デミアン・チャゼル監督、マーゴット・ロビー、ブラッド・ピット、ディエゴ・カルバ、リー・ジュン・リー、ジーン・スマート、ジョヴァン・アデポ、オリヴィア・ハミルトン、エリック・ロバーツ、ルーカス・ハース、フリー、マックス・ミンゲラ、キャサリン・ウォーターストン、トビー・マグワイアほか出演の『バビロン』。2022年作品。R15+。

 

1926年、ハリウッドの豪邸でのパーティで薬物の過剰摂取で死亡した若手女優の代わりに映画の仕事を得たネリー、映画界で働くために奔走するメキシコ移民のマヌエル(マニー)、サイレント時代からの映画スターのジャック、映画界に引き抜かれた黒人ジャズトランペッターのパーカーなど、トーキーの初期を舞台に「映画」の世界に生きた者たちを描く。

 

ネタバレがありますので、これからご覧になるかた(象の肛門から始まって糞尿やゲロも出てくる汚い映画──チャップリンのイチモツの大きさがどうとか言ってたな^_^;──なので、食事しながらの鑑賞は控えられた方がいいですが)はどうぞ鑑賞後にお読みください。

 

セッション』『ラ・ラ・ランド』『ファースト・マン』のデミアン・チャゼル監督の最新作。

 

NOPE/ノープ』『エンドロールのつづき』、それから3月3日公開予定のスピルバーグ監督による『フェイブルマンズ』と、ここのところ「映画についての映画」が立て続けに作られてますが、こちらもトーキー草創期のハリウッドを描いた同種の作品。

 

チャゼル監督作品については、これまでの3作は僕はどれも好きだったので全面的に信頼しての鑑賞。

 

一方で、彼の作品があまり好みではない、苦手、ハッキリ言って嫌い、というかたも結構いらっしゃるようで、それも映画に詳しいかたがた、特に往年の作品に強い思い入れのあるかたたちの中にチャゼル監督作品に引っかかりを覚える、ある群が存在するようで。

 

もちろん、作品や監督の好き嫌いは誰にだってあるだろうし、そんなの人の自由ですが。

 

僕はこの監督の作品を必死に擁護したい、というほどファンというわけではありませんが(自分に自信がない言い訳)、これまでの3本はどれも楽しんできて不満はなかったから、少なくとも僕には彼の映画を貶す理由はないなぁ、と思ってますが。

 

クララ・ボウをはじめサイレント時代に活躍した複数の女優たちをモデルにしたというネリー・ラロイ役のマーゴット・ロビーは、去年も第二次大戦前を舞台にした『アムステルダム』にも出演していましたが、ほんとに当たり役が続いてますね。

 

 

 

 

 

 

『アムステルダム』でも元気いっぱい、というか元気が有り余ったようなハイで生き急いでいるみたいな奔放な女性を演じていたけど、まるで素のようなハマりようだったし、今回はさらにそれに輪をかけたような“ブッとびガール”を怪演。

 

ネリーのキャラクターが、ほとんどマーゴット・ロビーの持ち役である“ハーレイ・クイン”そのまんまなのには笑った。

 

 

 

マーゴット・ロビーが素晴らしいのは、ただ型破りなだけではなくて、彼女が演じる女性たちが抱える劣等感や悲しみも見事に表現していること。

 

アイ, トーニャ 史上最大のスキャンダル』でもそうだったように、家庭環境が原因で必要な知識や経験、愛情などを充分に得られず、そのためにいろんな部分が欠落していて問題行動を起こしてしまう、でも、本当は本人には優れた才能や人を想う気持ちもある、それを正しく表わす方法を学べなかったために結果的に身を持ち崩していく…そういう人物を説得力たっぷりに演じてみせる。

 

ここ最近のマーゴット・ロビーの出演作の選択には、ある種の法則性というか本人の強い意向のようなものを感じるし(プロデュースを兼ねる場合もあるし、『プロミシング・ヤング・ウーマン』のように本人は出演していない作品で製作を担当することも)、きっと聡明な人なのだろうけど、映画を観ている間は演じてる役柄があたかも彼女自身のように思えるんですよね。

 

今年公開予定のグレタ・ガーウィグ監督の『バービー(原題)』ではタイトルロールのバービーちゃんを演じるし(お相手のケン役はライアン・ゴズリング)、めちゃくちゃトバしてますよねw

 

あいにく今年のアカデミー賞には引っかからなかったけど(『バビロン』は作曲賞、美術賞、衣裳デザイン賞でノミネート。マーゴット・ロビーはこれまで『アイ, トーニャ』で主演女優賞、『スキャンダル』で助演女優賞にノミネートされている)、彼女からは溢れるような才気と気迫を感じる。物凄く(揶揄の意味ではなく)「意識高い人」なんだろうと思う。

 

仮に賞レースに無縁であったとしても、彼女は確実に未来に残っていく作品を創り続けているし、その中に彼女自身をしっかりと刻み込んでいる。

 

これからも追っていきたい人です。

 

ブラッド・ピットの演技も好評ですね。

 

 

 

 

僕はブラピは90年代に『リバー・ランズ・スルー・イット』で初めて彼の存在を意識して以来、特別好きでも嫌いでもないんですが(笑)ここのところ『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』や『ブレット・トレイン』で彼が演じた役柄や作品自体への疑問などから(彼の演技力の問題ではなく)正直あまり良い印象がなかったのが、この『バビロン』でブラッド・ピットが演じる“映画スター”ジャック・コンラッドはまさしくブラピ本人が重なる役柄で、そのジャックの哀しみに実感がこもっていたし(酒呑み続けて本番でも足もとフラついていたり、どこか成り行き任せで捨て鉢なところなど最近の出演作品での役柄の延長線上ではあるものの)終盤でのジャーナリストとのあるやりとりにはいくつもの階層のリアリティが混在していて、こちらもオスカーにノミネートは成らなかったですが久しぶりにブラッド・ピットの演技を「いいなぁ」と思ったのでした。

 

実質この映画の主人公といえるマニー役のディエゴ・カルバはアメリカ映画初出演ということだそうで僕は初めて見る人ですが、観客は撮影現場で走り回るちょっと加藤雅也似な男前の彼の視点でこの映画を観ることになる。

 

 

 

 

映画のアシスタントから重役に上り詰めていくマニーはおそらくチャゼル監督の分身的人物で、彼の焦燥や映画への想いなどは、監督自身のそれが投影されているんじゃないだろうか。

 

いや、デミアン・チャゼル監督の映画界での輝かしいキャリアは少年時代にメキシコから家族とともに渡ってきてまだ何者でもない下積みから始めたマニーとはまったく違うけれど、自動車で10分もあれば会える場所に住んでいるにもかかわらず「家族とは会うことはない」と言うマニーには、それ以上詳しくは語られないけれどチャゼル監督のこれまでの人生が重ねられているのではないかと勝手に想像してしまう。

 

以前は家族に煩わしさを感じていたらしいマニーは、ラストでは妻と子どもがいる。

 

しかし、マニーには想い出深い撮影所も一緒に訪れた幼い娘には退屈で、マニーは妻と娘を先に行かせて自分は映画館で『雨に唄えば』を他の大勢の観客たちと観る。

 

 

この辺の“家族”との以前から変わらない距離感(普通、観光の途中で妻と幼い娘を置いて独りで映画なんて観るだろうか)はちょっと印象に残るものだったし、ラストの数多くの映画のショットのコラージュに込められたものからもわかるように、あそこで涙を流すマニーは監督自身でしょう。

 

だから、あのマニーの涙にノれるかどうかでも、この映画の好みは分かれるでしょうね。

 

僕は独り身ですし(だからいつ何時独りで映画を観ようが自分の自由。たとえ劇場で大勢の観客の中で観ていても「映画」とは常に1対1の付き合い)、ああいう「映画」への一方的な“愛”の表現には問答無用でウルッとキてしまう性分なので、あのラストは心地よいひとときでした。

 

せっかく助けてチャンスを与えたのに、毎度のようにネリーがその期待を裏切るものだからマニーがそのたびに見せる口を半開きにして呆然とする表情がいつも同じなので少々ワンパターンに感じてしまうところがあって、そこはもうちょっと彼の反応に変化をつけられなかったのかな、とは思いましたが、でもディエゴ・カルバさんは好演していたし、ぶっとんでるあとの二人と比べると真面目でまともなマニーが結局は映画の世界から足を洗って別の仕事に就いたというのがなんとも皮肉ではある。

 

 

さて、デミアン・チャゼル監督の映画って、僕のように「面白かった」と言っている人たちもいる一方で、先ほども述べたように彼の作品を忌み嫌う人たちも一定数いるようで、オスカーの監督賞も獲った『セッション』もぶっ叩いてるジャズミュージシャンがいたし、『ラ・ラ・ランド』も同様。特にこの『バビロン』はSNSでも絶賛してる人よりも酷評してる人の方をよく目にする。

 

ちょっとこのあたり、僕にはちゃんと分析・考察する能力も文章力もないので説明が難しいし、以下の文章も何が言いたいのか理解していただけないかもしれませんが、どうもチャゼル監督の作品が嫌いな人たちは彼が「映画」のことをちゃんとわかってないんじゃないか、彼の作品は「まがいもの」なんじゃないか、と言っているような、そんなふうに僕には受け取れるんですよね。

 

で、映画の後半で、ネリーがマニーの計らいで上流階級の金持ちたちのパーティに潜り込んで「いいとこ」の令嬢を演じようとするものの、育ちの悪さを見透かされてからかわれ、ついにブチギレて大暴れする場面があるんだけど(ゲロも盛大に吐きまーすw)、あそこは僕にはデミアン・チャゼルの「映画通」たちへの怒りを表現したものに思えたんですよ。

 

シェフ 三ツ星フードトラック始めました』でジョン・ファヴローはシェフの口を借りて「評論家」に怒りをぶつけていたけど、ちょっとそれを思い出した。

 

マニーはマニーで本名の「マヌエル」という名前を隠して、メキシコ出身にもかかわらず自分をスペイン人だと偽る。

 

そうやってなんとかハリウッドに溶け込もうとするが、ネリーの借金の尻拭いをするために会いにいったギャングに追われる羽目となり、ロサンゼルスから退散する。

 

ギャングのボスをなぜか元スパイダーマンのトビー・マグワイアが演じていて「なんで?(;^_^A」って思ったんだけど、あのマニーの「地獄めぐり」のくだりはちょっとデヴィッド・リンチっぽかったし(エレファント・マンみたいなのもいたし、ギレルモ・デル・トロ監督の『ナイトメア・アリー』のニワトリ喰いの“ギーク”みたいにネズミを食う筋肉男もいた)、そういえばリンチの映画にインスパイアされたようにハリウッドの裏側(?)を描いた『アンダー・ザ・シルバーレイク』では、これも元スパイダーマンのアンドリュー・ガーフィールドが主役を務めていた。

 

『アンダー・ザ・シルバーレイク』は「悪夢版ラ・ラ・ランド」とも呼ばれていました。

 

何か関係があるのか、それともただの偶然か知らないけれど面白いですね。

 

マニーもネリーも、お高くとまった人々の仲間入りをしようとして失敗する。

 

当然ながらチャゼル監督のほんとの意図はわからないけれど、この作品の中でネリーのことを「まがいもの」呼ばわりして嗤う者たちはデミアン・チャゼルの映画を見下して嘲笑う者たちのことなんじゃないかと思いながら僕は観ていました。

 

ただ、ブラピ演じるサイレント時代の“映画スター”ジャックがジャーナリストのエリノア(ジーン・スマート)から「あなたの時代は終わった」と引導を渡されて、「何か大きなものの一部になる」という偉業を成し遂げたことは特別な、感謝すべきことなのだ、と言われる場面で、たとえ「クソ映画」だろうとなんだろうと、自分が作ったものが残って後世の誰かの目に触れること、その素晴らしさについて登場人物に語らせることで、チャゼル監督は「映画」を作る側である自らの存在意義を再確認してみせたんじゃなかろうか。

 

 

 

 

それは、過去の多くの映画たちとそれにたずさわった人々のことでもある。そして、これから作られる映画も。

 

物語の中で『雨に唄えば』が採り上げられているのはミシェル・アザナヴィシウス監督のオスカー受賞作『アーティスト』を思わせるし、ジャックのエピソードはあの映画にかなり似過ぎてもいる。

 

サイレントからトーキーへの移行期にうまくいかず人気が凋落した映画スターは実際にいたわけだから、2つの映画が似ているのは別におかしくはないのかもしれないけど、さすがにオリジナリティが高いとは言えない。

 

これまでのチャゼル監督の作品は一人、もしくは一組のカップルが主人公で、彼らにずっと寄り添うような形で、また描かれる世界も狭く限られていたために物語をジッと見つめ続けられたのが、今回は主要登場人物が3人、さらにトランペッターのエピソードも加わっていたり登場人物の数も多く、だから一見“群像劇”っぽいんだけど、のちにMGM(メトロ・ゴールドウィン・メイヤー。『雨に唄えば』はMGM作品)で活躍するプロデューサーのアーヴィング・タルバーグ(演じているのは『ソーシャル・ネットワーク』のマックス・ミンゲラ)とか、この映画を観ているだけではなんのために出てきたのかわからないし、ジャックの最初の妻を演じているオリヴィア・ワイルドはほんのワンシーンの出番だし、『mid90s ミッドナインティーズ』のキャサリン・ウォーターストン演じるジャックの何番目かの妻も悪者扱いされてジャックにキレられて退散するだけの役柄だし、『スリー・ビルボード』のサマラ・ウィーヴィング演じるネリーのライヴァル女優もほとんど話に絡んでこない。群像劇としての面白さはあまりない。

 

これまでの作品に比べてシナリオがとっ散らかってるような印象を受けた。

 

“バビロン”だから、わざとそういう内容にしたんだ、ってことかもしれませんが、3時間ある映画で結局物語にかかわるのはごく限られた人数だ。

 

 

正直なところ、これまで観た4本のデミアン・チャゼル監督作品の中では個人的な順位は一番下ですね。これまでの3本が僕はわりと好きだっただけに、今回はそこまでの思い入れは持てなかった。

 

でも、面白かったし、観てよかったですよ。チャゼル監督の次回作も楽しみにしてます。

 

映画をハシゴした2本目にもかかわらず、眠くもならず尿意ももよおさず、長くも感じなかったし、ラストの映画のコラージュにはかなりの唐突感を覚えたものの(だって、『マトリックス』や『アバター』まで映し出されるんだもんねぇ。あの場面は時を超えていく「映画」というものを表わしていたんだと解釈しましたが。先月観た『エンドロールのつづき』でも『2001年宇宙の旅』をリスペクトしてたけど、何かクリエイターたちに天啓のようなものを与えたのかな。あれは人類の進化についての映画だったんだもんね)、それでも「映画」についての「映画」、今観ているこの映画もまた「映画史」の中に収められる「何か大きなものの一部」なんだ、って感覚を劇中のマニーとともに味わうことができた。

 

映画に詳しい人たち、映画の「良し悪し」を判別できる鑑識眼を持つ人たちがどう評価するかはわからないけれど、でも一つだけ言えるのは、僕はこの映画がけっして嫌いじゃないってことだ。

 

 

※その日はロバート・デ・ニーロ、ロビン・ウィリアムズ主演の『レナードの朝』と続けて観ました。

 

関連記事

『ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 

↑もう一つのブログでも映画の感想等を書いています♪

 

にほんブログ村 映画ブログへ にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ