井上淳一監督、井浦新、杉田雷麟、東出昌大、芋生悠、向里祐香、田中俊介、笹岡ひなり、コムアイ、有森也実、田中要次、成田浬、田中麗奈、田口トモロヲ、竹中直人ほか出演の『青春ジャック 止められるか、俺たちを2』。

 

熱くなることがカッコ悪いと思われるようになった1980年代。ビデオの普及によって人々の映画館離れが進む中、映画監督の若松孝二(井浦新)はそんな時代に逆行するように名古屋にミニシアター「シネマスコーレ」を立ち上げる。支配人に抜てきされたのは、結婚を機に東京の文芸坐を辞めて地元名古屋でビデオカメラのセールスマンをしていた木全純治(東出昌大)で、木全は若松に振り回されながらも持ち前の明るさで経済的危機を乗り越えていく。そんなシネマスコーレには、金本法子(芋生悠)、井上淳一(杉田雷麟)ら映画に人生をジャックされた若者たちが吸い寄せられてくる。(映画.comより転載)

 

映画の中で登場するミニシアター「シネマスコーレ」で鑑賞。

 

2018年公開の『止められるか、俺たちを』の続篇。

 

 

監督は白石和彌監督から井上淳一監督へ。

 

井上監督は前作の脚本を書かれていました。

 

また、井上監督は去年公開の『福田村事件』の脚本も荒井晴彦さんや佐伯俊道さんと共同で書いているし、荒井さんは若松プロとかかわりがあるからいろいろ人脈が繋がってますね。

 

前作を観ていなくてもお話的には大丈夫ですが、共通する主要登場人物として井浦新さん演じる若松孝二監督が出ているし、若松プロの関係者などが顔を出したりもするので、一応前作も観ていた方がより楽しめるでしょうね。

 

特に今回、劇中で写真の中の門脇麦さんの顔が何度か映るので、前作で門脇さんが演じた主人公がたどった人生やその時代を前もって知っておくことで、この続篇と対比できるから。

 

前作の舞台は1969年から70年代初めで、本作品はその十何年ほどのちの1980年代初めから半ばにかけて。

 

若松監督が名古屋にミニシアター「シネマスコーレ」を作ろうとするところから映画は始まり、そこの支配人になる木全さんやアルバイターたち、やがて映画監督への道を歩み始める青年など、「映画」を通して80年代の青春模様が描かれる。

 

前作の感想にも書いたんですが、実のところ、僕は前作『止められるか、俺たちを』は舞台となる時代をリアルタイムで知らないから、というのもあるんだけれど、そこまでググッともってかれることはなくて、ちょっと引いた目で観ていたんですよね。

 

映画や政治に熱く燃える若者たちの姿に自分を重ねることができなかった。

 

なので、その続篇である本作品もめちゃくちゃ期待していたわけではなかったんですが、ただ今回はミニシアター「シネマスコーレ」が直接かかわるお話ということで、それは名古屋在住の身としては観にいかなければもったいないだろう、と思って。

 

名古屋出身でもない若松孝二さんがどうして名古屋に映画館を作ろうとしたのか、その理由が劇中で語られます。東京も大阪も家賃が高いから。名古屋ならイケるだろう、と。

 

名古屋は「文化不毛の地」と呼ばれ、有名ミュージシャンたちは東京の次には大阪や広島に行ってしまい、世間では「ナゴヤ飛ばし」などと揶揄されもする。

 

最近はどうか知りませんが、美術展などもいいのはなかなか来ないのは確かで。

 

その辺は愛知県出身である井上監督もおそらくよくご存じだからこその自虐^_^;

 

映画の中でも、地元の興行関係者から「無謀」だと言われる。

 

1980年代の初めや半ば頃に僕はまだミニシアターに足を運ぶような年齢ではなかったので(僕がスコーレに初めて行ったのは多分、90年代も終わり頃だと思う。かなり遅かった)、あの当時の名古屋の映画館事情とか、ましてやピンク映画のことは全然知りませんが、それでもあの当時を実際に過ごしたわけだから、あぁ、自分の少年時代はこんなんだったんだなぁ、とか思いながら観ていました。

 

シネマスコーレが作られた1983年には映画館で『南極物語』を観たし、井上監督が二十歳で河合塾の入塾式で上映される短篇映画『燃えろ青春の一年』を撮ったのは1986年で、その年には僕は近所の友だちと『天空の城ラピュタ』を観にいったのでした(場所は名古屋駅前だったか栄だったか忘れた)。

 

 

 

『燃えろ青春の一年』の撮影風景はこの『青春ジャック』の劇中に出てきますが、エンドクレジットでは実際に撮られた作品が一部流されます。

 

竹中直人さんが再現映像でもご本人役で時間(とき)を超えて出演。86年にはまだ毛があった(笑)

 

ヒロインを演じている女優さんの顔に見覚えがあったんだけど、美加理さんだったんですね。…って、彼女が「小劇場の聖子ちゃん」と呼ばれていたのはリアルタイムで知らなかったけれど、90年代になってからヴィデオで美加理さんが出演した映画を観たことがあったから。なんかもう、80年代オーラが出まくってますねw

 

 

 

『青春ジャック』では、その役を向里祐香さんが演じてます。向里さんも東出さんも、そして井浦新さん、杉田雷麟さん、田中麗奈さんや他にも『福田村事件』に出ていた人たちがいる。こうやって人と人とが繋がって新しい作品が生まれ、また作品を通して人と人とが繋がっていくのだな。

 

『燃えろ青春の一年』って、2016年の若松監督の命日に再上映されたそうですが、問題があって今では上映できないらしいですね。理由は知りませんが。

 

 

 

入塾式でだけ流す映画を35ミリフィルムで撮影すんだもんなぁ。河合塾、儲かってたんですねー。バブル期だしなー。

 

有森也実さんが淳一(杉田雷麟)のお母さんを演じてたけど、小中和哉監督の『Single8』にも主人公の母親役で出演されてたし、そうかぁ、もうこの人がお母さん役なんだぁ、って妙に感慨に耽ってしまった。まぁ、石田ゆり子さんだって今じゃお母さん役なんだもんねぇ。そりゃ不思議はないかもしれないが。

 

さて、『青春ジャック』では、木全は東京の文芸坐を辞めて地元でVHSのヴィデオカメラのセールスの仕事をしていて、冒頭では妻(コムアイ)にカメラと抱き合わせでアダルトヴィデオもつける、みたいな説明をする。

 

で、いきなり若松監督に呼び出されて新しく名古屋に作るミニシアター「シネマスコーレ」の支配人を頼まれて、思い切ってその誘いに乗るんだけど、まだミニシアターが流行る前でもあったために経営は苦しく、スコーレを存続させるためにピンク映画を上映せざるを得なくなる。

 

でも、その当時はすでにフィルム撮りではなくてヴィデオ撮影したものを「キネコ」してフィルムに変換する方式で上映していたし(デジタル上映が普通になるのは2010年代以降)、その中身はストーリーも何もない、ただ男女がヤッてるだけのほぼAVだったので、木全は「あんなものは“映画”ではない」と若松に訴える。

 

もともとヴィデオカメラ売ってた人が、「映画」を観客に送る立場になって本気を見せる。そこのあたりがとても面白かった。実に80年代っぽいなぁって。

 

レンタルヴィデオ店が増えてきて、映画館を脅かした時代。

 

だけど、そのレンタルショップも今ではネット配信に取って代わられて、ほとんど姿を消している。この40年ほどの間にほんとに大きな変化がありましたね。

 

僕はシネマスコーレがピンク映画を上映していたり、ビルの上の階が風俗店だった頃を知らないから、なるほどー、って郷土の歴史を勉強してるような気分になりましたが。

 

関係ないですが、十何年か前に今池の地下にあるピンク映画館に立ち寄ったことがあるんだけど、そこはもともと一般の映画を上映していたところで(僕も90年代に行った記憶がある)、その時にはすでにそのピンク専門館自体、閉館していたようで入り口は封鎖されて入れないようになっていた。

 

そもそもピンク映画の上映館ってそのほとんどは男性同士がお相手をみつけにいく「ハッテン場」になってたようだから(大阪にいた頃、映画好きの友人がピンク映画を観にいったところ、隣りに座ってきた男に太腿を触られて慌てて逃げ出したんだそうな)、「映画」を見せる場としての「シネマスコーレ」を大事にしたかった木全さんには「ハッテン場」や「AV試写室」代わりにされるのは我慢ならなかったんだろう。

 

彼のその「映画」への想いが、今のあの映画館に繋がってるんだなぁ。

 

1960~70年代を舞台に当時の若者たちを描いた前作にはイマイチ乗り切れなかった僕も、この続篇には心動かされるものがあった。

 

今回の作品には、たとえば前作で門脇麦さんが演じた“めぐみ”のような、精一杯駆け抜けていった、そしてまわりのみんなの記憶の中にその存在を刻み込んで去っていく悲壮感はないんですよね。

 

むしろ「在日でも部落出身でもゲイでもない」ということがコンプレックス、みたいなこと言ってるどこか薄っぺらい、でもその軽さ、何もなさに苦しんでる感じ、それは全共闘世代の苦悩だったり熱さよりも僕には近しいものに思えた。

 

ちなみに劇中で淳一は「ゲイ」という単語を使っていたけど、あの当時だったら「ホモ」という言葉だったんじゃないかな。あえて、なのか、それとも素で時代考証を誤ったのかわかりませんが。

 

時代考証の甘さについてはわりと辛辣な言葉で酷評しているレヴューもあって、読んでて納得してしまった。

 

 

 

「詰めが甘い」と言われれば、確かにその通りかもしれない。

 

これは僕の勘違いだったら申し訳ありませんが、そういえば1986年のはずの東京のバーの壁に『クロウ/飛翔伝説』のブランドン・リーの写真が貼ってあったよーな。1994年の映画ですよー。

 

また、前作は基本的に主人公をはじめ主要登場人物は実在の人物を描いていたと思うんだけど、今回の『青春ジャック』で僕が一番印象に残った、大学の映画サークルに入っていてスコーレでバイトも始める金本法子(芋生悠)はどうやら架空の人物らしくて、彼女が語る「三重苦」についても、その描き方の不徹底さについてのレヴュアーさんは厳しく批判されています。

 

 

 

それでも、なぜ井上監督がほぼ自分自身の自伝的な物語の中に在日コリアンの女性を登場させたのか、ご本人の説明で監督なりの想いは理解できた。

 

 

 

まぁ、それだって当事者じゃない人間が勝手にわかったような気になって被差別者を描いている、というふうにも取れなくはないんで難しいところですが。法子はモデルになった人とかいないんだろうか。

 

法子は、最後に「金本」ではなく「金」、本名「キム・ポッチャ」と名乗ることにする。

 

何者にもなれず、映画も撮れずに苦しんでいた彼女が、それでも「ありのままの自分を肯定する」という選択をする。16歳での指紋押捺を拒否することにした妹と同様に。

 

そういう大きな変化を「映画」は与え得るのだということ。もちろん、そこには「人」がいる。淳一との出会いが彼女を前進させる。

 

法子の変化のきっかけがぼんやりしている、という意見もあるし、だからそこが脚本の弱さだと感じる人もいるのでしょうが、繰り返すように僕はこの映画で彼女のことが一番印象に残ったし、それは無論、演じた芋生悠さんの力が大きいのだけれど、やっぱり法子は魅力的だったからですよ。淳一のエピソードだけでは話がもたなかったと思う。

 

淳一の物語の単なる「彩り」として法子の存在が利用されただけ、という見方もできなくはないので苦しいところですが、僕は淳一と法子、二人が抱えるそれぞれの焦燥感だったり悔しさなど、彼ら両方にどこか共感しながら観ていたので、やっぱり法子の存在はこの映画には必要だっただろうと思うのです。

 

法子とは同じ映画サークルに所属していてスコーレでも一緒にバイトしている大学生・磯崎(田中俊介)のモデルは舞台俳優のイソガイマコト(磯貝誠)さんのようだけど、映画で描かれたようなことはなかった、というか、法子に該当するような女性はいなかったのだそうで。

 

 

 

ほんとは彼女のような女性はあの時にはシネマスコーレにいなかったんだけど、それをあえてあのように描いたことこそが、「今」こういう映画を作る意味にも繋がっているんじゃないだろうか。

 

それにしても、映画って不思議ですね。

 

僕は前作で門脇麦さんが演じた女性の助監督は架空の人物じゃないかと思っていたんだけれど、彼女は実在した人物だったし、反対に今回の“金法子”は現実にはいない人だった。「映画」にはそういうことがある。

 

井浦新さんが演じる若松監督は、ほんとにこういう人がいる、というリアリティよりもどこか「モノマネ」っぽさが濃厚で、個人的にはもうちょっと「演じている」感じを薄めてもらった方がよかった気がするんですが、他の登場人物たちはわりと「普通」なので、彼だけが妙にキャラが立っている、というのも悪くはなかったかも。紛れもなく実在した若松監督が一番デフォルメが効いてる、ってのが可笑しいんですが。

 

 

 

新人の助監督に向かって「外に出てろ!」「俺の視界に入るな!」などと罵声を浴びせたり、キックを食らわせたり、映画界でのパワハラ・モラハラが問題視されてる昨今、こういう人を手放しで褒める気にはなれないけれど^_^; だけど、映画の中の「キャラ」としては笑わせてもくれたし、親身になって話を聞いてくれるところと、めんどくさがって雑に返事したり、そういういろんな面がある人物として充分リアルで魅力的だった。

 

時々ミもフタもないことを言うんだよね。「大林(宣彦監督)のどこがいいんだ」とかw

 

そんで、聞かれた淳一は「嫌いです」と答える。井上監督~www

 

「そうだよなぁ、大林好きだったら俺のとこなんか来ないよなぁ」と返す若松監督。

 

このあたり笑わせてもらいました。

 

だけど、年も近い若松監督と大林監督は、「戦争」について映画に託したメッセージには僕は近いものを感じたんですけどね。

 

若松監督って「人間」に興味があって、人間を描きたい人なんだよね、きっと。空想的な物語自体があまり好みではなかったんじゃないか。

 

だから「ゾンビ」の話を作ったと聞いても、「ゾンビもいいけど、人間が人間を殺す方がいい」と言う。『桐島、部活やめるってよ』(東出さんも出てますが)の主人公が映研で撮ってた作品を全否定するような発言(;^_^A

 

ゾンビというモンスターに込められた意味は、冒頭で磯崎と法子の会話の中でジョージ・A・ロメロの名前を出して説明もしているので、井上監督ご自身はきっとその価値を理解されているんだろうし、80年代が舞台なわけだから、ゾンビをはじめとするホラー映画にも興味がなかったわけじゃないだろうと思うんですが、予想外の大林宣彦disり合戦には吹いてしまった。どんだけ嫌いなんだ、と(笑)

 

80年代の初め頃には大林作品、当たってたもんね。

 

木全支配人役の東出昌大さんは、ちょっと猫背気味なとことか頬に手を当てるしぐさなど、木全さんを見事にコピーしていて、『福田村事件』では女性たちとヤ○まくりな男役だったのが今回は癒やし系がハマっててとてもよかった。

 

 

 

この映画を観た日は、木全支配人が受付で応対してくださいました。

 

木全支配人は映画の最後にご本人も登場します。

 

この映画をシネマスコーレで観られるというのは、何よりも贅沢ですよね。

 

大勢の人たちに観てもらえると嬉しいな。

 

 

 

 

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