クエンティン・タランティーノ監督・脚本、サミュエル・L・ジャクソンカート・ラッセルジェニファー・ジェイソン・リーウォルトン・ゴギンズデミアン・ビチルティム・ロスマイケル・マドセンジェームズ・パークスブルース・ダーン出演の『ヘイトフル・エイト』。2015年作品。R18+

音楽はエンニオ・モリコーネ。美術は『キル・ビル』の種田陽平

第88回アカデミー賞作曲賞(エンニオ・モリコーネ)受賞。





南北戦争後何年か経った雪の降るワイオミング。賞金稼ぎのジョン・ルース(カート・ラッセル)と彼が捕まえた1万ドルの賞金首デイジー・ドメルグ(ジェニファー・ジェイソン・リー)を乗せた駅馬車はレッドロックの町に向かっていたが、途中で同じく賞金稼ぎのマーキス・ウォーレン(サミュエル・L・ジャクソン)が死体とともに乗り込んでくる。さらにその後、自称“レッドロックの新保安官”クリス・マニックス(ウォルトン・ゴギンズ)も一行に加わるが、吹雪のためウォーレンの昔なじみのミニー(デイナ・グーリエ)の店で夜を明かすことにする。そこにはすでにそれぞれ素性の異なる4人の男たちがいた。


前作『ジャンゴ 繋がれざる者』から3年ぶりのタランティーノの最新作。

そういえば日本では『ジャンゴ』もこの時期に公開されていたけど、さすがアカデミー賞の常連ならではですね。

本作品は『ベン・ハー』でも使われた65mmフィルムによるウルトラパナヴィジョン70で撮影されて、アメリカで2週間限定でクリスマスシーズンに上映されたそのフィルム・ヴァージョンは上映時間が187分(途中休憩12分を含む)だということですが、日本ではあいにくフィルムでの上映はなくすべてデジタル上映。

短縮版のみの上映、というのは残念だけれど、それでも堂々168分ある大長篇。

そして前作に続いて西部劇で、サミュエル・L・ジャクソンも続投。




予備知識はほとんどなかったけど、3時間近い上映時間のほとんどが雪原の中の小屋が舞台ということで、大丈夫か、苦行みたいな作品にならないだろうな、と多少不安ではあった。

まぁタランティーノは会話劇が得意なのは知っているから、室内シーンでも『イングロリアス・バスターズ』の時みたいに緊張感の持続する映画だといいな、と。

結果としてはさすがタランティーノというべきか長さは感じず、退屈することもありませんでした。

この映画、事前にシナリオが流出してインターネットに公開されてしまったために制作が中止の危機に陥ったものの、その後シナリオを書き直してようやく制作を再開したという経緯があったのだけど、無事完成、公開されてほんとによかったですね。

タランティーノの映画はいつだって楽しみにしているし、気が早いけど次回作ももちろん観にいくつもりです。

ただし、残念ながらこの最新作に関しては前作『ジャンゴ』と同様に僕は最終的にはいろいろと不満も感じてしまったので、絶賛というわけではありません。

というわけで、以下の感想には物語のネタバレとともにいろいろとこの作品に対する批判が含まれます。

なので、タランティーノの映画が大好きで彼の映画に対する批判には我慢がならない人、自分とは違う意見の存在を容認できない人はお読みにならないでください。

あと下半身ネタが苦手なかたもご注意を。



サミュエル・L・ジャクソン演じるウォーレンは以前は南北戦争の北軍の少佐で、エイブラハム・リンカーンと文通していたということで彼の直筆の手紙を宝物のように持っている。

一方、ルースもまた戦時中に従軍していて一度だけウォーレンと会ったことがあるが、今ではウォーレンと同じように賞金稼ぎをしていて「生死を問わず」とされる賞金首も撃ち殺さずに生きたまま絞首刑執行人に引き渡し、獲物が吊るされて首の骨が折れる音を聴くのを楽しみにしている。だから彼は「首吊り人」と呼ばれる。

そのルースに捕らえられたデイジー・ドメルグは罪名はさだかではないが、1万ドルという高額の賞金がかけられている。

彼女は逃亡を防ぐためルースによって彼の手首と手錠で繋がっているが、常に反抗的な笑みを浮かべてルースの言葉に茶々を入れるため殴られ続けていて、片目には大きな痣ができ顔は血だらけになっている。

クリス・マニックスは南部の悪名高い一家の末っ子でかつてはウォーレンたちの敵だったが、彼によれば自分はレッドロックの新しい保安官になることになって町に向かっているという。マニックスが本当に保安官ならドメルグの処刑を許可するのは彼だ。だから一緒に馬車に乗せろ、という言い分である。

こうして4人の乗客と御者のO.B(ジェームズ・パークス)がミニー・ミンクの紳士洋品店に着くと、すでに先客がいた。

面子はメキシコ人のボブ(デミアン・ビチル)、絞首刑執行人のオズワルド・モブレイ(ティム・ロス)、元南軍の将軍サンディ・スミザーズ(ブルース・ダーン)、それからクリスマスを母親と過ごすためにやってきたカウボーイのジョー・ゲイジ(マイケル・マドセン)。

ボブによればミニーは姉に会うために店を彼に任せて夫とともに出かけたということだが…。

ボブが淹れたコーヒーはまるで靴下でも入れたみたいに不味かったのでルースが淹れ直したが、シチューは美味かったので全員で味わう。

こうして皆が和やかに一つ屋根の下で過ごすことになったかのように見えたが、ルースは初対面の4人を信用せず、彼らから銃を取り上げバラバラに分解してO.Bに外の井戸に捨てにいかせる。

このどこか信用できない男たちとウォーレンとルースの一行(全員合わせると8人ではなく9人なんだが)は、果たして問題なく吹雪をやり過ごして目的地のレッドロックまでたどり着けるのだろうか。


この映画は屋外の描写もあるので厳密には完全な密室劇ではないんだけど、それでも物語の大半は吹雪に閉ざされた小屋の中で展開する、全篇ほぼ会話劇。

といってもR18+の通り、銃で撃たれて人の頭が風船のようにハゼたり大量に吐血したりするヴァイオレンス描写やボカシ無しのフルヌードなどもある。

ただまぁ、そちらの方面に期待するといろいろガッカリすることになるかも。

残酷場面はその手の映画が好きな人にとってはさほどショッキングなものではないし、フルヌードといってもおっさんの裸なので。

観客は、白銀に映えるヒゲヅラのおっさんの寒そうに縮こまったチ○コとタ○キンをしばらく拝むことになる。

そしてその全裸のオヤジがさらにある人物のナニをアレして…。

その後もあるキャラクターが股間を撃たれるシーンもあるし、タランティーノは『ジャンゴ』でも主人公が局部を切り取られそうになる場面を撮ってたけど(ジェイミー・フォックスのイチモツは映りませんが)、この人には何か去勢にまつわる強迫観念でもあるのだろうか。

なんでこんなに男のジョンソン(ペニスの別称)にこだわるんだろう。

雪の中のおっさんのチンチンとか心底要らないんだが(;^_^A

ホドロフスキーの映画をちょっと思いだしてしまった。

若い女性のフルヌードとか物凄いヴァイオレンスシーンがあるってんならともかく、これで18禁にされてもなぁ。

65mmフィルム使用の映像についても、映画マニアであるタランティーノのこだわりは単なる一般客である僕などにはよくわからない。

そもそもこの方式は豪華絢爛な歴史絵巻や活劇にこそ相応しいでしょう。

仮にフィルム版を観たとしても、僕はこの映画の内容ではありがたみをほとんど感じなかったんじゃないかと思う。

そりゃ雪景色は美しかったけど、その中をフルチンで歩くおっさんの映像をウルトラパナヴィジョンで撮るのは壮絶に無駄な行為ではないだろうか^_^;

映画のほとんどは小屋の中しか映らないんだし。

何か作り手が自らの手法に酔ってる気がしてならない。

いや、『デス・プルーフ in グラインドハウス』の時もそうだったように、いろいろと他がやらないことを試してみるのは観客としては大歓迎ですけどね。作り手のサーヴィス精神のあらわれでもあるんだろうから。

ただ、そのことと映画の内容の面白さ、出来の良さとは別物だと僕は考える。


それでも僕は、この映画の前半はかなり楽しんだのです。

9人の登場人物たちはいろいろ腹に一物ありそうだし、その言葉にはしばしば嘘も含まれている。

最初は信頼していた者に隠し事があるのがわかったり、逆に敵対していたように見えた者同士意気投合したり、ちょうど舞台劇を観ているような面白さがあった。

そして僕は観ている途中から、これは「アメリカという国の縮図を描いた作品」なんじゃないかと思い始めたのです。

黒人であるウォーレンはかつて北軍で戦い、“奴隷解放の父”リンカーンとはペンパル(文通友だち)である。

ここからは当然、現実の黒人差別問題が思い浮かぶ。

ルースはしばしばドメルグに暴力を振るうが、『ジャンゴ』にもあったように女性蔑視やDVが強く意識される。

先客の中にはメキシコ人もいる。彼もまた被差別的な立場にいる。

ルースは「信用できない奴らとは同じ宿で夜を明かせない」と言って男たちから強引に銃を奪って、抵抗の素振りを見せたジョー・ゲイジの喉元にはウォーレンがナイフを突きつける。




ゲイジにルースが言う「代わりに守ってやる」という台詞なども、実にアメリカ的ではないか。

また、絞首刑執行人であるモブレイはルースたちに“正義”と“西部の正義”の違いについて語る。




法による処刑と私怨や義憤による私刑は何が違うのか。

絞首刑執行人は罪人に対してはなんの恨みも持っていない。職業として刑を執行しているに過ぎない。でもだからこそそこには復讐心ではない客観的で公平な判断が働く。それが大事なのだ、と。

いつも賞金首を殺さずに生きたまま絞首刑執行人に引き渡しているルースは、我が意を得たり、といった顔でそれを聞いている。

それでもウォーレンは元北軍兵士の黒人で、スミザーズはかつて南軍で黒人たちを大量に虐殺した将軍である。

マニックスの一家は父親を始めとしてスミザーズの下で北軍と戦っていたので、噂に聞いていた将軍を目の前にして彼は舞い上がる。

マニックスは新保安官を自称しながら、劇中でウォーレンの側についたりスミザーズについたりフラフラと立場を替える。まるでコウモリ野郎だ。

ドメルグは戦争の混乱に乗じて略奪を行なっていた犯罪集団のメンバーで、ウォーレンには平然と差別的な態度をとる。

戦争は終わったとはいえ、彼らの間にはわだかまりがあり、場合によっては一触即発の危険もある。

 


そこでマニックスは、トラブルを避けるために部屋を二つに分割しよう、と提案する。

これなんかもなんだかアメリカという国そのものを象徴していないだろうか。

心の底では互いが互いを信用していない、というのもそうだし、登場人物たちにはアメリカ国民を構成するさまざまな人種や立場の人間がいる。

だから僕は、これは西部劇という形をとりながら裏にアメリカの歴史や諸問題を含ませた寓話なんだろうと思ったのです。

これはとても独創的なアイディアだし、『イングロリアス・バスターズ』から始まったタランティーノの新たな段階のさらにその先をいく作品として大いに期待もしたんですよね。

ところが映画は後半、ウォーレンが彼にとっては宿敵ともいえるスミザーズ将軍にシチューを手渡してからまったく別のジャンルへと変貌する。

スミザーズの息子チェスター(クレイグ・スターク)は森に行ったまま戻ってこなかった。

ウォーレンはそのチェスターと会ったというのだ。そして彼が死ぬところを見た。

なぜならチェスターを殺したのは自分だから、と。

そして例の“全裸のおっさん”のシーンになる。

自らも賞金首である彼を追ってきたチェスターに銃を突きつけたウォーレンは、相手を素っ裸にして雪上を延々と歩かせ、凍えて毛布を求めるチェスターに自分のイチモツをしゃぶるように命令する。チェスターは言われた通りにした。

その模様を父親であるスミザーズの前で語るウォーレンはサディスティックな笑みを浮かべて嬉しくて堪らない様子。

わざとスミザーズの手元に銃を置き、彼がいつでも怒りに任せてウォーレンを撃てるように仕向けているのだ。

そしてスミザーズが銃を手に取る前にウォーレンは彼を射殺する。


僕は、ウォーレンが語ってることがどこまで事実なのかよくわからなかったんですよね。

もしかしたら、彼は口から出まかせを言ってるのかもしれない。マニックスがスミザーズに、ウォーレンの言ってることは全部嘘だから挑発に乗らないようにと忠告していたように。

リンカーンの手紙が真っ赤なニセモノで文通の話もすべて彼の作り話だった、という展開にしても、やはりウォーレンの言ってることはまったく信用できなくて。

だって馬車の中でドメルグに手紙に唾を吐きかけられてあんなに慌ててたじゃん。それは本物だったからじゃないの?

ウォーレンの話が真実なのか嘘なのかによって、彼というキャラクターへの評価もまったく違ってきてしまう。

そのあたり映画を観てる間ずっとモヤモヤが続いて、特にあの「尺八シーン(無論直接的な描写はないが)」のせいで主人公であるウォーレンに嫌悪感を抱いてしまって、それがこの作品に対する僕の微妙な評価に繋がっているところもある。

差別されたり虐殺される側だった黒人を敢えて「人でなし」に描いてるわけだから。

同様に、主要キャラの中では唯一の女性であるドメルグの扱いやその最期についても疑問がある。

登場した時から傷だらけでルースやウォーレンたち男どもに殴られ続けていたドメルグの姿に、僕はこれは最後に彼女からの男どもへの大逆襲が描かれるんだとばかり思っていたんです。

ドメルグは1万ドルの賞金首という設定だけど、彼女が極悪な犯罪を行なう具体的な描写はないから。もしかしたら冤罪かもしれないし、ほんとに罪人であっても何か理由があったのかもしれない。

ドメルグは見るからに粗野で教養のなさそうな女だが、でもそんな彼女が実は頭の良い女性でその知恵を使って生き残る、という展開を想像していたのです。

たとえ犯罪者だとしても、あんなふうに一方的に女性が殴られる場面を延々と見せておいて彼女には何もさせないってのはおかしいじゃないか。

そしたら彼女は実際に略奪団のメンバーの一人で、ミニーの店に先にいた4人の男たちは彼女とグルだった、というオチでした。

…う~~ん、なんだそれ、と。

『ジャンゴ』もそうだったけど、タランティーノは何か女性に対する暴力的な欲求でもあるんですかね。

観ていてムカムカしたんですが。

ジェニファー・ジェイソン・リーは好演だっただけに(彼女に限らずすべての出演者の演技はよかった)、そのドメルグのキャラの魅力をこの映画では引き出し損ねていたと思う。

彼女はもっともっと活躍できたはずだ。

同じく、タランティーノ組の古参メンバーであるティム・ロスやマイケル・マドセンも久々の出演にもかかわらず、彼らの演じるキャラクターたちはこれといった見せ場もないまま無駄遣いされている。

ティム・ロスって、前作で主人公の相棒を演じていたクリストフ・ヴァルツとどうしてもキャラがカブって見えてしまうんだけど、なんだかヴァルツよりもさらに小物っぽいんだよね(ティム・ロスご本人のことではなく、あくまでも役柄上の話です)。

これがもしヴァルツだったら、もっと癖のありそうなキャラになったと思うんだけど。

そういう人物の嘘が次第に暴かれていくからこそ面白いんじゃないかなぁ。

ティム・ロスにはもうちょっと頑張ってほしかったし、そんな彼の演技を活かすシナリオをタランティーノには書いてもらいたかった。

無駄遣いといえば、『キル・ビル』ではユマ・サーマンのスタントダブルを務め、『デス・プルーフ』では生身のカースタントを披露していたゾーイ・ベルのあまりといえばあんまりな扱いはちょっとヒドいんじゃないだろうか。

彼女にはあんな簡単に殺されてほしくなかった。

ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅』では主演だったブルース・ダーンは、なかなかユニークな使い方だったと思うけど。


ともかくドメルグの件もそうだが、なんていうかこの映画、オチにまったく意外性がないのだ。

怪しげだった男たちは本当に悪人だった。

そんだけ。

えぇ?って。

ルースとウォーレンはジョー・ゲイジを疑い、マニックスもまたさしたる理由もなくゲイジに向かって敵対心を剥き出しにする。

ジョー・ゲイジは多少反抗的な態度を見せただけで、決定的に怪しまれるような行動はとっていないにもかかわらず。

ジョー・ゲイジ役のマイケル・マドセンはこれまでもそういう役を多く演じてきた人だし、ミステリだったらその裏をかくような展開になるはずでしょう。

ハッキリ言って、怪しそうだった男たち全員が実はグルでした、というオチはこの手の話では一番つまらないパターンだ。

それに床下に潜んでいた男(チャニング・テイタム)にしても、じゃあ彼は何日も何も食わずにあそこにいたわけ?無理があり過ぎじゃないか?

そもそも、ルースが4人を怪しみだすのがあまりに唐突過ぎて。

彼は賞金首のドメルグを小屋の中の誰かが、あるいは全員が狙っている、と言いだすんだけど、その根拠がよくわからないのだ(それとも、あれはかつてカート・ラッセルが主演した『遊星からの物体X』のパロディかなんかなのだろうか)。

ウォーレンも彼に「妄想じゃないのか?」と尋ねる。

だから普通はそれは単なる思い込みだったのが、でもルースは疑い深いのでどんどん疑心暗鬼になっていって、ついに無実の者同士での無意味な殺し合いに発展していってしまう、ってな具合になるはずでしょ。

で、それこそアメリカの現実の社会問題へと見事に繋がっていくわけじゃないですか。

僕はいっそのこと、登場人物たちの台詞の裏にアメリカ社会のメタファーが込められた会話劇で全篇通してもよかったとすら思うんですよね。それだけで3時間もたせられたんではないかと。

なのに映画では、ルースの被害妄想は事実だったことが判明する。

賞金首の女を助けだすために仲間の男たちが賞金稼ぎたちを密かに殺そうと待ち伏せしていたが、結局撃ち合いになって最後は全員くたばりました、というきわめてどーでもいい話になってしまっていた。

ここでは黒人や女性に対する差別や暴力とかアメリカの問題なんかも、すべてどっかへ行ってしまっている。

そんなもんなど、タランティーノは最初から描く気なんかなかったようだ。

なんだかお話の収拾がつけられないから最後はみんなでぶち殺しあって「そして誰もいなくなった」ってことにしちゃった、みたいな。

タランティーノにウェルメイドな映画を期待する方が間違いで、最後はシッチャカメッチャカになるのがいいんだろ、という御仁もいらっしゃるかもしれませんが、同じように殺戮シーンで終わる『イングロリアス・バスターズ』は見事な幕切れだったから、僕はやはりこの最新作のシナリオはけっしてよい出来ではないと思う。

これは皮肉とかじゃないんですが、ほんとになんでああいう展開・結末にしたのか僕にはわからないので、どなたか納得のいく解説、説明をしていただけないでしょうか。

あれはこういう意味、理由があってああいう話になったんだ、というふうに。

もちろん、自分は新しい保安官だ、と言っていたマニックスとウォーレンが最後に一緒に賞金首のドメルグを吊るしておしまい、という結末なのはわかりますよ。

でも繰り返すけど、そんなの当たり前過ぎでしょ。

たとえば、これまでのタランティーノ作品がそうだったように登場人物たち、特に先に小屋にいた男たち一人ひとりのエピソードを描くことで物語が意外な方向に向かっていく、という超絶面白い作品にできたんじゃないだろうか。

ジョー・ゲイジが自分の人生を日記に書いているくだりとか、ウォーレンから「らしくない」と言われながら母親とクリスマスに一緒に過ごすつもりだと語るところなど、その後の展開にまったく繋がらない。

僕はてっきりあれは何かの伏線だと思っていたので、まったく意味のない会話だったことに唖然としてしまった。

モブレイだって、あんなふうにもっともらしく法について語れるということは彼はそれなりに学のある人物なんだろうし、彼には彼の事情があってしかるべきじゃないですか。

メキシコ人のボブも、かなり初期にあまりにあからさまに嘘をついていることがウォーレンにバレるので、やはり彼も容疑者の一人と思わせておいて実はこうこうこういう理由がありました、となると思うでしょ?普通なら

それが全員グルってことにされて、最後はアホみたいに撃ちあって終了って。それはあまりに雑過ぎないか。

今までの自分の映画のお約束をわざとハズしたんだ、ということなのかもしれないけど、だからなんだ、それがどうした、と。

お約束をわざとハズしたって、面白くなかったらそんなのなんの意味もない。

最後は撃ち合いになるにしても、それまでにあの9人(+1人)についてのエピソードはもっと必要だったんじゃないか。

187分版では描かれてるんですかね。

主人公の一人と思われていたルースが途中で退場してしまうのは意外性があってちょっと面白かったですが、反面、彼とウォーレンの二人の視点で構成されていた映画が彼の死によってすべてウォーレン一人の肩にかかった途端に、上質なミステリ劇であったはずの物語が崩れ始める。

これは実にもったいなかった。

終盤はコーヒーに入れた毒でルースとO.Bを殺したのは誰だ、という犯人探しの話になるのだが、それが実に陳腐な代物であることは先ほど述べた通り。

終盤にようやく登場する店の主ミニーも、別にキャラは立ってなかったし。

黒人女性である店主のミニーの夫“スウィート・デイヴ”(ジーン・ジョーンズ)は白人で、でも当時白人が有色人種と結婚することには障害があったので、これは意識的にそういう配役にしているのはわかる。

彼らは真相が明かされる場面に回想として登場して、あっけなく殺されてしまうのだが。

ミニーはいかにも店を切り盛りしている感じの陽気なおばちゃんだが、ここももうちょっと描き様があったんじゃないかと思うのだ。

僕はですね、ミニーはネイティヴ・アメリカンの女性だったらよかったんじゃないかと思ったんですよね。

あの時代にアメリカ先住民の女性があんな店を持てたのかどうかは知りませんが、それ言ったらあの当時にほんとにウォーレンみたいなとんでもない黒人の元兵士の賞金稼ぎがいたのかどうかだって大いに疑わしいわけで。

どうせそのへんの時代考証なんてアバウトなんだから。

なんでネイティヴ・アメリカンだったらよかったのかというと、ウォーレンが肌身離さず持っていた手紙を書いたリンカーンは黒人奴隷は解放したかもしれないけど、インディアンは虐殺したからです。

この映画ではリンカーンの手紙というのは何か水戸黄門の印籠のような役割を果たしていて、そこには希望めいたものも込められている。

だけどそんなリンカーンだってインディアンをぶち殺しまくってたんだぜ、ってことを描いてこそ、これは「自由と平等の国アメリカ」への痛烈なカウンターパンチになるんじゃないですかね。

この映画でも、ウォーレンはメキシコ人のボブに「ミニーはメキシコ人が大嫌いだったんだ。店には『犬とメキシコ人おことわり』という看板がかかっていた。なぜそれを外したかといえば、犬を店に入れたからだ」と言う。

なかなか侮蔑的な発言だ。

ウォーレンもミニーも同じ有色人種でありながら、メキシコ人を忌み嫌っている。

現実のアメリカでも黒人とヒスパニック系の人々が差別しあってたりする。

これはそういうことを言ってるんでしょ?

この映画に登場する人間は、白人に限らず黒人だろうがメキシコ人だろうが全員が「HATEFUL(不愉快)」な連中である。

タランティーノはこの映画に登場するすべての人種を“クソ野郎”として描いたんでしょう。

彼の映画では悪党やクズ野郎たちほど魅力的だし、それはまるで悪ガキたちが差別用語を飛ばしあってジャレあってるようにも見える。

だから差別ネタがあるからダメだとか、不愉快だから嫌いだとか言ってるんではないです。

でもイマイチこの映画の中ではタランティーノ自身の立ち位置がわからない。

『イングロリアス・バスターズ』では彼はかつてナチスに虐殺されたユダヤ人の代わりに映画の中でナチとヒトラーをぶっ殺してみせた。

『ジャンゴ』ではそれが白人に対する黒人の逆襲になっている。

では、この『ヘイトフル・エイト』では?

みんな平等にクソ野郎だぜぇ!ってことが言いたかったの?だから何?と。

黒人の主人公を白人にチ○コ舐めさせて喜んでるロクデナシに描き、女性たちは全員惨殺する。

ずいぶんトバしてますな。

タランティーノはサミュエル・L・ジャクソンと何度も一緒に仕事をしているし、憧れだった黒人女優のパム・グリア主演で『ジャッキー・ブラウン』を撮っている。メキシコ系の映画監督ロバート・ロドリゲスとも親しい。

アジア系のクンフー映画やカラテ映画も好きで、ブルース・リー千葉真一のこともリスペクトしている。

そして彼は強い女が大好きだ。

だから彼が黒人やメキシコ人、その他の有色人種や女性に差別意識を持っているなんて僕は思ってはいません。

映画の主人公は絶対に善人であるべき、などとも思わない。

だけど、繰り返すけどこの映画の中でタラちゃんが何を描こうとしていたのか、僕にはよくわからないんです。

白人男に自分のディックをしゃぶらせて悦に入っていた黒人が床下から銃で股間を撃たれて悶える様に一体どんな意味があるのかまったくわからない。

タランティーノは男根恐怖症かなんかなんですか?^_^;

ただ単に映画の中に差別用語を放り込んで血しぶき飛ばして悪ふざけしたかっただけなのかい?って。

『ジャンゴ』の時にも思ったけど、仲間同士で甘噛みしあってるような感じ。

映画史上「ファック」という単語が一番多く使われてるのは『スカーフェイス』だそうですが、俺は「ニガー」という単語が一番多く使われる映画を目指しました、みたいなことなんスかね。

またしてもスパイク・リーへの嫌がらせか?w

そういう映画が大好きな人たちもいるだろうけど、個人的にはそんな映画に3時間もかけないでもらいたかった。

『ジャンゴ』で結局は主人公であるはずの黒人ガンマンよりもクリストフ・ヴァルツ演じる「善い白人」の方が印象に残ったように、この『ヘイトフル・エイト』のサミュエル・L・ジャクソン演じるウォーレンもなんだかよくわからないキャラクターだ。

これも映画狂であるタランティーノがかつてのブラックスプロイテーション映画にオマージュを捧げたのかもしれないし、サミュエル・L・ジャクソンは今までもこういうトリックスター的なキャラを演じてる人だから、このキャスティングや彼の役柄に特に深い意味はないのかもしれない。


なんかスゴい酷評しちゃってるみたいだけど…(;^_^A

でも、タランティーノはオタク的な知識は豊富なんだろうけど流行りのVFXよりも昔から俳優そのものに興味のある人で、そこにとても信頼感を覚えるんですよね。

僕がタランティーノの映画を観続けているのも、なんだかんだいって彼の映画に登場するキャラクターたちが魅力的だからです。

タランティーノを評価する材料はいろいろあるだろうけど、俳優たちのアンサンブルこそが彼の映画の一番の見どころだから。

…ちょっとはフォローできたかな?w

アカデミー賞で6回目のノミネートにしてついに作曲賞を受賞したエンニオ・モリコーネの曲はいつかどこかで聴いたような懐かしい旋律で、あの曲がバックに流れているおかげで否応なく気分が高まる。彼の音楽が映画をかなり救っていたと思います。

タランティーノは映画を10本撮ったら監督を引退するかも、と言ってるらしい。

この人はたまに言うことがコロコロ変わるんであまり信用できませんが、それにしても羨ましいご身分ですなぁ。

そうすると、今回が8作目だから(“THE HATEFUL EIGHT”というタイトルにこだわったのもそういう理由かららしい)僕らが今後観られる彼の映画はあと2本なのか。

本当なら寂しいですが、引退前にぜひ『パルプ・フィクション』みたいな最高の映画をまた撮っていただきたいです。



※エンニオ・モリコーネさんのご冥福をお祈りいたします。20.7.6


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