『クローバーフィールド』のマット・リーヴス監督、『ザ・ロード』のコディ・スミット=マクフィー、『キック・アス』のクロエ・グレース・モレッツ出演の映画『モールス』。R15+。
2010年に日本で公開されたスウェーデン映画『ぼくのエリ 200歳の少女』のハリウッド版リメイク。
1983年、ニューメキシコ州ロス・アラモス。両親が離婚調停中で母親とふたりで暮らすオーウェン。彼は毎日同級生のケニーたちに苛められている。そんなある日、彼が住むアパートのとなりの部屋に同じぐらいの年頃の女の子とその父親らしき男性が引っ越してくる。
女の子の名前はアビー。彼女は雪の中でも裸足で、昼間は学校にも来ず、夜になるとオーウェンと会うようになる。
以下、『モールス』と『ぼくのエリ』のネタバレがありますのでご注意ください。
舞台をスウェーデンからアメリカに、同様に登場人物もアメリカ人に変更したことを除けば、ストーリーは概ねオリジナル版と同じ。
『ぼくのエリ 200歳の少女』(2008) 監督:トーマス・アルフレッドソン
出演:カーレ・ヘーデブラント リーナ・レアンデション
主人公オーウェンを演じるコディ・スミット=マクフィーは、『ぼくのエリ』で主人公オスカーを演じていたカーレ・ヘーデブラントと同じようにやせっぽちで女の子のような顔をした少年。
オスカーの趣味は殺人事件の新聞記事の切り抜きの収集だったが、オーウェンは望遠鏡での覗き。女の人のおっぱいも見ちゃいます。
そしてヒロインのアビーを演じるクロエ・グレース・モレッツは、やはり『ぼくのエリ』のエリ役リーナ・レアンデションのように、ときに凶暴性を爆発させる永遠に12歳の少女を演じている。
強いて違いをあげれば、エリはどこか年齢不詳でミステリアスな雰囲気だったのに対して、アビーは感情をあまり表に出さないとはいえ見た目は12歳の少女そのもの。
さっそくネタバレしちゃうと(映画でもはやばやとされるので)、つまりとなりに越してきた少女はヴァンパイアだった、というお話。
『モールス』では、酸を顔に浴びた男性が病院に運び込まれるところからはじまる。いきなりサスペンス調の出だし。
そして話は2週間前にさかのぼる。
オリジナル版からの変更点として、アビーによる犠牲者が彼女が住むアパート周辺の人たちにかぎられている。
また彼女を追うのは、『ぼくのエリ』ではたまたま通りがかって犠牲になった女性の恋人だったのが、ここでは刑事になっている。
そのために彼がアビーの居所を突き止める展開が無理なく描かれている。
アビーといっしょにいた男性は実は彼女の父親ではないのだが、『ぼくのエリ』では暗示にとどめていたのが、『モールス』では少年時代の彼と今と変わらない姿のアビーが写っている古びた写真の存在によって、この男性が少年の頃からずっとアビーとともに生きてきたことがハッキリと示されている。
この初老の男は、ようするにアビーの恋人だったということ。
そして人間の血を飲まなければ生きていけないアビーのために、まるで彼女の従者のように行く先々で人殺しをして血液を採取してきたのだった。
しかし歳のせいか、それとももうこんなことは終わりにしたいと無意識のうちに感じているからか、しくじって大切な血液を手に入れ損なう。
手ぶらで帰った彼を激しい口調でなじるアビー。
このあたりも『ぼくのエリ』と同じ。
男はときに少女の下僕のようであり、ときに恋人、ときに父親のようでもある。
「もうあの少年に会うな」という彼の言葉は、若い肉体への嫉妬なのか、それとも自分と同じことをくりかえしてほしくないという思いなのか。
『ぼくのエリ』でどこか同性愛的な雰囲気をただよわせていた主人公の父親の登場シーンはなくなって、そのかわり母親は宗教に救いを求めている、という設定に。
「人間は邪悪になれるのか」というオーウェンの言葉もあったりして、これは『ぼくのエリ』にはなかった何かを提示しているようにも思えたが、そのあたりはよくわからなかった。
レーガン政権下のアメリカのキリスト教原理主義についてなど、知ってたらこの映画のテーマがより深く理解できるのかもしれない。
ともかく、『モールス』はストーリーの組み立てが巧みで、オリジナル版から必要な場面をうまく取り出して再構成している。
オリジナル版を観たときに感じた「ちょっと無理がある展開」がだいぶ整理されている。
ただ、そのかわり『ぼくのエリ』に比べてこの『モールス』は全体的にテンポが早い。
余韻がない。
オーウェンとアビーが出会って仲良くなるまでも、『ぼくのエリ』がじょじょに心を通わせていくふたりをじっくりと間をとって描いていたのに対して、『モールス』では気づくとふたりはゲーセンでデートしてる。
そして唐突にも思える「わたしのこと好き?」というアビーの台詞につながる。
やってることはオリジナル版と変わらないのに、正直このへんはちょっと性急すぎる気がした。
ここまでを時間をかけて描いているからこそ、『ぼくのエリ』ではお菓子を口にしたあと苦しそうに嘔吐するエリを抱きしめるオスカーの気持ちに観る側は同化できたのだが。
『モールス』では、ふたりの関係の描写がどこか及び腰に感じられた。
裸のアビーとならんで眠るオーウェンのシーンも、『ぼくのエリ』のようにふたりが肌を寄せて手を握り合うところをもっと情感を込めて撮れたのではないかと。
これは好みもあるようで、逆にオリジナル版の淡々とした進行がもどかしいと感じる人もいるみたい。
でも、それにしてもひとつだけどうしても「う~ん…」と思ってしまったのが、ロングショットで映される、ものすごい速さで人間を襲ったり木や建物を這い上がるアビーの(おそらく)CG映像。
映画のなかで2~3箇所ある。どう贔屓目に見てもあれはいただけなかった。突然、画面がチープに見えてしまって。
オリジナル版に登場した大量のネコ大暴れのシーンが安っぽくて嫌だった、という感想を書いてた人がいたけど、僕は本作のクロエ大暴れの方が残念でした。
オリジナル版は極力これみよがしなVFXは使わず、演出とカット割りで見せていたので。
一方で、リチャード・ジェンキンス演じるアビーの“従者”が車のなかで獲物をねらう場面の演出は見事で、観客はいつのまにか罪なき人を襲う無情な殺人者である彼の立場になってドキドキしながら見守ることになる。
そして冒頭のシーンにつながるというわけ。
このあたりの展開はとてもスムーズで、まったく飽きさせることなく観せてくれる。
他方で、少年と少女がずっといっしょにいるうちに互いを分かち難い存在と感じはじめる、というとても重要な部分においては、この映画のふたりは残念ながら「お約束」のようにあまりに唐突に出会い、惹かれ合っていた。
まるで劇中で上映されていたフランコ・ゼフィレッリ監督の『ロミオとジュリエット』のように。
そのあたりは繊細さがおおいに不足していたように思う。
つまり、オリジナル版『ぼくのエリ』にあった“エロス”が、この映画には圧倒的に足りない。
ふたりの子役は健闘しているにもかかわらず。
…なんかケナしてるみたいだけど、違うんです。
この映画には、『ぼくのエリ』にはなかったものもある。
『モールス』では、アビーに襲われてヴァンパイア化し無惨な死をとげる女性がオーウェンが覗いていた近所の美人妻ヴァージニアになっていて、「成熟した女性」である彼女(ちなみにその首には“十字架”のネックレスがかかっていた)と「永遠に12歳の少女」アビーとの対比が明確になっている。
いってみれば、オーウェンは今後あのような普通の女性と出会い、セックスしたり結婚することを一生断念してアビーとともに生きていくことを決意したのだということ。
これは『ぼくのエリ』と比べても、キャラクターたちに込められた象徴がより理解しやすくなっている。
その「わかりやすさ」が逆に嫌だという人もいるのだが。
どちらも「完璧な映画」ではない。
だからこそほとんど同じストーリーで、違う監督、違うキャストでさほど間隔もおかずに作られた、まるでダブルキャストみたいなこの2本はお互いがお互いを補い合う、そんな映画に思える。
映画の内容からはちょっと離れるけど、でも僕が『ぼくのエリ』のときには気づかなくて、この『モールス』を観たときに「あぁ、そういうことか」と合点がいったことがある。
ようするに主人公のオーウェンってオレじゃん、と
僕は「アイドル」の方面にはとんと疎いんでうまい例をあげられないけど、たとえば30や40歳になっても、あるいは今後50、60と歳をかさねていってもTV(“銀幕”でもいいが)の向こうの「10代の少女」に夢中になって「○○○ちゃんに萌え~」とかいってるオヂサンたちみんなの話なんじゃないのか、これは。
あるいは2次元キャラクターをこよなく愛する人の話でもいいが。
この映画のアビーという「永遠の少女」は、銀河鉄道999に乗って旅をつづける少年たちに寄り添うメーテルみたいな存在ということでしょ?(意味わかります?)と。
自分こそは彼女に選ばれた男なんだ。彼女を愛し、彼女から愛されるのは俺だけなんだという妄想に駆られて、いつしかすべてを捨てて彼女に奉仕するようになる。
しかし気づくと老いて役に立たなくなって、怒鳴られ、部屋にいても彼女から「どいて」と邪険にあつかわれるようになる。
それでも彼は彼女のことを愛おしく思っている。
あげくにビルからダイヴ。
哀しい末路。
そして彼女にはまた別の少年が。
興味深いのが、『ぼくのエリ』もこの『モールス』も、登場するヴァンパイア少女は一見肉食系に思えるが、最終的にはかならず相手の少年がみずから選択して彼女のもとへ来るように、いわば「仕向けている」こと。
「ここを立ち去って生きるか、とどまって死をむかえるか」
『ぼくのエリ』でも出てきたフレーズがこの映画にも登場する。
これまたある人の「この映画、みんな“純愛”とかいってるけど、次々と男を乗り換えていく悪女の話じゃないの?」という感想に、そういう観方もあるよな、と納得した次第。
特にこの『モールス』のアビー=クロエ・グレース・モレッツには、どこか無意識のうちに少年=男を虜にして、やがてその体内の血液をすべて吸い尽くして捨てる、魔性の女の姿を見るのである。
この人の魅力って、理屈じゃなくわかる人にはわかるが、わからない人にはいっこうにわからない類いのもののようだ。
まぁ“ファン”の思い入れなんてみんなそんなもんだろうけど。
『キック・アス』の感想でよく「ヒット・ガールは可愛かったけど、マスクとったらそれほどでも」っていうのがいっぱいあって笑ったけど、マスクをとったクロエに惚れられるかどうかが分水嶺なんだろうな(なんのだ)。
なんかどんどん役柄と演じてる人がゴッチャになってきてますが。
この映画の少女アビーはヒット・ガール同様「永遠に歳をとらない12歳の少女」だけれど、実際のクロエさんはどんどん成長している。
そこがまた魅力なんでして。
ちょっと急激に成長し過ぎなんでは?と不安になってくるほど大人びた現在14歳。
ドリュー・バリモア監督のPVにヤンキーねえちゃん役で出演
Best Coast 'Our Deal'
まだまだ人生は長いというのに、なんだろうか、この生き急いでるよーな人生は。
お願いだから途中で壊れないで!と心から案じています(ほんとによけいなお世話だが)。
口や鼻から血を流してキック・アスに抱っこされるヒット・ガールのように、「僕が守ってあげなきゃ」と思わせておいて、いつしか彼を逃れられない深みにハマらせている。
僕はこのアビーというヴァンパイア少女をクロエ・グレース・モレッツという女優が演じることは必然だったとすら思う。
この『モールス』での演技が、ティム・バートンの最新作への起用につながったのは間違いないわけで。
この子のうしろに、これから一体どれだけの屍が横たわるのだろう。アビーがそうだったように。
自分が「生きる」ために無数の者たちを犠牲にしてきたヴァンパイア少女。
本来ならば憎んであまりある存在だが、それでも愚かしい男どもは喜んで彼女に服従するのである。
オーウェンが、そしてオスカーが、彼らの「永遠の少女」にその血で誓おうとした忠誠は、僕らが“彼女”に夢中になっている姿ソックリだ。
『ぼくのエリ』を観た人はわかるだろうけど、この『モールス』でいくつかあるオリジナル版からの改変箇所で最大のものが、例の“ボカシのシーン”に見られる両性具有的な要素。
『モールス』ではヒロインのアビーは正真正銘「女性」である(少女かどうかは別にして)。
つまり、原作にもあった(らしい)「少女は、実は去勢された少年」という設定はなくなっている(アビーが“去勢”?されるシーンは撮影されたが、本篇からはカットされた)。
なのでクロエちゃんの股間のアップはないんであしからず。
ファンなんだから、できることなら彼女を持ち上げたい。
それでも、たとえばヴァンパイア少女が顔や全身から血を流すときの凄み、これは残念ながら『ぼくのエリ』のリーナ・レアンデションの演技力(演出も含めて)の方が優るのだ。
これは作品を観比べれば一目瞭然。
画面から受ける痛み、恐怖、それらは『ぼくのエリ』の方が上だ。あきらかに。
そしてクライマックスのプールのシーン。
静寂と惨殺。
これは誰が観たって『ぼくのエリ』の方がコワい。そしてより胸に迫る。
いいたくはないのだが、クロエ・モレッツはこの作品でまだその女優としての実力を出し切っていないんではないか。
僕はこの映画を観て率直にそう思った。
『キック・アス』以降の出演作で、彼女は“ヒット・ガール”を超える演技をまだ見せてはいない。
あ、なんか俺いまクロエさんにダメ出ししてます?
何様なんだお前は。
言い訳じみたことをいうと、これは別に彼女のせいじゃない。
たとえば、『ぼくのエリ』の主人公オスカーを演じているカーレ・ヘーデブラントは、同級生たちからのイジメにも感情を押し殺した無表情に近い状態で耐える。
このときの彼の表情は、どこかマゾヒスティックにすら見える。
『ぼくのエリ』の俳優たち(特に主演のふたり)の演技には、観客によるさまざまな解釈の余地が残されている。
『モールス』でも、出演者たちの演技はほかのハリウッド映画に比べるとかなり抑え目ではある。
それでも主演のコディ・スミット=マクフィーは、キャラクターの憎々しさとともにオリジナル版よりも激しさが3割増になった同級生たちのイジメに怯え、泣き叫ぶ。
彼の真に迫った演技は見ごたえがある。
同じくらいの年頃の日本の子役にああいう演技ができるだろうか。
また、ヒロインも『ぼくのエリ』のリーナ・レアンデションは、その特徴的な顔立ちもあいまってつねに「病い」を感じさせる表情をしているが、『モールス』のクロエ・グレース・モレッツは一見普通の少女。
それが特殊メイクによるヴァンパイアに変身したときの激しい表情との違いを際立たせている。
全身から血を流すシーンの両者の演技の違いも、おそらく『モールス』のマット・リーヴス監督は、恐怖や気持ち悪さよりもあえて少女の哀しさを強調したんではないかと思う。
リチャード・ジェンキンスが演じるアビーの“父親(エンドクレジットでは“THE FATHER”と表記されていた)”は、オリジナル版のキャラクターにきわめて近い。
だから、これは出演者の演技の巧拙ではなくて、演出の違い。
映画を語るとき、そこに「完全に客観的な視点」などありえないし、映画を評価するための絶対的な尺度というものはないので、以上はあくまでも僕の個人的な感想ですが。
『ぼくのエリ』を冗長だと感じる人もいれば、『モールス』にあわただしさを感じる人もいるでしょう。
僕はどちらかといえば後者だったということです。
実は、テンポがいい(もしくは情緒が足りない)ように思えた『モールス』は上映時間が116分、一方ゆったりとしたテンポ(あるいは冗長)に思えた『ぼくのエリ』の上映時間は115分(でもDVDでは110分だったが…)。ほとんど変わらないのである。
映画って不思議ですね。
うだうだと書いてきましたが、『モールス』観られてよかった。4回も
出演作はけっこうあるけれど、まだ主演作品はけっして多くはないクロエ・グレース・モレッツにとって、この映画は特別な1本であることはたしかだし、さらなる躍進につながっていってほしい。
そして最後に一言、
クロエちゃんに萌え~(←下僕決定)
クロエ・グレース・モレッツ出演作品感想:
『リピート 許されざる者』
『(500)日のサマー』
『クロエ・グレース・モレッツ ジャックと天空の巨人』(2010)
『キック・アス』
【爆音映画祭】『キック・アス』
『グレッグのダメ日記』
『ヒューゴの不思議な発明』
『キリング・フィールズ 失踪地帯』
『ダーク・シャドウ』
『HICK ルリ13歳の旅』
『キャリー』
『キック・アス/ジャスティス・フォーエバー』
『イフ・アイ・ステイ 愛が還る場所』
『イコライザー』
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