アルフォンソ・キュアロン監督、ヤリッツァ・アパリシオ、マリーナ・デ・タヴィラ、マルコ・グラフ、ダニエラ・デメサ、カルロス・ペラルタ、ディエゴ・コルティナ・アウトレイ、ナンシー・ガルシア・ガルシア、フェルナンド・グレディアガ、ホルヘ・アントニオ・ゲレーロ、ラテン・ラヴァー、ヴェロニカ・ガルシアほか出演の『ROMA/ローマ』。2018年作品。R15+。モノクロ。
第91回アカデミー賞外国語映画賞、監督賞、撮影賞受賞。
1970年、メキシコシティのローマ地区。アントニオ(フェルナンド・グレディアガ)とソフィア(マリーナ・デ・タヴィラ)の一家のもとで家政婦をしている先住民の出のクレオ(ヤリッツァ・アパリシオ)の目を通して、当時のメキシコの中流階級の家庭の日常が描かれる。
『ゼロ・グラビティ』のアルフォンソ・キュアロン監督が故郷のメキシコで撮った半自伝的な作品。
彼の実家で家政婦として働いていた女性リボリアさんの体験を基にしていて、作品は彼女に捧げられている。
キュアロン監督と主演のヤリッツァ・アパリシオ
この作品はNetflixの出資でネット配信されていて、アカデミー賞の外国語映画賞だけでなく作品賞にもノミネートされたことで話題になっていたし(作品賞は『グリーンブック』が受賞)、劇場公開前にネット配信される作品は「映画」と呼べるのか、とかその作品に映画祭が賞を与えることへの疑問も出ていて、アメリカでの劇場公開もかなり限定的だったようだし、フランスのように劇場公開されていない国もある。
以前、お馴染み映画評論家の町山智浩さんの作品紹介を聴いた時にはまだ日本での劇場公開のアナウンスはされていなくて、僕はNetflixに加入していないので観るすべがなかった。
だからアカデミー賞の授賞式の直後に書いたブログ記事では、「映画館で観られない作品が賞を獲ろうが獲るまいが興味がない」と書きました。
実際、このまま映画館で観られずDVDもレンタルされないままだったら観ることはなかったでしょう。
でもその後、日本では3/9(金)からイオンシネマでの劇場公開が決定。
「興味がない」などと言いながらも、作品自体には興味があったから観てきました。
…とても素晴らしい映画でした。
もし映画館で観られる環境にお住まいでしたら、すでにNetflixで視聴済みのかたも劇場でご覧になってみることをお勧めします。
確かにアート系寄りの地味な映画だし(だから配給がつかずNetflixが名乗りを上げた)、誰にでも楽しめる娯楽作品ではないので観る人を選びますが、なぜこの映画がさまざまな映画祭で高く評価されアカデミー賞にもノミネートされたのか、映画好きな人ならわかるだろうから。
Netflixの作品が「映画」かどうか、という議論は映画の制作者や興行側の言い分とか映画ファンの中でもさまざまな意見があるし、僕には判断しかねますが、先ほどの記事にも書いたように僕個人は映画館で観られればそれでいいので、映画館で観ることができた以上はこの作品を「映画」だと思っています。作品自体は劇場公開に耐えられるクオリティだし、それを前提に作られているから。
そしてオスカーの外国語映画賞を獲ったことにも大いに納得。
日本からノミネートされていた『万引き家族』は僕はとても好きな映画だから受賞を逃したことは残念ではありますが、町山さんも仰っていたように、これはもう「相手が悪かった」としか言いようがない。
スペイン語のメキシコ映画にもかかわらず作品賞にノミネートされたことについては、作品賞の定義がよくわからないんですが(アメリカの会社が出資してればアメリカ映画ということになるのだろうか)、仮にこの作品が作品賞を獲っていたとしてもおかしくなかったと思う。
それぐらい力のある映画だった。
そんなわけで、今年に入ってこれまで一番だった『ファースト・マン』を超えて、今のところ僕にとってはこの映画は今年のベストワンです。
それでは、これ以降は内容について述べますので、まだ鑑賞されていないかたはご注意ください。
映画が始まってしばらくは主人公のクレオが二階建ての屋敷の離れに住み込みで働く一家での日常が綴られる。
字幕で年数は入らないけど、登場人物たちの服装や家の調度品、TV番組、車、街の様子などから時代が現在ではないことがうかがえて、子ども部屋の壁に1970年であることを示すポスターが貼ってある。
雇用主一家は白人であり、一方で田舎から出てきた家政婦のクレオやアデラ(ナンシー・ガルシア・ガルシア)は先住民の血を引いている。そこですでに出身と肌の色の違いによる格差があることがわかる。
土着の信仰によるお祈りを毎晩行なうクレオとアデラ、そして墓標の十字架や白い布にくるまれる赤ちゃんの遺体などキリスト教の「死」のイメージ。
ただし、雇用主一家が家政婦たちに対して特別厳しかったり差別的ということはなくて、子どもたちもクレオに懐き彼女を信頼している。
僕はこの映画の内容については詳しく知らなかったので、淡々と描かれる70年当時のメキシコの様子を興味深く眺めつつも作品がどのような方向に進んでいくのかわからずにスクリーンを見つめていたんですが、雇用主一家の長であるアントニオが浮気をしていたことが判明したり、クレオが付き合っていたフェルミン(ホルヘ・アントニオ・ゲレーロ)が彼女が妊娠を知らせた途端に雲隠れするあたりから不穏な空気が流れ始めて、やがて「平穏で幸福だった時代」がかき乱されていく。
監督のアルフォンソ・キュアロンは雇用主一家の子どもの立場の人だから、この映画も彼が見てきた世界を描いていて、本当のところはクレオのモデルであるリボさんが自分の生活や雇い主の一家のことをどう感じていたのか、また政府に雇われた殺し屋集団に入っていたフェルミンのような立場の者たちからの視点で見るとどうなのかはわからないけれど、一家とクレオの関係は愛情と固い絆で結ばれた美しいものとして映し出されている。
クレオたち先住民と白人たちとの対比
大人たちには大人たちの間の事情があり、子どもたちは無邪気で屈託がなく、だからこそ親の都合で父親を失うことになる彼らが不憫でならない。そこは時代を越えて共感を覚える部分でもある。
ソフィアが時に子どもやクレオにきつくあたるのは夫の不貞のために心に余裕がなくなっていたからだし、夫や父親としての責任を放棄して家族を捨てたアントニオを除けば家族はみんなそれぞれごく常識的な生活をしている。
長男と次男の激しい兄弟喧嘩も、幸福な時代の終焉に対する不安と苛立ちからきたものだろう。
背が高くて優しいおばあちゃん(ヴェロニカ・ガルシア)がベビーベッドを買いに行った先で乱闘騒ぎに巻き込まれて必死にクレオを守ろうとする姿に泣きそうになった。
映画の冒頭近くで子どもの一人、ペペ(マルコ・グラフ)がクレオとともに寝そべるシーンで、「だって死んでるもん」というペペの台詞は映画の後半にクレオが経験するつらい出来事の伏線になっている。
僕はこの映画を1度観たきりですが、繰り返し観てみることで全篇に伏線が張られていることが確認できるでしょうね。
キュアロン監督の前作『ゼロ・グラビティ』は宇宙を舞台にしたハリウッド製のVFX大作(僕はIMAXや4DXで観ました)で音楽も胸が高鳴るものだったのに対して、『ROMA/ローマ』は本当に抑制的で劇伴もないし出演者の演技もキャメラワークも目立たず、とても同じ監督の作品とは思えないのだけど、「水」や「長廻し」などの共通点もある。
『ゼロ・グラビティ』が我が子をなくして生きる目的を失っていた女性が生の世界へ帰還する物語だったように、この『ROMA/ローマ』でも主人公の喪失と水による浄化を経たあとの新たな人生の始まりが描かれる。
クライマックスでペペの兄姉たちが波間で溺れかかり、泳げなかったクレオが彼らを助け出す場面は子どもたちが本気で溺れているように見えるのでハラハラしながら観ていたんですが、どうやって撮ったんだろう。
今回『トゥモロー・ワールド』や『ゼロ・グラビティ』でキュアロン監督と組んだ撮影監督のエマニュエル・ルベツキは不参加だけど(撮影は監督自ら行なっている)、盟友が駆使した技術が使われているのだろうか。
この映画では大人の男たちはアントニオもフェルミンも最低野郎ばかり(あと、ソフィアに言い寄る男も)で、女性や子どもたちはそういうクズに翻弄されることになるんだけど、それでも彼らは前を向いて生きていく。
主演のヤリッツァ・アパリシオはそれまで演技の経験がなかったそうだけど、彼女の抑えた表情が微妙に変化する様子、とても細やかな演技はさすがオスカーの主演女優賞にノミネートされただけのことはありました(主演女優賞は『女王陛下のお気に入り』のオリヴィア・コールマンが受賞)。これも僕は彼女が受賞していてもおかしくなかったと思う。
この映画は確かに地味だしこれ見よがしにドラマティックな演出をしていないんだけど、時々面白い表現があって、ソフィアの家の車庫代わりに使われているスペースのそこら中にやたらと犬の糞があったり(飼い犬のボラス、いくらなんでもウンコし過ぎだろ^_^;)、フルチンで棒を振り回すフェルミンや、両腕を三角の形にして目隠ししたまま片足で立つゾベック教授(ラテン・ラヴァー)と誰もそれを真似できない中でクレオだけが同じことができる場面など、妙に記憶に残る。
恐ろしくも祝祭感に溢れた山火事のシーンも。
特に最初は誠実そうな青年に見えたのにとんでもないクズだったフェルミンには心よりこの言葉を贈りたい。
「武術」がどうとかほざいてたのに、「武術」はクズを更生させることはできなかったということか。
ところどころ日本語が使われているだけに、フェルミンの属する暴力集団の様子はどこか居心地が悪い。
長男と次男が激しく喧嘩をしている姿には、彼らも将来アントニオやフェルミンのような最低の男になっていくのではないかという不安がよぎる。そうならないでほしいと強く願ってしまう。
そしてあの驚異のワンショット撮影。実際にワンショットで撮ったものなのかVFXを使ったのか僕は知りませんが、クレオが一度ペペを水辺から離れた場所に連れていって身体を拭いてやったあとにパコとソフィを捜しに海に戻り、二人が溺れそうになっているのを助ける場面。
「どうか子どもたちとクレオの命を奪わないで」と祈らずにはいられなかった。
自分の赤ちゃんを失ったクレオが、雇い主の家の子どもたちの命を救う。
水の中からの生還。
痛みから立ち上がり、また生きていくのだ、という意志。
みんなと抱き合いながら、「本当は生みたくなかった」と言って涙を流すクレオ。それは彼女の本心だったのか、それとも後悔の念から自分に言い聞かせるようにそのような言葉が出たのだろうか。
この映画については1970年代が舞台でモノクロームの映像だからか、感想で「ノスタルジック」という表現をよく目にするけど、僕はノスタルジーを感じるというよりも、そのどこまでもクリアな映像に非常に「今」を感じたのですが。
同じく70年代を舞台にした『ビール・ストリートの恋人たち』と比較してみると、まるであちらが“おとぎ話”のように感じられてくる。
『ビール・ストリート~』の恋人たちは愛し合い、そして小さな命が祝福されてこの世に生まれてくる。『ROMA/ローマ』ではカノジョを孕ませた男はトンズラして、赤ちゃんは命を落とす。
理想の恋愛と出産が描かれた前者と、無残な現実が描かれた後者。
しかし、それでも最後に離れの建物の方へ長い階段を昇っていくクレオの姿は、まるで天上に向かう女神のように神々しい。
キュアロン監督にとって、クレオのモデルとなったリボさんは朝は優しく起こしてくれて夜は子守唄で寝かしつけてくれる天使のような存在だったのでしょう。
その感謝の気持ちは変わらないながらも、彼女が異性に惹かれたり心と身体に痛みも抱えた生身の人間であったことをあらためてこの映画で描いてみせたのだ。
白人であるキュアロン監督は自分が育った白人家庭が先住民の家政婦を雇うことやスペイン人の末裔たちが大農園主としてこの国で贅沢な暮らしをしていること自体を直接批判はしないし、逆に先住民の男たちがあまりにクズに描かれ過ぎているところも気にかかるけれど、それは実際にリボさんが体験したことかもしれないから、そのあたりはいいとか悪いとか判断はできない。
ハッキリわかるのは、クレオもソフィアも男に捨てられたが、彼女たちは手を取り合って子どもたちとともにそこから立ち直ろうとすること。
妊娠したクレオを診てくれるのは女性のヴェテラン医師だし、病院でクレオの横でおばあちゃんと一緒に妹ができたことを喜んでいるのも女の子だ。陣痛が始まったクレオを病院に連れていくのはペペたちの祖母だし。
家族を捨てたり、自分の子どもの存在を認めないようなクズそのものの男たちがいる一方で、女性たちは命を迎え入れ、ともに生きていく。
波打ち際を歩いていたら思わぬ大波にさらわれて溺れかかることがあるかもしれないが、それでも命をこの世に繋ぎとめていくのは女性たちだということ。
クレオという社会的地位の低い若い女性の姿を通して、この映画は命の尊厳や家族の大切さを静かに訴えかけている。
水は人を溺れさせもすれば、喉を潤し汚れを落とし、新たに生まれ変わらせもする。
悲しみはないに越したことはないけれど、でもしばしば人生の中には打ちのめされそうになる苦難がある。
その苦しみや悲しみの中で生きる無名の人々への賛歌。
いろいろと事情があって映画館では観られないかたや、映画館よりも自宅でネット配信で観る方が好きな人もいらっしゃるでしょうから、鑑賞方法は人それぞれだと思いますが、一人でも多くのかたに観ていただきたいです。
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