グレタ・ガーウィグ監督、マーゴット・ロビー、ライアン・ゴズリング、アメリカ・フェレーラ、アリアナ・グリーンブラット(サーシャ)、ケイト・マッキノン、シム・リウ、キングズリー・ベン=アディ(ケン)、スコット・エヴァンス(ケン)、イッサ・レイ(大統領バービー)、エマ・マッキー(ノーベル物理学賞受賞バービー)、ハリ・ネフ(医者バービー)、アレクサンドラ・シップ、マイケル・セラ、エメラルド・フェネル(妊婦人形・ミッジ)、ウィル・フェレル、リー・パールマン(ルース・ハンドラー)、ヘレン・ミレン(ナレーター)ほか出演の『バービー』。

 

ピンクに彩られた夢のような世界「バービーランド」。そこに暮らす住民は、皆が「バービー」であり、皆が「ケン」と呼ばれている。そんなバービーランドで、オシャレ好きなバービー(マーゴット・ロビー)は、ピュアなボーイフレンドのケン(ライアン・ゴズリング)とともに、完璧でハッピーな毎日を過ごしていた。ところがある日、彼女の身体に異変が起こる。困った彼女は世界の秘密を知る変わり者のバービー(ケイト・マッキノン)に導かれ、ケンとともに人間の世界へと旅に出る。(映画.comより転載)

 

ネタバレがあります。これからご覧になるかたは鑑賞後にお読みください。

 

レディ・バード』『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』のグレタ・ガーウィグ監督と『アムステルダム』『バビロン』などのマーゴット・ロビーがタッグを組んだ、マテル社の玩具・バービーを主人公にした話題作で、すでに世界中で大ヒットしている。

 

一方で、中東のいくつかの国やヴェトナムなどでは上映中止の措置がとられていたりもする。

 

SNSのX(旧・Twitter)でクリストファー・ノーラン監督、キリアン・マーフィ主演の『オッペンハイマー』と絡めた「#Barbenheimer」として投稿、拡散されたファンアートの件、それに対する『バービー』の公式アカウントによる無思慮、無神経な内容のリプライと、その後のワーナーブラザース(『バービー』の製作・配給会社)の不誠実な対応などに個人的に憤慨しており、「#NoBarbenheimer」のハッシュタグで一連の行為への批判を呟きました。

 

 

 

 

 

 

この一件を不快に感じて“映画『バービー』は観ない”という選択をされたかたがたについては、それも一つの意思表明、抗議の形であって、すべては映画の送り手に責任があり、彼ら自身が招き寄せたことなのだから、そういう反応があるのも致し方ないと思います。

 

多くの日本のかたがたが批判の声をあげたことに、ちょっとホッとしてるところもある。これがスルーされて何事もなかったかのように誰も何もこのことに触れないような結果になっていたら、その方が絶望的だったから。

 

僕自身は本件の発生後、憤りを覚えつつもそれでも観にいくつもりでいました(現在、日本公開がまだ決まっていない『オッペンハイマー』も、もしも上映されることが決定したら観ようと思っています)。映画の制作にかかわった人々と今回の件は直接は関係がないから。

 

お断わりしておくと、僕自身が「批判」しているのは一連の「#Barbenheimer」関連のことについてであって、映画『バービー』と『オッペンハイマー』の存在自体を否定したり上映に反対しているわけではないし、ボイコットを呼びかけているのでもありません。

 

この件に関しては言いたいことはいっぱいありますが、映画『バービー』の感想と無関係な文章になってしまうのでここでこれ以上は語らないし、言うまでもなく『バービー』の映画自体は原爆ともオッペンハイマーともなんの関係もないので、文章の最後にまたちょっとだけ触れますが、感想そのものはあくまでも映画の内容に即したものです。

 

日本語吹替版でバービー/マーゴット・ロビーの声を担当された高畑充希さんが本件についていち早くSNSで意見を発信されていましたが、心から尊敬します。しっかりとご自身の思いを言葉にされていたことを称えたいです。それにひきかえ…。

 

…とか言いながら、僕が観たのは字幕版なんですが^_^; すみません、まずはマーゴット・ロビーやライアン・ゴズリングご本人たちの声を聴きたかったので。

 

あらためて吹替版の方も観たいと思っていたんですが、まだ公開から1週間ちょっとしか経っていないにもかかわらず、上映回数が激減していて、僕が住んでいるところではすでにほとんどのシネコンで字幕版が一日2回、吹替版はたったの1回。

 

しかも、吹替版はどこも24日(木) には上映終了と告知されていて、「…ええっ!?」と。早過ぎじゃないですか?公開始まったの11日(金) ですよ?

 

あんだけみんなで大騒ぎしたのに(って騒いでたのは俺もですが)、もう打ち切り??

 

世界中で大ヒット!というのが嘘のような扱いですな。潰されちゃったんだろうか。

 

僕が観た字幕版はそこそこお客さんは入ってたけどなぁ。

 

というわけで、残念ながら時間の都合がつかず、吹替版は観られなさそう…。

 

…さて、ともかく気を取り直して映画の感想ですが──

 

バービー人形が人間の世界に来て、完璧だと思っていた自分や自分が住む世界が実は世の中のさまざまな人々にプレッシャーを与えたり彼らを抑圧することにもなっていたのを知って、意識が変化していく。その過程でかつて自分が住んでいた世界をも変えていく…そういうストーリー。

 

 

 

 

まず、この映画をフェミニズムへの嫌悪から叩くのも、反対に妙に持て囃すのもどちらも僕には違和感があるというか、ピンとこないなぁ、という気持ちです。

 

いや、無論、酷評するのも絶賛するのも人の自由ですけど。

 

ポップな「おバカ映画」を観てるつもりだったのが、ちょっと真面目な気分になる…そんな映画でしょう。そこに意外性と面白さを感じられればいいんだろうな。

 

この映画の監督をグレタ・ガーウィグさんが務めて、主演がマーゴット・ロビーさんであることがわかった時点でフェミニズムの要素がガンガンに入りまくっているだろうことは予測できたし、バービー人形自体にはもともとなんの興味もない僕がこの映画を観ようと思ったのも、フェミニズムの要素を期待したからでした。

 

僕には女のきょうだいがいなくて女児向けのお人形のオモチャは身近じゃなかったんだけど、そういえば従弟(♂)が幼い頃になぜかリカちゃん人形を欲しがって与えられていた。

 

リカちゃんとかジェニーはTVでCMをやってたのを見たことがあるぐらい。そっか、タカラバービーというのもあったんだな。

 

バービーとケンといえば、ピクサーアニメの『トイ・ストーリー3』に結構大きな役で出ていて、あの映画での彼らの存在は今回の実写版『バービー』を観る際にかなり参考になったというか、あの作品があったからこそ、この『バービー』をより抵抗なく観られたんだと思います。

 

『トイ・ストーリー2』でのカウガール人形・ジェシーと持ち主のエピソードは、バービーと彼女の持ち主とのそれとダブるし、オモチャたちを描いた「トイ・ストーリー」シリーズは映画『バービー』の道しるべになってくれていた。

 

 

 

 

一方で、この『バービー』の中で人形だったバービーが最後に人間になる、という結末に不満を覚えたり、バービーちゃんとケンの夢のような世界でのもっとキラキラなラヴコメを期待していた人たちが「これじゃない」感を抱えて帰ることになったこともさまざまな感想から知りました。

 

なんで“バービー”の映画でこんな話をやる必要があるの?と疑問を感じたかたがたがいたということですよね。

 

その反応を観て、僕が大好きな『トイ・ストーリー4』を嫌ってる人たちのことを思い出しました。

 

僕は『トイ・ストーリー4』を傑作だと思っていますが、最後に主人公のウッディがオモチャという存在を超えてまるで人間のように自らの意志で自分の生き方を選ぶラストが気に入らなかったという人々と、今回の映画でやはり人間として生きていくことを選択したバービーにがっかりしたという人たちは重なるよなぁ、と。

 

映画『バービー』を絶賛している人々は、「なんで“バービー”の映画でこんな話をやる必要があるの?」どころか、「“バービー”の映画」でこういう物語をやることにこそ大きな意味があると感じたのだろうし、僕もそう思います。

 

オモチャとか人形は、それだけで独立した存在で、オモチャや人形であることに意味や意義があるのだから、人間になる必要なんかないんだ、と考える人々が一定数いて、そういう人たちにとって『トイ・ストーリー4』や『バービー』は夢の世界を壊す、野暮でつまらない作品として映るのかもしれない。

 

たとえば、スーパーヒーロー映画で主人公がウジウジ悩み続けたり、悪役にもいろいろと事情があって…などと、なんだか歯切れの悪い話が延々続くと僕がイライラするのと似たようなものかも。あー、もうリアルな世界の話とかどーでもいいからスカッとする勧善懲悪を思いっきりやってくれよ!!と。

 

だからもしかしたら、映画『バービー』はバービー人形になんの思い入れもない僕のような人の方がむしろ楽しめるかもしれませんね。

 

“人形”としてのバービーに個人的に大切な想い出や深い愛着があればあるほど、違和感や嫌悪感が募ってしまう場合もあるのかな。『トイ・ストーリー4』を蛇蝎のごとく嫌う人たち、「駄作」呼ばわりする人々が僕には理解できなくてうんざりしていたんですが、彼らも『バービー』がイマイチ、と言ってる人たちの気持ちに近いのかもしれない。

 

ちょうどスーパーモデルを溜め息交じりに見上げるような、「憧れ」としてのバービーを愛する人たちは、バービーには口臭やセルライトなど無縁でいてほしいし、彼女に生々しい人間になどなってほしくないのだろう。

 

このあたりの「人形」に求めるものの違いで、人によってはどこまでも評価が噛み合わないんだな。

 

一方で、もっともっと生々しい現実の世界を描いてほしかった、という意見もあって、つまり先ほどの不満を述べていたかたがたとはまた別の理由で「物足りなかった」と言ってるんですね。

 

この映画で描かれたリアルワールドはデフォルメされ過ぎててちっとも「リアル」じゃない、と。だからガツンとくることもなかった、という評価。

 

僕自身はこの映画を楽しんだし肯定的に受け取っていますが、作品の内容に深くのめり込んだり感動に震えた、というよりも、以上に挙げたようにこの映画に対する他の皆さんの反応、ご意見を読んで、作品を通して自分とは異なる視点や価値観、考え方を知れて興味深かったです。

 

冒頭の『2001年宇宙の旅』のモノリスのシーンのパロディで、女の子たちに破壊される赤ちゃん人形の姿を見て憤慨している人がいたり、「プロテインで作った偽筋肉」という台詞に「それを言うならステロイドだろ。いつの時代の認識なんだよ」とキレてるかたもいたり、いろんな方向からのツッコみ方があるのだなぁ、とw

 

 

 

ある時、「死」というものを意識して、まるで天国のようだった「バービーランド」や自分自身への疑問が生じたバービー(マーゴット・ロビー)は、おまけでついてきたケン(ライアン・ゴズリング)とともに人間たちのリアルワールドに向かう。

 

かかとが地面について大騒ぎのバービーたち

 

 

 

 

到着した現実の世界でケンとともにド派手な衣裳で歩いていたバービーを工事現場の男たちが「パツキンねえちゃん」と囃し、彼女の尻を叩く者も。驚いてとっさにその男をぶん殴るバービー。

 

ちょっとギャグっぽく表現しているけど完全なセクハラの場面で、もちろん映画の作り手は観客を笑わせるために描いているのではなくて、これは夢の世界「バービーランド」から来たバービーがいきなり性的な暴力に遭う場面なんですよね。

 

先日、韓国出身のDJの女性がイヴェント中に客の男たちに胸を触られて、警察に届け出てつい先ほど犯人たちが出頭してましたし、中国から来たユーチューバーの女性が電車の中でお尻を触られたことも報じられていました。

 

スタジオジブリでの監督作品もある人物が被害者のDJの女性のことをTwitter(Xだとわかりにくいし、イーロンなんとかへの抵抗の意味も込めて今後も従来通りこう表記します。ブロック機能を廃止するだと?バ○かテメェ)で「公開美人局」呼ばわりしたり「あんな衣裳で客に近づく方が悪い」などと誹謗中傷する者たちもいて、直接的な性暴力だけでなく、その被害者への二次加害も本当に酷い本邦ですが、だからこそ『バービー』でのあの尻叩きには笑えない。

 

現実の世界では男たちが支配していて、またティーンの女の子たちからは「あなたのせいでフェミニズムが50年遅れた。このファシスト!」と罵られて落ち込むバービー。

 

 

 

ところが、ケンの方は、今まで自分のことなど気にもされてないと思っていたのが、現実の世界では男たちは馬と一緒に好きなことをやって人生を謳歌しているように見えたのだった。

 

女vs男、という対立構造をあえて作って、そこから両者の和解、真に理解し合って協力し合いながら共存していく道を探ろうとするのは、ヴァレリー・ファリス&ジョナサン・デイトン監督、エマ・ストーン主演の『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』を思い出します。

 

あの映画も、女と男の闘いを描いているようでありながら、男性たちの中にある性差別意識を炙り出して、両者が手を取り合う未来を目指すような物語でした。

 

ただ女性が男性を叩きのめして溜飲を下げるような内容ではない。

 

『バービー』を観た日本の某漫画家が「男女の分断を煽る映画」として息巻いてツイートして顰蹙を買ってましたが、さっきの性暴力二次加害者のアニメ監督といい、よーするにこの国で「クールジャパン」とかいうのを担っている者たちがいかにアップデートが遅れた旧世界の怪物であるかということが露呈してしまっている。彼らの支持者、擁護者たちも似たようなレヴェルだとすれば、なかなか救いようがないですな。

 

日本の男性たち(当然、僕も含まれますが)は、「人権」というものについて今すぐにでも真剣に学び直さないとヤバいんじゃないだろうか。

 

少し前に、自分たちをレイプする男たちから逃れて村を出る女性たちを描いた『ウーマン・トーキング 私たちの選択』を観ましたが、重なるところがありますよね。また、「バービーランド」を「天国」とすれば、これは聖書の「アダムとイヴ」の話を変形させたものにも思える。

 

もはや絶対的な“神”などいない天国「バービーランド」で、堕天使となったケンは反乱を起こして「ケンダムランド」(イイ具合に頭が悪いネーミングがw)を打ち建てるが、やがて男同士のマウンティング合戦に明け暮れて、その隙に人間界から戻ったバービーの計略で脆くも支配力を失う。

 

グラサンかけてフェイクミンクを羽織ったケン。グラサンは2重にしてかけます。

 

ケン軍団

 

おそらくはくだんの漫画家先生はこのあたりで「男をコケにしやがって!」と頭に血が上って、そのあとの展開をまともに観ていなかったんだろう。ちゃんと観ていてあの理解力だったのなら、正常な読解力を取り戻すまでは創作活動を控えられた方がよろしいのではないかと。

 

コメディなんだから笑って観てりゃいいのに。そんで痛いところを突かれて「あぁ…」って胸に手を当てて自分を省みるんだよ。

 

『バービー』は「おバカ・コメディ」の体裁をとりながら、描いているのは大真面目なことだ。

 

女性の役割とか男性の役割とか、そういう枠を勝手に作らず、互いへのリスペクトを忘れないことの大切さを訴えている。

 

バービーはケンの付属物ではないし、ケンもバービーの付属物ではない。聞いてますか、某アニメ監督と某漫画家先生。多分、あなた方はそれがわかっていない。

 

ケン(男性たち)が何者なのかは、君たちが自分で探してね。私(バービー改め、“バーバラ”)は私(人間)という個人として生きていくから。…そういう宣言なのでしょう。グレタ・ガーウィグとマーゴット・ロビーからの。

 

劇中でバービーが「私は綺麗じゃない」と言うとナレーターのヘレン・ミレンが「マーゴット・ロビーが言っても説得力がない」とツッコむんだけど、ヘレン・ミレンだって若い頃にはヌードも披露していた美人女優だったんだし、監督のグレタ・ガーウィグだってやはり金髪の美人さんだ。

 

見た目だけで判断される(中身に興味を持たれない)、という不快感は昔ながらの金髪美人として造形されているマーゴット・ロビー演じる“定番バービー”と通じるものがあるのでしょうが、彼女たちの苦しさとは別に、そんな昔ながらの「美」に憧れて、しかし現実の自分との違いにコンプレックスを持つようになったもう一人のヒロイン、アメリカ・フェレーラ演じるマテル社の社員・グロリアが登場して重要な役割を担う。

 

アメリカ・フェレーラはホンジュラスにルーツを持つ人なので、金髪碧眼の白人以外の人の視点からも描いてますよ、と。

 

アメリカ・フェレーラは好演していたし、グロリアが心情を吐露する場面に共感した、という人もいらっしゃるけれど、あくまでもこれは白人のヘテロセクシュアルのシスジェンダー女性の立場で描いた物語で、男性の俳優も同性愛者やトランスジェンダーの俳優も、非白人の俳優も出演してはいるけれど、彼らについて深く掘り下げられることはない。

 

 

 

「有害な男らしさ」への警鐘を鳴らすことにとどめている。まぁ、それこそが世の中で一番と言っていいほど問題を引き起こす元凶なのだから。

 

男性はこの映画を観て怒る必要などない。ただし「有害な男らしさ」については自覚すべきだろう。あのアニメ監督や漫画家がやったことは、まさにその「有害な男らしさ」の発露に他ならない。

 

この映画が説教臭い、と感じた人がいるのはわかるけれど、グロリアによる女性として生きていくことの大変さの愚痴のようなものから、だんだんそれが自己主張へ変わっていくあの「演説」の場面は、ああやって「言葉」にして外に出すことでより自分の考えを自分自身でまとめたり理解する助けになるし、他者にそれを伝えることで現状を変えていくきっかけともなる、ということを伝えている。

 

「私は定番だから」と、考えたり自己主張することをやめていたバービーが自分で自分の言葉に「今喋ったの、私?」と驚いたように、言葉を飲み込んで黙って耐え続けたり諦めてしまうのではなく、語ろう、と。

 

『レディ・バード』が監督の自伝的な映画であったように、また『ストーリー・オブ・マイライフ』も主人公のジョーにガーウィグ監督は自分を重ねていたように、グロリアと娘のサーシャには監督自身が重ねられているのだろう。ケイト・マッキノンが演じる「変てこバービー」にも絶対自分が投影されてるはず。

 

何かと開脚しまくる“変てこバービー”

 

ナイル殺人事件』に出演していたエマ・マッキーがノーベル物理学賞受賞バービー役で出てるけど、『ナイル~』の感想で「マーゴット・ロビーに似てる」と書いたところ、どうやら僕以外の人たちもそう思ってたようで(笑) だから『バービー』のシナリオにも二人の顔が似てることをイジる台詞があったんだけど、でも彼女たちが並んだら(劇中での髪の色が違うこともあって)思ったより似てなかったので、その台詞はボツになったのだとか。

 

喧嘩するケン(シム・リウ)とケン(ライアン・ゴズリング)を仲裁するバービー。左端にはエマ・マッキー演じるバービーも。

 

実際に共演してみると、エマ・マッキーさんがマーゴット・ロビーのパチモンみたいに見えてしまって少々気の毒^_^;

 

廃番になった妊婦の人形・ミッジを演じているのは『プロミシング・ヤング・ウーマン』の監督のエメラルド・フェネル(マーゴット・ロビーは『プロミシング~』でプロデューサーを務めている)。

 

フェネル監督はもともと俳優で、『インディ・ジョーンズと運命のダイヤル』のヒロイン役で脚本家でもあるフィービー・ウォーラー=ブリッジと親友ということなので(Wikipedia情報)、そのあたりでも横の繋がりがあるんだなぁ。

 

あえて妊婦人形を出したように、この映画では別に赤ちゃんを産んで母親になることを否定していないし(だから、冒頭の赤ちゃん人形の破壊が母親になることを否定しているわけではない)、ラストでバービーが婦人科に行くのは、「性器がない」人形だった彼女が生身の人間、女性となったということを表わしているんでしょう。

 

「死」というものを意識したからこそ、今この瞬間を「生きている」ことを実感できる。

 

グレタ・ガーウィグが描き続けていることは一貫している。

 

どんな人生を歩むのかは自分で決める。「わたし」が、「あなた」が、尊重される世界。

 

「バービーランド」のあるべき姿だ。

 

さまざまに語り合いたくなる映画だし、ガーウィグ監督が彼女が見える範囲からなるべく広く世界を見渡そうとしているその姿勢は支持したい。

 

だからこそ、かつてあなたが住む国が落とした爆弾で極東のある国の多くの人々の命が奪われたこと、それがどれほど酷いことなのかを理解してほしいし、その虐殺行為をネタに盛り上がるようなことがどれだけ犠牲者の尊厳を踏みにじっているのか、自覚していただきたいのです。

 

 

 

 

第96回アカデミー賞、歌曲賞受賞。

 

 

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