監督・主演:クリント・イーストウッド、出演:ブラッドリー・クーパー、ダイアン・ウィースト、イグナシオ・セリッチオ、アリソン・イーストウッド、タイッサ・ファーミガ、マイケル・ペーニャ、ローレンス・フィッシュバーン、アンディ・ガルシアほかの『運び屋』。2018年作品。
The Spiral Starecase - More Today Than Yesterday
園芸家のアール・ストーン(クリント・イーストウッド)はデイリリーの栽培の名手として知られていたが、やがてインターネットの普及により商売が立ち行かなくなり、家も失うことに。妻のメアリー(ダイアン・ウィースト)とはすでに別れ、子どもや孫たちとも疎遠な彼は90歳にしてメキシコの麻薬組織の下で運び屋となる。
『運び屋』及びイーストウッドの過去作のネタバレがありますので、ご注意ください。
クリント・イーストウッドが『人生の特等席』以来6年ぶり、また自身の監督作品としては『グラン・トリノ』以来10年ぶりに主演を務める最新作。
88歳のイーストウッドが実在の人物レオ・シャープをモデルにした90歳の老人を演じる。
去年からこの映画のことは知ってたし、イーストウッドの弟子筋の人が監督した『人生の特等席』の時に「もしかしたら、これで彼の主演作品は見納めになるかも」なんて思ったけれど、今回自らの監督作品に主演ということでいつものイーストウッド作品以上に楽しみにしていました。
ところで、この年齢で監督と主演の両方を兼任した人というのは僕はちょっとすぐに思い浮かばないんですが、他に誰かいたっけ?
監督作品はここ数年間ずっと観続けてきたし、監督としてのその姿も見てきたけれど、あらためて今回の映画に俳優として出演しているクリント・イーストウッドを見ると、猫背気味でちょっと首が前に突き出たような様子など「あぁ、ほんとにおじいちゃんなんだなぁ」と思った(宇多丸さんによるとあれは演技だそうですが)。
かつては太くたくましかった腕も皺だらけで細くなっている。
そりゃ88歳といえば笠智衆や黒澤明が亡くなった年齢だし充分ご高齢なわけですが、何分イーストウッドという人は規格外の俳優・監督なので、そんなお年寄りという印象がなかったんですよね。
いや、ある時期からずいぶん長く「老人」をやってる感じもあって、だからもう慣れちゃってて『グラン・トリノ』の頑固爺さんのイメージのままだった。でも、あれからもう10年経ってるんだもんね。
この映画を観たら『グラン・トリノ』の彼はまだ全然若いよな、と思った。
イーストウッドはいつだってフットワークが軽いし、常に次の企画のことを考えているだろうから、これが最後のつもりはないと思うけど、それでも今ではその1本1本がとても貴重な作品になっているし、いずれは最終作品となる時がやってくる。
僕はこの『運び屋』こそは、まるでイーストウッドの遺言のような映画に思えました。
いえ、まだまだ新作を撮り続けてほしいし主役も張ってほしいですが、ここでは映画の内容がイーストウッドの人生そのものと重なるように作られていて、それは映画評論家の町山智浩さんが解説されていたように意識的にそう描いているんですよね。
あ、町山さんは「イーストウッドがこの映画の中でセックスシーンを演じてる」と仰ってましたが、ベッドで女性が着衣のままで上に乗っかる描写はあるけど、別にヤってる場面が映るわけじゃありませんので。期待しちゃったじゃないか(何をだ)。
まぁ、あの歳でムッチムチのおねえさん二人を相手に、というのは、あれがイーストウッドの私生活を描いたものならなかなか驚愕ではありますが。
でも、劇中でアンディ・ガルシア演じる麻薬カルテルのお偉いさん、ラトンがイーストウッド演じるアールに女性たちをあてがうんだけど、90歳の爺さんに女抱かせるか?ヤってる最中にポックリ逝っちゃったらどうすんだ^_^; そんなわけないだろ、とw
そもそも80代後半の老人に大量の麻薬を運ばせようとしたこと自体が尋常な神経ではないのだが。
この映画でイーストウッドの実娘であるアリソン・イーストウッドが主人公アールの娘アイリスを演じていて、彼女は1997年の『目撃』でもワンシーンだけ画学生役で出演していたけれど、親子役でこれだけ芝居で絡むのは『タイトロープ』以来34年ぶり。
『人生の特等席』でも娘と距離のある父親役だったし(娘役はエイミー・アダムス)、それ以外でもイーストウッドが演じる主人公の娘が登場する映画は何本かあるけど(『目撃』ではローラ・リニー、『トゥルー・クライム』ではまだ幼かった実の娘フランセスカを起用)、あえて『タイトロープ』でも親子を演じた(実生活では疎遠だった)アリソンを再びキャスティングして劇中で彼女に父親への恨み言を言わせたのは、この作品がイーストウッドの娘への、そして家族への贖罪の意味もあったからでしょう。
『許されざる者』をはじめ『グラン・トリノ』もそうだったように「贖罪」というテーマはイーストウッドの映画でしばしば描かれるものだけど、これだけストレートに彼の人生を映画に投影させた作品も稀なのではないか。麻薬に関する部分以外はほぼ半自伝的ともいえるような内容。
『許されざる者』で西部のガンマンを卑怯者だったり臆病者だったり無法者として描いたイーストウッドは、『グラン・トリノ』ではアメリカの文化をアジア系の少年に託して去っていった。
あのラストはこれまで『荒野の用心棒』や『ペイルライダー』『ダーティハリー』などで不死身で無敵のヒーローを演じてきたイーストウッドがあえて見せた老いと死だった。
白人の彼の遺志を継ぐ者が有色人種の若者だったことは意識的なものだろうし、『グラン・トリノ』のモン族の若者たちの描写は今回の『運び屋』でのメキシコ系の登場人物たちの描き方に通じるものがある。
僕はアメリカの実情を知らないからああいうギャングたちがほんとにいるのかどうかわかりませんが、『グラン・トリノ』のアジア系も『運び屋』のメキシコ系も、凶悪な犯罪者たちとそうでない者とを2つの種類の人間に分けて描いている。もうちょっとそれ以外のヴァリエーションがあってもいい気はするんですが。
『運び屋』では麻薬カルテルに属する男たちとマイケル・ペーニャ演じるDEA(麻薬取締局)捜査官。
ペーニャの麻薬捜査官はモデルになった人がいるのか、それとも映画として人種的にバランスを取ったのかは知りませんが、一応作り手側は特定の人種を一方的に悪く描かないように気を遣ってはいる。
ただでさえメキシコからの密入国者のことでいろいろと問題を孕んでいるわけだから、そのあたりはとても繊細な配慮が必要なところだし。
イーストウッド自身が移民や難民についてどう考えているのか、それが語られているわけじゃないけれど、彼なりの時代の変化との付き合い方を描いているとはいえるかもしれない。
ポークサンドを出す店でのメキシコ系に対する地元の白人たちのあからさまに差別的な視線には身震いした。すぐに警官もすっ飛んできて横柄な態度で立ち退きを命じてくるし。21世紀のこの時代にも平然と人種差別を続ける白人たち。信じられない。さすがトランプが大統領をやってる国だ。
この映画に登場するメキシコ人の多くは麻薬カルテルの構成員たちだから、この映画だけ観てると偏見を持ちそうになるけど、先日観た『ROMA/ローマ』でも描かれていたように、当然普通の真面目な生活をしている人々だっている。
日本のヤクザ映画を観て「日本人はみんなヤクザ」と思われたら迷惑なのと同じこと。
罪の意識、というのはアメリカ人全体にいえることで、これまで先住民や多くの有色人種を虐殺してきた彼らには潜在的な罪の意識から来る復讐への恐怖があって、それが過剰な防衛という形で現われたり、自分たち自身のしてきたことの正当化という居直りがしばしば見られる。それは映画の中でも同様。イーストウッドがこれまで描いてきた「贖罪」というのも彼の映画俳優としての出自である西部劇から来ている。
西部劇はアメリカを象徴するものだが、それはインディアン(ネイティヴ・アメリカン)を悪者にすることで始まったジャンル。イーストウッドはそういう古典的な西部劇を破壊する作品を撮ってきたが、彼自身をヒーローとして描くことで白人たちの罪を免責する役割も担っていた。
そして、イーストウッドの場合は妻や子どもたちへの罪の意識が、この『運び屋』のような作品を生み出す結果になったのではないか。
映画の中で自分の罪を告白して、妻や娘たちから許されること。イーストウッドが望んだのはそういうことなんだろう。
この映画は危険な麻薬組織に関わった主人公を描いているからサスペンスの要素があって人が撃たれたり死体が映されたりもするんだけど、それらはわずかにワンシーンずつだし残酷な場面はほぼなくて直接的な暴力シーンも省略されている(主人公を演じているのがリアル老人だからってのもあると思うが)。何よりも「おじいちゃんが麻薬の運び屋」というギャップが可笑しい、ちょっとほのぼのとするような内容でもあるので陰惨な印象はない。
ラジオから流れる歌を一緒に口ずさみながらご機嫌でドライヴするおじいちゃんにちょっとほっこりしたりも。
それにしても、ほんの何年か前まではあれだけ知名度があって稼いでもいただろうに、90歳で年金暮らしをするのでもなく麻薬の運び屋をしなければ生活ができないって、どんな状況なんだろう。
大金を手にしたアールは差し押さえられた家を取り戻し、ボロかった車を買い替え、疎遠だった家族のためにパーティの費用も出し、火事で運営が難しくなった老人たちの憩いの場を維持するためにさらに運び屋を続ける。
やってることは犯罪だから最後は当然の帰結を迎えるんだけど、でも「家族」というもののありがたみを見せてもくれるから後味は悪くない。
『グラン・トリノ』で自らを殺したイーストウッドが、ここでは最後に穏やかに花壇の花の世話をする老人を演じる。でもそこは刑務所の塀の中、というのが切ない。
これは映画の中でイーストウッドが自らを「罪人」と認めた、まさに懺悔の物語でもある。
この映画で面白いのは、主人公のアールはこれまでイーストウッドが演じてきた主人公のキャラクターを踏襲しながらも、結構外ヅラがいいんですよね。けっして特別偏屈だったり人付き合いが苦手なわけではない。
ユーモアがあってジョークを言ったり赤の他人のことも気遣ったりする、かなりコミュニケーション・スキルの高い人なんだよね。インターネットは苦手だけど、スマホの使い方も覚えようとするし。
これだけ昔からの仲間との付き合いもあってまわりの人たちとも馴染んでて、それどころか犯罪者たちとも仲良くなれちゃうような人が自分の家族には無関心だった、というのが僕にはどうしても解せないんだけど、イーストウッド自身がそういう人だったということなのか。
お笑い芸人が私生活では別に面白いことを言わず愛想もない、みたいな。
家族がいるにもかかわらずそれをほったらかしにして好きなことに邁進してきた彼は、そうやって家族に一方的に甘えることで表でいろいろと取り繕うストレスを晴らしていたのだろうか。ほったらかされる家族にしてみればたまったものではないが。
日本だったら、渡辺謙さんと娘の杏さんの関係をちょっと連想してしまうんですが。謙さんもいくらイーストウッドの映画に出演したからって、そんなところを手本にしなくてもいいのに^_^;
だけど、僕がちょっと感じたのは、この映画の中でアリソン演じるアイリスが自分の結婚式に来ない父親に失望して涙したり、その後再会した時にも父親を避けたり彼を激しく非難したのは、自分で監督して父親を演じているクリント・イーストウッドの“願望”も入っていたのではないか、ということ。
娘があんなふうに自分のことを求めてくれたら、というね。自分は娘を傷つけてきたのだ、という罪の意識があるからこそ、映画の中で娘に自分を激しく罵らせたのではないか。
もともと父親と疎遠だったのなら、その父が自分の結婚式に来なかったからといってあそこまでショックを受けたりするだろうか、と思うもの。
実際にアリソン・イーストウッドが父クリントのことをどう思っているのかは僕らにはわからないわけで。
妻のメアリーが心の底ではアールのことを愛し彼の帰りをずっと待っていた、というのもよくよく考えれば実に都合が良過ぎる話で。イーストウッドが実際に別れた最初の元妻と和解したのかどうかは知りませんが。
イーストウッドは2番目の妻とも別れて最近はミック・ジャガーの元恋人で娘よりも若い女性と付き合ってるとか言われてるから、爺さん全然懲りてねぇじゃねーか!とも思うし^_^; この映画自体もまた彼の「外ヅラ」の方なのかも。
『アメリカン・スナイパー』で主演したブラッドリー・クーパーが頼りがいのあるDEA捜査官を演じていて、彼に比べるとマイケル・ペーニャの同僚は存在感が薄い。そのあたりがどうしてもイーストウッドの白人としての限界であるようにも思う。ブラッドリー・クーパーの演技がいいだけに。
有色人種は助手や相棒止まりなのだ(イーストウッドはジャズに強い思い入れを持っているし、黒人俳優フォレスト・ウィテカー主演の『バード』も撮ってますが)。
メキシコ人の麻薬カルテルといえば最近でもトム・クルーズが主演した『バリー・シール/アメリカをはめた男』や、あいにく僕は観てないけどベニチオ・デル・トロ主演の「ボーダーライン」シリーズもあった。現実にメキシコ系の凶悪で非道な犯罪者たちが大勢いることは事実だ。
でも、どうしてそのような者たちがいるのかといえばアメリカがその原因を作っているんだから、他人事みたいな顔をして被害者ぶる資格は彼らにはない。自分たちで責任取れよって話。
この『運び屋』の主人公アールに麻薬を運ばせたシナロア・カルテルがのさばっている理由だって根底にはアメリカの存在がある。
自分のせいで敵を作っておきながら、それを退治して英雄ヅラするアメコミヒーロー映画と同じことをやっている。
だから、これは事実を基にしているんだからその通りに描いただけでもあるけれど、最後にアールが麻薬カルテルに騙された被害者ヅラするのではなく罪を認めて刑務所に入るのは、映画として誠実な態度とはいえるかもしれない。
イーストウッドの家族への個人的な贖罪の気持ちと、アメリカとメキシコの麻薬をめぐる問題が重ねて描かれているのが面白かった。
そして、麻薬の運搬を監視するフリオ(イグナシオ・セリッチオ)がボスのラトンのことを「自分を拾ってくれた恩人」として忠誠を誓っているのを見て、アールが「彼らは君のことをコマとしか見ていない」と忠告する場面では、やはり『ROMA/ローマ』で政府に雇われたならず者集団に属する先住民の血を引く若者の姿が重なる。「武術が俺を変えてくれた」などと言っていたあの若者はクズ野郎だった。フリオもやってることは同じ犯罪だし、彼の行く末は車のトランクの中に横たえられた相棒の死体で想像できる。
長い年月を生きてきたアールの言葉には説得力があるし、アールがフリオに語ったことはイーストウッドの率直な意見なんだろうと思う。
そしてブラッドリー・クーパー演じるベイツ捜査官に家族の大切さを説く場面でも、自分自身の過ちを教訓として若い者に伝え、老いた者の役割を果たそうとする。
またアールの方も、車のタイヤがパンクして立ち往生している黒人の家族にアドヴァイスするシーンで、彼らのことを「ニグロ」と発言して「今は“ニグロ”とは言わない。“黒人(Black)”と言ってください」と言われて素直に聞き入れる。
ゴツいバイカーの“あんちゃん”たちだと思って声をかけたら、たくましい同性愛のおねえさまたち“ダイク”だった時のやりとりもそう。
時代が移り変われば変わっていくことはある。変えるべきだと考える人たちの努力で変えられていくものもある。
知らなかったことを教えられたら、それを覚えて新しい知識として取り入れていけばいい。人は変化することができる。
そして、たとえ過ちがあってもよりよい明日に繋げていけたらどんなにいいだろう。
昨日よりも今日の方が。明日はもっと。
イーストウッドは老いた自らの姿に“アメリカ”のあるべき姿を重ねているのかもしれない。
ラストシーンで遠退いていくイーストウッドの姿に、唐突に『サイレント・ランニング』のラストシーンを思い出してしまった。
小さな映画だけど、また1本ステキな作品が生まれましたね。
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