ヘレナ・コーン監督によるオードリー・ヘプバーンについてのドキュメンタリー映画『オードリー・ヘプバーン』。2020年作品。

 

また、もう1本は現在「午前十時の映画祭12」で上映されている(※本日12日まで)オードリー・ヘプバーン主演の『いつも2人で』。1967年作品。

 

 

 

5月4日は往年の名女優オードリー・ヘプバーンさん (1929-1993) の誕生日ということで、5月6日(金) から公開が始まった本ドキュメンタリーを、朝の10:20からのスタンリー・ドーネン監督、オードリー主演作品『いつも2人で』と続けて鑑賞。

 

半日、オードリー・デイでした(^o^)

 

ただ、名前も顔もおなじみだけど、恥ずかしながら僕はオードリー・ヘプバーンの映画は劇場では何年か前に「午前十時の映画祭」で『ローマの休日』を観たきりで、その後も別の作品が上映されていたけれど観逃してしまって、オードリー・ヘプバーンといえば…ないくつもの有名な作品も『マイ・フェア・レディ』や『パリの恋人』をBSで流し観したことがある程度でちゃんと内容を覚えていないし、『ティファニーで朝食を』や『シャレード』『おしゃれ泥棒』などもタイトルを知っているだけで観ていません。

 

 

 

 

 

オードリー・ヘプバーンの映画をあえて観よう、と思ったことがなかった。

 

でも、せっかくこうやって彼女のドキュメンタリー映画や主演映画が映画館で上映されているのだから、いい機会だと思って。

 

来年は『ローマの休日』の公開70周年記念(明日、金曜ロードショーで新吹替版が放送されますね)で、また没後30年でもあって、ルーニー・マーラがオードリー・ヘプバーンを演じる映画(ルカ・グァダニーノ監督)も公開される予定だし。ルーニー・マーラはもともと特にオードリー・ヘプバーンと顔が似ているわけじゃないけれど、ほっそりした身体つきや醸し出している雰囲気は、なるほどピッタリかも、と思わせるところがあるので楽しみにしています。

 

 

 

このドキュメンタリー『オードリー・ヘプバーン』の中で、フランスの作家シドニー=ガブリエル・コレットがヘプバーンを自作の戯曲「ジジ」の主役に抜擢したことが紹介されてましたが、そういえば、以前観たキーラ・ナイトレイ主演の『コレット』のポスターにそのことが書かれていました。

 

 

映画『コレット』はコレットの若き日を描いているので劇中でヘプバーンについての言及はありませんでしたが。

 

オードリー・ヘプバーンについてのドキュメンタリーって、僕は以前TVで観た記憶があって、今回も出演されている息子のショーン・ヘプバーン・ファーラーさんがそこでも出ていたし(今回の『オードリー・ヘプバーン』は彼が企画したもの)、オードリーが亡くなった1993年に作られた「想い出のオードリー・ヘプバーン」というドキュメンタリー番組もあるそうで、僕がTVで観たのがそれなのか、あるいは別物なのかはわかりませんが(確かフェラガモの職人さんが出演していたと思うが。グレース・ケリーのドキュメンタリーとごっちゃになってるかも^_^;)、すでに語られていること以外のさらに付け加えるべき新たな要素ってあるのかな、とも思ったんだけど、『オードリー・ヘプバーン』にはこれまで公開されていなかったプライヴェート写真もあったようですね。

 

 

 

 

子どもの頃にナチスの攻撃に晒されたことや、女優として脂の乗り切っていた時期に育児を優先させて俳優業から一時遠退いたこと、晩年のユニセフの人道支援活動のことなどは知っていたから、ここで語られることに意外性を感じさせるものはなかったけれど、その人生をざっと見渡すことで彼女の中に一貫していたものがより鮮明に見えてきた、というのはありました。

 

また、このドキュメンタリーの前に観た『いつも2人で』は彼女が女優活動を一時休止する少し前の作品で、『ローマの休日』などの清楚なイメージとは異なる、結婚生活で悩んだり普通に夫とベッドに入っている姿とか水着姿も披露していて、キュートさは以前と変わらないけど、もうちょっとリアルな女性像が新鮮でした(当時、オードリーは37歳)。オードリー・ヘプバーンの口から「セックス」という言葉が何度も出てくるのも不思議な感じだった。

 

 

 

 

『オードリー・ヘプバーン』でも彼女の結婚生活について語られるから、『いつも2人で』はこのドキュメンタリーを補完する役割も果たしてくれました。

 

幼い頃に両親が離婚して、父に捨てられたという思いが彼女を傷つけ、のちの恋愛や結婚に影響を及ぼしたことや、自分の意志を貫く強さと同時に心の脆さも持ち合わせていたことなど、「銀幕の妖精」のイメージを越えた生身の人間としての“オードリー・ヘプバーン”に寄り添うような内容でしたね。

 

『オードリー・ヘプバーン』の原題は『Audrey More Than An Icon』で、彼女が映画界やファッション界の“アイコン”以上の存在であることをあらためて知らされたのでした。

 

生きていたら今年で93歳の彼女と共演した俳優たちの多くもすでにこの世にいないので、オードリーがハリウッドで活躍した同時代の人々はインタヴュー映像では登場しないし、その部分では物足りなさもあったのだけれど、その分、ひとりの女性、母、家庭人としての彼女の姿がクローズアップされていました。

 

映画スターとしての人気が続いていた頃にその仕事をなげうって息子と一緒に過ごす生活を選んだのは一見保守的で古風な価値観のようにも思えるのだけれど、そうではなくて(同じ頃、彼女は最初の夫と別居、離婚している)、自分の求めるものを自らの手で掴もうとするその姿勢は「今」に通じるものがある。そして、「子どもに愛をそそぐ」というオードリーの自らに課した目的は、晩年、世界中の最貧困国の恵まれない子どもたちへの援助活動へと繋がっていく。

 

ブレのない人生だったんですね。

 

一方で、幼い頃に両親の離婚を経験した彼女は自身も2度離婚していて、愛する息子たちに別れのつらさを味わわせてもいる。けっして非の打ちどころのない“完璧”な人ではなかった。

 

それでも、彼女が離婚しなければ2人目の夫との間に生まれた次男のルカは存在しなかったのだし、最後まで添い遂げた最愛のパートナーともめぐり逢えなかったのだから、人生というものは簡単にその良し悪しを断定できない。

 

 

長男のショーンさんと。2枚目は最後にして最愛のパートナー、ロバート・ウォルダース氏

 

最終的に本人が満足できれば、それがすべてなんだろう。そして、彼女は自分の幸せだけを追い求めるのではなくて、救いを求めている人々にも手を差し伸べることで“愛”を独占しようとするのではなく分け与えた。

 

この映画では特に終盤でインタヴュー映像の中の人々がやたらと「愛」という言葉を口にするので、ちょっとおなかいっぱいになるんですが、オードリー・ヘプバーンが実践し与えた“愛”はただの空虚な言葉ではなくて実を伴うものだったんですね。

 

世界中を飛びまわり、水のないところに給水場を作り、栄養失調で死を待つ子どもたちに食料を運ぶための活動に協力する。映画スターの知名度を活かして人々に寄付を呼びかける。彼女のおかげでユニセフの名前と活動は世界中に知れ渡った。

 

子どもの頃に戦争で飢えてユニセフの前身組織に命を救われたことがきっかけだった。

 

 

 

 

オードリー・ヘプバーンは今も世界中の多くの人々に愛され続けているけれど、それはハリウッドの有名女優で美しい容姿の人だったから、そして素晴らしい映画を残したから、というだけではなくて、実生活でも最後まで高潔で他者に対しても献身的な人だったからでしょう。

 

では、彼女はまるで聖女のような女性だったのだろうか。

 

そう感じずにはいられない聡明さと強さを持った人だったけれど、そんな彼女は愛されることを求め続けた人でもあった。

 

自分を捨てた父親をようやく捜し出したものの、父は娘との再会を喜ばず、傷ついた彼女はそれ以上父を責めることも謝罪を求めることもせず、父が亡くなるまで仕送りを続けた。

 

夫に父性を求めたが、でも愛した男性は他の女性と浮気して夫婦仲は冷めていく。

 

『いつも2人で』では、まさにそんなオードリーをモデルにしたような主人公を演じている。

 

一組の男女の出会いから夫婦としての危機を迎えた、1955年から66年までの12年間を時間を交錯させながら描く。

 

原作はフレデリック・ラファエルの小説「愛情の限界」で、彼自身が映画用に脚色、音楽はヘンリー・マンシーニが担当。共演はアルバート・フィニー。

 

ジャクリーン・ビセットも出てるけど、あっという間に退場する。

 

僕はこの映画を観るのは初めてだったんですが、6つの時間をランダムに繋げて描くという、なかなかにしてアヴァンギャルドな構成で、彼らが乗っている車の車種やオードリー演じるジョアンナの髪型と服装、子どもの有無などを手掛かりにしてその場面が「いつ」の話なのか判断するしかない。

 

同じ画面に別々の時間の彼らが同時に出現したり、ぼんやり見ていると混乱するけど、男女の出会いから結婚、夫婦の危機までの時間の流れをバラバラにしてモザイクのように散りばめることで、時にユーモラスに、時にシリアスにもなって、結婚していない僕は興味深かったり途中で少し飽きたり、恋愛や結婚を疑似体験させてもらっているようだった。

 

正直なところ、最初のうちはアルバート・フィニー演じるマークのあからさまにジョアンナを小バカにしたような態度、物言いにいちいち抵抗を感じる。

 

 

 

 

イギリス人の男性(もしくはこの時代の男性全般)って冷笑的だったり思ってることと言ってることが違っていたりして、そこが可愛いんだ、みたいな描かれ方をしていることがままあって、マークはモロにそういう男なんですよね。

 

若い頃のアルバート・フィニーって(って、この時代の彼の映画をほとんど観たことがないのだが。『トム・ジョーンズの華麗な冒険』も未鑑賞)ちょっとクリス・プラットみたいな愛嬌がある顔でしかもマッチョ、高飛車な態度をとったかと思えばふざけて笑わせたり、あぁ、こーゆー奴がモテてたんだな、と。

 

また、よく響く声がいかにも舞台出身(王立演劇学校卒)という感じで、ただ軽いだけの男でない威厳を醸し出している。

 

僕はマークのような男は苦手だし、そんな男を好きになるジョアンナにも「あー、もうどうぞご勝手に」と幾分呆れながら観ていたのだけれど、でもそこがアルバート・フィニーの巧いところで、だんだん憎めなくなってくる。またオードリー・ヘプバーンの演技もこれまでの彼女のイメージを覆すものだったので、愚かなところもあるけれど、でも生身の人間の脆さと滑稽さを持つこのふたりが次第に愛おしくなってくるんですね。

 

自分は妻が妊娠中に別の女性と浮気をしておきながら、その後、妻が夫とは別の男に惹かれると傷つく身勝手さ。

 

でも、それを「正しさ」で断罪しない。人間は複雑で簡単に善悪や正邪に分けられない。

 

僕は普段「正しさ」で物事を判断しがちだし、単純に「理解した気になりたい」部分も多いから、この映画で描かれている、何が正しくて何が間違っている、ということじゃない人間の描き方は「で、何が描きたいの?」と思っちゃうんだけど、でも、マークやジョアンナのような腐れ縁を続けている夫婦とかカップルって現実にいるもんね。「正しさ」だけでは説明できないものがある。

 

マークがしょっちゅうパスポートをなくすたいして面白くもないルーティーン・ギャグにはイラッとするし、結局は彼に「愛してる」と言われて許してしまうジョアンナにも「あぁやっぱり」と。

 

演じていたオードリー・ヘプバーンは、この映画のあとしばらくして夫と離婚したんだけど。映画よりも現実の彼女の方が物事ハッキリさせる人だった。

 

コメディっぽかったり、リアルなドラマっぽかったり、映画があちこちと揺れまくるのが以前観た『ハロルドとモード 少年は虹を渡る』(1971) を思わせた。あの映画の、古典的な映画の文法を逸脱する自由さ、60~70年代的な空気、可笑しさや苦みが一緒に描かれているところ、そういったものに満ちた映画でしたね。

 

可愛い顔してるのに、めちゃクソガキな女の子ルース(ガブリエル・ミドルトン)の「中国はクソ?」っていう台詞があまりに唐突過ぎて不覚にも笑ってしまったんだけど(父親も他の車に「このアカ!」と罵声を浴びせていたし)、当時は中国の文化大革命の頃だから、なんかその辺をイジってたのかな。

 

 

 

とにかく、オードリーのキュートというか奇抜なファッション(ツイッギーみたいなミニスカも穿いてたし)を楽しみ、ひとりの女性のいろんな面を演じてみせる彼女のコケティッシュな魅力にもっていかれながら人生についてちょっと考えちゃうような映画だったかな。痩せ過ぎてて若干「鶏ガラ感」がなくもなかったけど。…失礼。

 

 

 

僕はファッション方面はからきしなんで、そちらについて深く触れられないけれど、オードリー・ヘプバーンが女優やモデルの体型を一変させてしまったことには納得。

 

それも、コンプレックスだった外見をファッションデザイナーとともに新たな「美」の基準を作り出すことで昇華させたんですね。

 

「オードリー・ヘプバーン」という唯一無二の存在を映画史に刻み込んで、彼女は今も世界中のどこかで人々の目に触れている。

 

ドキュメンタリー映画『オードリー・ヘプバーン』には彼女の息子ショーン・ヘプバーン・ファーラーや彼の娘でオードリーが死去した翌年に生まれた彼女の孫エマ・ファーラー(彼女はモデルの仕事をしている)が出ているけれど、亡くなったあとも息子や孫によって「オードリー・ヘプバーン」の人生は語り継がれていくんだな。

 

全然関係ない話で恐縮ですが、22年前に亡くなった僕の母方の祖母はオードリー・ヘプバーンさんと1歳違いで(28年生まれ)、別に彼女に顔が似てたとかそういうことは一切ないんだけど(笑)、亡くなった病気も同じ(大腸癌)だし、それから祖母の命日がちょうど今月なのでふと重なったんですよね。

 

自分のおばあちゃんとほとんど歳が変わらない人だったんだな、と。僕の祖母は若い頃にミニスカは穿いてなかったと思いますが(※その後、母に昔の写真を見せてもらったら、そこに写っていた若い頃の祖母は膝が見えそうな短めのスカートを穿いてました)w

 

『ティファニーで朝食を』をちゃんと観てないのに、劇中でオードリーが唄う「Moon River」(作曲:ヘンリー・マンシーニ、作詞:ジョニー・マーサー)にはいつもジ~ンときてしまう。どこか懐かしい気持ちにさせてくれる歌ですね。

 

 

 

『オードリー・ヘプバーン』でもエンドクレジットで同曲が流れるけど、それを聴きながら、嗚咽とか号泣とかじゃなくて、静かに穏やかな呼吸のまま自然に涙が流れていました。

 

また彼女の映画を観る機会があったら、劇場に足を運ぼうと思います。

 

 

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