バリー・ジェンキンス監督、キキ・レイン、ステファン・ジェームス、レジーナ・キング、コールマン・ドミンゴ、アーンジャニュー・エリス、マイケル・ビーチ、セヨナ・パリス、ブライアン・タイリー・ヘンリー、フィン・ウィットロック、エミリー・リオス、エボニー・オブシディアン、ドミニク・ソーン、デイヴ・フランコ、エド・スクライン、ペドロ・パスカル、ディエゴ・ルナ出演の『ビール・ストリートの恋人たち』。2018年作品。

 

原作はジェイムズ・ボールドウィンの小説「If Beale Street Could Talk(ビール・ストリートに口あらば)」。

 

第91回アカデミー賞助演女優賞(レジーナ・キング)受賞。

 

1970年代のニューヨークのハーレム。19歳のティッシュ(キキ・レイン)は幼馴染で22歳の恋人“ファニー”アロンゾ(ステファン・ジェームス)の子を身ごもる。ティッシュの両親や姉は彼女を祝福するが、報告のために家に呼んだファニーの母親と妹たちはティッシュにつらくあたる。

 

たまたま昨年、小説家ジェイムズ・ボールドウィンについてのドキュメンタリー映画『私はあなたのニグロではない』を観て、その劇場パンフレットで2017年のアカデミー賞作品賞に輝いた『ムーンライト』のバリー・ジェンキンス監督の最新作はボールドウィンの小説が原作だということを知って楽しみにしていました。

 

ジェイムズ・ボールドウィン

 

僕はこれまでにジェイムズ・ボールドウィンの小説をまったく読んだことがなくてどんな作風なのかも知らず、この作品についても予備知識のないまま観たんですが、なるほど、『ムーンライト』のジェンキンス監督の資質に合った作品に思えました。

 

ジェイムズ・ボールドウィンは黒人の権利を獲得するための公民権運動でも活躍した人で、先ほどのドキュメンタリー映画でも人種差別について語られていたし、この『ビール・ストリートの恋人たち』もまたそういう問題が重要な要素であることは確かなんだけど、一方で映画が描くのは一組の男女の恋と妊娠、出産をめぐる話なのでとても小さな規模の作品でもある。

 

時代は1970年代ということだけど、時代背景については字幕や台詞などで細かく説明されないので、登場人物たちのファッションやヒロインのティッシュによるモノローグ(独白)のバックに映し出される白人警官たちに暴力を振るわれている黒人たちの写真から察するしかない。

 

同性愛者を主人公にしながらLGBTQについて声高に問題提起したりその権利を主張するというよりも、あくまでも個人の視点から彼とその周辺を描いていた『ムーンライト』に比べると、この映画での黒人差別問題はもうちょっと前面に出てきてはいるものの、それは簡単に解決されない問題だし、劇中で主人公が差別する者たちを懲らしめてせいせいするような展開もない。

 

だから美しいラヴ・ストーリーでありながらも、常にどこかモヤモヤしたものが残る。

 

ボールドウィンの小説の特徴なのか、それともバリー・ジェンキンスが映画化する際に原作からさまざまな場面を省略した結果なのか僕にはわかりませんが、わりと投げっぱなしなままの描写が多いんですよね。

 

ファニーことアロンゾを窮地に立たせる事件の謎すらも、ついに解明されることはない。

 

社会問題が解決したり、伏線が見事に回収されて最後にスッキリするような内容ではないんですね。

 

これから観る予定の人は、そのことは前もって知っておいた方がいいかもしれない。

 

では、これ以降は物語の中身について書いていきますので、これからご覧になるかたはご注意ください。

 

 

今年のアカデミー賞で作品賞を獲得して現在公開中の『グリーンブック』もまた黒人差別を描いた映画ですが、あちらは授賞式のあとにスパイク・リー(『ブラック・クランズマン』でノミネート)が批判的なコメントを出したり、SNSでも受賞に疑問を投げかける投稿があったりする一方で、アフリカ系の原作者と監督によるこの『ビール・ストリート』にはそのような批判は見当たりません。

 

そもそも白人の登場人物はどれも出番が少なくて、これは『グリーンブック』のような黒人と白人の交流の物語ではないから。

 

この映画では『グリーンブック』のように白人は黒人を救ってはくれないし(救うために尽力する人物はいるが)、白人の黒人に対するあまりにも理不尽な仕打ちは最後まで裁かれることもない。

 

人によって好みは分かれるだろうし、映画レヴューサイトなどの平均点では圧倒的に『グリーンブック』の方が評価が高いんだけど、僕はこの映画と『グリーンブック』は併せて観るとよいのではないかと思います。

 

あちらは1960年代が舞台でこちらは70年代で、別の方向から同じテーマを見ることになるから(主人公たちが住んでいるのもいずれもニューヨーク)。

 

『グリーンブック』は笑いの要素も交えた、広い観客層に受け入れられやすい作風。一方、こちらはコメディの要素はなくて、映像の美しさや音楽と音にこだわったミニシアター系の映画。

 

まず、登場人物たちが着ている服がどれもお洒落なんですよね。そして主人公であるティッシュとファニーのふたりがとても美しく撮られている。彼らの肉体美をキャメラはじっくりと何度も繰り返し映し出す。まるで動く写真集のよう。

 

 

 

 

 

彼らと実家の家族たちはそんなに裕福というわけではないはずだけど(ティッシュの母親がプエルトリコに向かう旅費を工面するのにも苦労するぐらいだから)、でも着ている服があまりに素敵過ぎるのでちょっとそのあたりはどこまでリアルなのかはわからない。

 

僕は、ファニーの母親(アーンジャニュー・エリス)と妹がどうしてティッシュのことをあんなに忌み嫌うのかわからなくてずっと戸惑いながら観ていたんですが、劇場パンフによるとファニーの家とティッシュの家には格差意識があって、ファニーの母親は自分の息子にティッシュは相応しくないと考えていたから、ということのようなんだけど、それは映画を観ているだけではわからないし、ファニーの母親がティッシュのお腹の赤ちゃんを呪うようなことを口走るに至って、ちょっとあまりに彼女が悪者として描かれ過ぎだなぁ、と思った。

 

何かと「神」を引き合いに出して、よりによってこれから生まれてくる子どもを呪うなんてまともな精神状態ではないが、ファニーの母親のその常軌を逸した言動がもとからなのか、それとも夫との不仲から来たものなのかもわからない。

 

彼女の夫のフランク(マイケル・ビーチ)は妻の暴言を聞いて思わず彼女を張り倒すが、人前で夫を悪しざまに言ったり息子の恋人をその家族の前で侮辱するような異常な状態になる前に夫婦の間でどうにかできなかったのか。

 

 

 

あの妻の壊れぶりには夫にも責任があるのではないか。

 

それにしても、女性側の家族が男性側につっかかるならまだわからなくはないけど、男性側の家族が結婚する前に妊娠した女性の方に責任を問う理屈がわからない。どう考えたって責任を問われるのは男の方でしょうに。

 

このあたりは人種差別とは別にもっと僕たちの身近にある「できちゃった婚」にまつわるドタバタだから、シリアスに描かれてはいるけれど状況としては喜劇じみている。

 

この映画には笑いの要素は一切ないから、そういう部分ではどうも生真面目過ぎて息苦しい。

 

それでもところどころ魅力的な場面があって、その都度スクリーンに見入ってしまう。

 

ティッシュの父親のジョーゼフ(コールマン・ドミンゴ)は最初に登場した時にはどんな人かわからなくて恐そうだったけど、彼は妻や娘たちを大切にする人だった。

 

 

 

そのジョーゼフが妻のシャロンとダンスしたり、生きることを楽しんでいる姿にとても豊かなものを感じる。

 

彼やフランクが金を手に入れるために物を盗むことに躊躇がないのは引っかかるが(ファニーも学校から工具を盗むし)、このあたりの描写に僕は是枝裕和監督の『万引き家族』をちょっと思い出したんですよね。

 

あの映画に出てくる一家も万引きすることに罪悪感を持っていなかった。

 

そういうところを批判している観客もいたけど、でもああいう人たちは実際にいるということ。

 

正しいか間違ってるかでいえば、もちろん物を盗むのは間違った行為なんだけど、だからってやってもいない重犯罪の犯人にされてしまうのはおかしい。それはけっして「自業自得」ではない。

 

やがて映画は、映像と音で観客を包みながら登場人物たちの背景にある容易にこの世からなくなりはしない「人種差別」というものをじんわりと、そして決定的に炙り出していく。

 

愛し合い、子どもを産むという、なんの変哲もない当たり前のような行為にすら現実はいろいろと足かせを課してくる。

 

ふたりで住む家が見つかり世の中のすべてが自分たちを祝福してくれているように感じられた同じ日に、ファニーは白人警官に目をつけられて、やがてレイプ犯の容疑者として捕まる。

 

彼の子を宿したティッシュは出産ぎりぎりまで働いて結婚相手の無実を晴らすために必要な金を懸命に稼ごうとする。

 

被害者の女性は出身地であるプエルトリコに帰ってしまっていた。

 

紹介されて雇った白人の新人弁護士(フィン・ウィットロック)は、頑張ってはいるが頼りにならない。黒人であるというだけでファニーには不利な条件ばかり。

 

 

 

ティッシュの母シャロン(レジーナ・キング)がプエルトリコに行って、その被害者女性ヴィクトリア(エミリー・リオス)に犯人はファニーではないことを証言してもらわなければ、彼女の娘の夫となる者が無実の罪で刑に服すことになる。

 

 

シャロンが鏡の前で念入りにヘアピースを装着して、すぐにそれを外して深刻な表情をする場面は、何一つ可笑しな部分はないのになんだか妙な後味があった

 

これは1970年代のことだから現在はもっとマシになっていると思いたいのだけれど、たとえばDNA鑑定だとか何か決定的な物的証拠があるならともかく、被害者の証言と警察官がファニーを目撃した、という言葉だけで犯人と決めつけられて刑が確定してしまう様子はまるで不条理劇を観ているようで、恐怖以外の何物でもない。

 

ファニーの友人のダニエル(ブライアン・タイリー・ヘンリー)は、マリファナを所持していたために車の窃盗犯に仕立て上げられて2年の懲役を食らった。立場の弱い者が容易に罪を着せられる。

 

ダニエルは白人たちのことを「奴らは人間じゃない。悪魔の化身だ」と言う。奴らは望めば黒人になんだってできるのだ。この無力感。

 

この映画で恋人たちを引き裂くものは、今も消えてはいない。

 

だから70年代を描いたこの映画は、2019年の今観ても心の中になんともいえない怒りと虚しさを覚えさせる。

 

この映画は「ファニーが容疑をかけられたレイプ事件の真犯人は誰なのか」という謎は最後まで解かれないまま終わる。

 

そうなるのではないかとちょっと予感はしていたんだけど、でも呆気にとられるほどあっさりと肝腎のところをスルーしてしまう。

 

なぜ被害者のヴィクトリアはファニーが犯人だと証言したのか(彼女がプエルトリコ出身であることからも、警察に強要された可能性が濃厚)。

 

プエルトリコまで赴いて、ファニーは犯人ではない、と訴えるシャロンの前でヴィクトリアは絶叫して壊れてしまう。

 

映画の途中でティッシュが一瞬「本当にファニーは無実なのだろうか」と姉に疑問を投げかける場面があって「ん?」と思わせるんだけど、恋人がいて、犯行現場からも距離があるところにいたし、ファニーがいきなりあの時に女性を襲う意味も動機もまったく見出せないから、彼が真犯人であるはずはないんだけど、結局彼は釈放されず長期間服役することになる。

 

産まれた赤ちゃんの“アロンゾ”が幼児にまで成長してもファニーはまだ塀の中にいて、ティッシュが幼い息子を連れて夫に会いに行っている。そんなことがあっていいのだろうか。

 

やりきれない思いが残り、それでも面会室で仲睦まじく語らう一組の家族たちの姿に、どんなに苦しめられても負けない、という彼らの決意の強さを感じ取る。

 

出演者は主演のキキ・レインもステファン・ジェームスも初めて見る人たちだけど、その初々しさ、美しさに見惚れる。キキ・レインはキュートで、ちょっと目許がラミ・マレックに似ているステファン・ジェームスにも男の色気を感じる。その彼の顔につけられた刑務所の中で受けたのだろう傷には、被差別者が感じる屈辱が込められている。

 

グランド・イリュージョン」シリーズのデイヴ・フランコや『デッドプール』のエド・スクライン、『キングスマン:ゴールデン・サークル』や『イコライザー2』のペドロ・パスカル、『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』のディエゴ・ルナなど脇の出演者たちが何気に豪華で、それぞれの出番はほんとにごくわずかだけど映画に華を添えている。

 

 

 

 

 

 

白人の中にも親切な人もいれば人種差別主義者の警官もいる。

 

世の中にはびこる差別は、いつなんどき自分たちに降りかかってくるかわからない。

 

そんな絶望的になりそうな状況でも互いにひたすら愛し合い続ける恋人たちの姿は、原作者のジェイムズ・ボールドウィンが持ち続けた希望の象徴なのだろうか。

 

 

 

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