ジャファル・パナヒ監督・主演、ヴァヒド・モバセリ(ガンバル)、ミナ・カヴァニ(ザラ)、バクティアール・パンジェイ(バクティアール)、レザ・ヘイダリ(レザ)、ナセル・ハシェミ(村長)、ジャワド・シヤヒ(ヤグーブ)、アミル・ダワリ(ソルデューズ)、ダリヤ・アレイ(ゴザル)、ユセフ・ソレイマニ(ヤグーブの叔父)、ナイジェス・デララム(ガンバルの母)ほか出演の『熊は、いない』。2022年作品。イラン映画。

 

第79回ヴェネツィア国際映画祭コンペティション部門、審査委員特別賞受賞。

 

パナヒ監督(ジャファル・パナヒ)はトルコで偽造パスポートを使って国外逃亡しようとしている若い男女(バクティアール・パンジェイ、ミナ・カヴァニ)を主人公にしたドキュメンタリードラマ映画を撮影するため、イランの国境近くの小さな村からリモートで助監督レザ(レザ・ヘイダリ)に指示を出す。そんな中、滞在先の村では古い掟のせいで愛し合うことが許されない恋人たちをめぐるトラブルが大事件へと発展し、パナヒ監督も巻き込まれていく。(映画.comより転載)

 

ある女優の不在』のジャファル・パナヒ監督の最新作。

 

今月初日に鑑賞。

 

パナヒ監督の作品を観るのは僕はこれが2本目ですが、前作も今回と同様、監督本人が監督自身を演じていて、だから一見するとドキュメンタリー映画っぽく見えなくもないんだけれど、れっきとしたフィクション=劇映画で疑似ドキュメンタリーの体裁もとっておらず、だからこの映画のための撮影キャメラの存在はないものとして扱われている。

 

題材も共通しているから、『ある女優の不在』のあとに観るとまるでその続篇といった感じ。

 

『熊は、いない』では、パナヒ監督は前作とはまた違う村に滞在している。

 

ジャファル・パナヒ監督は、2010年に母国イランの警察に逮捕されて“イラン国家の安全を脅かした罪”で20年間の映画撮影や海外渡航などを禁止されながらも密かに当局の目をかいくぐって映画を発表し続けていて、『ある女優の不在』やこの『熊は、いない』もそうやって作られた。

 

そして、パナヒ監督は『熊は、いない』の完成後、今年の7月に再び逮捕されて6年の禁固刑に服することになった。

 

イランといえば、今年のノーベル平和賞を授与される女性人権活動家のナイゲス・モハンマディ氏が現在テヘランの刑務所に収監中だったり、つい最近でも髪を隠す「ヒジャブ」の付け方を咎められて女性が風紀警察から暴行を受けて殺されたり意識不明になるなど、人権の蹂躙が甚だしい国ですが、パナヒ監督もまた体制から目をつけられ、その行動を著しく制限されている。

 

そんな状況の中で沈黙をよしとせず、体制が取り締まろうと躍起になっている、古い因習への疑問や女性差別への批判などを含む作品を世界に発信し続けるパナヒ監督の勇気や胆力、そしてしたたかさに畏敬の念を抱きます。

 

彼が自らの身も危険に晒しながら「表現者」として発したものを今受け取ることには大きな意義があるし、それはパナヒ監督の活動への賛同の意味もあるから僕自身にも必要なことだと思っています。

 

だから『ある女優の不在』同様にこの映画を観ておいてよかったですが、ただし内容的には厳しいラストを迎えるストーリーなので、思いのほか気持ちが落ち込んでしまって、そのまま帰宅する気になれず、このあとに別のミニシアターでやっていた某有名アニメーション監督のドロボーさんが湖の水を飲み干したり空を飛ぶ昔の娯楽作品の名作を観てホッと息をついたのでした。

 

『熊は、いない』のような映画は世の中に必要だけど、こういうタイプの作品だけでは僕は耐えられない。

 

ですから、観る人によっては僕と同じように気分が沈んでしまうかたもいらっしゃるかもしれません。前もってそのつもりでご覧になられることをお勧めします。

 

さて、この映画は2つの視点からなっていて、それを交互に見せながら進んでいく。

 

まずは、パナヒ監督がリモートで演出しているトルコ国境の町を舞台にした、さまざまな障害から逃れるためトルコを出てフランスへ向かおうとしている一組の男女のカップルのドキュメンタリードラマ。撮影はキャストとともに助監督のレザがスタッフと行なっており、パナヒ監督は遠く離れたイランの村からパソコンを使って指示を出している。

 

 

 

もう一つは、パナヒ監督が当局の目を逃れて映画を演出するために滞在している村での出来事。

 

村人たちには滞在の本当の理由は告げておらず、彼の世話をしてくれる村の男性・ガンバルに村での催しの模様をヴィデオキャメラに収めてもらったり(ガンバルが“しろうと”過ぎて、キャメラを止めているべきところで廻しっぱなしにして撮らなければならないところでキャメラを廻していなくて、失敗に終わる)、村人たちをデジタルカメラで撮ったりしていたが、それが原因でパナヒ自身が問題に巻き込まれることに。

 

 

 

車の中に一人でいたパナヒにゴザルという娘が近づいてきて、彼女とその恋人のソルドゥーズが2人で写っている写真を撮らなかったか?と尋ねる。もしもその写真を村の他の誰かに見られたら血が流れる、と。

 

 

 

そして、パナヒが借りている部屋に村人たちが来て──村では女の子は生まれたばかりで結婚相手を決められる。ゴザルにはヤグーブという結婚相手がいる。しかし、ゴザルはソルドゥーズと付き合っている。その証拠としてあなたが昨日撮った彼ら2人が一緒に写っている写真を差し出してほしい──と要求してくる。

 

そんな写真を撮った覚えはない、と答えたパナヒだったが、村人たちは納得せず、ヤグーブはソルドゥーズに殴りかかって揉める。パナヒの滞在を許可した村長までもが写真のことで詰めてくるので、いい加減嫌気が差したパナヒは村人たちを撮影したSDカードを村長に手渡す。

 

 

 

一方で、撮影中だった映画の現場では、カップルの男性の方のバクティアールのパスポートの入手に手間取る。相手のザラの分だけなんとか手に入ったが、彼女はふたり一緒でなければ納得しない。

 

トルコを出ようとするザラとバクティアール。イランを出ようとするゴザルとソルドゥーズ。

 

この2組のカップルの行く末は……。

 

まず、2つのストーリーが同時進行しているのに加えて、映画監督のジャファル・パナヒが同名の映画監督を演じていてそこで遠隔で「映画」を撮っているという設定で…僕はてっきりトルコの方、助監督のレザが代理で現場を仕切っていた撮影というのは劇映画/フィクションで、だからザラとバクティアールを演じているのは俳優たち、という“設定”だと思ってたら(ザラ役のミナ・カヴァニはいかにも女優といった感じの美人さんだし)、観てるうちにどうやらこの『熊は、いない』の劇中でのザラとバクティアールはほんとのカップルで彼らは自分たち自身を演じているということらしいのがわかってきて、少々戸惑ったんですよね。

 

映画の冒頭場面で、ザラとバクティアールのやりとりが実は映画の撮影であったことがわかるくだりで、キャメラのPANのタイミングがどうとか言ってパナヒ監督が助監督に撮り直しを命じるんだけど、なんで国外脱出を目指すカップルの「ドキュメンタリー」じゃなくてわざわざ「劇映画」なの?と。しかも現在進行形の国外逃亡劇を当人たちが再現って、どうしてそんな悠長なことやってるのか理解できない。

 

このあたりが微妙に引っかかって、このパートに集中できなかった。地味にややこしくて。

 

むしろ、ザラとバクティアールは俳優で、こちらのパートでは完全なフィクションとしての男女の物語を描こうとする過程を見せて、村での現実のカップルがたどった運命と対比した方が衝撃や深い余韻に繋がったんじゃないだろうか。

 

そもそも、僕は前作『ある女優の不在』を観て、実際にパナヒ監督がこうむっている困難と、背景にあるさまざまな事情を知って疑問だったのが、映画を作ることを禁じられているパナヒ監督の新作映画に出演した人たちはイラン政府に目をつけられて罰せられたりしないんだろうか、ってことでした。そこがすごく不思議で。

 

劇場パンフレットの出演者についての紹介によれば、ザラ役のミナ・カヴァニさんは以前出演したフランス映画が理由でイラン政府から国外追放されて、現在はフランスを拠点に活動されているそうで、なるほど、そういうわけでパナヒ監督とは逆に彼女はイランに入国できないけれど海外にいるためにイラン政府から干渉されることなく出演できたんですね(そのような彼女の個人的な事情は明らかに劇中のザラの役に反映されているので、これからご覧になるかたはそのことは意識しておかれた方がいいでしょう)。

 

 

 

ただ、それ以外の出演者たちについては説明がないから、彼らがどうしてパナヒ監督作品に出られるのかはわからない。ご存じのかたがいらっしゃいましたら、どうぞ教えてください。

 

助監督・レザ役のレザ・ヘイダリさんは本職は劇中でもそうだった映画スタッフで、俳優も兼任。

 

パナヒに食事を作ってくれたり、村のしきたりについて会話するガンバルの母親役のナイジェス・デララムさんは、『ある女優の不在』では女優志望の少女・マルズィエの母親を演じていたんですね。

 

 

 

その他にも村長役のナセル・ハシェミさんやガンバル役のヴァヒド・モバセリさんなど、何人かの俳優たちのプロフィールはパンフに載ってましたが全員ではないし、だから誰が演技の“しろうと”なのかはわからないけれど、目立つキャストの名前は末尾にほとんど記載されていたから、きっと皆さんほとんどはプロなのでしょう。

 

当局から「反体制」として目の仇にされている映画監督の作品にどういうわけで多くの協力者たちが参加できているのか大いに気になるところですが、ともかく彼ら出演者たちの醸し出す“リアリティ”が、知らない国の、さらに田舎の小さな村を訪ねる怖さを見事に生み出していて、描かれている内容自体はフィクションであることは前もって知っていたにもかかわらず、鑑賞後のなんとも言えない後味…とても嫌なものを立て続けに見せられてしまった不快な気持ちはなかなかあとを引くものがあった。

 

たとえば、現在も公開中の森達也監督の『福田村事件』を、現在の日本や日本映画について知識がまったくなくてあれが100年前の史実をもとにしたフィクションであることも事前に一切教えられないままで海外の人々が観たら、日本という国はああいう野蛮な国なんだ、と思い込むかたもいるでしょう。

 

まぁ、あの映画は「ここで描かれているのは、果たして“過去”の出来事だろうか」と問いかけてもいるんですが。

 

『熊は、いない』には、そういう得体の知れない国とそこに住む人々を恐る恐る見ている感覚があった。出演者は誰一人として大袈裟な芝居はしない。映画的リアリズムが徹底している。

 

ここで描かれていることがどこまで正確にイランの現実を反映しているのか僕にはわかりませんが、でも『ある女優の不在』では現在のイラン社会の中にある宗教的な因習、女性差別的な価値観などが小さな村の人々の描写の中に込められていたから、この最新作でもそれは引き継がれているのでしょう。

 

髪を布で隠す隠さないといった程度のことで警察が女性を拷問死させたり意識不明になるまで暴行する社会、そういう国だったら充分ありうる、と思わせられる。

 

常軌を逸してる事件だけど、日本だって戦時中に与謝野晶子の歌集「みだれ髪」の中の詩「君死にたまふことなかれ」の一節にたまたま線を引いていた13歳の少女を特高警察が逮捕して半殺しにしている。彼女はその後、憲兵隊からも同様の暴力を受けた。彼女や母親には世間から罵声と冷たい視線が浴びせられた。他所事ではない。

 

最初に申し上げたように観終わって落ち込んでしまったし、ザラとバクティアールのカップルが国外へ逃れようとして果たせないあのエピソードで、ザラがヴィデオのキャメラ越しにパナヒ監督に激しく怒りをぶつけるように、フィクションの中でどんなに「希望」を描いてみせたって現実はそうじゃないんだ!ってことを訴えかけていて、だから「片方のエピソードはフィクションとして描けばよかったのに」という僕の意見はそこで封じられてしまうんですよね。そんな甘いもんじゃないんだ、と作り手自らの口で。

 

拷問にも耐えたザラがバクティアールに嘘をつかれて「僕のパスポートが手に入るまで、先に一人でフランスに行っていてほしい」と言われて拒否、姿を消してやがて遺体として発見される──という結末はあまりに痛ましいと同時にどうしても納得がいかなくて、だけど人が支えにしているものというのが何かはほんとに一人ひとり違ってて、人の心が折れるきっかけもまた人それぞれなんだと痛感する。

 

だいたい、なぜあのカップルは祖国をあとにしなければならなかったのか、ザラを演じているミナ・カヴァニさんご本人のバックグラウンドを知ると、いろいろと考えをめぐらせずにはいられない。

 

劇中でパナヒ監督はレザの手引きによって国境を越えてトルコ側に逃れるチャンスを与えられるものの、イランにとどまる。

 

なぜパナヒはイランから逃げなかったのか。

 

では、ジャファル・パナヒがイラン国外へ出ることが許されない理由は?それは納得できるものだろうか。どうして逃げなければ外に出られないのか。

 

手を取り合ってトルコ側に逃亡を図った村のカップル、ゴザルとソルドゥーズは警察に射殺された。

 

なぜ彼らが殺されなければならなかったのか。それは納得できる理由か。

 

ラストショットのパナヒの表情。彼の乗った車はそのまま村から走り去るのか、それとも村へ後戻りするのか。それは現実のパナヒ監督が置かれた状況でもある。そして、彼からの観客への「あなたがたはどうする?」という問いかけでもある。

 

イランだけにとどまらず、日本をはじめ世界中のさまざまな社会に置き換えて観ることができる題材だし、映画自体もふざけたようなトーンはないいたってシリアスな作品なんですが、ちょっと不謹慎ととられてしまうかもしれないけれど、映画を観終えてからあれこれと考えていたら、田舎のよくわかんない風習もある村で都会からやってきた映画監督が厄介事に巻き込まれる話、というふうに要約してみて、これは『ミッドサマー』とかそのネタ元の『ウィッカーマン』系の映画ではないか、と気づいた。

 

 

 

そう考えた瞬間に急に胡散臭さが増してくるのがスゴいですが。

 

だけど、『福田村事件』だって似た構造を持っていたし、ホラー映画でしばしばあるシチュエーションなんですよね。

 

ジャファル・パナヒ監督が『ミッドサマー』や『ウィッカーマン』を観ているかどうか、その手の映画に興味があるのかどうかすら知らないし、たまたま、なんでしょうけれど、でも、これはつまり現実に「表現の自由」が奪われて自由な恋愛も結婚も禁じられているような社会のルールなど、本当にホラー映画並みに不条理なものでしかない、っていうのをこうやって「映画」として見せてくれてるわけで。

 

一方で、パナヒ監督が滞在する村で、若い女性・ゴザルの結婚相手は自分だと言い張る青年・ヤグーブにも言い分があって、ずっと村のために尽くしてきた、他の者の罪をかぶって収監されたこともある。なのにどうしてみんな俺に嫁を世話してくれないんだ、と彼は訴える。そして、もういい、自分で解決する、と。

 

彼は村というコミュニティに彼なりに自分を捧げてきた、村は彼を利用してきたのに約束を反故にした、というのである。

 

古い因習がいつまでもなくならないのは、村人同士が互いにそれを温存することに協力してきたからだし、なかなか人々の意識が進歩しないのも、みんなで足を引っ張り合ってきたからだ。ヤグーブだけに罪があるわけではない。

 

それはこの小さな村だけではなくて、イランという国すべてについて言えることだろう。そして、これは果たしてただの他所の国の話と言えるだろうか。みんなで足を引っ張り合ってきた…って、どっかの国が毎度やってることではないか?

 

イランといえば、日本で活躍されているサヘル・ローズさんの出身国ですが、彼女も幼くして祖国を出て日本に来て中学生の頃には差別されて苦しんだんですよね。サヘルさんが出演していた『マイスモールランド』では日本に住むクルド人の家族が描かれていました。彼らはトルコから逃れてきたんだけど、日本政府はトルコ政府に気を遣って彼らクルド人をほとんど難民として認めていない。

 

そのため日本で働くこともできず、違反すれば捕まって強制送還されるか入管でいつ出られるかもわからない非人道的な扱いを延々と受け続けることになる。

 

日本とまったく無関係なことでもないし、政府が国民の権利を踏みにじり、自由をどんどん奪いつつあるこの国の今と『福田村事件』の時代が重ねて語られるのと同じく、国民の権利が激しく制限されているイランの姿に僕たちはかつての日本の姿を重ねて見ずにはいられない。

 

「かつて」が再び「今」とならないように、僕たちは判断し選択しなければならない。

 

映画を作る、ということと、愛する人とともに生きることを同列のこととして描いたジャファル・パナヒ監督。

 

映画の中で2組のカップルはつらい結末を迎えるが、この「映画」は完成した。

 

7月に捕まり収監された監督の今後はどうだろう。

 

僕はただ彼の次の映画が無事作られることを望んでいます。

 

 

 

 

 

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