ブラッドリー・クーパー監督、レディー・ガガ、ブラッドリー・クーパー、サム・エリオット、ラフィ・ガヴロン、アンドリュー・ダイス・クレイ、アンソニー・ラモス、デイヴ・シャペル出演の『アリー/スター誕生』。PG12。

 

 

ミュージシャンのジャクソン(ジャック)・メイン(ブラッドリー・クーパー)は、ライヴの帰りに立ち寄ったドラァグ・バーで唄うアリー(レディー・ガガ)の歌声に魅せられる。早速、彼女をツアーに同行させてライヴでデュエットしたところ手応えを得る。やがて互いに男女として惹かれあうふたりだったが、音楽性の違いで意見が衝突したり、ジャックの飲酒とドラッグの常用が問題を引き起こすようになる。

 

1937年の『スタア誕生』の3度目のリメイク。一番最初の作品のヒロインを演じたのはジャネット・ゲイナーで、彼女とその主演作『第七天国』がつい最近『アンダー・ザ・シルバーレイク』でフィーチャーされてました。54年版の主演はジュディ・ガーランド、76年版はバーブラ・ストライサンド。

 

もともとは映画スターの話だったのが、54年版では唄って踊れるジュディ・ガーランドを迎えてミュージカル場面が入り、76年版(『スター誕生』)からは音楽業界の話にシフト。今回の2018年版もヒロインは歌手という設定。

 

僕は1954年のジュディ・ガーランド主演版をこれまでにBSで何度か観ていますが、上映時間が180分ぐらいあるうえに最初に劇場公開された時にカットされた場面の映像は残っていないのか、全長版では該当箇所にスティル写真が映ってバックに音声を被せるという処理をしているために内容に集中できなくて、細かいストーリーはよく覚えていません。ただ大筋は今回の『アリー/スター誕生』と変わらない。

 

今回の3回目のリメイクはもともとクリント・イーストウッド監督、ビヨンセ主演で考えられていたのが、めぐりめぐってブラッドリー・クーパーの監督、レディー・ガガ主演で完成。

 

 

 

今年は『ボヘミアン・ラプソディ』の大ヒットもあってミュージシャンを描いた音楽映画づいてますが、普段“音楽モノ”に食指が動かない僕もレディー・ガガの歌声が響くエモーショナルな予告篇に興味をそそられて、これは観ようと思っていました。

 

イーストウッドの企画が最終的にどのような形になったのか気になったし。

 

すでに観た人たちの中には『ボヘミアン~』同様に非常に高く評価してる人もいれば「歌はいいが、ストーリーがありきたりで上映時間も長く退屈」と結構辛辣な反応の人もいてさまざまですが、僕は好きですね。観てよかった。

 

ただし、(※ネタバレっぽいことを書きますのでご注意ください)これまでに『スター誕生』を観たことがなかったりストーリーを知らないかたは、たとえばミュージカル映画『グレイテスト・ショーマン』とか、先ほどの『ボヘミアン・ラプソディ』のように最後にみんなで合唱して思いっきり盛り上がって終わる映画を期待すると唖然とすることになると思います。そこんとこでも結構評価が分かれている。

 

では、これ以降は映画の内容について書きますので、これからご覧になるかたはご注意ください。

 

 

僕は同じくヒロインが歌姫になっていく76年版は観ていないので、そちらの結末はどうなのか知らないんですが、この最新リメイク版を観る前はヒロインの相手の男性が最後にどうなるかが気になっていました。

 

54年版ではジェームズ・メイソン演じるノーマン(今回のジャックに相当)は最後に自殺する。独り残されたジュディ・ガーランド演じるエスターが彼を偲んでスピーチをして映画は終わる。

 

今リメイクするなら、男性の方は死なずに別れる、という変更もあるのかな、と思ったんですね。

 

でも結局、ブラッドリー・クーパー演じるジャックは自ら命を絶つ。

 

そして、これまでの旧作ではノーマンは自殺だったのか事故なのか曖昧になっているものもあるんだけど、この『アリー』ではジャックはもう完全に自分の意思で死んでいる。自分のベルトで首吊りしてるから。事故の余地が微塵もないように描かれているんですね。

 

しかも、彼は子どもの頃にやはりベルトで自殺しようとして失敗した、というエピソードがジャックの口から彼の兄のボビー(サム・エリオット)に語られる。ジャックには最初からどこか自殺願望があった。

 

『アリー/スター誕生(原題:A Star Is Born)』というタイトルから主人公はアリーだと思いがちだけど、この映画では実は主人公はジャックなんですよね。

 

なんとなく観客が想像する、歌手のアリーが失敗や挫折を乗り越えて成長していく話、ではないのだ。

 

ジャックによって見出されたアリーが自分から周囲とトラブルを起こしたりライヴァルと争うようなことはなくて、彼女自身はかなりトントン拍子にスター街道を邁進していくんですね。ハッキリいえばアリーその人には「ドラマ」はほとんどない。

 

気がつけばあっという間にスターになってどんどん手の届かない存在になっていくアリーの姿が、まるで酔っ払って目が覚めると時間が飛んでるように感じるジャックからの見た目のような作りになっている。

 

『ボヘミアン・ラプソディ』で映画の後半に孤独に苛まれて乱れた生活を送るのが主人公のフレディだったように、ジャックはアルコールとドラッグで常に酩酊状態にあって、おまけに聴覚も失いつつある。

 

僕がこの映画を特に興味深く観た点は、ジャックの自殺の原因がハッキリしないところです。

 

『ボヘミアン・ラプソディ』でのフレディの「孤独」は、マイノリティゆえ、という比較的わかりやすい理由が添えられていた。実際のところどうだったのかはわかりませんが。

 

それに比べて、『アリー』でのジャックの自分を痛めつけてまわりにも心配と迷惑をかけた挙げ句、結果的に死を選択した理由はわかりにくい。

 

いや、有名人だったミュージシャンが若い女性歌手のタマゴを発掘して世に送り出すが、彼女が売れ出すのと反対に彼の方が落ち目になっていって、自分を悲観してか、あるいは今では妻となった若きスターの足をこれ以上引っ張らないためにか死を選んだ、というのはわかりきってて「ありきたりで特に面白くもない物語」だ、といわれるかもしれないけど。


実際、この映画が「イマイチだった」という評価のかたたちがそのように感じたのはジャックのあのあっけない最期に対する腑に落ちなさ、納得いかなさが理由のようだし。

 

もちろんアリーとの出会いはジャックの死と無関係ではないし、アリーのマネージャー(ラフィ・ガヴロン)から「またアルコール中毒がぶり返した時には、きっぱりとアリーと別れてくれ」と言われたのが直接のきっかけだとしても、ジャックの死の本当の「理由」は不明なのだ。

 

 

 

若い頃に親を亡くしたり、耳が聴こえなくなっても、愛する人と別れても、たくましく生きている人は世の中に大勢いる。

 

ではジャックは弱いのか、甘えているのか。そうなのかもしれないが、僕はジャックの自死は彼の心の中にあった“虚無”、ポッカリとできた空洞のせいだったのだろうと思う。

 

その一番の理由は尊敬していた父親の死だが(でも、ジャックが13歳で自殺を試みた時に父親はまだ存命中だった。だから彼の自殺願望は父親の死以前からのものだ)、当時すでに家を離れていた兄のボビーに言わせれば、彼らの父親は「ただの飲んだくれ」だった。

 

ジャックはバーで見知らぬ男からカラまれても、店で店員に無断でスマホで写真を撮られても怒りもせずに受け流しているのでアリーは不思議がるが、それは彼がほとんどのことはどうでもよくなっているからだ。

 

そんなジャックが父親の農地を人に売った兄のボビーには怒りを露わにして彼を殴りつける。

 

 

 

「父」は彼にとってかけがえのない存在だった。

 

ジャックは、生きるうえでの「柱」となるもの、自分の心を支えてくれる存在を欠いたまま生きてきたのではないか。飲んだくれだった父親をいまだに神格化しているのも、彼は自分を引っ張ってくれるものを必要としていたから。もしかしたら、無意識のうちにそれをアリーにも求めたのかもしれない。

 

ジャックは自分の子ども時代のことをアリーに語るが、アリーには彼の境遇がわからないし彼女はカウンセラーではないので、せいぜい黙ってうなずいてるぐらいで親身になって聴いてやることができない。

 

歌も、兄のボビーや愛するアリーでさえも、ジャックの心の空虚さを埋めることはできなかった。

 

酒もクスリも彼を救ってはくれない。

 

ジャックとアリーがいっとき言い争う「音楽性の違い」なんてものはもはやこの際重要ではなくて、ジャックがアリーにカラんだのはただ自分の中の苛立ちや空虚感を彼女にぶつけただけ。甘えたんですね。自分自身、仕事に追われてもいるアリーはそれを余裕を持って受けとめられないから、ジャックの口から吐かれた「醜い女」という侮辱的な言葉に傷ついて怒る。

 

アリーと彼女の父親(アンドリュー・ダイス・クレイ)との仲睦まじい親子の関係は、おそらくジャックが得られなかったものとして対比されている。

 

仲良く語り合っているアリー父子の様子を椅子に座って聴いていたジャックは、その後、大勢の前で妻の顔に泥を塗る大失態をしでかす。

 

やはり僕には、ジャックの壊れ方──才能があるのに、幸せを手に掴みかけているのに、それをわざわざ手放して足で踏みつけてしまうような振る舞い──は自らの心の隙間を埋められない者の「生き損なってしまう姿」に思えてならない。彼は死に場所を探していたのではないか。

 

車から降りたジャックがボビーにする「俺がほんとに崇めてたのは兄貴だ」という告白は、映画を観終わったあと思い返すとまるで兄への懺悔と遺言のようにも聴こえる。

 

もしもアリーと出会わなければ、ジャックは死なずに済んだのだろうか。だが、彼女と出会ったからこそ、彼はほんの少しだけ長く生きられたのかもしれないのだ。人がいつ死ぬのか、なぜ死ぬのか、それは誰にもわからない。

 

ジャックの耳が聴こえづらくなってきているのも、自殺の原因と考えられなくもないが、では耳に異常がなければジャックは無事だったのかといえば、それもわからない。

 

もともとどこかで死を望んでる者には何がトリガーになるかしれない。

 

「いつも耳の中でツーッという音が聴こえる」というのも、僕には身体的な障害以上にジャックの心を苛むものを象徴的に表現してるようにも思えたのでした。

 

ボビーはジャックを失ったアリーを慰めて、「悪いのは君でも俺でもない。誰が悪いのかといえば、それはジャックだ」と言う。残された者たちとしては、こう思うしかないだろう。

 

アリーは泣きながら「救えたかもしれないのに」と言うが、世の中には救えない魂というのはあるのだと僕は思います。

 

この映画は、歌が人を救わないこともあることを残酷に描いている。

 

アリーとジャックは歌を介してつかの間ふれあい愛し合ったが、ふたりがともに生きることは叶わなかった。

 

ジャックは去っていったが、それでもアリーは唄うことをやめずにこれからも歌とともに生きていく。そういうことを物語っている。

 

アリーとジャックの出会いは無駄でも無意味でもなかったが、それはアリーが“スター”になれたからではなくて、ただあの出会い、ともにいたあの時間はかけがえのないものだった、ということ。

 

彼らが唄った歌はこれからも残っていくのだ。

 

この『アリー』はアメリカや他の国々では大ヒットしているにもかかわらず、どうやら日本では観客動員数が当初の期待ほど伸びていないようなんですが、それはこの映画がとてもハッピーエンドとは言い難い結末を迎えるから、というのも大きいんでしょう。リピーターが少ないのかもしれないし(って、僕もまだ1回しか観ていませんが)、レディー・ガガへの興味自体が日本ではあまりないのかもしれない。

 

最後に自殺するジャックに対して「無責任」と斬って捨ててる人が多いのは、それだけこの国では人の死に痛みを感じるよりも自己責任を持ち出して苛立ちを感じる人の方が多いからだろうか。

 

あんなに素晴らしい歌を唄っていた男が死んだことに、悲しみよりも「退屈さ」や「つまらなさ」を感じてしまう人が多いらしいことが僕はちょっと寂しいんですが。

 

自ら命を絶つ人のことを責めるのはたやすいけれど、でも誰になんと言われようと「生きるのがつらい人」はいるのだ。その事実は知っておいてよいかと思います。

 

歌が人を救わないことだってある。

 

劇中でジャックの死に変に意味づけをしたり、彼の人生を美化することなく、ただ彼が死んだという事実だけを冷徹に捉えて、残されたアリーやボビーたちのやるかたない表情と互いに交わしあう言葉だけで表現したことも、とても誠実なものを感じました。

 

映画評論家の町山智浩さんの解説によれば、この映画を自ら監督してジャックも演じたブラッドリー・クーパー自身がかつてアルコール依存症の治療を受けたのだそうで(劇中でも彼は実際には一切飲酒していない)、それもジャックのキャラクター造形に取り込まれているのでしょう。

 

ブラッドリー・クーパーは来年日本で公開されるイーストウッドの監督・主演映画『運び屋』に2015年の『アメリカン・スナイパー』に続いて出演している。

 

ブラッドリー・クーパーが監督もやる人だとは知らなかったけど、やはりイーストウッドの監督作品『チェンジリング』(2008)に主演したアンジェリーナ・ジョリーものちに自分で映画を監督しているように、同じ俳優出身としてイーストウッドが彼らに与えた影響は大きそうですね。

 

俳優出身の映画監督は役者の生理がわかるから出演者にとってはやりやすいという話はよく聞くけど、クーパーは製作や脚本にもかかわっていて、初監督作品としては素晴らしい出来だと思います。

 

前に書いたように、これは一見アリーの物語のようでありながら実はジャックの物語で、心に空洞を抱えた男がある女性とその歌声との出会いによってしばし生きることに充実感を覚えるものの、やがて再び無力感や虚無感に苛まれてこの世から立ち去っていく姿を描いている。

 

ブラッドリー・クーパーがどの程度まで自分の人生を作品に反映させているのかはわからないけれど、僕にはこれは彼が映画の中でジャックを殺すことによって自分自身の忌まわしい過去を葬ったように思えたんですよね。一種の自己セラピー映画といえる。

 

映画に限らないけど、フィクションの登場人物や時には実在の人物の破滅的なエピソードを通して、作り手や観客がその人物の人生を生きてみる、ということはある。

 

映画の中の「彼」は俺の代わりに死んでくれたのではないか。そのおかげで自分はまた明日をなんとか生きていける気がする。

 

たとえ人に鼻で笑われようと、映画にはそういう効用もある。

 

だから、この映画を観て、ジャックの死を「つまらん」と感じた人は健全なのかもしれない。映画の登場人物に自分の代わりに死んでもらう必要がないのだから。

 

 

レディー・ガガはとてもこれが映画初出演とは思えない演技と存在感を見せている。

 

僕はお馴染みの不思議な衣裳やメイクの彼女しか知らなかったから、すっぴんのレディー・ガガの普通さが意外だったし、でもガガが演じるアリーはおとなしくて引っ込み思案な女性なんかではなくて、思ったことは言葉に出して言うし態度でも表わす。相手が有名な歌手だろうと萎縮しない。

 

そういう、これから世に出ていこうとしている生身で等身大の才気溢れる女性を生き生きと好演している。この役は彼女だからこそ説得力を持ったのでしょう。

 

最初に予定されていたように、もしもこの役をビヨンセが演じていたら、自分の顔にコンプレックスを持つヒロイン、という役柄は果たして成り立っただろうか。

 

ビヨンセも以前『ドリームガールズ』で魅力的な演技を見せていたから、これは演技力云々の話ではなくて、他人から外見のことをとやかく言われる女性、ということではアリーとレディー・ガガは見事に重なるんですよね。

 

レディー・ガガもまた体型について、やれ「激太り」だのなんだのといちいち言われてる人でもある。

 

僕はレディー・ガガがこの映画で披露した素顔って、別に特別ブサイクでもなければ超美形というわけでもない、「普通」の顔だと思うんで、そもそも彼女の顔の作りにイチャモンつける意味がよくわからないんですが、結局それって女性歌手だからことさら外見のことをとやかく言われるんじゃないのか。男性歌手ならここまで顔のことなんて言われないだろう。

 

 

 

テイラー・スウィフトみたいな顔や体型を「美人」と呼ぶのなら、アリーやレディー・ガガはそれには当てはまらないけれど、でもそれがどーした、と気にせず躍進していく姿こそが世の中の多くの女性たちの勇気を喚起したんじゃないだろうか。

 

アリーは以前、音楽業界のおっさんに鼻のことをとやかく言われたから気にしているけど、彼女自身は自分の外見を過剰に気に病んでいる様子はない。余計なことを言う奴がいるから面倒だが、自分を魅力的に演出する方法を彼女はわかっている。

 

映画『アリー』は一見するとジュリア・ロバーツ主演の『プリティ・ウーマン』みたいな話だけど(劇中で「Oh, Pretty Woman」も唄われますが、皮肉な使い方をされている)、その後の展開や結末はまったく違う。

 

アリーにチャンスを与えたのはジャックだが、彼女は王子様に救い出されるお姫様ではなくて、自らの力で手に入れたチャンスを最大限に活かしていく。

 

アリーは王子様がいなくても歌手としてこれからも生きていける。

 

アリーは最初ドラァグ・バーで働いていてそこで客の前で唄っているんだけど、その姿はゲイの人たちにも人気が高いというレディー・ガガ本人に重なるし、アリーが唄っていた「ラ・ヴィ・アン・ローズ(バラ色の人生)」はフランスのシャンソン歌手エディット・ピアフの曲で、彼女のあの有名な弓のような眉をアリーが真似していた。奇抜なメイクをするレディー・ガガに通じるセンスですよね(レディー・ガガがチャリティ・イヴェントで「ラ・ヴィ・アン・ローズ」を唄っているのをブラッドリー・クーパーが聴いたことがアリー役のオファーのきっかけになったのだとか)。

 

エディット・ピアフは47歳の若さで亡くなっており、また54年版の『スタア誕生』の主演のジュディ・ガーランドも偶然ながら47歳で早世している(『スタア誕生』は、ガーランドの実人生に重ねて語られることが多い)。二人の伝説的な歌手はまたゲイ・アイコンでもある(バーブラ・ストライサンドも同様)。エディット・ピアフとジュディ・ガーランドに連なる存在としてのレディー・ガガ、というのは個人的にはとてもしっくりくる。

 

後半でどんどんメイクや衣裳が派手になっていくアリーよりも前半での簡素な身なりでほぼすっぴんに近い彼女の方が個人的には好みですが。

 

最後にみんなの前でジャックの追悼のために唄う彼女の化粧や衣裳はとてもよく似合っている。

 

本格的に演技することはこれが初めてのレディー・ガガと、これまで歌手として活動したことはまったくなかったブラッドリー・クーパーのふたりのコラボレーションが生んだ、名作の風格のある作品に仕上がっている。

 

 

 

これは浅い水から水面を昇っていく者と落ちていく者の物語で、だから確かに別れに至る結末に意外性はないんですが、一緒になって水に飛び込んだその瞬間にはふたりは同じ場所にいたわけで、その一瞬の出会い、本当にわずかな間の両者の共鳴こそが切ない。

 

 

 

音楽だったり、他の芸能、芸術活動、世の中のさまざまな場所でこのような運命的な出会いと悲劇的な別れがいくつも起こっている。

 

古典的であるとともにリアルでもある。

 

僕はこの映画で描かれた物語を陳腐だとも古臭いとも思いませんが、まぁ、どう感じるのかは人それぞれですしね。

 

ブラッドリー・クーパーが今後も映画を監督するのかどうか知りませんが、次回作も楽しみにしています。

 

そして女優としてのレディー・ガガにも、またいつかスクリーンで再会できたら嬉しいな。

 

第91回アカデミー賞歌曲賞(「Shallow」)を受賞。

 

 

追記:

 

その後、2019年4月5日から『アリー/スター誕生:アンコール・バージョン』と題して初公開時よりも12分長いヴァージョンが1週間限定公開されたので観てきました。

 

たまたま映画サイトで知ったんですが、特に宣伝していなかったのであやうく観逃すところだった。

 

僕はこの映画をこれまでに1回しか観ていないし、前回から結構時間も経っているのでどこが付け加えられたシーンなのかよくわからなかったんですが(要するに違和感がなかったということですが)、初公開時には丸ごとカットされていた曲が入っていたり、ところどころ歌唱シーンがロングver.になっているということなのだそうで。

 

「ブラック・アイズ」「アリバイ」の歌唱シーン、そしてレディー・ガガが演じるアリーが「シャロウ ~『アリー/スター誕生』 愛のうた」の即興アカペラ・パフォーマンスを行うシーンが拡大。その他、アリーが、ブラッドリー・クーパー演じるジャクソンのために「イズ・ザット・オールライト?」を捧げる結婚式のシーン、ジャクソンがスタジオで「トゥー・ファー・ゴーン」を歌唱するシーンが追加されている。さらには、レディー・ガガとブラッドリー・クーパーが共同制作した楽曲であり、本編未収録且つ大ヒット中のサウンドトラックにも収録されていない「Clover」と題された曲のシーンなど計12分間が追加された特別編。

(テアトルシネマグループのサイトより引用)

 

久しぶりに劇場で観て、大きめのスクリーンで音もいい会場だったおかげもあって、まるでレディー・ガガとブラッドリー・クーパーのライヴ・コンサートを観ているようで惹きこまれました。

 

 

 

けっして「ハッピーなエンディング」というわけではないので何度も繰り返して観たい作品ではなかったのだけれど、でもふたりのあの歌声は暗さや悲しみに飲み込まれてしまわない魅力を放っていたから、『ザッツ・エンタテインメント』で紹介されていた「歌が終わっても、メロディはいつまでも残るのです」という言葉通り、映画を観終わっても歌の力強さ(演技の確かさも)、心に響いたあのメロディはずっと耳に残るんだよなぁ、とつくづく思いました。

 

また観られてよかったです。

 

 

関連記事

『ハウス・オブ・グッチ』

『ナイトメア・アリー』

『ジュディ 虹の彼方に』

『イン・ザ・ハイツ』

 

 

 

 

 

スタア誕生 [DVD] スタア誕生 [DVD]
871円
Amazon

 

スター誕生 [Blu-ray] スター誕生 [Blu-ray]
1,071円
Amazon

 

 

にほんブログ村 映画ブログへ にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ