マット・リーヴス監督、アンディ・サーキスジェイソン・クラークケリー・ラッセルカーク・アセヴェドコディ・スミット=マクフィーゲイリー・オールドマン出演の『猿の惑星:新世紀 (ライジング)』。



特殊な遺伝子を持ち進化した類人猿のシーザー(アンディ・サーキス)が同胞とともに金門橋で人間たちと対決してから10年。彼らは森に村を作り、人間の言葉も習得していた。一方、ウイルスによって人類は激減、生き残った人々に電気を供給するためマルコム(ジェイソン・クラーク)たち一行が森を訪れる。


2011年に公開された『猿の惑星:創世記 (ジェネシス)』の続篇。

監督は前作のルパート・ワイアットから『クローバーフィールド』や『モールス』のマット・リーヴスに交代。

クロエちゃん主演の『モールス』については、公開時に原作が同じスウェーデン映画『ぼくのエリ』と比較してけっこう辛口の感想を書いてしまったんですが、でも『クローバーフィールド』も『モールス』もそれぞれ見ごたえがあって面白かったし、アメコミ映画のようにヒーローが大暴れするだけではなくてこの監督さんには俳優への細やかな演出力があると思うので、最新作が『猿の惑星』の続篇だと知って楽しみにしていました。

それで実際に観てみると、これがなかなかよくできてる。

前作と続けて観るとより深くハマれると思います。

もしも前作を観ていなかったり内容を忘れてしまっている人は、この映画の前に観ておくことをお勧めします。

数ある「続篇」の中でも、これはかなりレヴェルが高いんじゃないでしょうか。

たとえば「エイリアン」シリーズのように毎回監督が違うとそれぞれの作り手の色がまちまちで次第に統一感がなくなりとっ散らかってきちゃうものだけど、マット・リーヴス監督は前作の作風、全体のトーンを忠実に踏襲していて違和感がない。

シーザー役のアンディ・サーキスを始めエイプ(類人猿)側のスーツアクター、というかモーションキャプチャー俳優たちが続投している以外は人間側はほぼ全員新登場のキャラクターなんだけど(前作で人間側の主人公を演じたジェームズ・フランコのみ同じ役で特別出演)、この続篇によっていよいよこのシリーズの主役は人間ではなくてシーザーであることがハッキリしてくる。

だからこれは「13日の金曜日」のジェイソンやゴジラ、そして先ほどのエイリアンなど、モンスターやクリーチャーこそが主人公という系譜の映画の1本といえる。

しかもシーザーは知能が高くて人間とも直接コミュニケーションが取れるので、単なる猿の怪物というわけじゃないのがミソ。まるで猿と人間のハイブリッドのようなキャラなのだ。

中にはマイケル・ベイの「トランスフォーマー」3部作のようにシリーズを通して共通の人間が出てくるという描き方もあるけど、この「猿の惑星」シリーズのような、あくまでもシーザーを中心にストーリーが進行していくやり方はなかなか巧い。

一時期のゴジラ・シリーズやガメラ・シリーズのように登場する人間側のキャラが固定されてしまうとマンネリになってきたり、そのキャラの動かし方が回を重ねるごとに難しくなっていくものだけど、人間たちが毎度入れ替わってくれるとそのたびに新たなドラマが作れるので、続けて観るとシーザーの一代記となる。

それとこのシリーズの驚くべきところは、映画の中で見たこともない怪獣や宇宙人が登場するのでも未知のテクノロジーが使われるのでもなくて(今後どうなるかわかりませんが)、一見すると動物園でも見慣れたチンパンジーやオランウータン、ゴリラなどのとりたてて珍しくもない動物たちが繰り広げる物語に目が釘付けになってしまうこと。

おサルさんたちのドラマに手に汗握ったり感動してしまったりするのだ。これはスゴいことじゃないか。

前作では、アルツハイマーを治す薬を作ったら猿の知能を向上させる作用があることがわかったんだけど、それは人間には死をもたらす悪性のウイルスだった。

そのウイルスの感染者が野に放たれてしまったために人類は未曾有のパンデミックに直面する。

僕はこの前作のラストを観て、続篇ではダスティン・ホフマン主演の『アウトブレイク』みたいな展開になるのかと思っていたんだけど、実際にはこの『新世紀 (ライジング)』はあの映画で描かれて最近も現実の世界で蔓延しているエボラ出血熱のような病原体の恐ろしさを扱った物語ではなかった。

というのも、映画の中で生き残った人々はウイルスに対する免疫があるため、これ以上ウイルスによって犠牲者が出ることはなさそうだから。けっこう都合がいい気がするんだけど、これはさらなる続篇への伏線だったりするんでしょうか。

わずかに生き残った人々がこの先どうやって失なわれた文明を取り戻すのか。そして増え続けるエイプたちとは果たして共存できるのか。

ところがこの映画で描かれているのは、人類の存亡をかけた戦い、などではなく、あくまでも「エイプたちの進化について」なんである。

視点は人間ではなくてエイプ側にある。

人類が生き残れるかどうかとか、知恵を持った猿たちと共存できるかどうか、というのは、シーザーたちエイプの考えと行動にかかっている。

今回、数の上では人類とエイプたちはすでに完全に逆転して、地球はすでに猿が支配する惑星になっている。




この映画の内容を一言でいうと「壮大なサル山の権力争い」。

ストリートギャングたちの抗争みたいな話なのだ。

ほんと、『シティ・オブ・ゴッド』とか東映のヤクザ映画みたいな世界。

それでは、これ以降ストーリーについて述べていきますので、未見のかたはご注意ください。



映画の冒頭、『2001年宇宙の旅』のスターゲイトのシーンで使われたリゲティのような曲とともにシーザーの指揮で“武器”を使って狩りをするエイプたち。

これは明らかに『2001年』を意識していて、なぜならあの映画の冒頭で描かれた、動物の骨を武器にした「人類最初の殺人」は、まさしく今回の『新世紀 (ライジング)』のテーマそのものだから。

武器を手に取ったとき、猿は人間へと進化する。

そしてそれは「エイプはエイプを殺さない」という自然界のルールを破り、同胞を殺す罪深き存在となることでもあった。

シーザーは人間のことを「同族同士で殺しあう愚かな種族」として、自分たちエイプよりも劣る存在と見なしていた。

自分に反抗したコバを許したのも、エイプは人間たちのように仲間同士で争わないのだ、という信念があったからだ。

しかし、そのコバが人間が持っていた銃を手にした時、エイプたちのイノセンスは終わりを告げる。

前作で研究所に長期間閉じ込められて実験台にされていたコバは、人に大切に育てられた記憶があり人間との共存を目指すシーザーとは違って人間に対する警戒心や復讐心に支配されている。他人を信用せず憎しみに駆られた彼を生み出したのは人間だった。

自然界の掟どおり、腕力や群れの統率力ではるかに勝るシーザーに従ってきたが、そんなボスをも倒す“武器”を手に入れた時、コバは同じ種族を殺す“カインの末裔”になった。

僕はこの映画を観ていて、ジョナサン・スウィフトの「ガリヴァー旅行記」に登場する巨人の国の王様が、ガリヴァーが得意げに語った火薬の話を聞いて「なぜそんな怖ろしいものを使うのか」と驚愕する場面や、無意味な争いばかりしている“ヤフー”と呼ばれる野蛮人のエピソードを思いだしていました。

さらには、今中東で武器を持って暴れまわっている人間たちのことを。

この映画での銃器を持ったエイプたちの狂ったような暴れっぷりは、彼らテロリストたちのことを念頭に描かれたとしか思えないぐらいだった(実際にどうかはわかりませんが)。


マルコムたちは停まってしまった電力を回復するためにダムに向かっていたが、途中でシーザーたちに遭遇、メンバーの一人のカーヴァーが誤ってその一匹を撃ち、一触即発の事態に。

結局シーザーの制止で殺し合いは避けられ、マルコムたちは森から追い払われる。

それでもダムの発電機以外に電力を取り戻す方法がないので、マルコムはなんとかシーザーに掛け合って彼らの監視のもとでダムでの作業を開始する。

しかし再三銃の所持を禁じられながらカーヴァーが持ち込んでいたため、激高したシーザーはマルコムたちに退去を命じる。

マルコムとエリーは出産で生命の危機に瀕していたシーザーの妻コーネリアを抗生物質で救い、一行はなんとか留まることができた。

その頃、コバは金門橋を越えて密かに人間たちのところに向かっていた。大量の武器の存在を知ったコバは出くわした二人組の人間の前で無害な道化ザルを装ってそのまま森に帰る。だが彼には計画があった。


この映画の何に燃えるって、もちろんイケメンすぎる猿のシーザーのいちいち凛々しい佇まいや強さもだが、何よりもまずコバの狂犬ぶり。

人間たちとの対決で馬に乗って両手に持った銃を乱射しながら爆走する場面なんか、そのブチギレ方はほとんど『スカーフェイス』のアル・パチーノ並み。

凶暴なだけではなく敵や仲間さえも欺く狡猾なコバのキャラクターには、これまで人間によって演じられてきたあらゆる“ならず者”のサンプルが詰まっている。

勇敢でもともとは純粋にシーザーを慕い仲間のために戦う侠気もあったが、銃の存在とその威力を知った瞬間、彼の中で決定的に何かが変わる。

下克上。隙あらばボスを蹴落として自分がその後釜に座る。

これまでは強い者が勝つ単純な素手ゴロ勝負だったボス争いが、容易に相手を殺せる銃の登場で様変わりする。

もうシーザーなんか怖くない。

コバにはシーザーが仲間よりも人間に肩入れしているように見えたのだった。だから排除する。

そしてシーザーを亡き者にしたあとは、恐怖による支配を強めていく。反対する者は殺すか捕らえて檻に閉じ込める。

以前カーヴァーによって銃で撃たれたが命はとりとめたアッシュを、コバは高所から投げ落として無残に殺す。アッシュがシーザーの考えを支持して「人間を殺せ」という自分の命令に従わなかったからだ。

コバは仲間たちに「エイプのため」という大義を掲げるが、それが偽りであることが明らかになる。

これは人間の姿を模してるんだよね。コバの変化は人間の歴史そのものでしょう。

一人の独裁者ができるまでを描いている。

馬を操り銃撃するエイプたちはまるで人間だ。

僕たち観客は、この2時間の間に猿たちが演じる人間のカリカチュアを観ているのだ。

コバが人間から奪った銃はやがて装甲車にヴァージョンアップしていく。

このあたりなんか、コバの暴れっぷりがあまりに素晴らしいんで客席で悶絶してましたよ。

コバ最高。その死に様も。

 
ツラ構えがステキすぎるコバ。


彼の最期は、まさしく「猿も木から落ちる」ならぬ「鉄塔から落ちる」だ。もはやエイプではなくなったコバは、シーザーに粛清される。

そしてそれは、コバの手を離して彼を墜落死させたシーザーもまたエイプではなくなったことを意味していた。


シーザーを演じているアンディ・サーキスは、「ロード・オブ・ザ・リング」のゴラム、そしてキング・コングゴジラも演じて今や「一人特撮映画史」みたいな偉大すぎる俳優だが、今回も顔の表情、声、全身の動きでこのエイプ界のカリスマを見事に演じている。

大げさではなくアカデミー賞主演男優賞級の熱演でした。

 

 




そしてコバ役のトビー・ケベルも助演男優賞獲れるでしょ、あの演技はw

2015年公開の『ファンタスティック・フォー』では悪役のドクター・ドゥームを演じる、ってまた途中から素顔が見えなくなる役ですが…^_^;

 


ちなみにあまり出番はないけど、シーザーの妻コーネリア役のジュディ・グリアは『キャリー』で先生役だった人。

直接関係ないけど、監督とはクロエ・グレース・モレッツ繋がりだったりする。

人間側の主人公マルコムを演じているのは、『キリング・フィールズ』でこれまたクロエちゃんと共演していたジェイソン・クラーク。クロエちゃん大活躍(^o^) 出てないけど。

 


ホワイトハウス・ダウン』では強面ですぐキレるテロリストの一人を演じていてどちらかといえば悪役のイメージがあった俳優さんだけど、今回は珍しく誠実な人の役。

マルコムは前作でジェームズ・フランコが演じたウィルほどにはキャラが立っていないんだけど、シーザーの存在感を邪魔しない絶妙なキャスティングといえようか。

マルコムの現在の妻であるエリー(結婚しているのかどうかはよくわからないのだが)を演じているケリー・ラッセル、どっかで見たことある女優さんだと思ってたら、『ミッション:インポッシブル3』で頭の中に埋め込まれた爆弾で目が変な方向向いて死んでしまう女性役の人だった。あの顔インパクトあったもんなぁ。




マルコムの息子アレクサンダー役のコディ・スミット=マクフィーは、『モールス』では女の子みたいに可愛い顔だったのが、あれから3年経ってだいぶ背も伸びましたね。

絵を描くのが好きでオランウータンのモーリスと心を通わせる、ちょっとひ弱っぽくて優しい少年の役がとてもよく合っている。




人間側のリーダー、ドレイファスを演じるゲイリー・オールドマンは、もはやモーガン・フリーマンとタメ張れるぐらいに映画に出まくりの人(そーいや何年か前に日本映画にも出てたな。どんだけ節操がな…いや仕事熱心なんだ)と化してるけど、この人が出てるとそれだけで映画の格が上がるところはある。

この「猿惑」シリーズはこの1作のみの出演(多分)。でもイイ仕事してます。




こうやって有名俳優が入れかわり立ちかわりゲストのように出演してくれると盛り上がって楽しいし、これは今後も丁寧に作っていけばほんとに「エイリアン」以上の名作シリーズになるんじゃないだろうか。


チャールトン・ヘストン主演の1968年のオリジナル版から始まる旧シリーズでは、シーザーたちエイプには公民権運動後の当時の黒人たちが重ねられていた。

それは黒人を猿扱いしている、ということではなくて、SF的な世界観と道具立てを用いながら現実に存在する人種差別への異議申し立てと社会変革を訴えた寓話ということで、これはジョナサン・スウィフトの風刺文学にも通じるものがあった。

新シリーズの1作目『創世記 (ジェネシス)』を観た時には、今回と同様にエイプたちの演技に感動したし面白かったんだけど、旧シリーズにあったような社会風刺やカリカチュアは見いだせなかったんですね。何かの「たとえ話」というようには読めなかった。

シーザーや猿たちは何かの比喩ではなかったので。だからこれは何について描いた映画なんだろうと思った。

でも、今回その続篇でついに彼らが“武器”を手にした時、先ほども書いたようにハッキリと何の隠喩なのかわかった。

前作では知恵と野生の力によって勝利したエイプたちは、今回“銃”を手に入れたことで一足飛びに進化を遂げてしまう。

ちょうど『2001年宇宙の旅』で謎の石板モノリスが類人猿に知恵を授けたのと同じように、彼らはそれ以前とは明らかに違う存在になったのだ。

『創世記 (ジェネシス)』のクライマックスの戦いは手に汗握り全力でエイプたちを応援できたし、彼らがついに自由を勝ち得た時には涙ぐみさえした。

でも『新世紀 (ライジング)』ではそういう勝利の感動はない。

この映画でのエイプと人間の戦いは、かつて自分を傷つけた人間を滅ぼそうとするコバの暴走から始まる。

人間たちはエイプとの戦いに備えて武器を大量に蓄えていたが、しかし先に攻撃するのはエイプの方だ。コバは二人組の人間を殺して銃を奪う。この殺人は正当防衛ではなくて、彼は最初から武器を狙っていた。

このシーンのコバの“演技”が、なにげに怖い。引きの画の不穏な空気、そして徐々に近づいてきておどけてみせておいてのいきなりの銃撃。




人間たちはけっして残虐非道ではなく、猿が自分たちに危害を加えないとわかれば無闇に殺したりはしない。

しかし人間を憎むコバは容赦しない。

いったん始まった殺し合いはさらなる憎しみを生み、エイプと人間の戦争はもはや避けられないものになってしまった。エイプに仲間を殺された人間たちは彼らを許さないし、エイプの方も同様。

こうして戦争は始まる。

だからこれからの戦いは前作の勝利のような爽快感はなく、観るのもツラいものになるだろう。

繰り返すけど、これは今現在現実の世界で行なわれていることだ。

一見平和で理想的なエイプのコミュニティは、シーザーというカリスマ的なリーダーがいなくなったとたん瓦解する。非常に脆くて危険な集団だ。

これは何を描いているのか。もちろん僕たちのことだ。

僕はこの映画の「人間モドキ」のエイプたちを見ていて、前作以上に人間に対する揶揄のようなものを強く感じた。

エイプの進化の果てがシーザーが見下していた愚かな人間に近づくことだとしたら、これほど虚しいことはない。

シーザーというのは理想化されたリーダー像だろう。

そしてコバはそのネガだ。

シーザーのようなリーダーは現実にはいないが、コバのようなリーダーはいる

しかし、エイプとしての誇りと人間への情の両方を持つシーザーの掲げる「共存」の理念は、人間である僕たちに今一度自らの姿勢を問うてくる。

誰もが武器で殺しあう中で、シーザーだけは最後まで銃を手に取らない。

それこそがこの映画が発している最大のメッセージだ。



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