ジャファル・パナヒ監督、ベーナズ・ジャファリ、マルズィエ・レザエイ、シャールザード(声のみ)ほか出演の『ある女優の不在』。2018年作品。

 

第71回カンヌ国際映画祭コンペティション部門脚本賞受賞。

 

イランの人気女優ベーナズ・ジャファリのもとへ、イラン北西部のサラン村に住む一人の少女マルズィエからスマートフォンで撮ったある映像が送られてくる。そこには女優になるために芸術大学への進学を望むも家族の裏切りにあったとして、洞窟の中で首を吊ろうとしているマルズィエの姿が映っていた。ジャファリは映画監督のジャファル・パナヒの運転する車で現地に向かい、事の真相を知ろうとする。

 

内容について書きますので、これからご覧になるかたはご注意ください。

 

 

白い風船』『チャドルと生きる』『オフサイド・ガールズ』などのジャファル・パナヒ監督の映画を僕はこれまで1本も観ていなくて、前作『人生タクシー』はシネコンでも上映されていたので興味があったんだけどこれもあいにく観られませんでした。

 

ただ、パナヒ監督のことを映画サイトの記事などで目にすることはたまにあって、たとえばイラン政府から映画制作を禁じられて自宅軟禁された監督が自宅の中だけで撮った『これは映画ではない』など、そのユニークな試みとユーモア、反骨精神を感じさせるエピソードなどについては知っていました。

 

今回、単館系のミニシアターでたまたまこの映画の予告を観て惹かれたんですよね。

 

少女の遺言と自殺の瞬間が収められたスマホ映像で始まるミステリアスな物語から、おそらくは「女性」の権利や自由について話が広がっていくのだろうと思った。

 

それで、特になんの予備知識もないまま観たんですが、鑑賞後、ちょっと戸惑ってしまって。

 

同じ回を観た若い女性の二人組も上映終了後に「…わかった?」「ん?…ハハッ^_^;」と笑いながらやりとりしてて、明らかに困惑しているようだった。

 

僕は劇場パンフレットを買って帰ったんですが、パナヒ監督の作品は現在の彼の境遇やイランにおける表現の自由についてなど、その背景をある程度知っておいた方がいいんですね。

 

そうでないと、ここで何が描かれていてどんなメッセージが込められているのか汲み取るのがなかなか難しいだろうから。

 

僕はどうしても映画に娯楽的な要素を求めてしまうので観客として「楽しませてもらう」つもりで受動的に観てしまいがちなんですが、こういうタイプの作品は受け手が積極的に作品の中からその狙いを読み取ろうとしなければ、ただ漫然と観ていると単によくわからなかったり退屈な映画としか思えないかもしれない。

 

先ほどの女性たちの困ったような笑い声には、「何が描きたかったのか、よーわからんかった」というニュアンスが濃厚だった。僕だってパンフでこの映画が語っていたことについての解説を読まなかったら同じような反応のままだっただろうと思う(※以降の情報はパンフレットの文章をもとに書いています)。

 

パナヒ監督は作品の中に彼の故郷で住処であるイランの政府を批判する内容が含まれていることで弾圧されて、国外へ出ることもできなくなっている。自作が受賞した海外の映画祭に出席することもできず、映画作りも禁じられているので、あの手この手でなんとか当局の目を盗んで新作を撮って発表し続けている。

 

この『ある女優の不在』もまた、撮影は警察や憲兵の目をかいくぐってギリギリのところで行なわれていて(冒頭の車内での長廻しの場面の撮影中に警察に尋問を受けている。監督は車の中に隠れ、ジャファリとキャメラマンはTV番組の撮影だと偽って難を逃れた)、監督の故郷の村で撮影することで昔からの付き合いのある人々の協力を得て安全に成し遂げられたという。

 

そういう事情を知ったうえであらためて作品を振り返ると、登場人物たちの姿に込められたものがよりハッキリしてくる。

 

この作品が面白いのは、劇映画の中にドキュメンタリー的な要素を含ませていること。

 

パナヒ監督は劇中で自分自身を演じ、また人気女優ベーナズ・ジャファリも本当にいる女優を本人が演じている。そして、69年のイラン革命で映画など表現の自由が大幅に制限されてしまう以前にイラン映画界で活躍していたが、革命後に不遇となって女優としての道を閉ざされてしまった往年の名女優シャールザードも実在の人物。この映画では出演は固辞したが、監督が車内で聴く詩の朗読の声は本人のもの。

 

現実とドラマが混然となっている。

 

といっても撮影自体は劇映画のスタイルで、疑似ドキュメンタリーのような体裁はとっていない。

 

脚本通りに演出・撮影された紛れもない劇映画でありながら、それでも現実を大いに反映させた作劇。村人役の人々も、誰が本職の役者で誰が素人なのか映画を観ているだけではわからない。

 

こういう映画のスタイルは『友だちのうちはどこ?』や『そして人生はつづく』などのアッバス・キアロスタミを思わせるけど、パナヒ監督はキアロスタミ監督の助監督を務めていた人なので、なるほど、その手法を受け継いでるんだな。

 

ただ、僕はそういった背景について鑑賞後に知るまでは、遺言とともに自殺の実況映像が送られてきた、というショッキングな出だしに期待させられたミステリータッチの作品とはかなり違うその内容に正直物足りなさを感じてしまって、「たいしたことはなかった」と思ったんですよね。もしかしたら、あの二人組の女性客もそうだったのかもしれないように。

 

だって、映し出されるのは田舎を車でウロウロしながら喋ってる映像ばかりだったから。そして、何か強いカタルシスのある展開もないまま映画は終わってしまうし。

 

少女の自殺の真偽については最初からジャファリは疑っていて、しかも真相もけっこう早めに明かされる。導入部の謎があっさり解かれてしまって、狂言自殺じゃないかと思ってたらやっぱりそうでした、という展開には肩すかし食らった気がしたし、あんなに逆上してその少女マルズィエをぶっ叩いたりしていたジャファリが、そのあとコロッと態度を変えて彼女と笑顔で抱き合ってるのにも唐突な印象を覚えた。

 

 

 

たまたま彼女がそういう性格の人なのか、女優という職業柄感情の変化が激しいのか、それともあちらの女性たちはみんなああいうちょっとエキセントリックなところがあるのかもよくわからない。

 

「ある女優の不在」という邦題(英題は“3 FACES”)からも、その“不在”の女優と最後に監督が出会うと思っていたら、遠巻きにその後ろ姿を映すだけでついに彼は老女優と対面することはない。

 

それと気になったのが、映画の中でパナヒ監督は積極的に発言したり行動したりすることがほとんどなくて常に受け身だし肝腎な時には疲れて眠っていたりするんで、観ていてもどかしくてしょうがなかった。当然ながら、自分をそういう“キャラ”として描いているわけですが。

 

最後の車窓からの長廻しを観ながら「…えっ、もしかしてこれで終わりじゃないだろうな」と思ってたら、ほんとに映画はそれでおしまいだったという。

 

恥ずかしながら、映画だけを観てこの作品の良さを感じ取ることが僕にはできなかった。

 

いや、けっして難解な内容ではないので、もちろん「何が描かれていたのか」は観ていればわかるんですが、その奥に込められている監督の想いまでは読み取れなかった。

 

だから、やはり観客の方が映画に歩み寄ってそこから何かを受け取ろうとしなければならないこともあるんですね。場合によっては映画以外の解説の助けを借りる必要も。

 

パンフでの解説を読んであらためて映画の内容やその描写の数々を思い返すと、僕が「なんかイマイチな感じ」と思った箇所が逆に監督の計算だったり、映画の作り手、あるいは「男性」としての謙虚さのあらわれでもあったことに気づかされたのでした。

 

有名な女優にスマホで自分の自殺の模様を撮って送って助けを乞う、という方法には少々あざとさを感じてしまったのだけど、それもイランで映画作りを禁じられた若い女性が自殺した史実をもとにしていて、だから劇中の少女マルズィエには監督自身が重ねられているんですね。

 

曲がりくねった細い道は車が1台しか通れないため、しばしばクラクションを鳴らして対向車がいないかどうか互いに確認し合わなければならないし、サラン村は大都市のテヘランからもかなり距離があるが、彼らはスマホを持っているしインターネットだって繋がっている。情報はあるのだ。だが村に住む人々、特に男性たちの頭は固くて、おまけに迷信深く、自分たちの価値観を容易には変えない。

 

村人から「芸人など役立たずだ」と白眼視されるマルズィエの苦しみは、国内では同様に批判する者もいるパナヒ監督の受けている理不尽さのことでもある。

 

そしてこれは、芸術活動や表現の自由について描いているということでは、遠いイランの地の話にとどまらず、僕が住むこの国のことに置き換えて観ることもできる。

 

果たして僕たちは、この映画で描かれているイランの現状を「遅れている」などと言えるだろうか。では、日本は進んでいるか?

 

もしも、日本で女優が政治的発言をしたら、やいのやいのと噛みついてくる輩がわんさかいるだろう。男優でもそうだ。映画監督ですらも。文化活動にたずさわる者は、その不自由さを実感しているはず。してない奴は権力の犬か表現者もどきのどちらかだ。

 

おとなしく従順にしている者は認めてやるが、“芸人風情”が公権力を批判して自己主張だの自己表現だのすることは許さない。たかが映画。自由は無制限ではない。身の程を知れ。

 

──そんなふうに考えるバカがデカいツラして威張ってる文化後進国、それが今の日本だ。この映画で描かれているのは日本の鏡像だと思う。

 

僕などは人間の社会は時とともに成熟し進歩していくものだと素朴に信じていたのだけれど、この映画を観ているとイランはそうではなかったことがわかる。革命後、旧弊で差別的な教えが国民に広まり、栄えていた映画界も表現の自由の制限を余儀なくされる。かつては許されていたことが許されなくなった。

 

もともと遅れているのではなくて、何かのきっかけで人々の意識や文化が“後退してしまう”ことが起こりうるのだという事実。

 

日本も戦前は一時期国民は自由を謳歌し、さまざまな文化が花開きもしたが、やがて軍部による弾圧とマスメディアの萎縮、大衆の迎合等によってその「自由」は奪い取られていった。

 

僕たちが今享受している自由やそれを尊いとする価値観は日本人が自ら取り戻したのではなく、戦勝国で占領国であったアメリカから与えられたものだ。

 

だから、その自由のありがたみが実感できず、「アメリカに押しつけられた」などと主張する者たちもいる。しかし、そういう連中はその自由がなくなったらどんな悲惨な世界が待っているのか想像することができないのだし、歴史から学ぶことさえできていない。

 

芸能や芸術を国家や公権力のプロパガンダ程度としか考えず、文化への理解も関心も薄く弾圧することになんの躊躇もない冷酷な人間たちに牛耳られた息苦しくて不寛容な世界。

 

マルズィエやジャファル・パナヒがかこつ絶望や不自由さから、僕たちは自らの行く末を予感して震えなければならないのだ。このままいけば、政府に不都合だと判断されればたやすく行動や表現の自由を奪われてしまう現在のイランのような社会が待っている。

 

日本に「自由を与えた」はずのアメリカにおいてさえも、現在では寛容さが徐々に失われつつある。

 

日本は民主主義で自由が保障された国だと当たり前のように信じていたのに、どうもそうじゃないようだ、と気づいてしまった多くの人々が声を上げ始めている。

 

自由はたやすく摘み取られるし、自ら進んで弾圧に加担する者も出てくる。

 

ちょっと話が横道に逸れますが、今から20年以上前のこと、地元の友人女性の実家を訪ねた時のこと。

 

彼女と並んで彼女の家へ向かって細い公道を歩いていると、その友人が向こうから歩いてきた老人に深々と頭を下げて挨拶をした。町内会長さんだという。

 

どうも、その町内会長のじいさんにちゃんと挨拶しなければあとであれこれ言われるのだそうで。

 

また、彼女は夜遅く家に帰ると近所で噂されるので気を遣う、と言っていた。

 

そういえば、彼女の実家のご両親に挨拶しても無愛想で返事もしなかったな。あまり幸せそうではなかった。こちらが男だから警戒していたのだろうか。

 

…一体、いつの時代のどこの僻地の村の話なんだと思うんだけど、そこは市の中心部からそんなにめちゃくちゃ遠い場所ではないし、90年代だって街なかではそこまで相互監視の世界ではなかった。

 

あれから彼女がまだその窮屈な実家に住んでいるのかどうかは知らないけど、この『ある女優の不在』を観ていて、ふとあの時のことを思い出した。

 

村社会の異様さと滑稽さ。

 

そういったものは、今でも僕が住むこの国から消えてはいないんじゃないだろうか。信じられないようなエピソードをTwitterの呟きなどでもよく目にするもの。

 

もっとも、この映画に登場する村人たちはみんながみんな偏屈で意地が悪いわけではなくて、パナヒとジャファリに人懐っこそうに話しかけてきたり、親切にもてなしてくれたりもする。

 

 

 

 

パナヒ監督はここで一方的に村人たちを時代錯誤の田舎者扱いするのではなくて、彼らの生身の姿から、人間的な温かさや閉鎖的で思い込みが激しいところなど、彼らの多様な面を映し出す。

 

やたらと飲み物や食べ物を勧めてきたり、親切と「自分ルール」の押しつけの区別がついていないところや、愛想よく寄ってきたと思ったら笑顔で悪態をつきながら去っていく田舎の人あるあるも。

 

パナヒ監督がこの映画の中で「受動的」に見えるのは、どんどん自分を前に出してその主張を突き通すのを控えて、対象と一定の距離感を保とうとしているからだろう。それは相手を尊重しているからでもある。監督が女性に成り代わってものを言うこともない。

 

 

 

ジャファリが自己主張して自らの意思で行動する女性だから、彼女の“キャラクター”と対比するためもあるんでしょう。

 

女優志望で芸術大学への進学を望んでいたマルズィエは村人たちから変人扱いされていて、親から「結婚すれば進学を許す」と言われていたのにその約束を反故にされたため、有名な女優のジャファリが彼女のもとを訪ねてきて家族を説得してくれることを期待したのだった。

 

赤の他人にそんな人騒がせなことをしてまでも助けを求めなければならないほどに、ここでは自由が制限されている。

 

ただ、自由が制限されているかどうか以前に、大学進学や芸能関係の世界へ進むことが親や家族に受け入れてもらえるかどうかという問題は、時代や場所を問わずいつでもどこででも生じ得るものでしょう。

 

誰だって女優になろうとすれば、それなりの苦労を覚悟しなければならないだろうから。

 

なので、深刻な問題が背景にはあるものの、これは普遍的で身近な題材でもある。

 

3人の3つの世代の女性たち──伝説的な女優シャールザード、そして現役の女優であるベーナズ・ジャファリ、それからそのジャファリに憧れ自身も女優を目指すマルズィエ。

 

さらには村の女性たち。

 

彼女たちと対比されるのが、村の老いた男性たちやマルズィエの弟。

 

村のある老人は、ジャファリを呼びつけて割礼式で切除した彼の息子のムスコの皮、つまりチ○コの皮を彼女に託そうとする。「私にどうしろと…」と困るジャファリさん(当たり前だ^_^;)に老人は、野生的な男優のベヘレーズ・ヴォスーギにそれを渡せば彼の男らしさにあやかれるからよろしく、みたいなことを言う。このヴォスーギさんというのも実在の男優で、革命後アメリカへ移住したためパナヒとは反対に帰国することができない。

 

無理やり他人のペ○スの包皮が入った袋を持たされたヴェテラン女優と、真剣な表情で(でも一応妻の目は気にする)男らしさとチ○チンの皮にまつわる迷信を熱く語る老人のやりとりのおかしさ。

 

帰ろうとする車の前で細い道を塞いでいるのは、崖から落ちて足を怪我して立てなくなった種牛。

 

 

 

持ち主の男性は「特別な遺伝子」「奇跡の睾丸」を持つその牛を誇らしげに語るが、足を折った種牛はもう使い物にはならないし、苦しませ続けるのは可哀想だからいっそ殺してやって、おまけに車の通行の邪魔だから崖の下にどけたらどうか、というパナヒの意見に耳を貸さない。

 

マルズィエの弟は、姉のせいで村で爪弾きにされる、と言って大声を上げて暴れる。

 

この弟はどう見ても正常な精神状態ではなくて、親にも部屋に閉じ込められたりしている。

 

姉を家族としてかばおうとするのではなく、村の男の老人たちと同じく「迷惑」だと言って荒れる弟。マルズィエよりもむしろ、この大柄で凶暴な弟の方がよっぽどやっかいな存在に思える。

 

マルズィエの弟は腹いせにパナヒの車のフロントガラスを石で割る。割る瞬間は映っていないが、彼が赤ん坊の頭ほどの石を手に持って家の玄関の前に座ってこちらを睨むショットがある。その後、ラストの長廻しのシーンでパナヒの車のフロントガラスにはヒビが入っている。

 

男性性を誇示し続け暴力を振るう男たちの愚かさを、自身も男性のパナヒ監督が大いに皮肉っている。

 

そして、そういう滑稽なものが女性が俳優になることも大学に行くことも阻み、彼女たちを抑圧している。パナヒを弾圧しているものの正体も同じだ。笑えない。

 

マルズィエの家の前に停めた車から出て、パナヒは一人で歩いていく(石を持って睨んでる男がいるのに、なんで車を離れたんだ^_^;)。その先では、イラン革命のあと女優業ができなくなってこの村に住んでいるシャールザードが森の絵を描いている。

 

マルズィエは狂言自殺映像をジャファリに送ってから、シャールザードの家に身を隠していた。3人の女性たちは出会い、同じ時を過ごす。パナヒはそれを外の車の中から眺めているだけだ。

 

彼はこの映画の中で見つめる者に徹している。

 

対象と一定の距離を保って眺め、その声を聴くことで、女性たちと男たちとのこの違いが鮮明に浮かび上がる。

 

この映画に登場するサラン村の住民たちは生身の人間のいろんな面を示している。それは僕らの姿でもある。

 

そして、ラストショットで車を降りて歩き続けるジャファリのあとを追って白い布(女性がまとうチャドルだろうか)をかぶったマルズィエが駆けていく。彼女は家を出てジャファリと歩むことにしたのだろうか。キャメラは曲がりくねった道を進み合流するそのふたりの後ろ姿をずっと映し続ける。

 

それは妙に映画的な映像だった。

 

 

 

これから続く長い長い道のりは険しいが、彼女たちに幸あれ。私も映画を撮り続けるから、とパナヒ監督が言っているように感じられた。

 

…わかったようなこと言ってますけど、最初に映画だけ観た時には僕はあまりピンときてなかったんですよね。それがパンフ読んだらなんかわかった気になってるのに我ながら呆れますが。

 

でも答えというかヒントをもらって、パナヒ監督の過去作も観たくなってきたし、次回作もまた公開されたら観にいきたいです。

 

 

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