サンジャイ・リーラ・バンサーリー監督、ディーピカー・パードゥコーン、ランヴィール・シン、シャーヒド・カプール、アディティ・ラーオ・ハイダリー、ジム・サルブ、ウッジワール・チョープラー、アヌプリヤー・ゴエンカ、アーヤム・メフタ、ラザー・ムラードほか出演の『パドマーワト 女神の誕生』。2018年作品。ヒンディー語。
13世紀末、イスラム教国のスルターン(皇帝)となったアラーウッディーン(ランヴィール・シン)は、インド西部のメーワール王国の国王ラタン・シン(シャーヒド・カプール)の王妃で絶世の美女パドマーワティ(ディーピカー・パードゥコーン)の噂を聞きつけて、彼女を奪い領土を増やすためにメーワールの首都チットールに大軍勢でやってくる。国王とパドマーワティたちはチットール城の内部でラージプート族の誇りに懸けて兵糧攻めにも堪えて抵抗するが、アラーウッディーンの謀略によりパドマーワティは彼のもとへ向かわざるを得なくなる。
内容について述べますので、ネタバレを回避したいかたは鑑賞後にお読みください。
以前、インド映画のレヴューをされているかたのブログでこの映画のことを知って、ダンスや美術がとても美しいということだったので興味を持っていました。
で、日本でも公開されることになったんだけど、上映時間が164分なので一日に上映される回数が限られるため時間をしっかり合わせて映画館へ。
内容については事前にまったく知らなかったけど、歴史劇っぽいヴィジュアルだな、と。
去年観た『バーフバリ』をちょっと思わせるんだけど、あちらが架空の国や超人的なキャラクターたちが登場するファンタジー活劇だったのに対して、この『パドマーワト』は16世紀に書かれた恋愛詩を原作にしていて、登場するのは実在した人物たちで、物語自体はフィクションながらも史実に基づいている。
『バーフバリ』同様にVFXを駆使して歌とダンスもある豪華絢爛な大作ではあるのだけれど、作品のテイストはかなり異なるんですね。戦いのシーンはあるが、いわゆる“アクション映画”ではない。
パドマーワティ役のディーピカー・パードゥコーンはとても美人さんなんだけど、ただ真ん中で繋がりそうな眉毛が眉毛タレントの井上咲楽とクリソツだったりしてw
激似?w
荘厳でパワフルな踊りが圧巻。
「映像は綺麗だったけど、物語の内容はピンとこなかった」という感想を散見しますが、無理もないかな。国王が敵に殺されて最後に軍勢が城に攻め込んできてヒロインは大勢の女性たちとともに集団自決、というなんとも後味の悪い結末をまるで美談のように描かれても、21世紀の現代に生きる僕たちにはそれを額面通り美しく感動的な物語として受け取るのは難しいし、釈然としないものが残って当然だと思う。
でも、僕たちが住むこの国だってわずか70数年前まではそのような価値観、考えがまかり通っていたんですけどね。「生きて虜囚の辱めを受けず」と教えられ、敵に降伏、投降するぐらいなら命を絶て、と命じられて戦争中に多くの人々が自ら死を選んだ。味方であるはずの日本兵にスパイ扱いされて殺された人たちもいる。遠い昔の外国の話じゃないんですよね。
確かに昔は戦争の勝者が略奪や虐殺、レイプなどを行なうことが多くて、それから逃れるために自害せざるを得なかった、という理由はあるかもしれない。自分たちの「誇り」を守るためにそのように自害を「ジョーハル(尊厳殉死)」と名づけて美化するしかなかった、ということなのかも。
現代だって実際の戦争は美しくもかっこよくもないが、パドマーワティが生きた時代だってきっと戦(いくさ)は物語の中で描かれるようなものではなかったんだろう。ちょうどアメリカの西部劇の多くがフィクションであるように。
でも、それらを美しい伝説として語り継ぐことで歴史の中に刻み込んできたのだ、とは言える。
ハルジー朝のアラーウッディーン・ハルジー (1266-1316) がメーワールに進軍したのはそこが交易や防衛上必要だったというきわめて現実的な理由からで、パドマーワティを手に入れるためだった、などというのが史実なのかどうかは不明。そもそもパドマーワティについての資料はほとんどないそうだし。
だから、ほんとは美女だったのかどうかもさだかではないんですよね。
それを、美しき王妃の存在が戦を生み出したのだ、とすることで「アラーウッディーンはチットール城を攻め落としたが、パドマーワティだけは手に入れることができなかった。彼女はアラーウッディーンに勝利したのだ」と理屈づけている。物凄く苦しいこじつけだけど。
まるで、現代とはかけ離れた価値観を持つ時代にタイムスリップして、そこの人々の当時のものの捉え方、その生き方を間近で眺めるような、そんな映画と言えなくもない。
個人的には、このような古典的な物語を現代的な観点から解体して再構築してみせたような作品が観たかったのだけれど。
たとえば、あえてパドマーワティは「尊厳殉死」という最期を遂げずに生き延びる道を選ぶとか。
ハッキリ言っちゃえば、史実なんか無視してアラーウッディーンを倒したってよかったんじゃないか。
それこそ昔ながらの価値観に対する大いなる挑戦にもなっただろうし。
映画の冒頭ではパドマーワティは鹿狩りをやっていて、のちに夫となるラタン・シンを鹿と間違えて弓矢で射てしまうという、うっかりどころではないポカをやらかすんだけど、その後、彼と結婚してメーワールの王妃となってからは二度と弓矢を手に取ることはないし、『バーフバリ』のお姫様たちのように勇猛果敢に敵と戦うこともない。
女性が弓を取って戦うことに現実的に無理があるのはわからなくもないけど(でも、歴史上で実際に戦場で戦った女性の記録や伝説はいくつもある)、やっぱり僕は物足りなかったんですよね。
城の中にずっとこもってるだけのヒロインを見ていても、そこに可能性とか希望を見出すのは難しい。
直接戦わないのなら、知恵を使って戦いに勝つ、あるいは戦いを回避する、といったような展開にできなかったのだろうか。
敵に攻め込まれて女性たちは全員自決しました、というだけでは、なんのカタルシスも得られない。感動もない。「…それだけ?」と。
まぁ、もしも日本の戦国時代を舞台にした実在の武将が登場するNHKの大河ドラマで物語が歴史から逸脱して途中から完全なフィクションになったら大量の抗議が来ることが予想されるように、この『パドマーワト』も史実をもとにしているだけに思い切った改変はなかなか難しいのでしょうが。
やはり、パドマーワティたちの死を「美しいもの」のように描いて映画を締めくくっていることに抵抗を覚えるんです。だったら、ほんとは美しくもなんともない、阿鼻叫喚の場面で終わらせていれば、これも伝説へのカウンターになったでしょう。
今さら、名誉のために死を選んだ、という話を美談として見せられてもね。
アラーウッディーンの王妃メフルニサ(アディティ・ラーオ・ハイダリー)が自分の命をなげうってパドマーワティたちを救うシーンで、あの時代のほとんど囚われの身のような女性たちのせめてもの抵抗を感じはしましたが。
メフルニサ役のアディティ・ラーオ・ハイダリーがほんとに綺麗で、こんな美人の妻がいるにもかかわらずパドマーワティにうつつを抜かしてるアラーウッディーンはつくづく阿呆だなぁ、と思います。
それ言ったら、ラタン・シンだってすでに第一王妃のナグマティ(アヌプリヤー・ゴエンカ)がいるんですけどね。王様やら殿様やらが世継ぎを得るためにお后が何人もいるのが当たり前だった時代とはいえ、そういう旧来の世界のルールに疑問を投げかけてこそ、このような題材を今映画にする意味や意義があるんじゃないだろうか。
昔の物語を昔の価値観のままで映像化しても、資料的な価値以外になんの意味があるのか僕にはよくわからない。
13世紀の姫君を現代的な形で甦らせてほしかった。
…こうやって疑問も含めていろいろ感じたことを言葉にしてみて、それが今日的な問題提起に繋がっていけばいいんですが。
ランヴィール・シンが演じるアラーウッディーンの存在感は圧倒的で、もうどっからどう見ても“悪役”なんだけど、ちょっとユーモラスなところもある彼の暴君ぶりは見ていて痛快でもあった。
アラーウッディーンのキャラがあまりに立ってて魅力的な悪役だったからこそ、最後は思いっきり倒されてほしかったんだけど(実は、現実ではパドマーワティ役のディーピカー・パードゥコーンとアラーウッディーン役のランヴィール・シンは夫婦なんですが)。
ちなみに「アラーウッディーン」を西洋風に表記すると「Aladdin」、すなわちアラディン(アラジン)になる。
何よりも名誉を重んじるラタン・シンと勝利にこだわるアラーウッディーン。
不名誉な行為を恥じ、罠だとわかっているにもかかわらずアラーウッディーンの誘いに乗って案の定囚われの身となるラタン・シンと、勝ちゃあいいんだよ、と悪知恵を働かせてラタン・シンの融通の利かなさを逆に利用するアラーウッディーン。
ラタン・シンが貫く信条には英雄的なかっこよさは感じるが、駆け引きが必要な国の長として彼とアラーウッディーンのどちらが賢いかは言うまでもない。
アラーウッディーンの罠にかからないように忠告する妻・パドマーワティに、ラタン・シンは不名誉な中で生きるぐらいなら死を選ぶ、と答える。
だが結局、彼の唱える「名誉」に共鳴して味方になる諸侯はいなかったし、結果的に城は陥落する。
アラーウッディーンとの戦いは史実だが、それ以外の細かい部分は恋愛詩「パドマーワト」によるフィクションなわけだから、現実のラタン・シンが堅物の王様だったということじゃないんだけど、やはり映画の中でアラーウッディーンの罠に何度も易々と引っかかり最後は1対1の闘いの場で射抜かれて死ぬラタン・シンには、さすがにバカ正直だったらなんでも許されるわけじゃないよなぁ、と思う。王が殺されちゃったら残された民が困るでしょうに。
史実ではラタン・シンは数年の間、捕虜になっていたという。パドマーワティがどうなったのかはわかっていない。
おそらくアラーウッディーンは現実の勝者、強者を表わしていて、それとラタン・シンやパドマーワティたちを対比させることで、この物語は「勝てばいい」「勝利こそが絶対」「勝ったもんが正義」という価値観に異を唱えているんでしょう。
お前たちの意のままにならないものだってこの世にはあるんだ、と。
僕もアラーウッディーンのような卑劣な勝者に憧れは感じないし、そんな手を使って勝つぐらいなら負けた方がマシ、という気持ちもわかる。
でも、せめて映画の中でぐらい、そういう調子に乗りまくった奴をぶっ倒してほしいんだよなぁ。
「負けるが勝ち」というのは、ほんとにボコボコにされたことがない奴が言った言葉なんじゃないのか。
侵略者の前で自ら命を絶つことが「勝利」だとは僕には思えないんですよね。凶悪犯罪者の前で自殺するのが被害者の勝利にはならないのと同じで。
そんなわけで、映像はとても見応えがあったのだけれど、物語の結末が1本の映画として僕には受け入れ難くて観終わってフラストレーションが溜まってしょうがなかったので、その日の予定を急遽変更して続けて別の映画を鑑賞することにしました。
ディズニーの『アラジン』。奇しくも同じ日に頭にターバンを巻いた人たちが大勢出てくる映画を2本観ることになりましたが。どちらも歌とダンスがあるし。
2本の映画の女性の描き方の違いはとても興味深いものがありました。
ダンスはこちらのガチな迫力のを観たあとなので、『アラジン』の方がちょっと学芸会みたいに感じられてしまったところもあるけれど、なかなか面白い2本立てでしたよ。
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