ジェーン・カンピオン監督、ベネディクト・カンバーバッチ、コディ・スミット=マクフィー、キルステン・ダンスト、ジェシー・プレモンス、ジュヌヴィエーヴ・レモン、トーマシン・マッケンジー、アダム・ビーチ、キース・キャラダイン、フランセス・コンロイほか出演の『パワー・オブ・ザ・ドッグ』。
原作はトーマス・サヴェージの同名小説。
第78回ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞(最優秀監督賞)受賞。
1925年、フィル(ベネディクト・カンバーバッチ)とジョージ(ジェシー・プレモンス)のバーバンク兄弟はモンタナ州で牧場を共同経営している。長距離の牛の移動中に立ち寄った宿の未亡人ローズ(キルステン・ダンスト)と結婚したジョージは、彼女に店を引き払わせて牧場の家に連れていく。しかし、兄のフィルはローズを快く思わず彼女に冷淡で、ローズの息子ピーター(コディ・スミット=マクフィー)に乗馬を通して「男らしさ」を教えようとする。ローズは牧場での生活にストレスを溜めて、飲酒し始める。
ネタバレがありますので、ご注意ください。
Netflix作品ということもあってか僕の住んでるところでは公開期間が限られていて、しかも一日1回の上映だったんですが上映終了間際になんとか鑑賞。お客さんも結構入っていた。
ジェーン・カンピオン監督の映画は僕は90年代の劇場公開時に観た『ピアノ・レッスン』以来で、その後BSでやってたのを観たような気がするけど、ホリー・ハンター演じる主人公エイダが口が利けなくて(自らの意志で言葉を発するのをやめた、という設定だったよーな)、ハーヴェイ・カイテル演じる野性的な男と激しく求め合う場面と、その娘を当時子役だったアンナ・パキンが演じていたこと(アカデミー賞助演女優賞受賞)、見合いのような形でエイダと結婚したものの彼女から愛されず最後には逆上して凶行に走る夫役を日本では前年に公開された『ジュラシック・パーク』で主役を務めていたサム・ニールが演じていたことぐらいしか覚えていない。
あの当時、ハーヴェイ・カイテルは映画の中でやたらと脱いで亀腹みたいな腹筋を見せていた。
マイケル・ナイマンによるテーマ曲の旋律は有名で、しょっちゅうTV番組で使われてました。
浜辺のピアノの映像や軽やかに踊るアンナ・パキンの姿はアーティスティックだったし、どこか定型を外れた者たちを描いた官能的な映画だったとは思うんだけど、一方ではハーヴェイ・カイテルとサム・ニールがそれぞれ演じる男性像はあまりにもわかりやすく対比されていて、「結局はマッチョでテクニシャンだったらいいんかい」という誤った印象を持たなくもなかった。
で、今回の最新作ではベネディクト・カンバーバッチが演じるカウボーイが「男らしさ」にこだわる役柄であるようなことが解説に書かれていたので、ジェーン・カンピオンが描く「有害な男らしさ」についての物語ってどんなんだろう、と興味をそそられたのでした。
だけど、例のごとくNetflix作品のため劇場パンフレットもなくて作品についてわからない部分を補完することが難しくて、ネットで検索しても原作者のプロフィールは簡単なものしかないし、この映画の原作小説(僕は未読)が書かれた背景もわからない。
限られた情報の中で自分が観たこの映画について語るのは僕には難儀で、だからいろんなかたがたのレヴューを参考にさせていただきました。
キルステン・ダンスト演じるローズの息子ピーター役のコディ・スミット=マクフィーは、今からちょうど10年前に観たクロエ・グレース・モレッツ主演の『モールス』で可愛らしい顔の少年として出ていて、その後は「X-MEN」シリーズで触れた者を瞬間移動できるミュータント“ナイトクロウラー”役をやったり、リメイク版「猿の惑星」の2作目に出ているのを見たりした。
あの頃からさらに背が伸びたのか細長いヒョロッとした体躯で、並ぶと身長はカンバーバッチよりも高い。現在20代の半ばにもかかわらずどこか少年のような幼い雰囲気と、でも声は普通に青年のものなので妙なアンバランスさがある。
そんな若干フリーキーな彼の外見上の特徴や顔の表情などから醸し出される存在感をカンピオン監督が意識的に写しているのがわかる。ピーターは不安な時には櫛を指で鳴らす。また、歩く時には両手が宙に浮いたようにヒラヒラしていて、外科医を目指しているように知的障害はないが、多少、発達障害を思わせるところがある。
罠を仕掛けて捕まえたウサギを飼うのかと思ったら解剖してしまう、トーマシン・マッケンジー演じる若い家政婦(『ラストナイト・イン・ソーホー』の主演俳優がなんでこんなささやかな出演なのか不思議なんですが)でなくてもギョッとしてしまうような行動を取る。足を怪我したウサギをフィルの前で躊躇わず殺す。また、それらの行為は終盤の彼の行動の伏線にもなっている。
実質上の主人公は、このピーター。
余計なことですが、かつてサム・ライミ監督の「スパイダーマン」シリーズで主人公の恋人役だったキルステン・ダンストの息子の名前が“ピーター”ってのもなかなかおあとがよろしいようで。
この映画のダンストはずいぶんとくたびれた顔つき、身体つきで、これが役作りによるものなんだったら凄いなと思うんですが、年齢を重ねていくことを隠さないのがいいなぁ、と。
あくまでも演じてる役のことだけど、キルステン・ダンストって20年前の「スパイダーマン」の頃から彼女のことを「あまり好きじゃない」と言ってる人たちがわりといて、「スパイダーマン」でもヒロインの顔が可愛くないとか(彼女が演じる“MJ”ことメリー・ジェーンが)自分勝手過ぎるとかいろいろ叩かれてきた人でもある。なんだか気の毒で。本人のせいじゃないのに。
だって、演技は巧みなんだから優れた俳優さんだと思うし、好きかどうかはともかく、ああいう女性はいそうだ、と思わせるリアリティがあるんですよね。なのに演技力の方は一般の観客からはあまり褒められなくて、なぜか嫌われてる。
「スパイダーマン」でもキルステン・ダンスト演じるMJはいつも焦っていて、いきなりイケメンと結婚しようとしたり、女優になるためにそれ以外のことがあまり目に入らなくて結果的に主人公のピーター・パーカーを振り回すことになる。
MJはまさしく「隣の家の女の子 (A girl next door)」としてリアルだったからこそ、「理想の女の子」を見たい観客からは総スカンを食らってしまったのかもしれない。
『パワー・オブ・ザ・ドッグ』でも、「ジョージはローズのどこがよかったのかわからない」「フィルが言っているようにローズはお金目当てだと思う」という意見も散見する。
ここでも評判がよくないキルステン・ダンストなのであった。
だけど、別にローズの方から言い寄ったわけではなくてフィルたちが立ち去ったあとに厨房で泣いていた彼女に同情して結婚を決意したのはジョージの方だし、二人でダンスのステップを踏んで「一人じゃないのはいい」と涙を流していたジョージは、ローズの中に自分と同じ孤独を感じ取ったんじゃないだろうか。
もっとも、そのわりにはジョージは結婚後はローズのことはほったらかしだし、何度も本人が「弾けない」と断わっているにもかかわらず知事夫妻や自分の両親の前で無理やりローズにピアノを弾かせようとして彼女に恥をかかせたりして、どうもこの男が何考えてんだかよくわからない。
結婚も兄に一言も言わずにいきなり決めちゃうし。
フィルじゃなくたって、彼女のことが好きかどうかは関係なく、突然弟の新妻が同居しだしてヘタクソなピアノの演奏を毎日聴かされたら堪らんと思う。
ジョージ役のジェシー・プレモンスはマット・デイモンのそっくりさんとして知られてるけど(デイモンの若い頃を演じたこともある)、この映画での彼は佐藤二朗にしか見えなくて、いつふざけだすのか気になってしかたなかった(ちなみにジェシー・プレモンスとキルステン・ダンストは実生活でも夫婦)。
ジョージは知事夫妻を連れてきたり(だけど口下手過ぎて間をもたせられない)、牧場の経営面を担当してるのかもしれないけど、牧場での牛や馬の世話などの作業はフィルに任せっきりだし彼が働いてるところがまったく映し出されないので、結婚したばかりの妻を置いていつもどこで何してるのかよくわからない。
なんで彼はいつもあんな疲れた表情をしているんだろうか。
どうもバーバンク家というのは血を分けた家族同士で意思の疎通がうまくいってないようで、ジョージはいつもフィルのことを持て余しているような態度だし、離れた土地に住んでいるらしい両親とも久しぶりに会っても会話もないし、どこかよそよそしい。
そもそも、牧場を親とともに経営するのではなくて兄弟が完全に両親と別居している理由も、彼ら家族間の事情についてもちゃんと説明されない。
ローズがなぜジョージと結婚しようと思ったのかも彼女の口から直接語られはしない。
フィルたちの食事のあとにローズが泣いていたのも不可解。
だって、確かに息子のピーターを侮辱したり野卑な笑い声をあげたりしてはいたけれど、彼らは別に店で暴れて狼藉を働いたとか宿代や食事代を踏み倒したとかいうんじゃないんだし。
食堂を営んでいれば下品な客だって来るだろうし、その辺は適当にあしらわなければやってられないでしょう。
それにローズは自動ピアノを演奏して唄い騒いでいた顔見知りの他の客たちのこともうんざりしたような目で見ていた。
だから、ローズが泣いていたのはフィルたちだけのことではなくて、夫に死なれて生活のためにしている食堂の仕事それ自体に嫌気が差していたんではないか。
そして、ジョージと出会って彼との結婚によって今の生活から抜け出すことを望んだ。
でも、ジョージの兄の存在を彼女は知っていたわけだから、どうして好きになれない男性との同居に同意したんだか意味がわかんないんですよね。歓迎されるわけなどないことは想像できるでしょうに。わざわざ苛められにいくようなもので。
なんか、そのあたりの浅はかさというか考えの至らなさがまたMJを彷彿とさせて…^_^;
なので、息子を大学に行かせるための「金目当て」というのはほぼ確実なんだろうな。馴染みのない牧場という環境も自分に敵意を剥き出しにしてくる義兄の存在も何から何まで彼女にとってはストレスだったんだろう。
ただ、この映画は僕が観る前に想像していたような「有害な男らしさ」を批判するわかりやすい内容ではなかった。
たとえばヒース・レジャーとジェイク・ギレンホールが共演した『ブロークバック・マウンテン』ではまさにそういう「有害な男らしさ」の恐ろしさと哀しさが描かれていたわけだけど、『パワー・オブ・ザ・ドッグ』ではそれを体現するフィルの人物造形が独特で、彼はただの脳筋マッチョじゃないんですよね。
フィルはイエール大学を出たエリートで(筆マメで字も綺麗)、両親も街なかに住んでいるようで物腰も上品な人たち。なんとなく僕が勝手に想像しているようなあちらの牧場主とか開拓民みたいな根っからのワイルド系の人物像ではないんですね。およそカウボーイらしくない。一家は知事とも知り合いだし。
それがどうしてあのような生活を選んだのか詳しい事情はわからないけれど、フィルがピーターに語ったように“ブロンコ・ヘンリー”という彼の「友人」が大きな影響を与えたのだということだけはわかる。この「友人」の正体は中盤以降で判明する。
映画のタイトル“The Power of the Dog”とは旧約聖書の詩篇の22章20節(“Deliver my soul from the sword; My darling from the power of the dog.”)から取られたものだけど、邪悪なものから私をお守りください、という神への祈りの言葉の中で使われる「犬の力」というのが映画の中では単純に「悪」としては描かれていないように感じたんですよね。だからわかりにくい。
ピーターの人物造形が妙にあとを引くのと同様、フィルのそれもまたどこか歪で。
舞台となる時代や場所、主人公のキャラクターなどからダニエル・デイ=ルイス主演の『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』を連想したんだけど、あの作品も僕にはずいぶんと難しくて何を描こうとしている映画なのか理解しづらかった。
ベネディクト・カンバーバッチという俳優さんはこれまで彼が演じてきたいろんな役柄のイメージもあって、たとえそれが軍人であってももともとマッチョ気質というよりは「強さ」という枠に自分を無理やりはめこんでいるような、他者以上に自分を抑圧している人物として僕には映る。
『イミテーション・ゲーム』でもそういう人物を演じていたし。
『アメリカン・ビューティー』でクリス・クーパーが演じていたようなコワモテのおっさんが実は…みたいな意外性はあまりなくて、どんなにイイ声で「男らしい」カウボーイを演じても、どこかに繊細さや脆さを感じさせる。
裸になると筋骨隆々でも、ハーヴェイ・カイテルみたいな野生的な男性に見えない。
「男らしい」フィルと「なよなよした」ピーターには通じるものがあって、だからこそフィルは最初は「お嬢さん」とバカにしたピーターにやがて歩み寄る。
フィルがピーターの母ローズにつらくあたるのは、おそらくは彼女に自分の母親を重ねているからだろう。フィルはピーターに「母親からの自立」を促すが、それは両親と離れて弟と牧場を営むことにした彼自身をピーターに重ねているから。フィルと母との間にどのような過去があったのかはわからないが、エリートの経歴を捨ててカウボーイになったことが、両親、とりわけ母との離別の意志の現われだったんだろう。牧場を訪れた母とフィルの会話はずいぶんと寒々しかった。
家政婦たちへのそっけない態度を見ても、フィルは女性全般を嫌悪しているようなフシがある。
ただし、過剰な「男らしさ」へのこだわりはともかくフィルの仕事ぶりも生活態度も特段におかしくはないし(ローズのことを罵ったり彼女を嫌っていることを除けば、普段から周囲に暴言を吐きまくったり暴力を振るうようなことはない)、ローズに対してだってやってるのはせいぜい「意地悪」程度で、それこそ場合によっては日本の「嫁いびり」の方がよっぽど苛烈だろう。あの程度で参っていたのではそもそも牧場主の妻など務まらないのではないか。
この映画ではフィルもカウボーイたちも粗野ではあるけれど「悪」として一方的に断罪はされていなくて、川で裸で水浴びをする彼らは無邪気そのものだし、テニスをするローズとピーターの様子を眺めている時も彼らから悪意は感じられない。みんな仕事にも真面目に取り組んでいる。
フィルがピーターに乗馬を教えだしてからは、なんならピーターを快く仲間として迎えようとしている気配さえある。
他のカウボーイたちには牧場の向こうの山々に差す影が何に見えるかわからなかったが、ピーターにはそれが吠える犬の形であることが一目でわかった。フィルはピーターにかつての自分を見ていた。
一方では、ローズは息子がフィルとの付き合いを深めていくことに不安を募らせて、それがさらに彼女を酒に溺れさせていく。
フィルとピーターがうまくいってるなら逆に安心していいはずなのに、どうして彼女は不安がり体調を崩すまでになるのか。
造花を作ったり綺麗な絵や写真をコレクションしていて、ジーンズを水洗いせずにそのまま穿いたり、たくましい見た目の「男らしさ」を持たないピーターをローズは咎めず、ありのまま、息子が望む状態でいさせていた。
ところが、食事をしにきたフィルたち一行はローズがテーブルに飾ったピーターの造花をからかい、フィルはそれに火をつけて燃やす。
ローズが泣いたのは、ありのままの息子を拒絶されたからだろう。
すべてはそこから始まっている。
この映画は、「父が死んだ時、僕が母さんを守ると決心した」というピーターのモノローグで始まる。
「母を守る」というピーターの言葉が完遂されて映画は終わる。
この映画を「クローゼットゲイとオープンリーゲイの戦い」と表現されていた人がいて、そういう話として一種の寓話のようなものと解釈すると物語の展開で腑に落ちなかったところもどうにか納得することはできる。
ピーターが同性愛者なのかどうかは映画を観ているだけではわからなかったけど、フィルが「男らしさ」に囚われて揺れているのに対してピーターは実は一貫してブレがなく、彼は芯の部分では変わらない。
ピーターの酒飲みだった父親は息子のことを「優しくない」「お前は強過ぎる」と言い残して首を吊って死んだ。
フィルはピーターの「強さ」を否定するが、揺るがない、ということでは確かにピーターは「強い」といえるのかもしれない。「母を守るため」に彼がやったことを思うと、その「強さ」は非常におっかないのだが。
果たして本当にピーターの父親は「自殺」したのだろうか。
炭疽症で死んだ牛から取った皮でフィルを死に至らしめたのはピーターなのだから、予想外の方向から自分の目的を果たすピーターは観る者の理解を超えた一種のサイコパスにも思える。
本当の自分を偽ったり自分と似た性質や属性を持つ者を差別する者は許さない、という姿勢は、なるほど「優しくない」とはいえるかも。
フィルはピーターとの出会いによって劇的に変わることはなくても少なくともピーターへの接し方は変化したわけだし、ならば今後さらにものの考え方や生き方も進歩していく可能性だってあったかもしれない。
なのにどうしてそんなフィルをピーターは殺してしまったのか。
フィルを殺したらローズを守れることになる、という理屈がわからない。
物語だけ追ってるとほんとに首を傾げてしまうのだけど、ピーターはフィルから教わった乗馬の技術を身につけたし、フィルが丹精込めて編んだロープも捨てずにベッドの下に保管しておく。
他方で、ピーターはフィルのように見た目のたくましさや男らしさは見習わないし、母親から離れて自立しようともしない。
受け継ぐものは受け継いだうえで、古き「男らしさ」の価値観を捨てたのだ、ということじゃないだろうか。ピーターはフィルの生まれ変わった姿なのでは。僕がこれを「寓話」だと思うのはそういう理由からなんですが。
ピーターが“ブロンコ・ヘンリー”のヌード写真が載った雑誌をみつける場面なんて、まるで河原や裏山でエロ本みつけた中学生みたいだし、そのあと全裸のカンバーバッチが「クソ女!」と叫びながらピーターを追いかける姿なんかも僕には可笑しくてしょうがなかったんだけど、ジェーン・カンピオンはそれらを大真面目に撮るもんだからなんとも反応に困った。
アート映画って滑稽なものをシリアスに描くことが多いですが、牧場主のところに嫁いでアル中になる女性も、「男らしさ」の呪縛から逃れられないインテリのカウボーイも、動物や人を殺すことに躊躇いのないサイコパス気味の青年も、面白いことをやりそうな外見なのに何も面白いことをやらない太ったマット・デイモン似のおっさんも、僕にはすべてがひどく滑稽に思えるのです。生きている人間の滑稽さと哀しみ。本人たちは大真面目なのだが。
果たして犬は邪悪な存在なのか。
聖書の記述に向けてさえも、ここでは疑問を投げかけられているように感じる。
僕には難しい映画でしたが、でも、こうやってあれこれ考えたり他のかたがたの感想や意見などを読んで教えられることもあって、30年ぶりぐらいに観たジェーン・カンピオン監督の最新作を自分なりに楽しめました。
簡単に要約できないからこそ、そこには語り尽くせぬ何かが無数に埋まっているのでしょう。
※第94回アカデミー賞監督賞受賞。
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