バリー・ジェンキンス監督、アレックス・ヒバート、アシュトン・サンダース、トレヴァンテ・ローズ、マハーシャラ・アリ、ナオミ・ハリス、ジャネール・モネイ、ジャレル・ジェローム、アンドレ・ホランド出演の『ムーンライト』。2016年作品。R15+。

 

原案はタレル・アルヴィン・マクレイニーによる戯曲「In Moonlight Black Boys Look Blue」。

 

第89回アカデミー賞作品賞、助演男優賞(マハーシャラ・アリ)、脚色賞受賞。

 

フロリダ州マイアミ。コカイン中毒の母親と二人暮らしのシャロンは、同級生たちから「リトル」と呼ばれて苛められている。いじめっ子たちから逃げて隠れていたところをコカインの売人のフアンに見つかり食事を与えられ彼のガールフレンドのテレサに優しく接せられて、その後もフアンの家に立ち寄るようになる。

 

ネタバレ、というほどのこともないですが、この映画について何も予備知識を持たずに観たいかたは以降は内容について書きますので鑑賞後にお読みください。

 

 

映画評論家の町山智浩さんの作品紹介を聴いて、アカデミー賞の作品賞を獲ったこともあって鑑賞リストの中に入れていました。

 

昨年のアカデミー賞は「白いオスカー」とも呼ばれたりして、アフリカ系の監督、俳優が誰も受賞しなかったことが批判されましたが(アフリカ系以外の有色人種についてはあまりとやかく言われないのが気になるが)、逆に今年は「去年批判されたから黒人に賞やったんだろ」みたいなことを言ってる人間もいる。

 

また、昨年は『キャロル』や『リリーのすべて』などLGBTQ(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスセクシュアル、クィア)を扱った映画が1本も受賞できなかったりノミネートさえされなかったことも指摘されていたのが、票を投じる委員会のメンバーに変更があったからなのかどうかわかりませんが、ともかくこの『ムーンライト』という、監督も出演者のほとんどもアフリカ系、そして性的マイノリティ(少数者)を描いた映画がオスカーの作品賞を獲ったというのは大いに意義があることだと思うし、ハリウッドが示した一つの意思の現われでしょう。

 

各世代のシャロンを演じた俳優たちと、監督のバリー・ジェンキンス(眼鏡をしている男性)

 

この映画については「優しい映画だった」という表現をしばしば見かけるのですが、まさしくその通りだったな、と。

 

アフリカ系で劣悪な環境で育った主人公、そして性的マイノリティが題材というと重くて暗い話なのかと思いがちですが、そして確かに地味でとても小さな規模の作品なんですが、たとえばこれは黒人差別について描いて2014年の作品賞を受賞した『それでも夜は明ける』のような観ていてどんどんツラくなって、観終わったあとにもドォ~ンと落ち込むような話ではなくて、一人の少年が成長していく過程で出会った人々との交流、周囲となかなか馴染めず孤立しがちな彼を絶叫も演説もなく優しく見つめた映画なのです。

 

そもそも登場するのがほとんど黒人なので人種差別そのものが描かれることはないし、別にそういうことについて劇中で言及されることもない。

 

白人がまったくいない黒人だけの学校の様子とか、僕はわりと新鮮だったんですよね。

 

そういう映画はスパイク・リーとかが以前にも撮ってはいるけど、恥ずかしながら僕はこれまでちゃんと観ていなかったので。

 

逆になんでハリウッド映画ではいつも白人ばっかが出てくるのか、あらためて不思議に思えてくるぐらい。

 

で、じゃあ周囲に人種差別がないから差別とか偏見は一切ないのかといったらそんなことはなくて、ゲイは「オカマ」と呼ばれて苛めの対象になるし、結局人が集まるところには必ずなにがしかの軋轢はあって、そこでもさらにマイノリティや弱い立場の人が痛めつけられたりする。

 

それでもこれはとても狭い範囲での話だから、そういう差別問題がちょうど女性の同性愛者を描いた『ハンズ・オブ・ラヴ』のように何か大きな運動に結びついていくとか政治的な話に発展していくということはない。

 

あくまでも主人公の身のまわりの物語なんですね。

 

それってけっして特殊な立場の人のことではなくて実に普遍的な題材で、マイアミのアフリカ系の人たちでなくたって充分に共感できるでしょう。

 

同性愛者以外の人にだって、自分の身近なことに置き換えて観ることはできるわけで。

 

まわりは車や野球のことにしか興味がない人たちの中で映画が好きな僕は誰とも話が合わないし友だちもいない、みたいなことと一緒。

 

観る前には僕は、この映画は結構悲惨な描写や展開が続く、わりとキツめの作品だと勝手に思い込んでいたんですが、予想していたほどではなかったのでちょっと意外だったんですよね。

 

だってこれ、日本で言えば橋口亮輔監督がかつて袴田吉彦主演で撮った『二十歳の微熱』みたいな映画だもの。

 

自分の居場所が見つからずに誰ともうちとけられずに漂っている青年の話、ってほとんど同じ。

 

この映画を劇場の客席で観ていて「気持ち悪い」と呟いた人たちがいたことをTwitterで憤慨されているかたたちがいらっしゃいましたが、百歩譲って同性愛や同性愛者のラヴシーンを「気持ち悪い」と感じること自体は人の自由だとしても、それを公の場で口にしたり態度に出すこと自体が無神経、かつハッキリ差別的でもあることは言うまでもない。

 

自分のまわりにも普通にこの映画の主人公のような人たちがいるのだ、ということが想像できない、自分と異なる人の存在自体を認めたくない、だから普段の発言に気をつけることもない、自分にそういう偏見があるということを自覚もできない人間が世の中には大勢いる事実が残念ですが、せめてこの映画を観て気づいてもらいたいものです。

 

そういう意味でも、この作品がアカデミー賞を獲って話題になったことはとても大きな意味がある。何も知らずにこの作品に出会って自分の意識を省みるきっかけにもなるから。

 

もう一度言いますが、これって同性愛のことだけに限らないんですよね。肌の色、出身地、思想や宗教、外見…題材はいくらでも替えられる。

 

だから黒人のゲイの話なんて自分にはまったく関係がないし興味もない、という人も、この機会に映画館に足を運ばれることをお勧めします。そこで何か自分に変化があればそれは進歩だと思うから。

 

気づいてもらいたい、とか偉そうなことを書きましたが、実は僕も以前DVDでアン・リーの監督作品で男性の同性愛を描いた『ブロークバック・マウンテン』を観ていて、ヒース・レジャーとジェイク・ギレンホールのセックスシーンに気分が悪くなって中断、結局いまだに続きを観ていないので、男性同士のラヴシーンに生理的嫌悪感がないといったら嘘になるんですよね。

 

昔、作家の故・中島らもが自分に同性愛の気があるかどうか確かめるために男性の同性愛者向け雑誌「薔薇族」や「サムソン」などをまとめて買って読んだところ、性的にまったく反応しなくて、おまけに太鼓腹でふんどし一丁のオヤジたちが抱きあってるような写真を見て笑ってしまい、わからないものはわからない、と思うことにした、とエッセイに書いていましたが、僕も似たような感じです。

 

ゲイの人たちと同じ感覚でものを見たり感じることはできない。同性の人に恋愛感情を抱いたり性欲をもよおすことはないから。

 

今では名作として高く評価されている『ブロークバック~』に途中で堪えられなくなったように、僕にも偏見はあるし、だから男性同士の恋愛はともかく、セックスに関してはどうしても茶化して「笑い」として扱うことでなんとか受け入れる、という工程を経ないと大真面目に観ていられない。

 

だから「ウホッ」とか言ってふざける。

 

悪いけど、僕にとっては男同士の“ラヴシーン”はギャグでしかないので。

 

実際、この『ムーンライト』でも青年に成長した主人公のシャロンがそれまでの痩せた体躯とは打って変わってガチムチの筋肉兄貴になってて、再会した幼馴染のケヴィンとイイ雰囲気になると、このまま濃厚なラヴシーンがおっぱじまるんじゃないかとワクワクハラハラした。

 

だから、この映画での性表現(といってももちろん直接的な描写があるわけではなくて、せいぜいキスする程度)に「気持ち悪い」という感想を持った人に対して僕がとやかく言う資格などないのです。

 

ただ、思うのは勝手だけどそれはいちいち口に出さずに黙ってろよ、とは思いますが。

 

通勤電車の中で薄毛の小太りの男性(俺?)を見かけて心の中で「気持ち悪い」と思うのは自由だけど、「あいつキメェ」と口に出したり笑ったりしたらそれは失礼でしょ?同じこと。

 

同性愛者を特別視して笑いのネタにするのがいかに差別的なことか、少なくとも僕たちは自覚すべきでしょうね。

 

ところで、ここ最近LGBTQについて描いた映画を観る機会が多いんですが、それはたまたまであって、僕が興味があるのはマイノリティについてなのです。

 

マイノリティに対しては必ず周囲からは同調圧力が働いて「みんなと違う」ことが非難されますが、僕は個人的にそういうことに非常に抵抗を感じるので。

 

だからたまたま“性的に”少数派の人が題材になっている映画に触れることが多くなったというだけで、具体的な題材が違っていてもマイノリティについての映画ならばどこか引っかかるわけです。

 

なんでマイノリティに関心があるのかといえば、自分がそうだと思ってるから。

 

数人の仲の良い友人と飲むのは楽しいけど、それが10人とかもっと多くなっていくと落ち着かなくなって次第に居心地が悪くなる。だから僕はそんな大人数の飲み会には参加しない(言うまでもなく例え話です)。

 

人は自分が多数派に属していると盛り上がって楽しいし安心もしやすいものだけど、世の中には群れたり集団で一方向に突っ走っていくことに恐怖心や忌避感を持つ者もいるのです。

 

そこは自分の居場所ではない、と感じる。

 

なぜならば、多数派になった瞬間にそれは権力となって少数派を抑圧する危険があるから。

 

別になんでもかんでも「逆張り」して孤高を気取ってるんじゃなくて、いじめに遭った経験のある人だったり、あるいは差別をされたことがある人の中には、そういう人はいると思う。

 

昨日まで親しげに喋ってた相手が、今日になったらいきなりこちらを無視しだしたり、いじめっ子とグルになって嫌がらせしてきたりすることはある。この映画のケヴィンのように。

 

ケヴィンにはまだ葛藤が見えたけど、罪の意識すら感じない奴もいるからね。

 

友だちが信用できなくなるって哀しいことですが。

 

シャロンは常に無口で学校のみんなの中に溶け込もうとする努力をしないから、苛められてもしょうがない、「自業自得」なんだろうか。

 

まわりと違っているのは悪いことなのか。

 

近頃よく耳にする“多様性(ダイヴァーシティ)”というのは、いろんなタイプの人々が互いに認めあい、受け入れあっていくことなんじゃないのか。

 

なのに、なんでいまだに「苛められる奴に原因がある」などと言う奴らがいるのだろう。

 

この映画は、人とコミュニケーションを取るのが得意ではないシャロンを「だからダメなんだ」と断罪しない。もっと努力して人として成長しろ、とは言わない。

 

まず、自分自身が、そして社会がありのままの自分を受け入れられること。

 

その大切さをさりげなく、そして力強く訴えている。

 

 

ちょっと面白かったのが、マハーシャラ・アリ演じる麻薬の売人であるフアンもその恋人のテレサもどうやらゲイに特別偏見はないものとみえて、シャロン少年に「『オカマ』って何?」と尋ねられて彼の事情をただちに察して、「けっして人に『オカマ』と呼ばせるな」と忠告する。

 

この映画の中でフアンはある種の理想の男性、父親として描かれている。またフアンの恋人のテレサは理想の母親像でもある。

 

 

海でフアンがシャロンを支えるまるで洗礼のような場面。海に浮かんでいるとそこが世界の中心のように思える

 

 

テレサ役の、歌手でモデルでもあるジャネール・モネイがとても綺麗

 

フアン役のマハーシャラ・アリは2013年公開の『プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ』に出演していましたが(あの映画も「父と子」がテーマだった)、フアンは麻薬の売人であるにもかかわらず劇中で彼が人に暴力を振るったり暴言を吐いたり誰かを傷つける場面はまったくない。

 

ただ、コカイン中毒であるシャロンの母ポーラは、自分の息子の世話をしてくれているにもかかわらずフアンにむかって「あんたはクズよ」と言い放つ。フアンがどうクズなのかは描かれない。

 

フアンはシャロンが高校生になった時点ですでに死んでいる。その死因については語られないが、ヤクの売人をしていたことからも殺された可能性は高い。

 

映画では描かれなかった部分で、フアンはフアンでまた彼自身の問題を抱えていたのだろう。

 

だからこれはシャロンの視点で描かれた、父親代わりのような存在としてのフアンの姿なのかもしれない。

 

成人したあとのシャロンの見た目がフアンに似ているのも、彼にとっての父親像がフアンだったから。

 

麻薬の売人の中にもフアンのように心優しい人だっているのかもしれないが、フアンに限らずこの映画では僕が「意外とキツい描写がない」と感じたように、シャロンを取り巻く本当に気が滅入りそうだったり悲惨な世界は直接描かれていない。

 

シャロンの母親が育児放棄してなぜ麻薬に溺れずにはいられなかったのか、そのあたりの彼女の事情については描かれないので観客は映画を観ながらなんとなく頭の中で想像するしかない。

 

 

母親を演じるのは、ダニエル・クレイグ版007シリーズのマネーペニー役のナオミ・ハリス。彼女はこの役を『007 スペクター』のプロモーションの合間のわずか3日間で撮影したという

 

でも、だからこそ、これはこういう特定の立場の人々の話ではなくて、普遍的な物語になり得てもいる。

 

これは同性愛を描いてもいるけれど、それ以外には「父親」についての物語でもあるし、孤独を感じているすべての人たちについての映画として観ることもできる。

 

少年時代のシャロンは友だちのケヴィンから「お前は変だ」と言われる。

 

 

 

 

仲の良い友人からも「変」「変わってる」と言われてしまう、そんなシャロンにどこか共感を覚える人は多いのではないか。

 

シャロンは少年時代から成人後も一貫して口数が少なく、人前で自分の気持ちを言葉にして述べることがほとんどないので、彼が何を考えてどう感じているのか、その行動や微妙な表情からわずかに察するしかない。

 

フアンに名前を聞かれてもなかなか答えず、出された食べ物を黙々と食べて黙って家に帰る。

 

でも、その後もフアンの家にむかうことで、言葉には出さずともシャロンが求めているものが観客にも見えてくる。

 

映画を観ている者は、シャロンに自分を重ねることもできるし、フアンやテレサの視点でシャロンを見守ることもできる。

 

主人公に寄り添う、「優しい映画」と言われる所以でしょう。

 

また、ケヴィンのようにいじめっ子ではないがいじめっ子たちともなんとなく普通に接してもいて、バカやってたけど更生して大人になった今では真面目に生きている、そういう人だって僕たちの身近にはいくらでもいる。

 

かつてのフアンと同じくヤクの売人でしかも性的マイノリティであるシャロンには、結婚して子どももでき、その後離婚したが立派に店も経営しているケヴィンが眩しい。

 

 

 

正直、身体が小さかったり細かったりしていかにも“いじめられっ子”然としていたシャロンが、いじめっ子への逆襲によって逮捕されてからガラッと見た目が変わってムッキムキになった姿はとても同一人物とは思えなくてちょっと僕はリアリティが感じられなかったんですが、誰からもナメられないために肉体を鍛え外見を改造して生き方も変えてまるで別人のようになる人というのも現実にはいるのかもしれないから、これは父親代わりのフアンに「強く生きること」を選択する道を教えられたシャロンの生き方を通して僕たち観客が受け取る大声ではないが力強いメッセージといえる。

 

僕はこの映画に、以前観たアクション映画『ザ・コンサルタント』で感じた違和感へのアンサーみたいなものを感じました。

 

『ザ・コンサルタント』は障害を持った主人公がスパルタ親父に鍛えられていじめっ子に仕返ししてやがて凄腕の殺し屋になる話だったけど、とにかくひたすら自分を鍛えて強くなって無敵のヒーローになることを称揚するような結末に僕はすごく引っかかったんですよね。

 

そしてこの『ムーンライト』でもシャロンはガチムチ兄貴になるわけだけど、この映画が描いていたのは、そうやって必死につっぱって生きてきた主人公の内面はけっして変わってはいなかった、ということ。

 

着脱式の金歯を光らせて売人仲間にも強気なところを一所懸命に出しながら、幼馴染で密かに愛してもいたケヴィンの前では一瞬にして乙女になってしまうシャロンの可愛さw

 

 

 

 

ケヴィンへの想い、あの月明かりの下での美しくも甘美な記憶を胸にずっと一人で生きてきたシャロンの一途さには、微笑ましさを越えてさすがにちょっと笑っちゃうんですが^_^;

 

映画で描かれるのはシャロンがケヴィンと再会したところまでで、その先彼らがどうなっていくのかは観客の想像に委ねられている。

 

ケヴィンのようにカタギの人間になるのか、ケヴィンとの関係はどうなっていくのか、それはわからないが、そこには絶望ではなく希望が仄見える。

 

現実の醜さやツラさを克明に赤裸々に描いて観る者の心を動かす映画もあるけれど、この『ムーンライト』はむしろそういう誰もが必ずどこかで遭遇する生きづらさについては直接的な描写は極力省略して、観る者に想像させ、自分の人生に重なるように促している。

 

千人の観客がいれば千通りの生き方があるように、この映画もさまざまな立場、人生からそれぞれ観る角度や感想が変わってくると思います。

 

映画の余白には観客自身の人生が当てはまるような。

 

自分の人生を人に決めさせるな。お前の人生はお前のものだ。

 

フアンがシャロンに語った言葉は、人生に生きにくさを感じている人への励ましとなって響くでしょう。

 

そして、人はその気になれば変われるが、それでもどんなに時が経ってもけっして変わらないものもあるということ。

 

これはそういうことを語っている、すべての“ブルー”な者たちへの賛歌なんだと思う。

 

 

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