マーティン・スコセッシ監督、レオナルド・ディカプリオ、ロバート・デ・ニーロ、リリー・グラッドストーン(モーリー)、ジェシー・プレモンス、スコット・シェパード(バイロン)、ウィリアム・ベロー(ヘンリー・ローン)、タイ・ミッチェル(ジョン・ラムジー)、トミー・シュルツ(ブラッキー)、ルイス・キャンセルミ(ケルシー・モリソン)、ジェイソン・イズベル(ビル・スミス)、カーラ・ジェイド・マイヤーズ(アナ)、パット・ヒーリー(バーガー捜査官)、ヤンシー・レッド・コーン(ボニキャッスル族長)、タントゥー・カーディナル(リジーQ)、ブレンダン・フレイザー、ジョン・リスゴーほか出演の『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』。PG12。

 

原作はデヴィッド・グランによるノンフィクション「花殺し月の殺人 インディアン連続怪死事件とFBIの誕生」。

 

1920年代、オクラホマ州オセージ郡。先住民であるオセージ族は、石油の発掘によって一夜にして莫大な富を得た。その財産に目をつけた白人たちは彼らを巧みに操り、脅し、ついには殺人にまで手を染める。(映画.comより転載)

 

ネタバレがあります。

 

1920年代に起きたアメリカ先住民の「オセージ族連続怪死事件」の実話の映画化。

 

 

 

前作『アイリッシュマン』に続いてロバート・デ・ニーロが出演、レオナルド・ディカプリオが2013年の『ウルフ・オブ・ウォールストリート』から10年ぶりにスコセッシ作品に6度目の出演。

 

正直なところ、『アイリッシュマン』は僕は3時間半ある上映時間に見合った満足感が得られなくて、これは俺が観なくてもいい種類の映画だなぁ、と思ったので、今回の新作の上映時間が206分、またしても3時間半近いと知って「勘弁してくれよ」と(;^_^A

 

ただ、ネイティヴ・アメリカンにまつわる実話で、しかもディカプリオとデ・ニーロの共演ということで興味はあって、観ずにあとで後悔するぐらいなら観ておきたいと思った。

 

ディカプリオって、これまでロバート・デ・ニーロと共演したことあったっけ?この二人の顔合わせって結構貴重なんではないかな(※1993年の『ボーイズ・ライフ』と96年の『マイ・ルーム』で共演してました。僕はどちらも未鑑賞)。

 

原作は読んでいないし、題材となった史実についてもこれまで知りませんでしたが、とても見応えがあったし、鑑賞中は上映時間の長さも気になりませんでした。

 

『アイリッシュマン』については、映画じゃなくてミニドラマシリーズで描いた方がよかったんじゃないかと思ったので、今回も観る前には無理やり3時間半の映画にするぐらいだったら何話かに分けてドラマ化すればいいのに、と思っていたんだけど、これは一気に観た方がいい映画だし、登場人物はそれなりに多いけれど、物語自体は非常にシンプル。

 

居留地で石油が出たために先住民のオセージ族が大いに潤うが、その財産を狙う白人たちによって彼らの不審死が相次ぐ。デ・ニーロ演じる町の有力者ウィリアム・ヘイルは戦場帰りの甥・アーネスト(レオナルド・ディカプリオ)に彼が運転手を務めるオセージ族の女性、モーリー・カイルとの結婚を勧め、二人は夫婦となる。アーネストは叔父に命じられるまま、妻モーリーの肉親たちの殺害に加担し、やがて妻も…という話。

 

 

 

のちのFBI(連邦捜査局)の前身である捜査局のトム・ホワイト捜査官をジェシー・プレモンスが演じているんだけど、もともとその役はディカプリオで、プレモンスはアーネストを演じるはずだった、というのに驚く。トム・ホワイトは映画の後半になってから登場するので。

 

 

 

ほんとはプレモンスが主演だったはずが、プロデューサーも兼ねるディカプリオがアーネスト役を望んだために交替させられる羽目に。有力者には逆らえない、ってことですか。

 

この映画はディカプリオ主演だから実現したんだろうことは理解できるし、彼は好演してましたが、もしもジェシー・プレモンスがアーネスト・バークハートを演じていたら、もっと史実の雰囲気に近い、よりリアルな話になったかもしれないと思うとなんとも惜しい。どんなに小物を演じても、ディカプリオだとやっぱりその辺のどこにでもいそうな奴には見えないから。

 

関係ないけど、『レッド・ドラゴン』(2002年作品。日本公開2003年)で犯人を演じるはずだったフィリップ・シーモア・ホフマンが、犠牲者の新聞記者役だったレイフ・ファインズの希望で役を彼とチェンジさせられたのを思い出した。あの映画もホフマンが凶悪犯罪者ダラハイド役だった方が絶対面白くなったはず(そういえば、ジェシー・プレモンスは『ザ・マスター』でホフマンの息子を演じていた)。

 

僕は原作は読んでないから実際のところはどうだったのかわからないですが、でも映画ではアーネストは叔父の命令や一族の存続と妻への愛との間で悩み葛藤していたように描かれているけれど、上↑の記事やWikipediaの解説を読むと、彼はモーリーの飲むウイスキーに毒を入れていたそうだから(映画では糖尿病のモーリーが打っているインスリンの中に毒を入れる)同情の余地はまったくなくて、白人の犯罪者である主人公をどこか人間味ある人物に感じさせるために史実を改変したんじゃないのかと勘繰りたくもなる。

 

繰り返しますが、僕は原作本を読んでないから、そこでアーネストがどのような人物として描かれているのかは知りません。映画が原作に忠実だったのなら申し訳ありませんが。

 

ジェシー・プレモンスが演じる捜査官はとてもよかったし、彼がどんどんディカプリオを追いつめていくところも説得力があったので結果的にはこれでいいのでしょうが、でもアーネストをプレモンスが演じていたら、あの男のもっとグレーな感じや微妙な感情を表現できたのではないかと思うんですよね。何よりも、ジェシー・プレモンスの演技をもっと見ていたかった。黙ってても仏頂ヅラでも存在感がある。今やマット・デイモンよりも佐藤二朗の方によく似てるけどw

 

ベネディクト・カンバーバッチ主演の『パワー・オブ・ザ・ドッグ』でもイイ味出してたし。彼は『アイリッシュマン』にも出てますが。

 

現在35歳だけど、すごい貫禄だよね。

 

※…と、ここまで書いてきて、実はもともとは捜査官のトム・ホワイトを主人公にして書かれていた脚本を監督と共同脚本のエリック・ロスがアーネストを主人公に書き換えたために俳優が交替することになったらしいのを知った。つまり最初からディカプリオが主演であることに変わりはなくて、ジェシー・プレモンスが主演する可能性はなかったってこと。なーんだ。

 

 

この映画を観ていると、あらためて白人の汚さ、狡賢さを嫌というほど思い知らされる。

 

笑顔で友人や仲間、家族のふりをしながら虎視眈々と相手の懐の中身を狙っている。有色人種を見下し、人間扱いしていない。これは100年以上前の話だけど、白人たちは今でも変わっていない。

 

先住民を勝手に「無能力者」と決めつけてその権利を制限し、財産を掠め盗る。

 

白人以外の者たちが白人よりも裕福な生活をするのが許せない。

 

自分たちのルールをマイノリティに押しつけて、相手の物を奪い取る。今でも世界中で同じことをやっている。

 

たとえ罪を問われても、彼らに与えられる罰は控えめだ。だからいつまで経っても彼ら白人の行なう差別や凶悪犯罪はなくならない(そうじゃない善良な人々ももちろんいますが、“男性”による差別や凶悪犯罪と同様にその数は非常に多い)。

 

劇中で、モーリーはアーネストから言い寄られて「財産が目当て」であることを疑うような発言をしているし、姉妹たちも会話の中でそのようなことを口にしている。

 

なのに、なぜ彼女たちはそんな信用できない白人たちと結婚したのだろう。

 

映画を観ただけではその理由がよくわからなかった。白人男性は彼女たちと同じ先住民の男性たちよりも魅力的だったのだろうか。ちょっとそう思わせる場面もありましたが。

 

 

 

モーリーはかつて同じオセージ族のヘンリー・ローンと結婚していたが、オセージ族は離婚しないためヘンリー・ローンにもカイル家の財産を受け継ぐ権利があり、ウィリアム・ヘイルが手をまわして彼は殺された。

 

 

 

この辺のオセージ族やモーリーのカイル家の結婚に関する考え方、ルールがよくわからないので、彼女たちがわざわざ白人たちと家族になって面倒事に自分たちから足を突っ込んだように感じられてしまってモヤモヤした。

 

映画ではウィリアム・ヘイルはオセージ族とも付き合いが深く、人望もある人物のように描かれていたから、そんな彼の表向きの顔に騙されたのだろうか。

 

その一方で、甥のアーネストはならず者の仲間たちと追いはぎをやって奪った金品を博打ですったりするようなクズ。しかし、家族の前では良き夫、良き父親を演じている。

 

このあたり、『アイリッシュマン』の主人公に通じるところがある。

 

一見、普通の家庭人だが、外ではギャング、という。

 

アーネストも叔父のウィリアム・ヘイルも世間的にはカタギだが、ほんと、とてもそうは思えないほど犯罪行為に対して罪の意識が薄く(でも悪いことをやっている自覚はあるから秘密にしている)、その中身は『ゴッドファーザー』のマフィアと変わらない。

 

ディカプリオがしゃくれ気味で演技してるのは、マーロン・ブランドの顔真似をしていたんだろーか(笑) 『イングロリアス・バスターズ』のブラッド・ピットといい、なんでみんなマーロン・ブランドのマネするのだろうか。ディカプリオの「ちんクシャ顔」がさらに強調されて、デ・ニーロとの「への字口」合戦は笑わそうとしてんのかと思った。

 

これまであまり知られることのなかった負の歴史、アメリカ史の汚点の一つについての映画は画期的ではあるのだろうし、スコセッシが同じ白人の醜さを正当化せずに描いている、ということでは意味があるかもしれませんが、それでもディカプリオ演じるアーネストを、自分の妻や子どもたちを愛する面もあった血の通った人間として描こうとしたところに、ある種の甘さも感じなくはなかった。

 

ほんとに妻を愛しているなら、その妻に毒を盛るなんてことをするはずがない。

 

これはむしろ、夫に毒を盛られていることに薄々気づいていながら、夫を愛していて、裏切りを信じたくないがゆえに彼を深く問い詰めることもなかったモーリーの視点でこそ描くべきではなかったか。

 

ディカプリオは『レヴェナント:蘇えりし者』でも先住民の女性と結婚する主人公を演じていて、あれも実話をもとにした映画でしたが、どこかで白人に救いがあるように、彼らの善意を残したような描き方をされていた。

 

そうでないと、白人を徹頭徹尾「邪悪な種族」として描いてしまったら白人の観客には堪えられないからでしょうが、やはりそれは“逃げ”だろうと思う。あなたがたは一度徹底的に断罪されるべきだ。

 

同じ人間を「野蛮人」などと呼んで蔑み、その命を奪うことに良心の呵責も感じないような輩は、真の意味で「人間以下」だと思う。

 

ウィリアム・ヘイルは「終身刑」を言い渡されたが、模範囚として釈放されて娑婆で80代の終わりまで生きたし(オセージ族の平均寿命は50歳と言われていた)、アーネストもまたモーリーとの離婚後も殺されることも刑務所で生涯を終えることもなかった。なんだろうか、この不公平感は。

 

 

 

こういう映画でよくあるように、最後に字幕で説明が入るのではなくて、ラジオの公開放送でその後のいきさつを語るところは洒落てたし、ラストにはスコセッシ御大も登場して解説する。

 

スコセッシ監督の「善意」を僕は信じたい。

 

スコセッシはきっと、人間を単純な「善」や「悪」に分類するのが嫌なんでしょうね。

 

彼がアメコミ映画を嫌うのも(実際にはMCUやDC映画は観ていないっぽいが)、「正義の味方」なんて信じていないからに違いない。

 

愛するべきところのある人物が信じられないような残酷なことをしでかしたり、逆に凶悪犯罪者にも共感できる部分もある、そういう人間観なのだろう。

 

スコセッシ監督のフィルモグラフィをたどると、そこはずっと一貫してますよね。

 

だからこそ、観終わってスカッとするのではなくて、いつもどこかモヤモヤが残るのだろうな。

 

「金がすべて」な奴らの中にも妻や子を愛する心はある──スコセッシは人間を信じたい人なんだな。そして「悪」にも寛容な恐ろしい人でもある。

 

だけどそれは、「悪」が正しく裁かれず地道に真面目に生きる人々が報われない現実のこの世界と“折り合いをつける”一つの態度なのかもしれない。見習いたいとは思わないけれど。

 

 

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