内田英治監督、草彅剛、服部樹咲、上野鈴華、真飛聖、水川あさみ、田中俊介、真田玲臣、佐藤江梨子、田口トモロヲ、根岸季衣ほか出演の『ミッドナイトスワン』。

 

 

新宿二丁目のショーパブで働くトランスジェンダーの凪沙(草彅剛)は、地元の実家の母(根岸季衣)から電話でしばらく従妹の早織(水川あさみ)の中学生の娘・一果(服部樹咲)の面倒を見てほしいと頼まれる。短期で転校した一果は凪沙と同居しながら彼女に内緒でバレエ教室に通い始める。そこの教室で出会った同じ中学校の生徒・りん(上野鈴華)とも仲良くなるが、経済的に苦しい一果はバレエ教室に通うお金を稼ぐために、りんとともにJC(女子中学生)ビジネスのアルバイトを始める。

 

ストーリーのネタバレがありますので、ご注意ください。また、トム・フーパー監督の『リリーのすべて』の内容にも触れます。

 

監督自身によって映画が小説化もされていますが、僕はそちらの方は読んでいないので映画についてだけ述べます。

 

草彅剛さんがトランスジェンダーの女性を演じた映画、ということでTVで紹介されていましたが、一方でインターネットでの辛めの評価に対して監督自らがTwitterで発言した内容が炎上して、映画の内容以前のことでもいろいろ話題になっていましたね。

 

 

 

 

 

僕はこの映画をもともと観るつもりはなかったんですが、たまたまTwitterで内田監督の呟きを読んで「ずいぶんと的外れなことを言ってるなぁ」と反発を覚えたものだから、なんだかあまりいい印象がなかった。

 

ただ、映画を観ずにぶつくさ言っててもしかたがないので、だったらこの監督さんが撮ったその作品を実際に鑑賞したうえで自分なりの評価をしたいな、と思って。

 

だけど、何しろ公開直後はTV番組での紹介の効果もあってか、僕が行った日には平日にもかかわらず朝の回からすでに全回ほぼ完売に近い状態で、無情にも僕のちょうど前に並んでいた初老のおじさんで午前の回の席が埋まってしまった。

 

しょうがないから一週間後にまた同じ映画館で(僕が住んでるところではそこ1館でしか上映していない)今度はなんとか席を確保しましたが、話題作のわりに上映館が少な過ぎるし、劇場パンフレットも扱ってなくて作品に関する情報もあまりない。これはもったいないなぁ。もともと中規模程度の公開の映画でこんなにヒットするとは予想してなかったんだろうけど、ならば拡大公開とかできないんでしょうかね。

 

ともかくようやく観られたわけですが、率直に観てよかったと思いました。

 

それは、二人の若手俳優の演技が見られたから。

 

一果(いちか)役の服部樹咲(みさき)と、りん役の上野鈴華(りんか)。彼女たちを知ることができただけでも僕にとってこの映画は観る価値が充分にあった。

 

 

 

 

そして、彼女たち、とりわけ本作品がデビュー作となる服部樹咲さんを“発掘”して素晴らしい演技を引き出したということにおいて、僕は内田監督を支持したい(Twitterでの発言にはいまだに納得いかないし、軽率だったと思いますが)。

 

僕はてっきりこの映画の主演は草彅さんなんだと思っていたのだけれど、これは彼と服部さんの“ダブル・ヒロイン”物だったんですね。

 

映画館に来ていた多くの女性客は草彅さんのファンだったようで、鑑賞後に「草彅君よかったぁ。やっぱり彼は演技巧いもん」などと口々に褒めていて、事実、草彅さんは熱演されてたと思うんですが、僕はむしろもう一人のヒロイン役の服部樹咲さんの存在感と親に育児放棄された状態の少女“一果”そのもののように感じられた演技の方が印象に残りました。

 

 

 

 

汚れたままのシャツを着てジャージを穿いてうつむき加減で暗い目をしてヌゥっと立っている一果の風情がなんともいえず、親代わりの凪沙のことをバカにしたクラスメイトの男子めがけて椅子をぶん投げる場面の突発的な暴力性なんかも「こういう子いそうだなぁ」と思わせて。だからこそ、その彼女が軽やかに踊るバレエは無口な一果自身の内なる声のようにも感じられる。

 

彼女が踊るバレエは僕のようなシロウトの目から見ても付け焼刃で習得できるようなものではないだろうことがわかったから、もともとそういう素養がある人なんだろうなぁ、と思っていたら、服部樹咲さん自身は4歳の頃からバレエをやっていてコンクールで優勝しているような人だったんですね。やっぱりなぁ。

 

 

 

そんな彼女がどうしてバレエに専念するのではなくて女優の道を選んだのかはわからないけれど、親からの愛に恵まれず貧しい生活の中でようやく“バレエ”の中に自分の居場所を見つける一果と、幼少期からバレエを習っていていわばその道のエリートである服部さんの役柄と本人との境遇のギャップもなんとも興味深くて、これからの活躍が本当に楽しみな俳優さんになりました。

 

また、一果と友だちになるりん役の上野鈴華さんも、大きくてちょっと気の強そうな瞳に既視感があって初めて見る人だとは思えなかったほど。

 

物やお金には囲まれているけれど自由がない、そのことで鬱屈や無力感を溜め込んでいるのがわかるりんの心情を表現する上野さんの細やかな顔の演技がよかった。

 

この二人がやりとりするシーンは彼女たちのたたずまいや顔の表情など、そのすべてが素晴らしくて、そしてとてもリアルだった。

 

りんは一果に「バレエ巧くなったね」と言う。一果は「…なってないよ」と答える。

 

この二人の、なったよ。…なってないよ、というリフレインがどこかはかなく美しい。言葉を交わし、唇を重ねる彼女たちの間に「これぞ映画」という時間が流れていた。

 

彼女たちのああいう演技を邦画でもっと観たいと思った。

 

りんは金持ちの家の娘でお金には不自由していないが、気晴らしのためか少女たちが男性客たちに写真を撮らせるバイトをやっていて、そのバイトにバレエ教室の月謝が払えない一果を誘う。

 

だが、個人撮影で男性客からの彼持参の露出度の高い水着を着てほしいというキモい要望に、一果は椅子をその客に投げつけて大声で叫ぶ。そのせいで警察を呼ぶ羽目になって、違法なバイトをしていたことが凪沙やりんの親にバレてしまう。

 

りんの母親(佐藤江梨子)は一方的に一果のせいにする。済まなさそうに一果に謝るりん。

 

一果がバレエを習っていたことを初めて知った凪沙は、一果がバレエを続けられるように、同じ店で働いていた瑞貴(田中俊介)が今では彼氏に貢ぐ金を稼ぐために働いている、男性を相手にする風俗店で自分も働こうとするが、堪えられずに客を拒絶してしまう。

 

このあたりの描写は、真面目に撮られているんだけど、僕はちょっとコントっぽく感じてしまって。

 

劇中で「堕ちた」と言われてるほど苛酷な状況に見えなかったんですよね。

 

いや、僕はそういうお店で働いたこともなければ客として訪れたこともないんで勝手な想像だし、当然ながらステージショーや接客の仕事をしてるからって誰もが男性に性的なサーヴィスをする仕事が平気なわけではないだろうけれど、描くんだったらもうちょっと丁寧にやるべきだったのではないかと思った。

 

たとえば、レディー・ガガ主演の『アリー/スター誕生』のお店の場面でドラァグクイーンたちが出てくるんだけど、彼女たちの会話や立ち居振る舞いからそのたくましい生き方を想像させられて、実際にこういう人たちはいるんだろうなぁ、と自然に感じられたんですが、この『ミッドナイトスワン』では田口トモロヲ演じるお店のママをはじめ、“おネェ”の皆さんがずいぶんとナイーヴに描かれてるなぁ、と。

 

 

 

 

『ミッドナイトスワン』でも冒頭で付き合ってる男のことでおねぇさまたちのかまびすしい様子が描かれていてそのあたりにはリアリティを感じはしたんだけど、もっと口八丁で相手をやり込めるような場面があってもよかったし、客から無礼なことを言われても冗談でやり過ごしながら「顔で笑って心で泣いて」みたいな、プロのしたたかで忍耐強いところも見せてほしかったなぁ。

 

それでこそ、プライヴェートで独りになった時にはいつも張ってる気がふと弛む、そういうところを描けるんじゃないかと思うので。

 

無神経な客に「オカマがこんなに頑張ってるんだから」などと言われた程度でいちいち傷ついたような表情を見せてたらあの商売やってけないでしょ。草彅さんには1本満足~♪」のCMの時ぐらいのハイテンションでやってもらいたかった。

 

「お仕事」をしてる時と普段の凪沙の様子にあまり違いがないので、日々の彼女のツラさが少々伝わりづらいのだ。

 

これがもしも一般の会社勤めをしている人の話なら、差別を受けてショックを受ける主人公を描いてもまた違ってくるとは思いますが。

 

凪沙の年齢がいくつの設定なのかわからないんだけど、上京するまでは“男”として生きてきて、それから女性として生き始めたのだろうから、そして一果の「お母さん」になれるとも思ったんだから、そこそこいい歳ではあるのでしょう。

 

どうも凪沙があまりに繊細過ぎて。

 

内田監督は何人ものトランスジェンダーのかたたちに取材したということだから、凪沙の人物造形にはそれが参考にされてはいるのでしょうが。

 

草彅さんが演じるトランスジェンダー女性を見ていたら、トム・フーパー監督が2015年に撮った、エディ・レッドメインが凪沙と同じトランスジェンダー女性を演じた『リリーのすべて』を思い出したんですよね。

 

 

『ミッドナイトスワン』では、シスジェンダー(トランスジェンダーではない人)の俳優がトランスジェンダーを演じることへの懸念や、劇中での性別適合手術後の描写などについて疑問が呈されていて、そのような批判に対して監督が反論になっていない挑発的な発言をしたおかげで炎上したわけですが(結果的にそれも作品に客を呼び込むことに繋がったのだが)、『リリーのすべて』でも主演のエディ・レッドメインは草彅剛同様にシスジェンダーの男性だし、これもトランスジェンダー女性を描いた『トランスアメリカ』(2005年作品。日本公開2006年)も僕は好きな映画でしたが、主演のフェリシティ・ハフマンはシスジェンダーの女性だった。

 

 

 

トランスジェンダーの役はトランスジェンダーが演じるべきなのか、ということについては当事者ではない僕には「こうすべき」などとは断言できないし、世の中の動向や人々の意識の変化を注視していこうと思いますが、たとえばこれを白人の俳優が有色人種の役を演じるのはオッケーなのか否か、ということと絡めると、「表現の幅が狭まる」という理由で無視したり雑に扱っていいことではないだろうとも思う。

 

一方で、だったら心身にハンデを負っている人の役は実際にそういう俳優が演じなければならないのか?という疑問も。同性愛者の役は?線引きをどこですればよいのか。

 

現在ではハリウッドでもトランスジェンダー役についてはいろいろと議論されています。

 

だから、みんなが互いに意見を述べ合っていくこと自体は必要だと思う。

 

だけど、そのことを差し引いても、やっぱり『ミッドナイトスワン』でのトランスジェンダーの描写は僕は不充分だったと思うんですよね。この題材がわずかでも「コント」に見えてしまってはいけないわけで。

 

どなたかが「まるで違うタイプの漫画の登場キャラが共演してるようだった」というような指摘をされていたのだけれど、ほんとにそんな感じだった。

 

服部樹咲さんが演じる一果の圧倒的なまでのリアリティと比べた時に、草彅さんが演じる凪沙はどうしてもデフォルメされた“キャラクター”にとどまっているように見える。

 

砂浜で踊る一果を見ながら、女子用のスクール水着を着て波と戯れている女児を思い浮かべて「綺麗…キレイ…」と呟きながら事切れる凪沙は、まるでメロドラマの主人公のようだ。まぁ、この映画自体が凪沙が空想した物語だった、と考えることもできなくはないけれど。

 

『リリーのすべて』は実在の人物を描いていて、主人公が手術後の経過が思わしくなくてほどなく最期を迎えるのも事実だけれど、そのあたりがずいぶんと似てますよね。あの映画もそのような悲劇的な描かれ方に一部で批判があったようだし。

 

もっとも、『リリーのすべて』の劇中ではハッキリと言及されていなかったと記憶してますが、主人公が亡くなるのは男性器の切除だけが原因ではなくて子宮や卵巣を移植しようと手術を繰り返したからで、また彼女が亡くなったのは1930年代の初めだったのに対して現代では医療技術も進歩しているので、先ほど述べたように『ミッドナイトスワン』での凪沙の術後の症状が現実に則したものなのかどうか疑問を呈されてもいる。客を泣かせるためにトランスジェンダーの死が利用されているのではないか、と。

 

浜辺で夢うつつのような状態で死んでいく凪沙にはヴィスコンティの『ベニスに死す』を連想したりも。「椿姫」のような“悲劇のヒロインの死”なんですね。

 

 

 

だから、この作品に対して「感動ポルノ」「お涙頂戴」という批判があるのも、僕は無理もないのではないかと思う。踊り続ける一果と、それを見つめている凪沙のあの場面はとても美しく撮られていましたけどね。

 

「娯楽作品」だろうがなんだろうがトランスジェンダーはファンタジーの世界の住人ではなくて実在する存在なんだから、できるだけ当事者の声は尊重されるべきでしょう。批判にだって耳を傾けなければ。描きようによっては差別にも繋がりかねない、とてもセンシティヴな題材なのだから。

 

僕が気になったのは、映画の中で一果と凪沙がまるで「本物」と「贋物」のような感じで対比されていること。

 

一果は生まれながらの“女性”で、凪沙はもともとは男性として生まれてきた。性別適合手術を受けて女性ホルモンも投与した凪沙のはだけた膨らんだ胸が映し出されて、それを見た一果の母・早織は「バケモノ」と罵る。

 

一果は子どもの頃バレエをやっていてその才能を見出されるが、凪沙がお店で他のトランスジェンダーの仕事仲間たちとトロカデロ・デ・モンテカルロバレエ団みたいに踊るそれは自己流で彼女にはバレエの経験も知識もない。それで一果から教わる。公園で踊る二人を見ていた老人が彼女たちのことを「お姫様がた」と呼んで褒める。

 

また、一果にバレエを教える片平先生(真飛聖)に「(一果の)お母さん」と呼ばれた凪沙は、女性として扱われることに喜びを感じる。

 

そのような経緯が描かれているからこそ、ようやく“女性”になれた凪沙が死んでしまう結末には疑問を感じざるを得ないんですよね。

 

あれでは、最後の最後まで「本物」の女性として生きることは叶わなかった、ということになってしまうじゃないか。彼女が今際の際に「キレイ…」と言って見ていたのは「本物」の女性で「本物」のバレリーナである一果と、彼女に重ねられた幻のスクール水着の女の子なのだし。

 

そもそも、親が粗暴で貧しい生活をしていたはずの一果はいつバレエを覚えたのだろうか。そして、東京に住み始めてからのあの短期間で果たしてあれほどまでにバレエの技術は上達するものなのか?

 

僕は、だったらむしろ凪沙にこそバレエの素養があった、というふうに描いたらよかったんじゃないかと思うんですが。彼女が何も持たない一果にバレエを教える、というような展開だったら、また印象も変わったと思う。

 

 

 

 

この映画への批判と、逆に擁護する人たちとの意見の対立って、ちょっと『グリーンブック』での議論を思い出すんですが(今回もあの映画を例に挙げて「批判されているからどんな映画かと思って観てみたら、とてもよかった」と感想を述べている人もいた)、僕もあの映画を楽しみつつも、批判の声に納得するところもあったんですよね。

 

『グリーンブック』は黒人を差別する白人の立場から描かれていたんだけど、この『ミッドナイトスワン』もまた、トランスジェンダーを差別したり受け入れたりする側の視点で描かれている。

 

だから、最後はヒロインは死んで、残された少女が真のヒロインだったようなラストを迎える。結局のところ、この映画は「一果の成長の物語」だったということ。凪沙は彼女を助けて死んでいく役回り。

 

一果役の服部樹咲さんがほんとに素晴らしかっただけに、余計に本来主人公であるはずの凪沙が脇に追いやられたようなふうにも感じられてしまった。

 

描くんなら、もっともっと凪沙の方に肉薄すべきだったと思う。

 

いろいろと考える材料を与えてくれているし、1本の「映画」として僕は大絶賛はしないけれど(後半の展開があまりに性急なことは否めない)、性的少数者への差別や貧困についてなどいくつもの観点から論じる意味や価値のある作品だと思います。

 

就職の面接で、面接官の男性が口にする「流行ってますよね、LGBTQ」「勉強していますよ」という言葉の無神経さへの言及など、自らを省みさせてもくれる。

 

ですから、あれこれと書きましたが、まだ観ていらっしゃらなくて興味を持たれましたらご覧になってみてはいかがでしょうか。

 

 

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