ダーレン・アロノフスキー監督、ブレンダン・フレイザー、ホン・チャウ、セイディー・シンク、タイ・シンプキンス、サマンサ・モートンほか出演の『ザ・ホエール』。2022年作品。PG12。

 

原作はサミュエル・D・ハンターによる同名の舞台劇(映画版の脚本も原作者が担当)。

 

第95回アカデミー賞、主演男優賞、メイクアップ&ヘアスタイリング賞受賞。

 

40代のチャーリー(ブレンダン・フレイザー)はボーイフレンドのアランを亡くして以来、過食と引きこもり生活を続けたせいで健康を損なってしまう。アランの妹で看護師のリズ(ホン・チャウ)に助けてもらいながら、オンライン授業の講師として生計を立てているが、心不全の症状が悪化しても病院へ行くことを拒否し続けていた。自身の死期が近いことを悟った彼は、8年前にアランと暮らすために家庭を捨ててから疎遠になっていた娘エリー(セイディー・シンク)に連絡を取るが、彼女は学校生活や家庭に多くの問題を抱えていた。(映画.comの解説を一部変更)

 

ネタバレがありますので、鑑賞後にお読みください。この映画、お薦めです。

 

ブレンダン・フレイザーがお見事オスカーの主演男優賞に輝きましたが、僕は彼の出演した映画って「ハムナプトラ」シリーズの1作目と2作目を劇場で観た以外は、それぞれレンタルヴィデオとDVDで『ゴッド・アンド・モンスター』と『モンキーボーン』を観たぐらいで(って、あとで確認したら『クラッシュ』や『G.I.ジョー』にも出てたことを知った)、『ゴッド~』では最後にフレイザーがフランケンシュタインの怪物の真似をして両腕を前に突き出してカクカクした動きで歩いていたことぐらいしか覚えていない。

 

でも、久々に見た彼(特殊メイクでほんとの姿は見えなかったが)の演技はとても深くて、イノセントな瞳、地声は低いが時々甲高くなるその声、全身から感じられる痛みとその奥にある知性など、さまざまな要素がないまぜになったような、なんともいえない存在感を放っていた。

 

 

 

ダーレン・アロノフスキー監督の映画を観るのも2011年公開の『ブラック・スワン』以来。

 

その間のノアの箱舟の映画やジェニファー・ローレンス主演作品は未鑑賞。

 

かなり久々のアロノフスキー監督作品だったんだけど、この映画、僕は好きです。

 

『ブラック・スワン』や、あるいは『レクイエム・フォー・ドリーム』のような幻惑的なキャメラワーク、映像効果は用いられておらず、主人公と娘の関係、物語の着地などは『レスラー』に近い。

 

『ザ・ホエール』と『レスラー』は脚本を担当したのは別人なのに、この類似は面白いですね。

 

ツラい内容ではあるのだけれど、ちょっといろいろと今の自分を重ねて観てしまったところがあって。

 

いや、僕に娘はいませんし(結婚すらしていない)、同性愛の恋人がいたわけでもなくブレンダン・フレイザー演じるチャーリーの人生と直接重なるような要素はないんですが。一応、まだ自分の足で歩ける体重ですし。こうやって映画館に出かけてもいますんで。

 

ただ、最近は喉の筋肉の衰えや肥満、肺の機能の低下などで呼吸が苦しいことがしばしばあって、ベッドでは仰向けで寝ると息が詰まってしまうのでしかたなく横向きで寝てたりするし(だから体重がかかって肩や腕が痛い)、腰痛に悩まされたり身体のあちこちが故障していて、だからチャーリーのことが他人事に思えなくて。

 

まるでドリフの「お相撲コント」で肉襦袢着たドリフターズのメンバーたちのような体型のチャーリー(ちょっとハンプティ・ダンプティっぽくもある)はどこかユーモラスでチャーミングでもあり、恋人だったアランの妹・リズにくすぐられて笑い声をあげるところなんか可愛過ぎて思わず客席で笑ってしまった。

 

食事する時に、当たり前みたいに自分の腹にお皿を置いてるし。ラッコか(笑)

 

まぁ、実際には体重が272キロあったらドリフのコントみたいに軽快に動き回ったりなんてできないし、倒れたら起き上げれないだろうし、歩行器なしで自力で歩いたりかがんで足許の物を取ることもできない。

 

チャーリーの姿は極端ではあるけれど、自分もあんな感じでいつか自分自身の力で自分の身体を自由に動かすこともできなくなるのだろうか、と。それはそんなに未来のことではないかもなぁ、などと考えながら映画を観ていた。

 

チャーリーのような境遇でなくても、「生きづらさ」を感じているすべての人に通じる苦しみや迷い、その中での出会いと気づきについての物語なのではないかと。

 

「キリスト教に馴染みがないので、いまいち入り込めなかった」という感想を述べているかたが結構いて(※アメブロではないです)驚いたんですが。

 

…だって、たとえキリスト教に馴染みがなくたって、これ“カルト宗教”がらみのお話でしょ。今日本中がめっちゃ関係あるじゃないの。それで人が撃ち殺されてたじゃん。もう忘れたの!?それともニュースとか観ないんですか?その反応にびっくりだわ。

 

劇中で言及されるハーマン・メルヴィルの小説「白鯨」の中での語り手・イシュメイルはイシマエル、エイハブ船長はアハブなど、登場人物に聖書にちなんだ名前がつけられているようで、この映画『ザ・ホエール』でたまたまチャーリーの家を訪ねてくるキリスト教原理主義の新興宗教団体「ニューライフ」の若者・トーマス(タイ・シンプキンス)とのかかわりなど、確かに「キリスト教」はキーワードの一つではあるものの、僕は「白鯨」を読んでいないしキリスト教に詳しくもないけれど(一応、聖書を部分的には読んだことはあるが)、別に意味がわからないことはなかったし、映画に入り込めないようなこともなかった。人の心の問題を描いているんだから。

 

トーマスのように両親やまわりのおとなたちがある一つの「教義」を信奉している環境の若者たちがこの国にも大勢いることは、例のカルト団体関連の報道でもうわかっていることだし。

 

そして、これは「人は人を救うことなんてできない」と言う者に、自らの死を目前にした者が「人はどこかで誰かを救っているかもしれないし、自分も誰かから救われているかもしれない」と告げる物語で、寓話っぽくもあるし、同性愛を禁ずる“神”に正面からお別れを告げる者を描いた、「権威への反旗」と「自由意志」についての物語でもある。

 

誰でも充分に共感できる余地がある内容だと思う。

 

正直なところ、こんな重篤な状態になってもチャーリーにカロリー高そうなホットドッグを与え続けるリズが不思議だったし、いくら本人が拒否したってここまできたら強制的に入院させられないの?とも思ったんですが。

 

リズは、自分がチャーリーのセルフ・ネグレクトによる「緩慢な自殺」に手を貸しているという自覚はあっただろうから、彼女がいつも怒っているのは、チャーリーの絶望をどうすることもできない自分と、頑なに入院を拒むチャーリーへの両方への怒りがあったからでしょう。

 

どうして彼女がチャーリーの面倒を見続けるのかと言ったら、兄を救えなかった悔いがあるからに違いないし、チャーリーを兄のように独りきりで逝かせたくない、という思いもあったからだろうし。

 

リズ役のホン・チャウの演技が本当に素晴らしかった。

 

 

 

愛する者をなくし、そのパートナーであった人までをも失いつつあるツラさに耐えるリズの心情が、ホン・チャウさんの表情や溢れる涙から痛いほど読み取れた。

 

僕は彼女の演技は、ノミネートされていたアカデミー賞助演女優賞に相応しかったと思います。

 

受賞した『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』のジェイミー・リー・カーティスさんの演技にケチをつけたいわけじゃないけれど、僕は彼女はもっと早く別の作品で受賞すべきだったと思うので。

 

まぁ、ホン・チャウさんにはこれからだってチャンスはあるだろうし、このタイミングで『エブエブ』に栄冠が渡ったのはよかったのかもしれませんが。

 

チャーリーはリズに計ってもらった自分の血圧の数値がかなり危険なものであることを知って、実の娘のエリーと連絡を取るが、やってきた彼女は父を憎んでおり、8年ぶりに会って変わり果てた姿の父に非常に攻撃的な言葉と態度で接する。

 

チャーリーはお金と高校卒業のためのエッセイの仕上げを手伝うことを条件に、エリーに自分のもとへ足を運んでくれるよう頼む。

 

小説「白鯨」についてのエリーの感想の中の「語り手は自らの暗い物語を先送りする。」という一文が妙に印象に残った。チャーリーは苦しくなると、娘が4年前に書いたその感想文を読む。元妻のメアリー(サマンサ・モートン)が送ってくれたものだった。

 

「──エイハブ船長は鯨を殺したがっている。白い鯨だ。 この本の中でエイハブは多くの苦難に遭う。 人生のすべてはその鯨を殺す事。悲しいと思う。 なぜなら鯨には感情などないのだ。ただ大きく哀れな生き物だ。 エイハブは鯨を殺せば人生はよくなると信じている。 だが、そうならない。私は登場人物たちに複雑な思いを抱いた。 鯨の描写の退屈な章にはうんざりさせられた。 語り手は自らの暗い物語を先送りする。 少しだけこの本は私の人生を考えさせ、よかったと思う…」

 

エリーの「白鯨」の感想文とこの映画自体の構造や登場人物たちとの関係については、いろんな解釈が可能だろうけれど(エイハブがエリーで、白鯨モビィ・ディックがチャーリーなのか、それとも小説の語り手のイシュメイルがチャーリーなのか…など)、チャーリーが「正直にありのままの自分を出すこと」の大切さを訴えていることは間違いないし、それは世の中では正しいこともあればそうではないこともある、という事実を含んだものなのもわかる。

 

同性愛者としてアランを愛したことと、そのために妻と幼い娘を捨てたことはどちらもが自分の中にある、「ありのままの自分」だ。

 

「白鯨」の素晴らしい感想文も、父の「ありのまま」の姿や信仰と自分自身の間で悩む青年の本音をネットで晒した行為も、同じ人間の中にあるものから生じたもの。

 

この映画は、誰一人として善のみだったり悪のみであることはない。

 

チャーリーの家にピザを配達にくるダンは、いつも受け取りに現われないチャーリーにドア越しに「大丈夫ですか?」と話しかける気さくさや他者を思いやる優しさ(多分に好奇心のせいでもあろうけれど)があったが、チャーリーの姿を目にした途端、「マジかよ…」と絶句する。人は時に誰かを救いもするし、傷つけ絶望させもする。

 

金を盗んで逃亡したトーマスを「たかが金じゃないか」と許し、彼を再び受け入れた宗教団体の教えや彼らの活動は果たして正しいのだろうか。トーマスのあの別れ際の笑顔は、本当に今後の彼の幸せを示しているのだろうか。

 

リズの家庭のことを思い返せば、むしろ、これはトーマスの新たな「苦しみ」の始まりなのかもしれない。

 

ただ、それでもエリーやチャーリー、そしてリズとの出会いは、トーマスに何か変化をもたらしたかもしれない。そして、それは疑問を投げかけ、真の「救い」へのきっかけを生み出したかもしれない。

 

ちなみに、この映画でトーマスが所属している「ニューライフ」というのは架空の宗教団体ではなくて実在するようなんですが、そこの教えを広めるために活動する若者に、この映画ではエリーの口を借りて容赦ない批判を浴びせている。選ばれた自分たちが新しい世界で生きられて、それ以外は絶滅することがそんなに嬉しいか?優越感に浸れて結構なことだな、と。

 

 

 

「ニューライフ」はリズの兄・アランを救うどころか苦しめ、彼を死に至らしめた。

 

エリーが批判していたのは、キリスト教や一神教それ自体ともとれますが。

 

終末論を信じるカルト集団、って先日観たM・ナイト・シャマラン監督の『ノック 終末の訪問者』がもろにそういう人間たちが出てくる映画だったんで(同性愛についても描かれてたし)ちょっと面白かったんですが。何この偶然。

 

さっきもちょっと述べたけど、私はキリスト教に縁がないから関係ない…んじゃなくて、“カルト”は僕らの住むこの国に全然無関係じゃないどころか、めちゃくちゃかかわりがあるじゃないですか。他人事じゃないでしょ。

 

誰もが何か心の拠り所を必要としていて、今それが揺らいでいるから苦しんでいるんじゃないか(逆に「苦しんでなどいない」「私の生き方は正しい」と確信を持って言い切れる人──たとえばリズやトーマスの親など──にこそ本当の危うさがあることを、この映画は描いている)。

 

まぁ、この『ザ・ホエール』の原作はカルトを糾弾することを目的として書かれたわけではないのだろうけれど、作者の実体験をもとにしているそうだから、カルトへの批判は含まれているんでしょう。

 

カルトの若者でも、苦しんでいる者を救うこともある。でも、チャーリーは助けてくれたトーマスに感謝しつつも、彼が信じるような新しい世界などに行きたくはない、と言う。愛する人との生活も、彼への想いも否定する気はないと言っているのだ。それが正直な「ありのままの私」なのだから。

 

チャーリーの恋人だったアランのフルネームが「アラン・グラント」だったのには、別の恐竜映画の主人公を思い出しちゃって気が散りましたが。

 

トーマスを演じてるタイ・シンプキンスってなんか見覚えある顔の俳優さんだな、と思ってたら、『ジュラシック・ワールド』の1作目に出てたクソガキ兄弟の弟役だった子じゃん。…成長したなぁ。

 

 

 

終盤で登場するチャーリーの元妻・メアリーを演じているのはサマンサ・モートンで、この人は『SHE SAID/シー・セッド その名を暴け』でもけっして出番は多くないものの、とても印象的な演技を見せてくれていました。

 

 

 

メアリーは娘のことを「邪悪」と表現する。

 

その言葉や彼女の一見攻撃的な物腰から、チャーリーが娘とともにかつて捨てたこの女性が一方的に「悪い母」「悪い妻」として描かれていたら嫌だなぁ、と思ったんですが、チャーリーと再会を果たしたメアリーはこれまでなんとか自分一人で娘を育てようとしたが手こずって苦しんできた人として、やはり「ありのまま」の自分をさらけ出す。

 

登場人物の中で一番理解しがたいのはエリーだが(彼女がチャーリーやトーマスにやった行為を思い返せばそう言わざるを得ない)、それでも見方によっては彼女がトーマスを「救った」のだ、というふうにとれなくもないし、実の父親であるチャーリーにとっては娘との再会、この数日間の彼女とのわずかなふれあいは紛れもなく「救い」だったに違いない。

 

 

 

 

エリーはSNSで「このレズビアンめ」と罵られていた。もしかしたら、彼女は父に似ている自分を嫌悪していたのかもしれない。彼女がトーマスをからかったり彼の姿と声をSNSに晒したのは、彼に自分と似たものを感じたからかもしれない。

 

この映画は、誰かを完全な「善」だとか「悪」だとか区別することはなくて、誰にでもどちらの面もあるし、それらは入り混じっていることだってあるということを描いている。

 

この映画の内容そのものが、人を「救われる者」と「救われない者」に分け隔てるようなものの考え方への異議申し立てのように思えてならない。

 

 

 

 

 

関連記事

『インスペクション ここで生きる』

『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』

 

 

 

 

↑もう一つのブログでも映画の感想等を書いています♪

 

にほんブログ村 映画ブログへ にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ