ハイファ・アル=マンスール監督・脚本、ワアド・ムハンマド、アブドゥルラフマン・アル=ゴニ、リーム・アブドゥル、アフドゥ出演のサウジアラビア=ドイツ映画『少女は自転車にのって』。2012年作品。
ヴェネツィア国際映画祭C.I.C.A.E.賞、ロッテルダム国際映画祭ディオラフテ賞ほか受賞。
2014年アカデミー賞外国語映画賞サウジアラビア代表に選出。
サウジアラビアの首都リヤド郊外に住む10歳の少女ワジダ(ワアド・ムハンマド)は、幼馴染の少年アブドゥラ(アブドゥルラフマン・アル=ゴニ)のように自転車に乗りたいと思っている。しかし、サウジアラビアでは女性が人前で自転車に乗ることはできない。どうしても自転車を手に入れたいワジダは手作りのミサンガを売ったり、年頃の娘アビールが男性と会うための手助けをしたりして小遣いを稼ぐ。それでも自転車代にはまだまだ足りない。そんな時、学校でコーランの暗唱コンテストで賞金が出ることを知り、彼女は宗教クラブに入ってコーランの勉強に励むことにする。
映画評論家の町山智浩さんの作品紹介で知って、観にいってきました。
まずお断わりしておくと、僕は中東についてほぼ無知なので(いつものことですが)舞台となっているサウジアラビアの現実を知らないし、これから書くことはあくまでもネットや劇場パンフレットなどで得た知識です。
また女性差別問題についても、僕は男でそのようなテーマについて日々考えているわけではないので、いろいろと勝手な思い込みによる勘違いがあるかもしれません。
もしおかしなところがあれば、ご指摘いただけると幸いです。
監督のハイファ・アル=マンスールは“サウジアラビア初の女性映画監督”で、本作品は彼女の初長篇映画。
サウジアラビアでは映画館の存在が認められていないので、現地の一般の人々がこの映画を気軽に観ることもできない(密かにDVDや近隣諸国で観るそうですが)。
映画館がない、公の場での映画鑑賞が禁止されている、ということは、この国では映画が作られていない、ということでもある。
1974年生まれのハイファ・アル=マンスールさんが初の女性監督ということからもそれはうかがえる。
この作品は全篇サウジアラビアで撮影され、この国の俳優たちが出演するほとんど初めての映画といっていいようだ。
町山さんが紹介の中で仰っているように、これは自転車を手に入れるために頑張る少女の小さな物語であると同時に、サウジアラビアにおける女性差別の実態を静かに告発する映画でもある。
サウジの女性たちは公の場では真っ黒な衣服アバーヤで全身を覆って、顔も布で隠して生活している。
女性は男性よりも劣る存在として扱われ、その自由や権利は大幅に制限されている。
男性の近くで大きな声で歌ったり笑ったりしてはならない。
音楽を聴いてはならない。
肌を露出してはならない。
着飾ったりマニキュアをしてはならない。
結婚前の男女が会ったり会話してはならない。
生理中に手で直接コーランに触れてはならない。
車や自転車に乗ってはならない。etc.
数え切れないぐらいの禁忌がある。
そのような国が今もなお存在することが非常に驚きだったし、想像すればするほど当の女性にとって生きづらい世界だろうと思わずにはいられない。
ただ、実に奇妙なのは、この映画は現代が舞台だからワジダの身のまわりには普通に今風のものがあること。
彼女の家はそこそこ裕福なのか、広々としていて大きなTVもあり、ワジダは個室も与えられているし母親からはラジオで西洋の音楽を聴くことも黙認されている。
父親とプレステでゲームやったり、コーランの勉強も小遣い貯めて買ったソフト使ったりしてる。
ラジダはアバーヤの中に「I am a great catch!(あたしはイケてる!)」と英語で書かれたシャツを着ていて、下はジーンズにスニーカー。家の中では可愛いワンピースも着る。
見た目は日本にいる普通の少女と変わらない。
ジーンズ穿いてコンバース履いて音楽聴いて歌って笑う。
そんな当たり前のことをするだけで「問題児」とみなされる。
異常な世界に感じられるが、日本だって歴史の上からすればつい最近までそんな感じだったことを忘れてはならない。男と対等にふるまい自分の意志で行動する女性は、男や下手すれば同じ女性たちからも叩かれた。日本で女性の参政権が獲得されたのは第二次世界大戦後だ。
この映画を観ていると、普段当たり前のように思っていることが先人たちの努力によって一つ一つ勝ち取られてきたのだということがよくわかる。
他人事のように言って申し訳ないけれど、サウジアラビアの女性たちがこれから勝ち取らなければならないものはあまりに多い。
日本でも特にある世代以上の男性が男女平等という概念になかなか馴染むことができないように、生まれた時から教えこまれ身体に染みついたものを変えるのは難しい。
イスラム文化圏の男性たちには女性蔑視の考えが何千年もの長きに渡って根付いていて、それらを払拭することは容易ではないのだろう。
ワジダの父親は一見すると娘に優しく妻(リーム・アブドゥル)のことも大切にする良き夫のようだが、実際には男の子を産めずにワジダの時のお産で死にかけて今後の妊娠も難しいワジダの母親を見限って、他の女性の家に行っている。それを勧めたのは夫の母親である。
サウジアラビアは一夫多妻制。
本当ならば夫は2つの家庭の経済的な面倒を見るべきだが、しかし彼はワジダの母親が仕事に行くための自動車の運転手代しか支払っていないので、生活のために妻は車で3時間かけて仕事場に行き、一日中働いている。
それでも女手一つで家計を支えていくのは難しく、彼女は友人のレイラに貸した金を回収したりしている。
しかしどんなにふがいない夫でも、妻が離婚を切りだす権利はない。
職業の選択の幅は極端に狭く、夫に養ってもらわなければ女性は生きられない。
男たちは自分たちに都合のよい世界を変えないために、女性たちには自由も権利も渡さない。
なんというか、「男に生まれてゴメンナサイ」と土下座して謝りたくなってくるが、同じ男性でありながら本当に不可解だ。
人類にわざわざ女と男という2つの性があるのは、新しい命を生みだすにはその2つが協力しあう必要があるからで、ならば両者は対等でどちらもその存在が尊重されなければならないはずなのに、なぜか有史以来「女」は貶められ虐げられてきた。
そしてそれが何千年も続いて今に至る。
日本でだって「すべてにおいて男女平等は完全に達成された」などと言われたら、果たして納得する女性はいるだろうか。
今、この時代にいくつもの国でこのような女性の権利について問題提起する映画が作られているということは、それだけ女性たちの声が高まっていることでもある。
あいにく僕は未見ですが、2008年に日本で公開された、女の子が男装して密かにスタジアムに紛れ込んで禁じられたサッカー観戦をするイラン映画『オフサイド・ガールズ』をちょっと思いだしました。
『オフサイド・ガールズ』(2006) 監督:ジャファル・パナヒ
それと、唐突に思われるかもしれないけれど、現在も公開中の高畑勲監督のアニメ映画『かぐや姫の物語』をふと連想したのでした。
あの作品で主人公のかぐや姫が貴族たちに求婚される場面は、現代の日本に生きる者としてはどこか遠い別の世界の話のようにも感じられる一方で、僕はあの映画を「アイドルやアニメキャラについての考察」と解釈したんですよ。
ようするにこれまで現実に世の中の男性が女性に求めてきたことを、今の日本ではヲタクがアニメキャラに向かってやってるだけなのではないか、と思ったのです。
「~は俺の嫁」とかよく言ってるじゃないですか。
お気に入りの美少女を所有して好きなように扱いたい、という欲望ですよね。
二次元の話までしだしたらどんどん本題から逸脱してしまうのでこの辺にしときますが、たとえば腐女子の皆さんがどんなにボーイズラヴに熱狂しようとそれはあくまで空想の中での戯れで現実の世界との接点は薄いけど、フィクションの中に描かれた女性像に影響されて現実もそうだと勘違いするバカな男はけっこう多いので(自戒もこめて)。
だから、実は日本だって男が女に求めるものというのは昔からさほど変わっていないのではないか。
あの『かぐや姫の物語』で描かれていた「女の幸せは金持ちや位の高い男に娶られること」という考えがサウジアラビアでは今でも当然のようにまかり通っていて、女性は本人の意思など一切考慮に入れられることもなく、まだ年端もいかないうちからはるかに年上の男性の妻として、「男の子を生むための道具」として半ば人身売買に近い形で“家”から“家”へと“移譲”される。
この『少女は自転車にのって』でも、ワジダと年の変わらない少女が成人男性と結婚することになった、という話が出てくる。
女性教師によってそれがあたかも名誉なことのように語られる。
サウジアラビアでは、家系図には男だけが記されて、女性の名前は残らない。
ワジダは家にあった家系図に自分の名前を書いた紙をヘアピンで刺しておくが、しばらくするとその紙は取り除かれていた。
「嫁」というのは、夫の実家側から見た立場のことだ。「娘を嫁がせる」というのは、“男のような価値がない女”を「片付ける」ことでもある。
そういう言葉や表現があること自体、日本でもついこの前まで「結婚」とは家と家との契約だったことの証左である。
ワジダに協力してもらって好きな人と会っていたアビールは宗教警察に捕まり、親の手で別の男性のもとに嫁に出される。
ワジダのような少女たちが、もし『かぐや姫の物語』を観たらどのような感想を抱くのだろう。
かぐや姫がそうだったように、ワジダたちもまた教育を受けている。
しかしそれは現状の体制を維持するためのものだ。
だから宗教的な戒律や男たちが決めたルールを逸脱する言動は許されない。
パキスタンで女性の教育の重要性を訴えてタリバンに銃撃され、手術によって一命をとりとめて昨年国連で演説したマララ・ユスフザイさんのことが頭に浮かびます。
ちょっと前に観たNHK「クローズアップ現代」で、マララさんに触発されて、同じように女性差別の激しいアフリカはウガンダの女性アナウンサーが声を上げる様子をやっていて、そこで彼女にインタヴューされた現地の男性が「女はすぐにトラブルを起こす。女を男と対等に扱うなんてとんでもない」と真顔で発言しているのを聴いて少なからぬ衝撃を受けたのでした。
21世紀のこの時代にまだこんなことを言ってる人間がいて、実は世界のいくつもの国でこのようなことが通用しているという事実。
ウガンダのこの地域では男たちは女性に平然と暴力を振るうようだし、それで彼らが取り締まられることはない。
『少女は自転車にのって』には暴力的なシーンは一切ないが、サウジアラビアの女性たちが男性たちに服従しているのは、物心つく前からそうであるべきと教育され、また暴力によって抑圧、支配されてきたからだ。
ワジダとアブドゥラの会話の中で、冗談交じりに自爆テロの話題が出てきたりする。
ワジダたちにこの国の女性としての作法を厳しく教える女性の校長や教師たちもまた同様の子ども時代を送ったのだろう。
そしてこの女性蔑視の世界で自分が生き残るすべを身につけ、少女たちにも教えている。
この映画に出てくる若い女性教師たちは、誰もが伏目がちでほとんど笑顔を見せない。
彼女たちはちょうど映画『ぼくらの七日間戦争』のように戯画化された悪役として描かれているのではなくて、あくまでも「こういう人たちは現実にいるだろうな」と思わせるリアリティがある。
この映画の校長や教師たちは生徒たちに対してけっして感情的になって大声を上げたり暴力を振るったりはしないけど、宗教クラブの先生は穏やかな口調ながら目がまったく笑ってなくてちょっと怖かった。
女性たちだって生身の人間で、人として当然の欲求がある。
お洒落したり恋もして、本当に好きな人と結婚したい。
生徒たちに厳しく接するヒッサ校長(アフドゥ)も、家で男と密会していたら父親が通報して大事になったので「泥棒が入った」と嘘を言ったのだ、とワジダたちは噂している。
でもそれはけっして男たちにバレてはならないし、ワジダと同じように自由な気風に見えた母親が一歩外に出れば黒いアバーヤで全身を覆い、夫の気を引くために赤いドレスを自前で買ってめかしこむのも、すべてこの国で生きていくためなのだ。
男たちの圧制はいつしか女性たち自身も蝕んでいる。
かつて日本の女性たちが「日本女性のあるべき姿」を教育され、やがて「お国のために、天皇陛下のために立派に死んできなさい」と万歳三唱して戦地に我が子を送りだしたように、それは本気で信じ込んでいる者もいれば疑問を持ちながらもまわりに合わせていた人もいるのだろうけれど、暴力によって人々を支配する構造はイスラム過激派の連中と変わりがない。
この映画が素晴らしいのは、さりげない現実を描きながらそれが同時にどんな声高な主張よりも強く観る者に訴えかけてくるところだ。
少女と少年が仲良く歩いている、ただそれだけの光景が実はとても大きなメッセージになっている。
この映画の中で女性たちは一度たりとも「こんなことは間違っている!」などとわかりやすく言葉で異議を唱えたりしない。
そんなことが許される社会ではないからだが、それはどこかの国の戦争映画が何もかも台詞で説明してしまう末期的症状になってるのとは、映画としての質が根本的に違うということでもある。
現実を映しだせばそれがそのまま社会の矛盾や理不尽さへの抗議となる。
編集も目立たないが無駄がなくテンポがよくて、冗長さや重々しさがない。
この映画の撮影は困難を極めたようで、何しろサウジでは映画撮影自体が特殊な行為だし、女性の映画監督など誰も認めないので演出もままならない。
だから監督は車の中から遠隔でディレクションしたんだそうな。
ワジダを演じるワアド・ムハンマドは演技経験はほとんどなかったが、オーディションに現われた彼女はワジダそのもので、普段からジーンズを穿いていたという。
ワジダは笑顔が魅力的なとてもキュートな美少女だが、サウジアラビア国内の保守的な人々(特に男性たち)にとっては西洋文化にかぶれてアッラーの教えに背く許しがたい存在かもしれない。
ただ僕の個人的な考えを言わせてもらえば、宗教というのは人間のためにあるんであって、宗教のために人間がいるのではない(異なる考えの人々がいることはわかってますが)。
誰がなんと言おうと、人間を犠牲にするような宗教は間違った宗教だと思う。
町山さんが言われるように、イスラム教の国だって女性の権利が守られている国もあるのだし。
コーランには「女は自転車や自動車に乗ってはならない」などとは書かれていない。
結局は権力者たちが自分たちの都合の良いように勝手に解釈して、人々に押しつけているだけなのだ。
ワジダは頑張ってコーランを暗記して、ついに優勝する。
「賞金を何に使うの?」と訊ねる校長に、ワジダは正直に「自転車を買います」と言う。
校長の笑顔が消える。
校長は生徒たちに「ワジダは賞金をパレスチナの同胞に寄付します」と告げる。
「あなたの愚かさは一生直らないわ」と言う校長に、ワジダは「校長先生の“泥棒”と同じね」と切り返す。
ワジダは利発でしたたかな子だが、ただの口の減らないクソガキではない。
彼女は大人たちから見れば反抗的な問題児、“不良少女”かもしれない。
でも信念を持ち、自分の意見をハッキリと言って行動できる、そしてせっかくの努力を無駄にされても大人に向かってあんな気の利いた皮肉が言える子がそうそういるだろうか。
アブドゥラはワジダに「いつか結婚しよう」と言う。
ワジダはそれに答えず、フン、と軽く笑うような表情を見せて帰っていく。
この場面には希望と不安の両方を感じずにはいられない。
部族が違うふたり、しかもこの国では女と男が自分たちの意志で恋愛したり結婚したりする自由はない。
ワジダのことが好きなこの少年も、いずれはワジダの父や他の男性たちのように女性を見下し自分の支配下におくような男に成長するかもしれない。
でも、もしも彼がこの優しさを失わず、ワジダたち女性とともに人間の尊厳のために悪しき慣習と戦う人になってくれれば、世の中は変わっていくかもしれない。
家の屋上でタバコを吸う母は、近くの家で行われている宴を眺めている。
それは、ワジダの父が母とは別の女性と挙げる結婚式だった。
盛大に打ち上げ花火が上がり、母と娘を照らしだす。
「仕方ないの。パパは決めたんだから。これからは二人よ」と言う母。
ドレスを着てあそこに乗り込んで!と言うワジダに母は、彼女のために買ってきた自転車を見せる。
最後まで“父”は“娘”の欲しているものを与えなかった。
“母”は自分が得られなかったものを娘に託した。
ラスト、自転車を漕ぐワジダとアブドゥラ。ワジダがアブドゥラの前を走る。
ワジダの溌剌とした声が響く。「捕まえて!」
女の子が自転車に乗って走ることが許されない世界で、彼女ははだけたアバーヤからTシャツやジーンズをのぞかせ、コンバースでペダルを漕いで前に進む。
彼女の前には激しく車が往来する道路がある。
それはこれから彼女が踏みだす世界を表わしている。
ワジダがぶつかるであろう多くの困難が予感される。
それでも左右を見渡すワジダの表情は晴れやかだ。
このひとりの少女の姿に込められた、世界中の女性たちの未来への希望。
ワジダが映画の中で見せていたように、多くの女性たちが笑顔で暮らせる世界の実現を強く願います。
追記:
その後、サウジアラビアでは2018年に映画館での映画の上映と女性客の鑑賞が、また女性による自動車の運転が解禁されました。
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