マット・リーヴス監督、アンディ・サーキス、カリン・コノヴァル、アマイア・ミラー、スティーヴ・ザーン、ガブリエル・チャバリア、ウディ・ハレルソン出演の『猿の惑星:聖戦記 (グレート・ウォー)』。
悪性のウイルスによって人類が激減し、知性を持ったエイプ(類人猿)たちがそれに代わろうとしている未来。エイプたちのリーダー、シーザーが「エイプはエイプを殺さない」という掟を破り、同族であるコバを殺してから2年が経った頃、人間側の軍隊がエイプたちの棲みかを襲う。大切な家族の命を奪われたシーザーは復讐のため妻子の仇である人間側のリーダー、クロウ大佐のいる要塞を目指して旅に出る。
ラストのネタバレがあります。これからご覧になるかたはご注意ください。
2011年から始まってきっかり3年おきに続篇が作られてきたリブート版「猿の惑星」シリーズの第3弾にして完結篇。
監督は前作に続いてマット・リーヴスが担当。
僕は1作目から劇場で観てますが、あらためてよくできたシリーズだなぁ、と思う。
これまでにもいろんな映画がリメイクされたりリブートされたりしていますが、その中でもこれはもっとも完成度の高いリブート版といえるんじゃないでしょうか。
3作とも見応えがあって失敗作というものがない。これはこの手のフランチャイズ映画としては凄いことだと思います。
VFXは1作ごとに進化を遂げて、ここでスクリーンに映し出されているエイプたちはまるで本当に存在しているように見える。CGっぽさが微塵もない。あまりに自然なのでかえってその凄さを見過ごしてしまいそうになるぐらい。
ゴリさんに乗られたお馬さんが重そう
『ロード・オブ・ザ・リング』のゴラムやハリポタのドビー、ジャー・ジャー・ビンクスやナイナイ岡村さんが合体したようなキャラの“バッド・エイプ”。演じるのはスティーヴ・ザーン
この見事な技術のおかげで、僕たち観客は違和感なくエイプたちのドラマを見ていられる。
考えてみれば、映画の主要キャラがすべておサルさん、というのが凄まじいですよね。
“エモーション・キャプチャー”でアンディ・サーキスが演じるシーザーはいつも口角が下がった“への字口”をしていて、彼はもとはチンパンジーだったんだけど、どちらかといえばニホンザルに近い顔つきをしている。
前作の感想でも書いたけど、ほんとにアカデミー賞級の演技だと思いますよ。特に目だけで多くの感情を表現している。
他のエイプを演じる俳優たちも、オランウータンのモーリス役のカリン・コノヴァルやもともとは動物園の猿たちのボスだったロケット役のテリー・ノタリー(彼は『キングコング:髑髏島の巨神』ではコングを演じている)は1作目から、前作からはシーザーの妻コーネリア役のジュディ・グリアやシーザーが見る幻として現われるコバ役のトビー・ケベルが続投。
まるで本物の猿たちが演技してると錯覚しそうですが、それは彼らの演技があったればこそ。
ゴリラが体毛の色でキャラを区別されてるのが面白かった。シーザーの家族など猿たちはちょっと顔の判別がつきにくくて若干混乱しましたが。
3作目は、心なしか前作よりもさらにエイプたちの立ち居振る舞いや表情などが人間に近くなっているように感じました。
あ、そういえばすでに「なかったこと」にされてる2001年のティム・バートン版も僕は劇場で観ましたが、単独作品としては嫌いじゃないんですよね。ティム・ロス演じる凶暴なチンパンジーの将軍とか顔の特殊メイクが微妙に本人の面影を残しているヘレナ・ボナム=カーターとか、一重まぶたのゴリラ役のケイリー=ヒロユキ・タガワとか楽しかったし。CGではなく特殊メイクをして俳優たちが実際にキャメラの前で演じていたのが、今となってはなかなか貴重な作品かも。ストーリーまったく覚えてないけど。
でも、アンディ・サーキスがシーザーを演じたこの新しいシリーズのインパクトとその出来のよさに、いつしかバートン版は忘れられてしまいました。今からもう16年前の作品なんだなぁ。
チャールトン・ヘストン主演で1968年に公開されたオリジナル版はシリーズ化されて最終的に5作品作られた(ヘストンが出演したのは2作目まで)けど、そこで描かれた人類と猿たちの関係が当時のアメリカの人種問題と公民権運動の高まりを反映していたように、リブート版もまた、シーザーをリーダーとするエイプたちに現実社会のさまざまな要素を重ねることができるようになっている。
1作目では人間に虐げられて反乱を起こしたシーザーのエイプとしての目覚めが描かれて、それは奴隷からの解放を意味していた。私たちは一方的に誰かに従属するのではなく、自らの手で自由を勝ち取り団結して生きていくべきだ、ということ。
しかし「団結」には落とし穴もあって、リーダーは独裁者にもなりうる。自分の欲望を優先させて暴走した先にあるのは、多くの死と残される憎しみだ。2作目ではそういうことを描いていた。
1作目を最初に観た時には、僕は物語がなんの喩えなのかよくわからなかったんですが、シリーズを続けて観ていくとこれはやはり人間の歴史そのものだし、エイプたちの目を通すことで、僕たちは俯瞰して「人間」の残酷さや矛盾、愚かしさなどを見つめることになる。
このシリーズは突然変異によって進化を遂げたチンパンジーのシーザーが言葉を覚えて次第に人間に近づき、他のエイプたちとともに人間の歴史をたどる物語だったけど、西部劇や聖書など“アメリカ”というものを強く意識させる要素を盛り込むことで、三部作を通して壮大な叙事詩になっている。
雪崩に巻き込まれる人間たちとエイプたちがまさに“約束の地”にたどり着くラストは、聖書の「出エジプト記」、そしてセシル・B・デミル監督、チャールトン・ヘストン主演の『十戒』。
ファラオの軍勢が紅海に飲まれるあのクライマックスとイスラエルの民がカナンの地にたどり着く前にモーセが天に召されるラストの再演。
ここでチャールトン・ヘストンが『十戒』と『猿の惑星』の橋渡しになるのが面白いけど、これはもちろん意図的なんでしょう。
偶然ながら、1作目の邦題は「創世記」だった。
ちなみに、コバ役のトビー・ケベルは2016年版『ベン・ハー』に出演している(主人公ベン・ハーのライヴァル、メッサラ役)ので、またしてもチャールトン・ヘストンに縁があったりする(ヘストン主演の『ベン・ハー』の感想はこちら)。
もっとも、このシリーズには「神」に相当するような存在は出てこないし、言及すらされないが。宗教的な要素は最初から排除してある。シーザーは仲間たちのために戦うだけだ。それでもこのシリーズ最終作からは神話的な雰囲気を感じる。シーザーはX型の十字架にかけられていたし。
前作ではけっして銃を手に取らなかったシーザーは、今回は銃で人間を殺す。
その姿は西部劇のガンマンそのものだ。しかも彼が殺すのは幼い娘のいる父親。
クリント・イーストウッドが『許されざる者』の劇中で「人を殺した者はその罪を背負い続ける」と語ったように、シーザーはもはやエイプではなく、彼がかつて殺したコバと同じように復讐する者になった。そして最後は命を失う。
前作『新世紀』では、キューブリックの『2001年宇宙の旅』の猿人たちがモノリスによって知恵を授かり骨を武器にして早速殺し合いを始める冒頭のシーンを思わせたように、これは人類史をエイプたちの姿を借りて描き直したものだったんですね。
邦題では「聖戦記」とあるし、原題も「WAR FOR THE PLANET OF THE APES」だけど、エイプと敵対している人間たちは自らを「絶滅危惧種」などと称しながらも同族同士の戦いに明け暮れていて、最後も雪崩によって勝手に全滅してしまう。
これまではまだシーザーたちの味方になったりわずかながらも「善い人間」がいたが、この最終作では旅の途中でシーザーたちが連れていく少女ノヴァを除けば人間は軒並みその知性が劣化していて、映画の最後についに地球は「猿の惑星」になる。
主人公側では唯一の人間であるノヴァ役のアマイア・ミラーは、ちょっと子役時代のダコタ・ファニングを思わせる顔立ちで可愛かったですね。彼女の笑顔には人の善意とイノセンスが込められているようで、父親を殺されながらもエイプたちに懐く彼女の姿に何か胸が締めつけられるような思いがした。
ノヴァという名前は1968年のオリジナル版でリンダ・ハリソンが演じた人語を喋れない女性の名前から取られているし、この「言葉を喋れない」という設定にリブート版では新たな理由付けがされていたり、あるいはシーザーの息子の名前がコーネリアスだったりとオリジナル版へのオマージュがいくつもあるけれど、ストーリー自体はまったく別物なので68年版に直接繋がるわけではない。
今回、ウイルスは生き残った人間たちから喋る能力を奪うことが判明して、ノヴァはその影響で言葉を発することができなくなった。
ウディ・ハレルソン演じるクロウ大佐はかつて息子にその症状が出て、それは人間から知性が失われる証拠だということで我が子を自ら手にかけた。我が子を労わりともに生きていくのではなく、劣った者と見做して殺す。
味方の兵士ですらも、喋れなくなった途端に処刑する。
このあたり、僕は優生学を思わせてゾッとするんですが。星条旗にペイントしたものを掲げて鬨(とき)の声を上げるあの兵士たちは、まるでナチスのようだ。
ノヴァは自分に優しくしてくれたゴリラのルカが人間に刺されて死んだ時に涙を流して悲しむ人間的な感情を保ち続けていて、シーザーたちの脱走も手助けするしけっして知性が退化などしていない。
むしろ言葉を喋っている大佐や彼の部下たちの方がよっぽど残虐で非人間的だ。
これも現実の世界で弱い立場の人々を虐げ、自らを強者と位置づける者たちの姿そのものだ。
先ほどの聖書の件を考えれば大佐と彼が率いる軍隊がナチスを思わせるのは納得だけど、弱者に不寛容なのはナチスだけではない。どっかの国の口のひん曲がった政治家も「ナチスを見習ったらどうか」とホザいてたしね。
シーザーはノヴァと同じように言葉が喋れなくなった大佐の哀れな様を見て、復讐を思いとどまる。この男は殺す価値もない。
大佐は、もしも自分がそういう立場になったら、という想像力がない者の愚かさを体現している。
あの大佐のような者たちこそ滅びるべきだ。この映画はそう言っているように思える。
この映画で「神」が描かれないのにも意味があるのではないか。なぜなら、現実には大佐のような者たちこそが自分たちを神に選ばれた存在などと称するのだから。
シーザーとエイプたちは誰に選ばれたのでもない。自らの手で正しく生きる道を選んだのだ。
1作目で檻の中で虐待されていたシーザーは3作目で再び檻に入れられる。今度は仲間たちが彼を助ける。
あの檻からの脱走シーンはジョン・スタージェス監督の『大脱走』へのオマージュなのだろうけど、『大脱走』もまたナチスの捕虜収容所から脱走する連合国軍の兵士たちを描いていた。
このシリーズは一貫して抑圧や差別との戦いを描いてきたんですね。
そしてシーザーは、まるでこれまで死んでいった者たちへの贖罪のようにエイプたちの安住の地を目の前にして息を引き取る。
シーザーは理想的なリーダーで皆から畏れられ慕われる英雄として描かれてきたが、復讐に燃えていた男は最後には再び群れのリーダーとして死ぬ。彼の死をもってこのシリーズは完結した。
エイプたちが最後にたどり着く緑に溢れた自由と平和の地は、人の心の中にある理想郷なんだろうと思う。
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