スティーヴン・チョボスキー監督、ジェイコブ・トレンブレイ、ジュリア・ロバーツ、オーウェン・ウィルソン、イザベラ・ヴィドヴィッチ、ノア・ジュプ、ブライス・ゲイサー、ダニエル・ローズ・ラッセル、ミリー・デイヴィス、エル・マッキノン、ナジ・ジーター、ダヴィード・ディグス、クリスタル・ロウ、マンディ・パティンキン、ソニア・ブラガほか出演の『ワンダー 君は太陽』。2017年作品。

 

原作はR・J・パラシオの小説。

 

遺伝子疾患で顔が変形してしまうトリーチャーコリンズ症候群のため手術を繰り返してきた10歳の少年オーガスト・“オギー”・プルマン(ジェイコブ・トレンブレイ)は、母イザベル(ジュリア・ロバーツ)の意向もあって学校に通うことになるが、他の生徒たちに好奇の目で見られたり友だちができずに苛めに遭うつらい毎日を過ごしていた。ようやくクラスメイトのジャック・ウィル(ノア・ジュプ)と仲良くなったが、同じクラスのジュリアン(ブライス・ゲイサー)からの嫌がらせは続き、またオギーは自分に関するある事実を目の当たりにする。

 

物語の内容について述べますので、これからご覧になるかたは鑑賞後にお読みください。

 

 

劇場で予告篇を観て興味を持ったのと、『ルーム』の子役ジェイコブ・トレンブレイが主人公を演じていて評判もいいので観てきました。

 

 

ジェイコブ君は来日して東京ディズニーランドのシンデレラ城の前でデッドプール(ライアン・レイノルズ)を捜している可愛い写真をTwitterに投稿してましたね。

 

彼は撮影で顔に特殊メイクを施してトリーチャーコリンズ症候群の少年を演じています。

 

巧みにジェイコブ君の可愛らしさを残した特殊メイクでした

 

物語自体はフィクションで、原作者が実際にアイスクリーム屋でトリーチャーコリンズ症候群の子を目にした時に自分の子どもが泣き出して、どのように振る舞えばよいかわからずたじろいでしまった時の後悔からこの小説を書いたそうです。

 

アイスクリーム屋での実話は、劇中でオギーの友だちのジャックの母親(ニコル・オリヴァー)が息子にオギーのエピソードとして話す場面に用いられています。

 

だから当事者自身や近親者ではなく、第三者がオギーのような境遇の人のことを想像して描いているんですね。もちろんいろいろと取材はしてるんでしょうけれど。

 

僕はちょっと、主人公の白人女性が黒人差別問題にかかわる『ヘルプ~心がつなぐストーリー~』を思い出しました。

 

さまざまな立場から人種差別が描かれたり語られること自体は一概に悪いとは思いませんが、一方であの作品には差別される側(アフリカ系)ではない者の人種差別問題へのかかわり方、その描かれ方に疑問が呈されてもいる。同様に『ワンダー』にも「綺麗事過ぎる」という当事者からの批判があるようです。

 

もちろん、当事者でなければフィクションでそういう題材を扱ってはならないという決まりはないし、この機会に現実に存在する“トリーチャーコリンズ症候群”という病いが広く知れ渡り偏見が少しでも減ることに繋がれば大いに意義のあることだと思います。僕自身、この映画を通して知ったことはいくつもありますから。

 

変形した顔、悩んだ男性 小学生に伝えた「大切な時間」と「支え」

 

 

この映画の特徴として、主人公のオギーだけでなく、彼の姉のヴィア(イザベラ・ヴィドヴィッチ)やその友人のミランダ(ダニエル・ローズ・ラッセル)、そしてオギーのクラスメイトのジャックの視点からも描かれるところがユニークで、それが「差別」や「イジメ」という問題や「家族」というものをいくつもの方向から見つめることに繋がっている。

 

人はそれぞれが抱え背負っているものがあって、立場が異なれば感じ方やその行ないも違ってくるということ。

 

たとえば、途中でオギーの姉のヴィアの視点が入ることで、ちょっと主人公から離れて、同じ家族の姉の立場を描いてみる。

 

 

 

 

ヴィアは手がかからない女の子で、オギーが生まれてからは母のイザベルは彼にかかりきりだったのでヴィアはずっと寂しさを抱えてきた。これまで彼女の寂しさを慰めてくれていた祖母(ソニア・ブラガ)が亡くなり、いよいよ自分は家族の中で忘れられがちな存在であると感じるようになる。

 

 

 

 

おまけに親友だったミランダはなぜか彼女を避けるようになり、孤独感を深めていく。

 

救いなのは、ヴィアはオギーのことを彼が生まれた時から好きで、寂しさを感じていても弟を大切に想う気持ちは変わらないこと。

 

友だちになれたと思っていたジャックに裏切られてショックのあまりふさぎ込むオギーに、ヴィアは誰にでも“イヤな一日”はあるものだと語る。

 

しかし、オギーは「ヴィアの“イヤな一日”と一緒にしないで!」とさらに怒る。

 

無理もない。オギーのツラさはヴィアが経験していないものだから。

 

そして、髪を派手に染めてヴィアとは別の友人たちとツルむようになったミランダにも、彼女なりの事情があった。

 

 

 

 

 

父親が家を出て鬱病の母と二人暮らしのミランダはヴィアの家族を羨んで、サマーキャンプで一緒になった子たちにヴィアの家族と撮った画像を見せてオギーを弟だと偽り、人気者になる。

 

どうして弟の「顔が変形」していたら人気者になれるのかよくわからないんだけど、ともかくオギーや彼の両親とも仲のよかったミランダが自分の人気取りのために彼らプルマン家の人々を利用したことに対する後ろめたさからヴィアと距離を置くようになったことがわかる。

 

オギーやヴィアの痛みをミランダは知らず、ミランダの痛みをプルマン家の人々は知らない。

 

どこかでボタンの掛け違いがあって、人は互いに疎遠になっていく。

 

ジャックは自分の母親から、進んでオギーと友だちになるよう頼まれる。

 

 

 

 

最初は言われた通りにしていただけだったが、オギーの魅力に惹かれてやがて彼との間に友情を感じるようになる。

 

しかし、ハロウィンの時にすぐそばに仮装して顔を隠したオギーがいることに気づかずに、ジュリアンたちの前でオギーのことを「校長先生(マンディ・パティンキン)に言われたから仲良くしてるだけ」「もしも自分がオギーだったら自殺する」と発言する。

 

それを聞いたオギーは吐いて家に帰ってもふさぎ込んで、ヴィアのおかげで気を取り直したものの、それからはジャックと遊ぶのも一緒に食事をするのもやめる。

 

このあたりは観ててほんとにツラかったですね。こういうことあるもんな。親友だと思っていた子が、自分がいない時にみんなの前で自分の悪口を言っている。この完全なる裏切り。

 

映画ではフォローがないのでジャックはジュリアンたちの前で本音を漏らしたのだろうか、と思ってしまうけれど、おそらく彼はまわりの男子たちのノリに合わせて適当に口走っただけなんだろう。

 

ジャックにオギーのことを最初に話したのは母親だし、オギーと一緒にいるのが本当に楽しかったことは彼のモノローグ(心の中の声)でわかるから。

 

できれば、ジャックにはあとでオギーに「あれは本気で言ったんじゃないんだ」とちゃんと説明してほしかったけど。まぁ、本気じゃなくたってありえない一言だと思いますが。もしも僕がオギーだったら目の前であんなこと言われたら絶対に赦さないし、今後はジャックのことを一切信用しない。

 

世の中には言ったりやったりしたら、せっかく築き上げてきたそれまでの関係があっけなく壊れてしまうことがある。そのままけっして戻らないことも。

 

 

 

「ジャックをうちに呼んでいい?」と嬉しそうに尋ねるオギーに、一瞬唖然としながら涙ぐむ母イザベルの場面があっただけに、あのジャックの裏切りは本当に残酷に感じられた。

 

この映画は、壊れかけた絆も望めば戻るんだ、ということを語ろうとしているのだろうし、それは「こうあってほしい理想」でもあるから、それをただの絵空事として冷笑するつもりはないんだけど、誰もがオギーのように人に寛容になれるわけじゃないし、ジャックやサマー(ミリー・デイヴィス)のように善意の持ち主というわけでもない。

 

ここに登場する子たちは「根はいい子」という前提がある。それを信じなければ何も始まらない、というのもわかります。でも、そうじゃない場合だって多々あることは強調しておきたい。

 

そのうえで、こうあれたらいいね、とは思う。

 

オギーを苛めるジュリアンにもまた事情があって、オギーへのイジメが露見したあと、彼とともに校長に呼び出された独善的な両親のもとでジュリアンがこれまでに大きなストレスを抱えてきたのだろうことがうかがえる。

 

ちなみに、オギーを苛めるジュリアンを演じているブライス・ゲイサーは、クリント・イーストウッド監督の『15時17分、パリ行き』でテロリストと戦った3人の若者の中の一人の少年の頃を演じてました。

 

 

 

あの映画では教師から見下されたりクラスではみ出し者の少年を演じていたのが今回は大勢でツルんで主人公を苛める役、ということで、“映画”ってそうやって同じ俳優がまったく立場の違う役柄を演じることがあるのが面白いですよね。

 

 

 

現実でも、環境や状況によって人はしばしば「苛められる側」になったり「苛める側」になったりするものですが。

 

オギーが誰かを苛めることはないけど、でも知らず知らずのうちに人は意識せずに誰かを傷つけていたり、あるいは本人には罪はなくても妬まれたり恨みを買ったりすることはある。理不尽でも事実そういうことはある。

 

ジュリアンがオギーに嫌がらせをするようになったのは、校長先生に命じられてジャックやシャーロット(エル・マッキノン)とともに一緒に学内を案内して回った時に、「その顔は火傷のせいか、それとも生まれつきか」とぶしつけに尋ねてきたジュリアンにオギーが冷静に「火傷じゃない」と答えて、「“選だく”じゃなくて“選択”が正しい」とジュリアンの言葉の間違いを指摘したことがきっかけ。

 

また理科が得意なオギーは授業でいつも正解を答えるので、先生やクラスメイトたちにもウケがいい。そのことを根に持ったジュリアンはオギーへの嫌がらせを繰り返すようになる。

 

オギーがこれまで母イザベルを教師代わりに地道に自宅学習を続けてきたことを知らずに、最初に会った時に「今まで勉強していないから、きっと落第する」とバカにしたのはジュリアンだし、態度が気に入らないからといって仲間はずれにしたり嫌がらせをする行為は正当化しようがないんだけど、世の中の「イジメ」と呼ばれるものの大半はこういう感じで始まり、続けられる。

 

延々としつこく嫌がらせの落書きをし続けたり、その執拗なイジメ行為は見ていて異様だ。ちょうどストーカーと同じ病理を感じさせる。

 

問題を抱えているのはオギーではなく、明らかにジュリアンの方だ。

 

それはすべての差別問題にもいえること(『私はあなたのニグロではない』の感想を参照のこと)。

 

ジュリアンの母親(クリスタル・ロウ)はジュリアンが書いた異常な枚数のオギーへの嫌がらせの落書きを見せられても息子がイジメの加害者であることを認めず、オギーにも責任があるのではないか、と逆ギレして、こちらは学校に多額の寄付をしている、と恩着せがましく言い募り、挙げ句に、新学期にはもうこの学校には戻りません、と吐き捨てて立ち去る。

 

僕はある時期までこういうまるで漫画やTVドラマに出てくるような極端に非常識な大人というのは実在しなくて、わざとデフォルメされて大げさに描かれているのだろうと思っていたんだけど、社会に出たらああいう大人はほんとにいることを知りました。

 

確かにあの親に育てられれば性格も歪むよな。

 

ジュリアンは無理やり転校させられることを知り「友だちがいるのに」と泣きそうな顔をして、最後に校長先生に「ごめんなさい」と謝る。

 

可哀想な子だな、と思わせる。少なくともこの映画ではそういう気の毒な少年として描かれている。

 

いつも悪いのは大人で、子どもはそんな邪悪な大人の犠牲者だ。

 

…そう思いたいし、ほとんどはそうなんだろう。

 

しかし、ジュリアンのあの母親だってかつては子どもだったのだ。人はある時いきなり悪い大人になるんじゃない。子どもの時に植えつけられた認知の歪み、染みついた性格のねじれはなかなか直らない(最近ではいい大人になって急に陰謀論に目覚めたり差別意識を剥き出しにしだす人間も少なくないようだが、それだってもともと本人の中にあったものだと思う)。

 

自分の誤りに気づいて自らを変えていくのは本当に難しい。そんな自覚すらない者もいるので。

 

だからこそ、この映画では「人は変われるのだと信じよう」と訴えているんだろう。

 

変わるべきなのはオギーではなく、まわりの人々の方なのだ。

 

ある意味、ごく当たり前のことを言っている。

 

ジュリアンはオギーの前から去っていったけど、彼は最後に反省したようだったし、大人たちもジュリアンのクズ親を除けばオギーの両親や先生たちなど、みんなオギーへのイジメに最善を尽くして対処する。

 

 

 

 

 

 

僕は小学生の時にクラスでイジメに遭った経験があるので、あんなふうに親や教師たちが自分のために手を尽くしてくれたらどんなによかっただろう、と思いますが。くどいけど、残念ながら現実ではそうじゃないことが多いから。まわりの同級生や大人たちに対する不信感が芽生えて、それが尾を引き、ずっとわだかまりになって残ったりする。

 

だから、僕にはこの映画に対する「綺麗事過ぎる」「出てくる人たちがいい人ばかり」という批判はとてもよくわかる。こんなふうにはいかないから苦労してきたんじゃないか、と。恨み言の一つも言いたくなるんですよね。

 

野外学習でオギーに言いがかりをつけてきた上級生にオギーとジャックは果敢に向かっていって、また以前はジュリアンとツルんでオギーを仲間はずれにしていたクラスメイトたちもオギーたちに加勢して、彼らは見事にイジメっ子を撃退する。

 

 

 

 

痛快なシーンだけど、たまたま身体が大きくて腕っぷしが強いクラスメイトがいたからいいものの、やはり現実にはなかなかそんなふうには都合よくいかなくて、身体が小さくて腕力が劣る下級生が背の高い上級生のイジメっ子たちを退治することなんてまずできない。もしもイジメっ子に逆襲したらそのあとでさらに倍返しされるだろう(経験者)。

 

だから映画としては胸がすく場面ではあったけど、元イジメられっ子としてはあの場面にリアリティは感じませんでしたね。

 

まぁ、あそこでオギーやジャックが痛めつけられて血を流してベソをかいてる姿なんて見たくはないし、あれは、元イジメっ子でも変われるんだ、ということを語っているのだから、あの場面には相応しい展開だったんでしょう。

 

ところで、すっごく細かいことですが、劇中に学食でオギーに対して差別的な発言をするアジア系の女の子がいたんだけど(オギーと握手したサマーのことを「ペストに感染」とも言っている)、彼女は他の白人の子にたしなめられて、その後は彼女がオギーに謝るような描写は特にない。

 

どうして敢えてアジア系の子に主人公に対する差別的な発言をさせたのか、そしてそのあとなんのフォローもしないのか(あるいは原作にそういう記述があるのだろうか)、妙に気になった。

 

場合によっては彼女だって差別される側になる可能性もあるわけでしょう。

 

確かに現実には差別(イジメ、と言い換えてもいい)される側の人が別の人を差別することはあるでしょうけど、アフリカ系のサマーにはオギーに優しくさせてアジア系の子には意地悪を言わせる、という演出に僕は意図的なものを感じるのです。たまたま彼女たちの肌の色がああだった、とは思えない。

 

なんでなのか監督さんに尋ねてみたい。

 

これはトリーチャーコリンズ症候群という病いに罹っている少年を描いた物語だけど、僕は「イジメ」、あるいは「差別」全般に関する物語として見たので、ジュリアンの母親が言っていた「世の中は甘くないんですよ」という言葉や、「苛められる方にも原因があるんじゃないか」という、よく使われる、苛める側、差別する側の論理に対する疑問、批判、と受け止めたい。

 

オギーは成績がよく、明るくて優しくて素直な可愛い子として描かれているけれど、じゃあ彼がもし可愛くなかったり、もともと性格が暗かったり勉強が得意でなかったら苛めてもいいのか?

 

いいわけがない。でも往々にして人は被害者の責任を云々する。態度が気に入らないから、みんなに迷惑をかけて集団の和を乱すから、苛められてもしかたない、と。

 

だが、イジメも差別も責任や原因は100%加害者にある

 

相手を苛めたり差別する理由なんて実はなんでもいい。いくらでも言いがかりはつけられる。見た目、というのは一番わかりやすいからイジメや差別の対象にされることが多いだけ。だからそういう行為を絶対に赦してはならないのだ。そのことはぜひ承知しといてもらいたい。

 

僕はこの映画、観てよかったし好きですが(劇場で2回観ました)、溝ができていたヴィアとミランダの和解が妙に性急であっという間に仲直りしたり、そのヴィアを演劇クラスに誘うジャスティン(ナジ・ジーター)のヴィアへの接近のしかたがこれまた結構強引でヒイたり(あちらの男性はあんなに積極的なんでしょうか)、ヴィアのエピソードがなんだか慌ただしく感じてしまった。

 

ジャスティンは速攻でヴィアと相思相愛になっちゃうけど、実際には勇気を出してコクったのに思いっきりフラれることだってあるでしょう(経験者)。なんかすべてがうまくいき過ぎなんだよね。

 

 

 

 

あのあたりもきっと、思い切って踏み出してみれば、不愉快なこともあるかもしれないけど新しい出会いや友情の修復だってできるかも、という可能性を描いているんでしょうけど。
 
アフリカ系のジャスティンは自分の家族のことをあまり語らないし、彼の母親や家族が一度も姿を見せないのには理由があるんだろうけど、詳しくは描かれない。
 
演劇の発表会でヴィアの家族が観にきていることを知って、代役だったヴィアとお芝居の主役を本番直前に交代したミランダと彼女の母親のこともフォローがない。

 

プルマン家の人々のためにまわりの人たちが尽くしている姿は描かれるけど、まわりの人たちのその後の描写がちょっとおざなりなところがあるように感じました。

 

オギーが太陽で、そのまわりをみんなが回っている、というのはわかる。

 

だとすれば、そこはぜひまわりを回ってる人たち一人ひとりももう少しじっくりと丁寧に描いてほしかった。

 

そんなわけで、僕はこの映画に感動して涙した、みたいなことはなかったけど、あまり思い出したくなかったことがいろいろと頭をよぎって考えさせられたし、この映画を通して「イジメ」や「差別」、「家族」などについて議論してみるのはけっして無駄なことじゃないと思います。

 

オギー役のジェイコブ・トレンブレイ君はもちろん素晴らしかったし、僕は久しぶりに見たジュリア・ロバーツの利発で努力家な、でも優しさを忘れない母親、そしていつも陽気だけど妻にはちょっと頭が上がらない(そして子どもたちと一緒に夢中でゲームをやってるような、少々幼稚なところもある)父親役のオーウェン・ウィルソンの夫婦も素敵だった。こういう両親がいたらいいなぁ、と憧れる。

 

ヴィア役のイザベラ・ヴィドヴィッチは僕は多分初めて見る女優さんだけど、彼女の顔の演技が本当に素晴らしかった。台詞を言わなくても顔の表情だけで感情の微妙な変化を見事に表現していた。

 

 

 

 

ミランダ役のダニエル・ローズ・ラッセルは他の映画ならヒロインを務めるだろう非常に美しくて整った顔立ちをしていて、イザベラ・ヴィドヴィッチの方はもう少し地味めな感じなんだけど、この対照的な配役は絶妙だと思いましたね。ヴィアとミランダのキャラクターが見た目で非常にわかりやすく描き分けられている。

 

イザベラ・ヴィドヴィッチはちょっと葵わかなに似た顔立ちで、僕はこの女優さんのこの映画での演技はもっと言及されていいと思うし、今後もぜひ彼女の主演作品が観たい。

 

先生役の人たちもよかったし、俳優たちの好演のおかげで、疑問や議論の余地も含めて大勢の人が観て楽しめる映画になっていたんじゃないでしょうか。

 

何より個人的にはオギーがスター・ウォーズが好き、という設定なのが好感持てましたね。

 

スター・ウォーズが好きな子に悪い子はいないw

 

オギーはバウンティ・ハンターのボバ・フェットが好きなんだけど、それはボバがヘルメットをかぶったキャラクターだから。

 

 

 

オギーがジュリアンたちにからかわれて自分でハサミで切ってしまう小さなおさげ髪はジェダイの騎士の弟子「パダワン」の髪型で、ボバ・フェットはジェダイ狩りをしてジェダイから奪ったその髪の毛の束をコレクションしている。

 

オギーはフルフェイスのヘルメットをかぶったボバ・フェットに自分を重ねてるんですね。

 

そして、これも“かぶり物キャラ”であるチューバッカがしばしば画面に登場してオギーと共演する。

 

 

 

チューバッカはジョージ・ルーカスがかつて飼っていた愛犬がモデルなので、この映画でのチューイ(チューバッカの愛称)はオギーの家で飼われていた愛犬デイジーのようでもある。デイジーは死んでしまっても、これからもずっとオギーを見守り続けるんだろう。

 

ただ単にSWを出しただけじゃなくて、それにはちゃんと意味が込められている。

 

ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー』の前に観ておいてよかった(^o^)

 

オギーがいつもかぶっていたミランダが買ってくれたオモチャの宇宙服のヘルメットは外界から彼を守るものだったけど、やがてそれは必要なくなる。

 

 

 

 

スター・ウォーズもボバ・フェットもチューバッカも、それまで友だちがいなかったオギーの孤独を癒やしてくれていたんだろうし、オギーがハロウィンで仮装している時に「自由」を感じていた、というのもとてもよく理解できる。

 

ただ僕がオギーに伝えたいのは、スター・ウォーズは友だちができても楽しめるし、ハロウィンの仮装をして自分以外の別のキャラクターになる楽しさは友だちがいたって変わらないと思うんで、仲間に囲まれるようになってからもそのままずっと好きでいてほしいな、ってことです。

 

コスプレは自分で自分が嫌いな人だけがやるものじゃない。

 

いっとき自分以外の他のキャラクターになって、別の目で世界を見ることでもある。

 

オギーは映画の前半で学校でのイジメや孤独に堪えかねて、他のみんなと違う「普通じゃない」自分に苛立ち、落ち込む。

 

僕なんかは普段からつい「普通は~」という言い方をしてしまいがちなんですが、「普通」っていうのは実に曖昧なもので、なんとなく自分のことを「普通」だと思っていて、似たような人と群れたり、誰かを仲間はずれにしたりしている。

 

だけどそれは勝手にそう思い込んでるだけで、ほんとは「普通」なんてないんじゃないか。

 

みんなそれぞれどこか違っていて、いろんな事情や特徴を抱えて生きている。

 

それでいいんだし、そういう状態で互いに労わり合ったりなんとか理解し合おうと努力していければいい。オギーがみんなと笑い合えるようになったみたいに。

 

誰もオギーの顔を見て驚いたりからかったりしなければ彼は自分の顔のことをあそこまで気に病まなかっただろうし、同じように容姿とかその人の特徴を人からあげつらわれなければ本人は気づきもしなかったことだってあるだろう。

 

 

 

僕は小学生の時にクラスメイトに名前をからかわれて嫌なあだ名を付けられて以来、名前のことを人からイジられるのが好きではないし、20代の時に好意を持っていた女性に薄毛を笑われてからは頭髪の薄さを気にするようになって、だんだん髪を短くしていって今では丸刈りにしています。多分、人から笑われなければ自分の名前をことさら意識したり頭を丸めたりしなかったと思う。悪気なく人を笑ったりからかうことがその人を傷つけて怖れを抱かせる原因にもなる。

 

「あいつは俺たちと違う」「変だ」といちいち声や態度に出すからこそ、差別とかイジメというものは生まれる。

 

違和感があっても、自分との違いに気づいても、相手の気持ちになってものを考えられたら、ヒドいことをわざわざ言ったりやったりしないはず。

 

知らないうちに誰かを傷つけてしまうことがあるかもしれない。完全にそれを避けることは難しいかもしれない。

 

でも、わざとすることは避けられる。そんなこと言ったりやったりしたら相手が嫌な気持ちになるんじゃないか、という想像力を働かせれば、イジメも差別もずいぶん減らせるんじゃないだろうか。

 

僕は最近加齢や運動不足などによってだんだん身体のあちこちが故障しだしてまして、歳だけじゃなくていつ事故や病気で自由が利かない身体になるかわからないなぁ、と感じています。

 

顔なんて皮1枚傷つけばオギーのように人々から奇異な目で見られることにもなりかねない。やれハゲだデブだチビだブスだ、と人の外見をとやかく言う連中はいまだに多いけど、余計なお世話だと思うんですよね。

 

お前らはそんなに大層なツラしてんのか、と。

 

思いやり、って、言葉で言うのは簡単ですが、ほんとにそれを持って人に優しくするのはそれなりに意識しないとできなかったりする。

 

サマーはジャックから離れて独りぼっちで食事しているオギーと同じテーブルに来て、「どうせ校長先生に言われたんだろ」と言うオギーに「違う友だちも欲しかったから」と答える。

 

 

 

 

サマーはジャックにオギーが彼を無視する理由を尋ねられて、ヒントを与える。彼女の仲介がなければオギーとジャックは仲直りできなかった。

 

サマーの優しさが二人の友情を救ったのだ。

 

自らの意思で一歩踏み出した彼女の行為を誰が偽善的だといえるだろうか。

 

そして一度はオギーのことを陰で酷く言ったジャックは、彼と仲直りしたあと、野外学習でみんなで映画『オズの魔法使』を観ることになった時に、うつむき加減でちょっと沈んだ表情のオギーに気づいて(『オズの魔法使』には特殊メイクを施された怖い顔をした悪い魔女が登場するから)、「外に出ようよ」と誘う。

 

 

 

ジャックもまた、オギーとのかかわりの中で変わることができた。

 

人は善い方に変われる。思いやりと優しさが人と人とを繋いでいく。

 

これは「どこかの特殊な子どもの話」ではなくて、オギーと僕たちみんなについての話。

 

この映画を観て、一人でも多くの子どもたち、そして大人たちが自分は人に対して正しい判断と行動をしよう、と思えるようになれたら嬉しいです。

 

 

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