・クワン(彼女は『ドラゴン/ブルース・リー物語』にも出演している)をやっつける。かつてアジア系の俳優が割り振られるのは悪役(か、ケイトーみたいな用心棒とか召使い)ばかりだった。
二人の女優の格闘は超スローモーですが
そのアジア系でありながらのちに世界を席巻してさまざまな国のそれぞれ異なる肌の色の多くの人々を熱狂させたアクションスターの素晴らしさとその存在の意味をタランティーノはまったく理解していない。
もしも理解していたら、ここで強者の側である白人の映画スターのブラッド・ピットにマイノリティである中国人のブルース・リーをぶん投げさせて笑いを取ろうとすることがどれほどの侮辱かわかるはずだ。
僕はこの点だけでこの映画を「クソ」扱いしても許されるだろうと思う。
むしろ、あの場面では彼を「チビ」呼ばわりして笑うブラピをブルース・リーがぶちのめすのが正解だった。それでこそ本当に彼をリスペクトしていることになる。
『サイレンサー第4弾/破壊部隊』でシャロン・テイトは実際にあのアクション場面のためにブルース・リーの指導を受けたのだけど、当のブルース・リーがあんなふうにヘナチョコに描かれていたのでは、ありがたみがまったくないですよね。彼の武術が「ただの舞踊」というブラピの台詞を補強するようなことになってしまっている。
ブルース・リーにアクション指導を受けたシャロン・テイトは、犯罪者を倒すどころか無残に殺されてしまったのだから。
ほんとの殺し合いとアクションの区別がついてないのはタランティーノの方だと思うんだが。
…そろそろ主人公を演じるディカプリオについて。
ディカプリオが演じるリック・ダルトンはもともとTV西部劇の主演俳優だったが映画に進出しようとしてうまくいかず、ゲスト出演の悪役ばかりになっていて焦っている、という設定。リックとクリフのコンビは映画の冒頭にも登場するスティーヴ・マックィーン(ダミアン・ルイス)や、バート・レイノルズと彼らのスタントダブルの関係を基にしているとかいう話だけど(バート・レイノルズは牧場主役で出演予定だったが撮影前に死去、ブルース・ダーンが代役を務めた)、そもそもディカプリオがそこそこヴェテランの元スター俳優に見えない。
劇中でもマンソン・ファミリーの娘たちからジジイ呼ばわりされるけど、そんな歳食ってるように見えないんだよね。だから、かつてはスターだったが時代の流れについていけずに自信を失いかけているロートル俳優の悲哀、みたいなものが感じられなくて、勝手に追いつめられた気になって何かとメソメソしているリックには可笑しさよりも「いい気なもんだな」という呆れや苛立ちを覚えた。
ディカプリオは現在40代半ばだから結構イイ歳なんだけど、たとえば64年に『荒野の用心棒』に主演したイーストウッドは当時30代だったし、翌年に同じくレオーネの『夕陽のガンマン』に出演した時のリー・ヴァン・クリーフはなんと40歳。今のディカプリオよりも若かった。役者の歳の取り方や顔つきが現在とまったく違っていたんだよね。リックなどジジイどころかまだ若造にしか見えない。
『大脱走』にもしもリックが出演していたら、というお遊び場面があったけど、ディカプリオにマックィーンや、あるいはバート・レイノルズの代わりが務まるとは思えない。全然違うタイプの役者だから。
『タイタニック』やそれ以前のまだ細くて若々しかった頃からのファンのかたがたも大勢いるだろうし、今も彼のことをかっこいいと感じている人たちも結構いらっしゃるようだけど、僕には肉がついて髪や髭を伸ばしているディカプリオの顔がなんとなく故フィリップ・シーモア・ホフマンに似てきてるように思えて、渋さやかっこよさをあまり感じないんですよ。ジャック・ニコルソンに顔が似ている、なんて言われてたこともあるけど、ニコルソンみたいなマッドなヤバさとか迫力はないし(ディカプリオに“ジョーカー”が演じられるかといったら、多分様にならないだろう)、劇中で監督や子役から絶賛されてるような悪役が板についているようにも感じられなかった。彼よりも悪役の演技が巧い俳優は他にいっぱいいる。
大人になりきれてない雰囲気はリックがそういうキャラクターとして造形されているからだけど、リックもクリフもタランティーノは最初からディカプリオとブラッド・ピットを念頭に置いてシナリオを書いたんだろうから、リックのあの中途半端なおっさんぶりはディカプリオのイメージがそうだということでもある。“おっさん”じゃなくて、おっさんになりきれてない皺が多めの“あんちゃん”に見える。
それから、西部劇の撮影の前にリックがやたらと咳き込んだり鼻をぐずぐずいわせたり手洟を飛ばしたり痰つば吐いたりしててとても不快だったんだけど、あれはなんですか。酒を飲み過ぎたあとの状態を表現していたんだろうか。健康状態が優れないのがその後の展開に繋がっていくのかと思ったら、なんの関係もなかったし。いらないでしょ、あの小芝居。
ディカプリオ本人はキャリアが低迷した時期はないし、出演作も慎重に選んでいてどれもそれなりの評価を得ている。最近、念願のアカデミー賞も獲れたことだし。ほんとは余裕があるのに無理して疲れたオヤジを演じているような不自然さがある。似合ってなかった。
ディカプリオとブラピのイチャイチャが~♪とか言われるけど、二人が一緒にいるシーンってそんなに長くはなくて、それぞれが単独行動してることが多いし。互いに初共演とは思えないぐらい馴染んでたのはよく伝わったけど。
どうでもいいけど、「二重アゴ」のことを英語で「ダブル・チン (double chin)」って言うんだな。そのまんまか。
ディカトゥー…じゃなくてディカプーにもブラピにも別になんの恨みもないし、彼らは好演してたと思いますよ。ただアゴ…じゃなくてタランティーノは猛省するよーに。
…監督の人格すら疑うような書き方でdisりまくってますが、だからつまんなかったかといえばそうじゃなくて(結局2回観ましたし)、60年代の街並みやファッションはあの時代にタイムスリップしたような楽しさがあったし(バックで何気なく停まってたり走ってる車がどれも60年代当時のものなのが地味にスゴいな、と思った)、この監督なりの当時への愛着も感じられたから観たことそれ自体は後悔してないです。他の皆さんのように手放しでは褒めないというだけで。
『イングロリアス・バスターズ』ではブラピ率いるナチ・バスターズにナチス党員やヒトラーをぶっ殺させて、『ジャンゴ』と『ヘイトフル・エイト』では黒人を差別する白人たちをぶっ殺して、この『ワンス~』では史実ではシャロン・テイトを殺害した奴らをぶっ殺す──現実では起こらなかったことを映画で実現させようとするタランティーノの無邪気さを微笑ましく頼もしく共感を持って受けとめる人もいるだろうし、僕も以前はそうだったのだけれど、その無邪気さが「無神経さ」にも繋がっていることがわかってきたので、僕は少なからぬ失望とともに彼の作品からはある程度距離を置くことにしました。
ただ、スタートレックの新作を撮るとか言われると気になるし(追記:その後、スタトレの企画からは降りた模様)、VFX全盛のハリウッドの娯楽映画がどんどん幼稚化、ヲタク化、画一化している中で彼のように俳優の演技にこだわったりセットの作り込みに凝ったりする作家は貴重だと思うから、これからも懲りずにタランティーノの映画に足を運ぶんだろうな、と思います。
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