パン・ナリン監督、パヴィン・ラバリ、バーヴェーシュ・シュリマリ、リチャー・ミーナー、ディペン・ラヴァルほか出演の『エンドロールのつづき』。2021年作品。グジャラート語。

 

2010年のインド、グジャラート州のチャララ村に住む9歳の少年、サマイは鉄道の駅でチャイを販売している父の手伝いをしながら、時々稼ぎをちょろまかしては学校をサボって町の映画館「ギャラクシー座」に入り浸るうちに映写技師のファザルと知り合い、母の手弁当と引き換えに映写室で館内で上映中の映画を見せてもらっていた。やがて「映画」というものに魅せられたサマイは、村の友だちらとともに駅の倉庫に置かれた上映用の映画のフィルムを内緒で持ち出してしまう。

 

去年、映画館でインド版『ニュー・シネマ・パラダイス』といった感じの予告篇を観た時から絶対に観たいと思っていました。

 

公開が始まってまもなくの鑑賞で上映後にインド映画研究家の高倉嘉男さんのトークがあって、この映画の監督、パン・ナリンさんやインド映画についての解説を聞くことができました。

 

 

 

インド映画といえばつい最近も『RRR』が話題になったし現在もロングラン中ですが、この『エンドロールのつづき』は今年の第95回アカデミー賞インド代表(国際長編映画賞)に選出されていて、もうまもなく発表されるノミネート作品に選ばれたら素晴らしいですね。

 

 

 

もちろん、もし受賞すればインド映画界としては初の快挙ですが、ただし高倉さんによるとパン・ナリン監督はいわゆる生粋のエンタメ系の作り手というよりも比較的難解な作品を撮る人らしくて、僕は日本でこれまで公開されたナリン監督の映画を1本も観ていないので勝手な憶測だけど、劇中でも「サタジット・レイ」や「小津」「ベルイマン」「タルコフスキー」などの名前が出てくるように、おそらくはどちらかといえばアート系の人なのだろうな、と。

 

つまり、インド映画史上最高の製作費をかけたというスペクタクル映画『RRR』や、あるいはトム・クルーズとキャメロン・ディアスが共演した『ナイト&デイ』(2010) をリメイクして2月10日から日本公開される『バンバン!』(2014年作品) のような派手なアクション物を手がける監督ではない。まぁ、それは予告を観ればわかるんですが。

 

この『エンドロールのつづき』はパン・ナリン監督の実体験をもとにした自伝的作品で、確かにトルナトーレ監督の『ニュー・シネマ~』とダブる部分もあるし、「映画」に憧れる少年がやがて映画の世界に踏み出していくお話ではあるんだけれども、僕が予告篇を観てなんとなく想像していた作品よりもさらに小つぶでささやかな内容の作品でした。

 

『ニュー・シネマ・パラダイス』は、映画監督になった主人公が子ども時代を回想する、という構成だったのに対して、『エンドロール~』の方はもっとシンプルでハリウッド的な「感動大作」感はない。

 

ユーモラスなシーンやちょっとだけ歌が入る場面もあるけれど、僕らが今「インド映画」と聞いてイメージするような賑やかなタイプのエンタメ映画とは趣きが異なるし、ダンスシーンもありません。

 

だから、果たしてオスカーに引っかかるかどうかはわかりませんが(選ばれれば嬉しいですけど)、でも、2010年を舞台にしながらもいつの時代に作られたのか判然としないようなこの作品には懐かしい香りがしたし、映画への愛が詰まった物語なのは確かだから、ぜひ多くのかたがたに観ていただきたいです。

※追記:残念ながら『エンドロールのつづき』はアカデミー賞にはノミネートされず、『RRR』が「歌曲賞」でノミネートされました。

 

主人公サマイを演じるパヴィン・ラバリ君はグジャラート州の3000人の子どもたちの中からオーディションで選ばれたんだけど、これまで演技の経験はなく撮影前まで映画も観たことがなかったのだそうで、普段はサマイと同じくお茶売りの手伝いをしているのだとか。見事な演技でしたね。ほんとにイイ顔をするんだよなぁ。

 

 

 

ほかの子どもたちも同様にプロの子役ではなくて、地元の子たちをキャスティングした模様。

 

演技の素人の子どもたちを起用した素晴らしい映画の数々を思い出します。

 

この映画は「映画」がアナログからデジタルへ移行していく時代が描かれていて、だから物語の中で「フィルム」というものが重要な役割を果たすのだけれど、たとえば去年観た『ケイコ 目を澄ませて』でも16ミリフィルムで撮影された映像が効果を上げていたように、「フィルム」の質感と日々の一見地味な人の営みから感じる生身のぬくもりが重ねられているところ、そしてそういう「小さな映画」が内外で高い評価を得ている事実に興味深いものを感じています。

 

『RRR』のような日常を飛び越える祝祭的な映画と同時に、こういう小さな映画も存在して、それを愛する観客たちがいることに喜びを覚える。

 

僕は観る前はてっきり映画大好き少年が友だちやまわりの人々と一緒に生まれて初めて映画を作り、そこから映画監督に目覚めていくようなお話だと思っていたんですが、これはシナリオを書いたりキャメラで撮影する以前の「“映画”とは一体なんぞや」ということを思い出させてくれる物語だったんだな。

 

さて、これ以降はラストまでの内容に触れますから、これからご覧になるかたはどうぞ鑑賞後にお読みください。

 

 

まず光ありき。

 

映画とは光の中に映し出された影。

 

ランタンやガラスビンを透かして見た風景にはフィルターを通したように鮮やかな色が付いていて、線路に捨てられていたたくさんのマッチ箱を拾い集めて、そこに描かれた絵から「物語」を作り上げる。

 

 

 

 

サマイは、そんなふうに身のまわりのモノを使って「映画」の原理を発見していく。

 

やがては仲間たちと協力し合って、あれこれとガラクタや盗んできた電球やらを使ってお手製の映写機までこしらえてしまう。

 

8ミリフィルムキャメラやデジタルヴィデオキャメラなんて誰も持ってないから、映画館で上映するために納品されたフィルムの入った缶を盗み出して、それを自家製の映写機にかけて上映する。音は自分たちでライヴで鳴らして「生演奏」する。

 

映画を観る喜びとは、まずその仕組みの不思議さを感じて興味を持つことから始まる。

 

映画を嫌っているお父さんが、宗教的な理由から例外的に家族で観にいかせてくれたカーリー神を描いた映画で「映画」に目覚めるサマイ。

 

 

 

 

彼はその後、何本ものインド製のミュージカル映画やアクション映画を観るが、映写機から射す光に手をかざしたり、マッチの火に見入るように、「光」に強い関心を示す。

 

映画とは、まず何よりも「光」の産物なのだから。

 

 

 

ここではまず「光を捕まえる」ことが描かれる。「物語を作ること」は“エンドロール”が終わってから続いていくのだろう。

 

映画の終盤で、サマイは父に「光について学びたい」と言う。

 

『ニュー・シネマ~』では主人公トトの映画の師匠的な役だったアルフレードのようにサマイに映画について教えてくれる映写技師のファザルは、「映画が3時間あったら、そのうち1時間は暗闇を見つめてるんだ。みんな騙されてるのさ」と語る。

 

その言葉から、サマイは映画のフィルムをただ廻して光を当てるのではなくて、映写機にはシャッターがあって、それを開閉することでスクリーンに映ったものが定着して見えるのだということを理解する。

 

このあたりはどこまで実体験にもとづくのかわからないし(ナリン監督は映画のフィルムを盗んだのは史実通りだと語っているけど、映写機も本当に自作したとまでは言っていない)、映画館「ギャラクシー座」の壁を星空の絵で埋め尽くすことで館主から映画を観る許可をもらうところなどもそうなように、まるで『ぼくらの七日間戦争』みたいに「さすがに子どもたちだけでそれは無理だろ」っていう都合が良過ぎる展開がいくつかあって、そこんとこはだいぶリアリティラインを下げて、多少誇張や創作が入ったジュヴナイル映画のつもりで観ていましたが。

 

映画の冒頭あたりで、サマイが通う学校の先生が子どもたちに彼らと同じグジャラート出身のマハトマ・ガンディーについて語るんだけど、そこで強調されるのが“ガンディーは「非暴力」を貫いた”ということなんですね。

 

興味深いことに、エンドクレジットでインドの独立のために戦った英雄たちを称えた『RRR』では、ガンディーの存在は完全に無視されていた。それは意図的にそのような扱いをされていたようで、なぜならガンディーは「非暴力」を主張していたから。暴力の力でイギリスをやっつける映画にはそぐわないと感じたからでしょうかね。実際にはもっと根深い政治的・宗教的な理由があるようですが。

 

パン・ナリン監督は『RRR』を揶揄しているわけではないだろうし、『エンドロール~』の劇中でサマイがミュージカル映画とともにアクション映画を観て喜んでいたように、ああいう商業的なエンタメ大作に批判的な目を向けているのでもないと思いますが、でも、たとえば棒で息子を叩いて罰を与えていた父を母が止めたり、“オバケ村”の廃屋でみんなと一緒に映画を上映しているサマイの姿を見た父親が帰りに手に持っていた棒を線路の脇に捨てていくように、ここでは目立たないけれど暴力を否定しているんですよね。ガンディーの名前はそのためにあえて用いられている。

 

ド派手なアクションと勧善懲悪の大パノラマな『RRR』とは何から何まで対照的に作られていて、それは僕にはパン・ナリン監督の映画に対する姿勢、自身の所信表明のように思えたのです。

 

劇場パンフレットのインタヴュー記事を読むと、ナリン監督は手でじかに触って切り貼りして編集し、映写機にかけて上映するアナログのフィルムからデータのやりとりに替わったデジタルの現在の映画について、ややネガティヴともとれる想いを語られていますが、でも、とはいいつつもこの『エンドロールのつづき』だって『RRR』と同じくデジタルで撮られているし、VFXも使われている。

 

 

 

ナリン監督は上映後のヴィデオメッセージではご自身のインスタグラムを宣伝していたからSNSだって大いに活用されてるんだろうし、映画の中でデジタル上映のためにパソコンいじってた映画館のスタッフの男性のように監督だっていつもはパソコンで編集したりもしているんでしょう。

 

だから、これはただ昔を懐かしがって技術的な進歩や映画界の現状を憂えているんじゃないんですよね。

 

終わっていくもの、なくなっていくものへの愛惜の気持ちを抱えながらも、新しい世界に対しても目を向けていこうとしている。

 

フィルムの映写機が破壊されて溶鉱炉で溶かされていく場面で、まばゆい光がサマイを包んでいくのは、彼が映画の中に見出した「光」と繋がっている。

 

溶かされた映写機はスプーンに生まれ変わる。

 

劇中でファザルがサマイの母が作った弁当を手掴みで食べているのが何度も映し出されるが、やがてはインドの人々もスプーンを使って食事をするようになるのだろうか。

 

そして、大量のフィルムの束はやはり薬品で溶かされたのちに樹脂の筒となり、それは裁断されて人の手で削られて女性たちが身につける腕環(チューリー)に加工される。

 

映画のラストで故郷の村をあとにしたサマイが列車の女性専用車両で見た美しいサリーを着た女性たちの腕には、かつて「映画」だったかもしれないチューリーがいくつもつけられている。

 

それを見たサマイの笑顔からも、消えていったものへの悲しみよりも新しく生まれ変わったものへの喜びの方を強く感じる。

 

『ニュー・シネマ・パラダイス』では、青年になったトトが好きになった女性を8ミリキャメラで撮影する場面があって、それが彼が「映画を撮る」動機の一つになったような描き方がされていた。

 

好きな女の子を撮りたくて映画を撮り始める、っておそらく映画監督あるあるだろうけどw サマイはまだそれ以前の段階。

 

だけど、この映画の中では時々彼と同い年ぐらいの女の子たちが映し出されているし、ほんの一瞬だけ女の子について友人と会話する場面もある。

 

これから成長していくうちに、サマイはきっと女の子にキャメラを向けるようになるんだろう。

 

料理が上手な母はハッキリと言葉には出さなくてもいつもサマイのことを優しく見守っているし(弁当のことでサマイが嘘を言っているのに気づきながらも追及せず、息子に任せている)、オバケ村での上映の時にもサマイの妹を連れて観にきている。

 

可愛い妹がいるのも『ニュー・シネマ~』と同じですね(^o^)

 

お母さんの手料理が何度も映し出されて、とてもおいしそう。劇場パンフにはレシピも載ってます。

 

 

 

 

 

母の作ってくれる手料理がかけがえのないものであるように、父が毎日休みなく続けているわずか数ルピーのチャイをお客さんに提供する仕事だって立派な仕事だが、でも映画の仕事をしたければ英語と「光」について街で学ばなければならない。

 

 

 

映写機がスプーンに、映画フィルムが腕環に生まれ変わったように、子どもや若者たちの前には新しい世界が待っている。

 

時々過ぎ去った日々や離れて暮らす大切な人々のことを思い出して懐かしみ、そしてまた今日や明日を生きていこう。

 

 

 

サマイの乗った列車は、かつてリュミエール兄弟が撮影した汽車のように銀幕の中から現実のこちらへ駆け抜けようとしている。

 

 

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