ゾーヤー・アクタル監督、ランヴィール・シン、アリーヤー・バット、シッダーント・チュトゥルヴェーディー、カルキ・ケクラン、アムリター・スバージュ、ヴィジャイ・ラーズほか出演の『ガリーボーイ』。ヒンディー語。154分。

 

インドのヒップホップアーティスト、Naezyの実人生を基に描く。

 

ムンバイのスラムで運転手の父や家族と暮らしながら大学に通うムラドは、同じ大学で医者を目指すサフィナと付き合っている。ある日、大学の構内でシェールと名乗るMCのパフォーマンスを見たムラドは“ガリーボーイ(路地裏の青年)”としてヒップホップの道に進むことを望むが、父親からは到底認められない。

 

投稿が遅れてしまいましたが、11月の初めに鑑賞。

 

映画館で予告篇を観た時に、主演がつい6月に観たばかりの『パドマーワト 女神の誕生』でイスラム教国のスルターンをパワフルに演じていたランヴィール・シンなのに気づいて、これは観たいなぁ、と思っていました。

 

 

 

 

 

だけど、上映回数はわずか一日2回でなかなか時間が合わず、それもやがて1回になって、しかも終わるのが結構遅い時間帯。10月の後半に始まって11/7で上映終了ということで、見せる気が全然ないなぁ、と諦めかけていましたが、なんとか観ることができました。

 

評判いいのにもったいないなぁ。

 

実は同じ映画館でラジニカーント主演の『ロボット2.0』もやっててほんとは続けて観たかったんだけど、そちらも一日に1回しかやってなくて、これら2本の映画の上映の時間帯もカブるので残念ながらインド映画の二本立て鑑賞は断念。

 

『ロボット2.0』の方も同じ日までしかやってなかったので、結局観られずじまい。なんで一日たったの1回の上映をわざわざカブらせるかね。上映してくれるだけでもありがたいんだけど、なんか扱いが雑なんだよなぁ。

 

さて、『ガリーボーイ』はインド映画ということもあってか「ミュージカル映画」と紹介されてもいますが、いわゆる「いきなり唄って踊る」タイプの映画ではなくて、ほぼ通常のドラマ。まぁ、ラスト近くでそれっぽいシーンも出てきますが(ちょっと『スラムドッグ$ミリオネア』を連想したりも)。

 

 

 

宇多丸さんがラジオで批評されていて、鑑賞後に聴きました。

 

僕はヒップホップの知識がなくて音楽にも疎いので(主人公ムラドのモデルになったNaezyのことも知らないし、それどころかそもそも“ラップ”と“ヒップホップ”の違いも理解できてない)、ここで扱われている曲の数々がそのジャンルのファンの人たちからどのような評価をされているのかわかりませんが、宇多丸さんは映画を高く評価されているので、わりとツボを押さえてる作品ではあるのかな、と。

 

 

 

宇多丸さんも驚かれていたように、主演のランヴィール・シンは普段はマッチョで豪快なキャラを演じることが多い人なのだそうで、『パドマーワト』でも自信満々の俺様キャラクターを演じていました。

 

『パドマーワト』のダンスシーンでは高温の撮影現場で激しく踊り過ぎてぶっ倒れたんだとか。

 

 

 

それがこの『ガリーボーイ』では抑えた演技で自分に自信のない青年役で、役柄のギャップが面白かった。この映画を気に入ったかたは、ぜひ『パドマーワト』のランヴィール・シンの演技と観比べてみることをお勧めします。

 

では、これ以降は内容に触れますので、まだご覧になっていないかたはご注意ください。

 

 

ムラドは大学生だが勉強を熱心にしている様子もなく、いつも詞を書いていてやがてヒップホップの活動もするようになるが父親に知れて殴りつけられる。

 

親の立場を考えれば、一所懸命働いて学費を出して大学に行かせているのに、その息子が将来性も不確かな音楽活動などにうつつを抜かしているなんて許せないのはわからなくもない。

 

ムラドは「どん底を見た」みたいなこと言ってるけど、大学行かせてもらってるわけだし、全然“どん底”なんかじゃないだろ、とも思う。

 

映画の冒頭でムラドの友人たちが車を窃盗するんだけど、僕は最初、ムラドがつるんでるこの友人たちも同じ大学生なのかと思ったんですよね。大学行けるぐらいの生活なら車を盗むような必要もないだろうから、若者が粋がってやってるのかと。

 

 

 

でも、2人の友人たちは学生ではなくて、その中の一人は子どもたちに働かせてヤクの売人のようなことをやっていたりする。

 

それを咎めるムラドに彼は「俺はこいつらの面倒を見てやってるんだ」と言う。お前に彼らを助けられるのか?と。

 

親に学校に通わせてもらっているような人間が偉そうな正論を吐いても説得力はない。何も言い返せなくなるムラド。

 

恵まれた環境で生きているムラドとこの友人の対比がとてもリアルというか、こういうことはあるよな、と。

 

ヒップホップの世界を描いていても、この映画ではギャングの抗争とか銃や刃物なんかは出てこないし、主人公が特別劣悪な環境に生きているわけでもない。しょっちゅうタブレットいじってるし、豊かではないがけっして極貧でもない。ムラドと一緒に曲を作るようになるシュリカント(シッダーント・チュトゥルヴェーディー)も、「MCシェール」などと名乗ってカッコつけてても、実家では父親に「穀潰し」扱いされて呆れられていたり。

 

 

 

住んでいるのはスラムとはいっても、ムラドの目から見たそれだから、本当に貧しくて日々の生活もままならない人たちの様子は描かれないんですね。

 

怪我をした父親の代わりに運転手の仕事をしていると金持ちの学生たちが浮かれてる姿を目にしたり、パーティ会場から涙を流しながら帰宅する雇用主の若い娘を送っていくことになったり、極端な貧富の差ではないけれど、それでも確かに存在する経済格差や身分格差、経済的には豊かでも女性が軽んじられる現実など、日本でだって日常で目にする光景がここにある。

 

日本でも最近、文科相の「身の丈発言」が問題になったけど、この映画でも同じような台詞がある。

 

インドも経済発展して子どもたちが大学に通ったり恵まれた生活を送る人たちも増えてきたからこそ、そこでの格差はより意識されるんでしょう。

 

みんなが貧しかった時代はそこまで気にならなかったことが、互いの間に差が生まれたことでいろいろとわだかまりも生じるようになる。

 

もともと親の職業や社会的地位が違えば世間でのその子どもたちの扱われ方だって違ってくるし(「大学ぐらい運転手でさえ行ってるんだ」という金持ち親父の何気ない言葉は、『おくりびと』での職業差別発言を思いだす)、またムラドの場合はインドでは少数派のムスリム(イスラム教徒。インドでは大多数がヒンドゥー教徒)なので、余計就職が難しいという事情もある。

 

ムラドを演じるランヴィール・シンは『パドマーワト』でもイスラムの王を演じていたわけだけど、彼自身の宗教や出自については僕は知りませんが、あえてそういう立場の役柄が続いてるのは面白い。

 

ムラドが時折呟く「俺の時代が来る」というなんの根拠もない言葉は、そう自分に言い聞かせることで悔しさを乗り越えようとしているのが伝わってくるし、だからこそ最後にそれが実現するのを目にすると込み上げてくるものがある。

 

ただ、ムラドにヒップホップの才能があることは劇中で疑われることはないし、バトルで相手に気圧(けお)されて言葉が出なくなる場面もあるけれど、決定的にその才能を否定されることはない。そういう意味では彼はしっかりと「持てる者」なんですよね。

 

なので、本当のどん底や挫折からの復活!というカタルシスがちょっと足りないような気はするんだけど、でもその代わり、たとえ才能があっても諸々の事情で夢を断念せざるを得ないようなことはあるわけで、たとえば家族の理解、あるいは恋人の理解、ようやく入れた伯父の会社での仕事との両立など、実際に好きなものを職業にすることの難しさが描かれて現実的な問題がいくつも浮かび上がってくる。

 

監督と脚本家が女性だからということもあるんだろうけど、登場する女性たちが印象的でした。

 

だから、主人公ムラドを描きながらも女性たちの現状を映し出す狙いもあったんだろうと思います。

 

ムラドとサフィナはしょっちゅう待ち合わせしながらイチャついてる、どこにでもいるようなカップルだけど、そういう彼らの姿そのものが「自由」の大切さを訴えてもいる。

 

互いの実家に経済格差があっても恋人たちはともに生きられる。

 

確かに宇多丸さんが指摘されていたように、ムラドが音楽大学の学生“スカイ”と浮気をしてしまって、それを知ったサフィナが彼女を瓶で殴って怪我をさせるエピソードは一見物語の本筋とは無関係にも思えるんだけど、あれはサフィナをただ美人でムラドの飾りのような存在ではなくて粗暴な性格で恋人を束縛もしたがる欠点のある「生身の人間」として描くためだったんじゃないかな。

 

インド人女性に対する昔ながらのイメージを覆す活動的なスカイのキャラクターもまた新鮮

 

サフィナはそれ以前にも彼女がムラドと付き合っていることを知っていながら彼にラヴレターのようなものを送った女性に暴力を振るってやはり怪我を負わせている。いずれも相手に原因があるとはいえ、サフィナはキレると抑制が効かない問題がある人物として映画の作り手は意識的に描いている。

 

監督や脚本家、サフィナ役のアリーヤー・バットの言葉から、サフィナが抱えている苛立ちや彼女がなぜムラドにこだわるのかがわかる。この映画は、ムラドの物語であると同時にサフィナの物語でもあるんですね。

 

 

 

僕はインド映画でこんな攻撃的な女性を見たことはあまりない(以前観たボクシング映画『ファイナル・ラウンド』の女性ボクサーぐらい)ので、ちょっとビックリしたんですが。

 

演じているアリーヤー・バットは綺麗な女優さんなんだけど、怒った時の目が据わった感じがまるでミシェル・ロドリゲスみたいでとてもエネルギッシュで、しかもサフィナはいつもはヒジャブをかぶったムスリムなので、その彼女がいきなり相手に飛びかかっていってボッコボコにする姿にはかなりインパクトがあった。すぐに凶器を使うし(;^_^A

 

 

 

 

それでムラドはうんざりしてサフィナと別れるんだけど、でも彼女のことがどうしても忘れられなくてヨリを戻すんですね。

 

2人目の若い妻を家族と同居させたり妻やムラドに暴力を振るう父親や、車泥棒の友人などと同様に、彼らは劇中でそのダメな部分を批判されながらも、最終的には彼ら自身のことは否定されないのだ。

 

 

 

ムラドは母をぞんざいに扱いムラドの夢に理解を示さない父親と別居することにしたが、クライマックスでは息子のステージをその父が母と並んで涙ぐみながら見ている。

 

 

 

ムラドの父の2番目の妻はムラドが作ったヒップホップの曲の良さを理解して褒めるし、母を責める旧弊な価値観の祖母ともムラドは最後には抱き合って和解する。誰も悪者にしない。その姿勢が徹底している。

 

正直なところ、最後にムラドがスラムの人々から祝福されるのは彼がミュージシャンとして成功したからで、結局は「金」なのか?という疑問や腑に落ちなさは若干ある。

 

ありのままを受け入れられるわけではなくて、あくまでも経済的に成功したからみんなが褒めてくれるのだ、と思うとちょっと虚しさも感じるんだけど、アメリカのスラム出身のスポーツ選手がその収入の一部を貧しい人々に寄付したり、成功者が自分の受けた恩恵を社会に還元することはあるから、ムラドもそういう立場の人間になったのだと思えば納得できなくはない。

 

憧れだったヒップホップアーティストになる夢を果たした彼は、今度は他の人々の目標になるのだ。

 

自分の立ち位置が定まらず揺れていたシンデレラボーイ(今一瞬“荻野目ダンス”が脳裏をかすめましたが)の成功譚としても胸が熱くなるところはあるんだけど、僕はサフィナをはじめムラドのまわりの人々の姿にこそ心を動かされました。

 

ヒップホップは「言葉の炎」によって想いを表現する。ムラドが紡ぐ「言葉」には彼のまわりで生きる人々の人生も反映されるだろう。だからこそ、この映画ではムラドだけではなくて彼の家族や恋人、仲間たちのことも描く必要があったんだろうと思う。

 

繰り返すように僕はヒップホップの良さがよくわかっていないんですが(車でこれみよがしに耳障りなデカい音響かせてる奴らが聴いてる音楽、という印象が強い)、この映画で好きなことに打ち込む人たちの姿を見て、社会に自分の「想い」をぶつける手段としてのヒップホップ・ミュージックが果たす役割をほんの少し知ることができたことで、このジャンルに対する個人的な偏見がちょっとだけ軽減されたような気はする。

 

映画を観終わって劇場を出る途中で同じ映画を観ていた若い学生みたいな男性がスマホで友だちか誰かに電話していて、「めちゃくちゃ面白かった!今度感想語り合おう」と興奮気味に語ってました。なんか清々しい気持ちになった。

 

もっと大勢の人たちに観てもらえれたらいいのになぁ。

 

 

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