10月に観た新作映画は7本、旧作が7本でした。

 

秘密の森の、その向こう

 

 

ドライビング・バニー』『裸のムラ

 

 

 

  スペンサー ダイアナの決意』『プリンセス・ダイアナ

真ん中の映画はあいにく観ていませんが、なかなか壮観な並び

 

 

 

ダイアナ元英国皇太子妃についての、1本はフィクションを含む劇映画、もう1本はダイアナさんとチャールズ皇太子の成婚のニュース映像やパパラッチの撮影した映像、一般人によるヴィデオ映像などを繋げて作ったドキュメンタリー。

 

2本併せて観ることで、それぞれの映画がより深く理解できて、ダイアナという生身の「いち女性」により親近感が湧くと同時に彼女の脆さや弱さにも触れることになって、映画を観ながらふと我に返って「なぜ彼女はあのような苦しみを味わわなければならなかったのか」という疑問に苛まれもした。

 

ダイアナ・スペンサーは特殊な環境で生まれ育ち特別な人生を送った、僕などとは無関係な世界の人なのだろうか。

 

でも、彼女が世界中の人々から愛されたのは、何事も不都合な事実は見て見ぬふりをしてやり過ごし、伝統と格式を重んじる王室の中で「自分らしく」あろうとした姿が共感されて支持されたからだろうし、一方では彼女を追いつめ死に至らしめた原因の一つは、明らかに人々のミーハーで執拗な覗き見趣味でもあった。過剰なTV報道やパパラッチによる追跡は、それを人々が求めたからだ。

 

同じ島国の日本でも、皇室関連で似たようなことやってますけど。

 

ドキュメンタリーの『プリンセス・ダイアナ』を観ていて、やはり今年ドキュメンタリー映画が日本で公開されたオードリー・ヘプバーンを思い浮かべていました。

 

オードリー・ヘプバーンさんとダイアナさんとは生まれ育った環境や時代も異なるけれど、2人とも英国人で若い頃にはバレリーナを目指していたし、子どもの頃に両親が離婚して母親に引き取られていて、自身も離婚を経験(ヘプバーンさんは2度)、息子が2人いて晩年に社会活動を行ない、いずれも90年代に亡くなっている。

 

ダイアナさんがご存命なら今年61歳で、今でも地雷除去の仕事などにかかわられていたかもしれませんね。

 

 

 

ただ、彼女が世界中の人々に愛されたのも、彼女の慈善活動が注目されたのも“プリンセス”だったからだし、心が離れた夫との間に産まれた2人の息子たちの存在も、それは彼女が英国王室に嫁いだからこそもたらされたものだった。そこはもう、運命の皮肉としか言いようがないけれど、それでもまるで狩猟用のキジのようなほとんど自由というもののない身でありながらも、ダイアナは抵抗し、自分の生き方を模索し続けた。ただ気の毒な囚われのお姫様で終わろうとはしなかった。

 

この2本の映画からそのことが強く伝わってきました。

 

長男のウィリアム王子が時折見せる上目遣いの表情が母ダイアナによく似ていて、彼女の血、その精神は息子たちに受け継がれているなぁ、と。

 

次男のハリー王子が王室から離脱する決心をした理由に、母親の存在がなかったはずがないし(メイガン夫人の影響も大きいのでしょうが)。

 

ダイアナ妃はプリンセスゆえに人々から愛されたが、その存在と生前の言動は王室の多くの矛盾を炙り出すものでもあった。彼女が亡くなった90年代末よりも、むしろ現在の方が「ダイアナ妃」という人の大きさがより鮮明に浮かび上がって見える気がする。

 

『スペンサー』(2021年作品)でダイアナ妃役を務めたのはクリステン・ステュワートだけど、わりと長身のイメージがあったダイアナ妃を身長はそんなに高くないステュワートが演じるのが最初はちょっと違和感があった。

 

 

 

でも、ダイアナの話す少し早口気味で鼻から抜けるようなクイーンズ・イングリッシュはその声も含めてご本人によく似ていたし、アメリカ人のクリステン・ステュワートが見事に英国の皇太子妃になりきっていたと思います。

 

映画の中で幻か幽霊のようなものとしてダイアナがその姿を目にする、またその名前も何度も口にするアン・ブーリンは16世紀の国王ヘンリー8世の2番目のお妃で、エリザベス1世の生母。

 

ジェーン・シーモア(劇中でダイアナからこの名前が発せられた時には、なんで急に『ある日どこかで』や「ドクタークイン」などの女優さん?と思ったけど、同名の歴史上の人物のことだった)と結婚しようとしたヘンリー8世によって国王暗殺の濡れ衣を着せられ、処刑される。

 

自分も邪魔者扱いされて殺されるのではないか、という恐れや、アン・ブーリンへの共感、同情から彼女にこだわっていくダイアナ。

 

このあたり、どれぐらい実際のダイアナさんのことを正確に描いているのかわかりませんが、アン・ブーリンが男の子が産めなくて、また浪費癖もあったため国王の心が離れたのに対して、ダイアナ妃とチャールズ皇太子の事情はもっと現代的で個人的でもあったわけで(ただし、夫が浮気性で妻の方も意趣返しや孤独から浮気をしていた。ここらへんもちょっとオードリー・ヘプバーンとカブる)、これは王室だけの問題でもない気はする。

 

人間臭い、といえばそういう意味ではダイアナ妃もチャールズ皇太子も実に人間臭いんですが。

 

だって、たとえばこういうことは日本の皇室では絶対考えられないでしょう(あったとしてもけっして表に出てくることはないはず)。

 

『スペンサー』のパブロ・ラライン監督は『ジャッキー/ファーストレディ 最後の使命』(2016年作品。日本公開17年)でジャクリーン・ケネディを描いてますが(僕は未見ですけど)、そこでジャクリーン=ジャッキーを演じていたのはナタリー・ポートマン。最近はめっちゃムキムキになってましたけどw

 

『スペンサー』の中でも、やはり似た立場の女性ということでジャッキーの名前が出てくる。

 

ナタリー・ポートマンは2008年の『ブーリン家の姉妹』でアン・ブーリンを演じているので、監督も意識してお話の中に取り入れたんでしょうかね。

 

映画『スペンサー』では、ダイアナはしばしば記憶の中の少女時代に立ち返る。

 

自分がまだ“ダイアナ・スペンサー”であったあの頃へ。

 

撃ち殺されるためだけに飼われるキジではなく、一人の意志ある存在として生きよう、と彼女が決意するまでが描かれる。

 

その後の現実での彼女の亡くなり方は象徴的だけど、優しさとともにおそらくは激しい気性も持ち合わせていたのだろうダイアナさんのその短過ぎた生涯に、ただの悲劇のヒロインでは終わらない“強さ”を感じるのです。

 

 

 

 

 

 

RRR

 

 

 

  アムステルダム

 

 

ザ・ファイター』や『アメリカン・ハッスル』などのデヴィッド・O・ラッセル監督の最新作。

 

クリスチャン・ベイル、マーゴット・ロビー、ジョン・デヴィッド・ワシントン、ラミ・マレック、アニャ・テイラー=ジョイ、ゾーイ・サルダナ、アンドレア・ライズボロー、マイケル・シャノン、マイク・マイヤーズ、マティアス・スーナールツ、テイラー・スウィフト、ロバート・デ・ニーロ…と豪華キャストがずらり。

 

今年のアカデミー賞授賞式でウィル・スミスにひっぱたかれてたあの人も。

 

きっとアニャ・テイラー=ジョイとかロバート・デ・ニーロあたりはちょっと顔出す程度なんだろうな、と思っていたら、意外と出番は多かったし、特にデ・ニーロはかなり重要なキャラクターを演じていた(テイラー・スウィフトはあっという間に退場)。

 

この映画を観始めた時点では、3人の主要登場人物たちの肌の色や性別を超えた友情が描かれていくんだと思っていたんだけど、そして確かに描かれはするんですが、次第にお話の規模がどんどんデカくなっていって、やがて巨大な陰謀劇に発展していく。

 

 

 

 

似た感じの映画を最近観た気がしたんだけど、ギレルモ・デル・トロ監督の『ナイトメア・アリー』でした。

 

あちらと比べるとこの『アムステルダム』は主人公を演じるクリスチャン・ベイルはどこかユーモラスに演出されているし、全体的に明るくてラストも人々の良識と正しい「選択」に期待する、希望を感じさせる締め方ではあるけれど、これから悲惨な戦争にむかっていく不穏な時代を舞台に、「間違った神」を信じることの危険さを訴えているという共通点がある。

 

一部の権力者と金持ちが結託して独裁者を祀り上げて人々から金を巻き上げ、彼らを戦場に送り、世界を破滅に導いていく。

 

今、民主主義に疑問を投げかけ、強権主義や覇権主義、全体主義、独裁を支持する者たちや、ウクライナで戦争を続けるロシアに追従しようとしている国も出てきているが、この映画で描かれていることによく似た状況だ。

 

「一人の命よりも国が大事」などという言葉に同調するのがどれだけ恐ろしいことか、想像力を働かせなければ。“一人の命”をないがしろにするような「国」の行く末はろくなものではない。

 

もしも現在のロシアや中国などのような国が世界で幅を利かせるようになれば、この映画の中で描かれたように黒人と白人が愛し合ったり友情を育むことさえも自由にはできなくなる。LGBTQ+も、それ以外でも時の権力者の意に沿わないものはすべて弾圧・排除される。誰もが自由を謳歌できた“アムステルダム”にも、やがてゲシュタポの手が伸びてくる。そうなってしまってからでは取り返しがつかない。

 

正直なところ、メッセージ性と映画としての物語の絡め方がうまく噛み合っていたかというとちょっと疑問なんですが、でもここで訴えられていることはスルーしてよいものではないし、デ・ニーロ演じる実在の将軍をモデルにした人物の演説は、今こそ私たちが心にとどめておかなければならない重要な戒めとして響いてくる。

 

皆さん、ぜひご覧ください。

 

 

 

 

旧作

花様年華』『2046』(WKW4K ウォン・カーウァイ4K)

 

 

アバター:ジェームズ・キャメロン 3Dリマスター

今年の12月の続篇の公開を前に2009年の前作をさらにリファイン、ブラッシュアップしたもので、IMAXとドルビーシネマで3D版が上映されていましたが、ドルビーシネマで鑑賞。 最初に観た時にも気づいたことだけど、昔ながらのハリウッド産「白人酋長モノ」の焼き直しに過ぎないストーリーで時代錯誤も甚だしいが、映像の方はごく最近のVFX作品と比べても遜色ない出来で、さすがジェームズ・キャメロンの面目躍如といった感じ。 願わくば、最新作の「中身」も現実の社会に合わせてアップデートされていますように。

 

ウルトラセブン」55周年記念4K特別上映

TV版の5つのエピソードを劇場で上映。 宇宙の通り魔を描く「宇宙囚人303」。大量破壊兵器、大量殺戮兵器開発への批判を込めた「超兵器R1号」。惑星間弾道ミサイルを使った地球の破壊を命じられるも、母星から見捨てられる少女とモロボシ・ダンのすれ違いが哀しい「盗まれたウルトラ・アイ」。そしてウルトラセブン最後の戦いを描く「史上最大の侵略 前・後編」。 

 

なかなか渋いラインナップですが、ロシアによるウクライナ侵攻や北朝鮮による大陸間弾道ミサイルの発射など、現実の世界とリンクしていて、「ウルトラセブン」の色褪せなさを感じるとともに変わらない世界の現状に溜め息も洩れる。

 

8 1/2(午前十時の映画祭12)

90年代にヴィデオ録画したものを観て以来のフェリーニの代表作ですが、思ってた以上に頭がついていかなくて困った。客席で睡魔と闘ってるうちに映画が終わってしまった。 年取るとアート系の映画は観るのが難しくなるのだろうか。

 

明日に向って撃て!(テアトル・クラシックス ACT.2)

ポール・ニューマンとロバート・レッドフォードのイチャコラがひたすら楽しいが、今ならむしろキャサリン・ロス演じる女性の目線での物語が観たいとも思う。 サム・ペキンパーの『ワイルドバンチ』も観たくなった。

 

レイジング・ブル(午前十時の映画祭12)

相変わらずスコセッシが描く主人公は妻に暴力を振るうようなクズだし、妻と寝たのではないかと疑って実の弟をボコボコにするようなキ印だが、脂の乗りきったデ・ニーロとペシのいかにもなイタリア系の兄弟はどこか憎めないし、これまで苦手だった『グッドフェローズ』もいつかちゃんと劇場で観てみたい。 アメリカのファンタジーである「ロッキー」シリーズと比べてみるのも面白い。

 

 

手が遅いので、感想をちゃんと記事にできなかった作品がいくつもありますが…^_^;

 

今月観た映画は狭い世界から壮大な規模の世界まで幅広い作品がありましたが、ウォン・カーウァイ作品からは「香港の返還前と後」というものを意識させられたし、ダイアナ妃についての2本の映画、それから英国領だった頃のインドを舞台にしたアクション映画『RRR』と、直接的な関連性がない作品たちにちょっとどこか繋がるところがあって、支配する者とされる者の関係、自由や民主主義というものについて考えさせられもしました。

 

まぁ、ここに『裸のムラ』やジェームズ・キャメロンの『アバター』、さらには『アムステルダム』を加えてもいいかもしれませんが。

 

セリーヌ・シアマ監督の『秘密の森の、その向こう』で描かれた失われた存在への想いは、ウォン・カーウァイ作品に流れているものに似たものを感じるし。

 

映画を何本も観れば観るほど、そこから何か時代や社会の匂い、気配を感じるものですね。今、何が問題とされているのか、私たちは何に苦しんでいるのか。何に心震わせられるのか。

 

新旧たくさんの映画を観る機会があるのは本当に嬉しい一方で、もうちょっと落ち着いて1本1本反芻しながらじっくり味わいたい、という気持ちもあります。

 

11月には「フォーエバー・チャップリン」と題してチャップリンの映画が10本以上上映されるし、「午前十時の映画祭」では『ディア・ハンター』や『蜘蛛巣城』、新作ではマーヴェル映画『ブラックパンサー』の続篇もあるし、またまた大変だ(;^_^A

 

あ、そういえば、今夜はハッピー・ハロウィ~ンハロウィン

 

 

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