ギャレス・エドワーズ監督、アーロン・テイラー=ジョンソン渡辺謙ブライアン・クランストンエリザベス・オルセンサリー・ホーキンスデヴィッド・ストラザーンジュリエット・ビノシュ出演の『GODZILLA ゴジラ』。



15年前に日本のジャンジラ市にある原発の“事故”で母(ジュリエット・ビノシュ)を失なったフォード・ブロディ(アーロン・テイラー=ジョンソン)は、アメリカ海軍の爆弾処理班の隊員としてサンフランシスコで妻子とともに暮らしていたが、日本に住む父ジョー(ブライアン・クランストン)の逮捕の報を聞き再び日本を訪れる。ジョーはかつての原発のメルトダウンが事故ではなく、別の理由であることを訴える。退避区域とされるかつての住居に向かったブロディ父子は、そこで拘束されて研究機関「モナーク」の施設に連行される。


IMAX3D字幕版と通常の2D字幕版を続けて鑑賞。

東宝の『ゴジラ FINAL WARS』からちょうど10年、ゴジラ生誕60周年の今年に作られたアメリカ製ゴジラの2本目。

といってももちろん、1998年のトライスター・ピクチャーズ製作のローランド・エメリッヒ監督によるゴジラならぬ巨大イグアナ「ジラ」とは別物。

2012年頃からその存在について漏れ聞いていて、気になっていました。

さて早速ですが、世の中には「ゴジラが好きな人」と「興味がない人」に二分されると思うんですが(積極的に嫌いな人、ってのはあまり聞かないw)、僕は前者です。

昭和の対決モノ、怪獣プロレス、やがて「人類の用心棒」として描かれるようになったゴジラに(主にTV放映で)慣れ親しみ、やがて初代ゴジラの存在を知りました。

生まれて初めてリアルタイムで劇場で観たゴジラは、1984年公開の『ゴジラ』。個人的にはこの作品を初代ゴジラの次に高く評価しています(超少数派)。

1989年以降の平成ゴジラや1999年以降のミレニアム・シリーズもそれぞれ映画館で何本か観てるけど、やはり幼少時の思い出深い昭和期のゴジラに愛着がある。


今年の夏は、まず1954年の最初の『ゴジラ』のデジタルリマスター版の劇場公開、そしてNHKのBSプレミアムで「夏ゴジラ」と題して7月に前月公開したばかりの初ゴジ・デジタルリマスター版をはじめ何本かの過去作が放映されて、ゴジラ映画をほんとに久しぶりにまとめて観ました。

そしてそのトリがこのハリウッド版ゴジラ。

海外でも日本でもヒットしていて評判も上々のようですが、すでに観た人たちの一部の感想から不安も感じていました。それについては後述します。

映画の感想以外のこともあれこれと書きますので、めんどくせぇな、と思われるかたは、他のまともな感想を書かれているブログを読まれた方がいいと思います。

それでは、これ以降映画のネタバレがありますので、これからご覧になるかたはご注意ください。



映画が公開される前に今回のゴジラの姿を見た人たちから「ゴジラが太りすぎ」というツッコミが入っていて、でも詳しいことはわからないので静観していたんですが、実際に観てみると、なるほど、そういう意見があるのもわかりました。

このレジェンダリー・ピクチャーズによるゴジラ、首がやたらと太くて足はまるで象のようにまん丸なのだ。

 


たしかに肥えすぎのような気はした。なんであんな力士みたいな体型にしたんだろ(ゴジラが放射熱線を吐く時に思いっきり息を吸い込む姿が、なんか高見盛みたいだった)。

それとも、この映画の作り手たちには日本のゴジラも肥満体に見えたのだろうか。

でもまぁ、許容範囲だったかな。こういうヴァリエーションもある、ということで。

いきなりネタバレですが、この最新作のゴジラには対戦相手がいる。

その怪獣の名前は“M.U.T.O.”(未確認巨大陸生生命体)ムートー。

そのことも知ってたけど、思ってた以上にこの敵怪獣の描写が多くてしかも力が入っていた。もう、『ゴジラ』じゃなくて『ムートー』ってタイトル替えた方がいいんじゃないのか、ってぐらいに。しかもオスとメスの2体が登場する。

昭和のゴジラ・シリーズに倣えば『ゴジラ対ムートー』というタイトルこそがふさわしい。

観る前は「なんだよ、怪獣の名前が武藤って」とケナす気マンマンでいたんですが、これが意外なことによかったのです。


これはバッハムートー。


巨大生物の大きさを登場人物たちや観客に実感させるのは、実はゴジラではなくてこのムートーで、主役のはずのゴジラはなかなか姿を現わさない。

そして、人間とゴジラがからむ場面も非常に限られている(アメリカ軍の船との接触や、金門橋での攻撃シーンなど)。

クローバーフィールド』のように人間が間近でゴジラを見上げる視点もない。

今回のゴジラは100m以上ある設定であまりに巨大すぎて人間が見上げるとその全身像がうまく確認できない、ということもあるのかもしれないが、正直なところゴジラの巨大さを実感できるショットがほとんどなかったのは残念。

代わりにムートーは誕生した時からその巨大感を存分に見せつけてくれる。

そのムートーと対峙した時に、初めてゴジラの巨大さも伝わるのだ。

このムートーの造形や迫力に興奮を覚えた人がいるのもよくわかる。昨年の『パシフィック・リム』のKaiju以上にリアルで実在感抜群でした。

ただし、この映画はもう驚くほどにジラしをカマしてくるんで、観ていてフラストレーションが溜まりまくり。

なかなかゴジラは登場せず、ムートーとも戦わないし、ついに対決!という場面でいきなりTVモニターに切り替わっちゃったりして怪獣同士の戦いをちゃんと見せてくれない。

これは、怪獣が派手にミニチュアの町を破壊したり、口からビームを吐きあって戦う日本の怪獣映画を観慣れた者ほど違和感を持つかもしれないし、不満にも感じるだろうと思います。

逆に「怪獣映画」にこれといって思い入れがなければ、ディザスター・ムーヴィーの一種として楽しめるんじゃないかと。

監督はスピルバーグの『ジョーズ』の手法を参考にしたんだそうだけど、あまりにもゴジラが出てこなさすぎるもんだから、『大怪獣東京に現わる』みたいに最後まで怪獣が出てこなかったらどうしよう、と本気で不安になったほど。

まぁ、出ないわけはないんですが、最後にちょっとだけ怪獣が出てくる『デメキング』の豪華版みたいな映画だった。

ちなみに僕が観たのは109シネマズだったんですが、IMAX3Dと通常のスクリーンでの2D版とでは明るさが違ってたような気がしました。

特にクライマックスは夜のシーンということもあって2D版だとかなり暗くて観づらく、眼鏡をしてるにもかかわらずかなり目を凝らしてしまった。

この映画への不満として、まず内容云々以前にやたらと暗い場面が多い、というのがある。

せっかく迫力がある場面でもよく見えないのではその面白さも半減してしまう。

IMAXと通常のスクリーンでの明るさの違いは単なる気のせいかもしれないけど、でも2回続けて観て2回目の方が暗く感じるなんて変でしょう。

他のシネコンだとどうなのかわからないけれど、とりあえずご報告までに。


先ほどの『パシリム』は去年、僕はIMAX3Dと4DXで観て、4DXは初めてだったということもあっておしっこチビりそうになるほど興奮しました。

まるで自分が巨大なロボットを操縦して怪獣と戦ってるような錯覚に陥る、アトラクション映画としては最高の作品だった。

ならばこのゴジラはどうなのかというと、この映画はそういう体感映画としては作られていなくて、しかも人間ドラマの部分がかなりを占めるので、劇中の大半は3Dである意味さえあまり感じられない。

IMAXは画面が比較的明るいのとスクリーンが大きいので見ごたえはあるけれど、3Dとしてのありがたみはさほどありませんでした。

なので、映像に合わせて座席が稼動する4DXで観たいともあまり思わない。


ストーリーをかいつまんで説明すると、巨大生物ゴジラと放射線を食料とするムートーは太古から敵対しており、両者がサンフランシスコで雌雄を決する。

一方で、アメリカ軍はゴジラと2体のムートーを葬り去るために2基の核弾頭を輸送するが、ムートーに奪われ、タイマーが作動中の核弾頭によってサンフランシスコが壊滅の危機に見舞われる。

お話自体はとりたててどうこういうこともないんですが、ゴジラと2体のムートーがさまざまな場所に移動して最終的に衝突して勝敗を決める流れを巧いこと作っていたと思います。

ムートーが放射線をエネルギー源にしていることがわかっていながら核兵器で殺そうとして逆に危機を招くアメリカ軍のバカさ加減はあいかわらずだけど。

キック・アス」シリーズでボンクラ・ヒーローを演じていたアーロン・テイラー=ジョンソンが、爆弾処理のエキスパートとしてゴジラ及びムートー殲滅のための作戦に参加する隊員フォードを、また渡辺謙が、生物学者でかつてフィリピンでゴジラの骨の化石とムートーの卵を発見してから極秘プロジェクトを指揮していた芹沢博士を演じている。

 

 


フランスの女優ジュリエット・ビノシュが幼い頃のフォードの母親を演じているが、冒頭で死んでしまう。これを贅沢なキャスティングと取るか、名女優の無駄遣いと取るかはあなた次第。

また、フォードの父で日本に住んで拙い日本語を操るジョーを、リメイク版『トータル・リコール』の悪役や『アルゴ』の頼れる上司役などのブライアン・クランストン。

 


そしてゴジラはフルCGだが、その動きを演じたのはピーター・ジャクソン監督の「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズのゴラムや『キング・コング』のコング、新生「猿の惑星」シリーズのシーザー役など、今やモーションキャプチャーの第一人者でもあるアンディ・サーキス

俳優陣は好演していたと思います。

VFXも、先ほど述べたように画面の暗さが気になるものの、大スクリーンで観ると気持ちがいい。

クライマックスでゴジラがムートーに組みついてシバきあうところなどは、ぬいぐるみ特撮のような動きも見せる。

このように、観終って「面白かった!」と言う人たちがいるのはわかります。

でも、この文章の冒頭近くで述べたようにこの映画にはちょっと看過できない問題点がある。

これからは一転して批判が最後まで続きます。この映画が好きな人は不快かもしれませんのでご了承ください。


「怪獣王」

ラスト、ムートーを倒したゴジラが映ったビルの大型ヴィジョンに「怪獣王は救世主か?」というテロップが流れる。

立ち上がったゴジラをまるで“神(GOD)”の雄姿を仰ぐがごとく惚れ惚れするような表情で見上げる芹沢博士たち。

怪獣王”という称号は、初代ゴジラのアメリカ公開時のタイトル“Godzilla, King of the Monsters! (邦題:怪獣王ゴジラ)”からきている。

いわば、ハリウッドがゴジラに与えた王冠なんである。

ただし、アメリカ公開版の『怪獣王ゴジラ』はオリジナル版からかなりの改変が施されていた。

最大のものは、反核メッセージの削除である。

多くのアメリカ人やその他の海外の人々は、長らくオリジナル版ではなくこの『怪獣王ゴジラ』を観てきた(アメリカで1954年の『ゴジラ』のオリジナル版が初めて劇場で公開されたのは、なんと2005年)。

だから彼らはオリジナル版に込められたテーマやメッセージを知らなかったのだ。

彼らにとってゴジラは、他のハリウッド製の“放射能X”たちと同様に“たまたま”核の威力で巨大化したモンスターにすぎなかった。

ゴジラはその中でもキャラが立っててクールだから人気があった、というだけのことだ。

あちらではよほどのマニアや大ファンでない限り、本多猪四郎監督と特殊技術の円谷英二をはじめとするこの映画のスタッフ・キャスト陣が第1作目の中に込めた「戦争や核の恐怖とそれに対する怒り」、あるいは「ゴジラを“(日本的な)神”=自然の化身」とする視点について、しっかりと理解し受け止めていたアメリカ人はきわめて少なかったとみえる。

では、今回のゴジラはその辺りはクリアされていたのだろうか。

日本でもすでに絶賛している人々がいるように、本作の監督ギャレス・エドワーズはゴジラに強い思い入れがあるようで、主役のゴジラはただの巨大なイグアナではなくて、最終的に人間たちから“神”のように仰ぎ見られる存在として描かれている。

作り手としては最大限のリスペクトを込めてこのGODZILLAを世界的な大スター(ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームにもその名が刻まれている)として扱ったつもりなんだろう。

日本のファンの中には、終盤でゴジラが咆哮する姿に感激のあまり涙した人もいるようで。

中には「ギャレス監督ありがとう」などと感謝してる人さえいる。

一見微笑ましいが、ここで大きな疑問が湧く。

この映画では、1954年に現実に行なわれたビキニ環礁でのアメリカによる水爆実験は「あれは実験ではなく、ゴジラを葬り去るための攻撃だった」ということになっている。

僕はこの部分に『ウルヴァリン:SAMURAI』の冒頭で長崎に原爆が落とされる場面に似た嫌悪感を抱きました。

あの映画は、主人公ウルヴァリンが原爆の爆風から日本兵を救うところから始まる。

もちろん原爆を落としたのはアメリカなのだが、その是非には一切触れずに架空のキャラクターが敵だった日本人の命を救うという、何やら「いい話」風に描かれている。

ところがそれから長い年月が経って、実はその元日本兵がウルヴァリンを陥れた張本人であることが判明する。

長崎で被爆して助けられた男が命の恩人を殺そうとするという、非常に後味の悪い、というよりも釈然としない結末。

それを観て、僕はアメリカ人たちは何を考えてこんな話を作ったんだろう、と唖然とした。

今回のゴジラにもそれと似たものを感じた。

ビキニ環礁での水爆実験によって日本のマグロ漁船・第五福竜丸が被曝し、その事件をもとに“水爆大怪獣映画 ゴジラ”が作られたことは周知のとおりだ。

それをギャレス・エドワーズ監督はものの見事にひっくり返してしまった。

そもそもゴジラをこの世に生み出したのは「アメリカの核実験」なのに。

1954年の初代ゴジラのオリジナル版では、ゴジラが出現した原因を劇中でハッキリと「(アメリカの)水爆実験」のせい、だと言い切っている。

ゴジラとは核兵器の恐ろしさの象徴であるとともに、核の犠牲者の象徴でもあった。

アメリカの水爆実験への怒りとは、それに先立つ広島や長崎への原爆投下への怒りであり、また世界中に存在するすべての核兵器への怒りでもある。

それなのに、フィクションの中とはいえ、この映画は現実にアメリカが行なった水爆実験を正当化してしまったのだ。

これは自分たちの都合のいいように歴史を修正する者たちの手口だ。

このことについてはすでに日本の一部の観客から批判されているが、ほとんどの日本の観客たちは映像の迫力に気を取られてか、まったく問題としていないようだ。

こんなツイートがある。


「1954年のビキニ環礁での水爆実験は実は実験ではなくゴジラを倒すための攻撃だった」って設定は二重の意味で素敵。

↑この人の言い方を真似れば、彼は二重の意味で残念だ。

一つは、ゴジラのそもそもの誕生の原因を変えてしまうことがなぜ問題なのかまったく理解していないこと。ヘタすりゃこの人は第五福竜丸の被曝事件のことも知らないのかもしれない。

きっと、初代ゴジラこそが唯一の正しいゴジラなのだ、と主張する初ゴジ信者が怒ってるとでも思っているのだろう。初代にこだわる奴ウザっ、みたいに。

でもそうじゃないことは上に記したとおりです。

彼のもう一つの残念ポイントは、このハリウッド版『GODZILLA ゴジラ』が巧妙に初代ゴジラに擦り寄って、あたかも初代ゴジラの正当な後継者であるかのように装っていることにまったく気づいていないこと。

心ある人々が憤りを感じている最大の原因はこれだろう。

初ゴジとは無関係なのに、初ゴジみたいなフリをしている。


これはシリーズにおける「設定」についての話などではなくてもっと重要なことなのだが、ゴジラという存在の原点をないがしろにしようがどうしようが、先ほどの彼にとっては意外性があって「面白い」かどうかだけが問題なんだろう。

監督のギャレス・エドワーズもまた同じように、悪気なく単に意外性を狙っただけなのかもしれない。

できればそう信じたい。

だが、それが結果的にはアメリカという国(エドワーズは英国人だが)が犯した罪への免罪符のように機能してしまっている。

それは単に、アメリカ人は核に対して無知だからしょーがねぇなあいつら、では済まされない問題だ。明らかに思慮が欠けている。

たとえば、9.11同時多発テロをフィクションの中で描いて「実はあれはテロじゃなくて、怪獣を倒すためでした」などと言ったら、アメリカ人は激怒するだろう。

同じことですよ、これは。

だいたい、この映画でゴジラがオリジナル版同様にアメリカの核実験によって生まれたのであっても、物語上はまったく支障がないんである。

どちらにせよ、ゴジラには核兵器は通用しないので。

それだけ見ても、監督が深い考えからではなく、単に小手先の「面白さ」だけを優先させたことがわかる。

あるいは、わざと改変したのかもね。

ギャレス・エドワーズはかつて、日本でもNHKで放映されたBBC制作の広島への原爆投下の模様を再現した番組「HIROSHIMA」のVFXを担当していた。

つまりその方面の知識はある、ということ。

また『GODZILLA ゴジラ』を撮るにあたって、来日して広島平和記念資料館を訪れている。

しっかりと“みそぎ”はしましたよ、ということだろう。

しかし彼がどれほど親日ぶりをアピールしようとゴジラへの愛着を口にしようと、本質的な部分で「初代ゴジラ」を理解しているのかどうかは大いに疑わしい。

彼はこの映画で主人公フォードの妻を演じたエリザベス・オルセンに、ゴジラの第1作目(初代ゴジラ)を「個人的に観たいと思うのならば観てもいいけれど、必要はない」と告げたという(「映画秘宝」7月号p.7より)。

『GODZILLA ゴジラ』が本当に初代ゴジラの精神を受け継いだものならば、第1作目は絶対に観ておかなければならないはずだ。

だから、この映画は初代ゴジラとは関係がない


ずっと批判めいたことを書き連ねてますが、僕はこの映画の存在自体は否定しません。どんな創作物にも(犯罪がらみでなければ)存在する自由がある。誰にも検閲する権利などない。

むしろこの映画は、みんなが観て何が問題なのか大いに議論したらいいと思う。

この映画がヒットしたのは多くの人々がこの映画を支持したということだから、それはどういうことなのか考えてみることには意義がある。この作品の何が多くの観客を魅了したのだろう。

映画を観たあとに、ちゃんと考えてほしいのだ。ここで何が描かれていたのかを。


「怪獣王ゴジラは救世主か?」

もしもギャレス・エドワーズが真の初代ゴジラの理解者であるなら、答えは「ノー」のはずだ。

1作目を最初から最後までちゃんと観ていたら、そこでのゴジラは人類の味方どころか人々を無残に殺していく「怨念」の塊のような存在であることがわかる。

そうじゃなくてエドワーズさんが『ゴジラの逆襲』以降の完全娯楽路線の対決モノのファンならば、ゴジラ=地球の味方というのもアリかもしれない。

「核の落とし子」である初代ゴジラとそれ以降のシリーズ作品とは別物なんである。

で、今回のハリウッド版ゴジラは対決モノであるがゆえに初代ゴジラとは別種の作品なのだ。

実はこの作品は、初代ゴジラよりも1995年公開の金子修介監督による『ガメラ 大怪獣空中決戦』から始まる平成ガメラ3部作の方により似ている。

ほんとはゴジラじゃなくてガメラをやりたかったんじゃないか、と勘繰りたくなるほどに。

はるか昔から続くゴジラとムートーの関係や、地球におけるゴジラの立ち位置など、平成ガメラから頂いたとおぼしき要素は多い。

まず今回のゴジラは、地球のバランスを保つためにムートーと戦う、と説明される。

ここなんかも「地球の守護神」と位置づけられていた平成ガメラそのまんまだ。

軍の攻撃から橋の上のバスに乗った子どもたちを身を盾にして守る場面もある。

ムートーのデザインや描写の数々はどうしてもガメラの敵怪獣ギャオスを思い起こさずにはいられない。それはもう、思わず金子監督が苦笑いしてしまうほどに両者は似ている。

 

 
ムートーさんとギャオスさん


今回のハリウッド・ゴジラを気に入った人は、ぜひ平成ガメラ、特に1作目と2作目を観ていただきたい。ニヤリとする場面がいくつもあるはずです。

でもガメラよりもゴジラの方が知名度も人気も上だ。

もし監督がガメラの映画化を希望していたら、果たして今回のような規模で実現していたかどうか(そもそも企画自体はプロデューサーや映画会社が立てたものだろうし)。

だから、エドワーズ監督は外見はゴジラにして中味はガメラを撮ったのだ。

それが真相だと思う。


ゴジラとガメラの決定的な違いは何かというと、それは「反核・反戦」のメッセージの有無。

平成はもちろん、昭和に作られた元祖ガメラにも、初代ゴジラには明確にあった「反核・反戦」のメッセージなど微塵もなかった。

そもそもゴジラのパチモン企画だったガメラは最初から見世物以外の何物でもなく(それが悪いとは言っていません)、続篇もゴジラ・シリーズ以上に怪獣同士がドツきあい噛みつきあって流血して殺しあうのを観て楽しむ、完璧な娯楽作品だったのだ。

昭和ゴジラと同様にこちらも僕はTVでよく観てて好きでした。

昭和のゴジラでは敵の怪獣が逃げていって終わり、というパターンが多かったけど、ガメラではハッキリと決着がつく。それもわりとえげつない方法で悪役怪獣は惨殺されていた。

かつてのウルトラ・シリーズもそうだったように、首チョンパされたり真っ二つにされたりする凶悪怪獣の最期に幼い頃の僕は大いなるカタルシスを得ていた。

昭和ガメラの第1作目でガメラは北極で国籍不明の原爆搭載機の墜落によって目覚めた、という設定だったが、それにはハリウッドの巨大モンスターたちと同様に特に深い意味もテーマもない。ゴジラが水爆実験で生まれたのをマネただけ、単にデカい怪物が出現する理由付けに使っただけだ。

もしも3.11を経た現在の日本でそれと同じことを最新映画でやったら、見識を疑われても仕方がない。

90年代の平成ガメラには核兵器は一切出てこない。そんなに安易に核を描くことに抵抗をおぼえるぐらいの常識は作り手にもあったのだ。


今回のゴジラに関しては、いや、これは何かといえばすぐに核を使いたがるアメリカという国への皮肉や批判なのだ、と言って擁護する向きもあるが、ならばアーロン・テイラー=ジョンソン演じるフォードは、最後になんとしてでもあの核のタイマーを止めるべきだった。

そうしてこそ、「何でもかんでも核兵器で解決」というハリウッド映画におけるバカの一つ覚えみたいなルーティンへの痛烈な批判にもなっただろう。

そしてこの映画で核を扱う“意味”や“必然性”も生まれたはずだ。

だが、結局そうはならなかった。

これまでのいくつものハリウッド製のアクション映画と同じく、この映画でもクライマックスで核兵器が炸裂する。

ヒロシマ型原爆をはるかに凌ぐ破壊力を持つメガトン級の核兵器らしいが、被害はたいしたことなさそうだ。

テキトーなもんである。

ってゆーか、爆弾処理のプロなんだろ?映画の中でも再三強調されていたし。爆弾処理どころか蓋すら開けられずにあんなすぐに諦めちゃって、どこがエキスパートなんだ。

あんなところで爆発したらフォードもサンフランシスコにいた人々も無事ではいられないだろう。

僕はゴジラという題材を使ってその中で核兵器を描くのであれば、よほどの覚悟を持って臨まなければ、それはすべて原典である1954年の『ゴジラ』への冒涜になると思っている。

それだけじゃない。初代ゴジラにおける「反核」の精神を踏みにじるということは、現実の世界の原水爆の犠牲者への冒涜であり、被爆国であるこの国・日本への侮辱だ。

先ほどわざわざ晒した「初ゴジの呪い」などと言って嘲笑ってるどこぞの馬の骨とその同調者に言っておこう。

恥を知れ。

これはゴジラに対する単なるヲタク的な「好み」とか「こだわり」などではなくて、本多猪四郎監督が初代ゴジラに込めた怒りと鎮魂をどう受け止めてどう扱うか、ということだ。

初代ゴジラに込められた精神や姿勢に本当に敬意を払っているのなら、核兵器をテキトーにもほどがある描き方で軽く扱ったりなどできないはずなのだが。

この監督さんは原爆の番組や、わざわざ足を運んだ広島で一体何を学んだのだろうか。

ガメラがやりたいんならガメラを撮ればいいし、2作目以降の昭和シリーズや平成ゴジラの路線をやりたいのなら最初からやればいい。何か意味ありげに初代ゴジラを担ぎ出してくんなよ

渡辺謙演じる博士に初ゴジでゴジラと命運をともにする博士や本多監督の名前までつけて、父親が広島の原爆の犠牲者だったと語らせればあとは映画で何やっても許されると思ってんのなら勘違いも甚だしい。

芹沢はアメリカ海軍の提督(デヴィッド・ストラザーン)に、ゴジラやムートーを核兵器で攻撃することの無意味さを訴える。その言葉に説得力を持たせるために広島のエピソードが使われている。それが映画として効果的なことは理解できる。

でも、ここには「反核メッセージ」などないし、核兵器は単なる小道具として使われているにすぎない。

ところで、映画を観ると芹沢博士の父親はまるで1945年8月6日の原爆の炸裂によって亡くなったように誤解しかねないが、それだと芹沢博士は70歳近いことになってしまう。

芹沢博士が父親について提督に語るシーンは本当はもっと長くて(映画のテンポのためにカット)、父親は被爆の後遺症によって戦後に亡くなったという設定だそうだ。

そうやって他にも登場人物たちの背景を説明するシーンは撮っていたようなのだが、でも仮に当初は4時間だったという今回のゴジラの完全版を観たとしても、そこにこの映画の作り手が本来入れるべきだった反核テーマを盛り込んでいたとは思えないんだよね。

だって、ハリウッドが娯楽映画の中で核兵器の存在や核実験を否定したり、その核兵器によって自分たちが過去に犯した大量殺戮の罪への後悔を描くわけがないから。そんなものは最初から期待していない。

そして何度も言うけど、エドワーズ監督が描きたかったのは核の恐怖でも戦争批判でもなくて、口から青い炎を吐く恐竜型の大怪獣とギャオスが戦う怪獣プロレスなのだ。

福島を連想させるジャンジラ市(どこなんだよ!^_^;というツッコミすらする気になれないこの謎のネーミングは、絶対に日本には実在しなさそうな地名として付けた結果なのだろうか。しかし、ジャパン+ゴジラってどんだけ安易なんだ)の原発事故も、広島の原爆についての言及もただの怪獣プロレスに利用されただけだ。

信じられないほど無神経。無邪気なだけに始末が悪い。

しかもこれらに映画評論家映画ライターを名乗る人々は誰一人としてツッコんでいない。それどころかこぞって「傑作」「よくぞ作ってくれた」などと浮かれまくり、ありがたがっている始末。

…大丈夫ですか!?


「怪獣王は救世主か?」ってさぁ、ハワイではゴジラの上陸時に大勢の人々が津波に飲み込まれて犠牲になってると思うんですが。

その様子をしっかり描いておきながら、町を壊滅させた怪獣に当の被災者でもある人々が大声援を送るって、どこまでノーテンキなんだろう。

エドワーズ監督が好きらしい平成ガメラではシリーズを追うごとにシリアス味が増していって、最終作ではかつて家族を殺された少女が「地球の守護神」であるはずのガメラを殺そうとする。

じゃあ、ハリウッド・ゴジラの次回作では、ハワイでゴジラが起こした高波に飲み込まれた両親の復讐をしようとする少女の話だったりすんのかね。

僕は、これは描き方が間違ってるんじゃないかと思うのだ。

『パシフィック・リム』でも巨大怪獣やロボットが大暴れして町じゅうを破壊しまくるけど、登場人物の中にはコメディリリーフもいて、全体的に映画自体を明るくたわいないものにしていた。

必要以上に人々が悲惨な目に遭う場面は描かれていない。

だから観客は被災した人々のことを真剣に心配する必要もなく、怪獣とロボのドツきあいを単純に楽しんでいられたのだ。

でもこの『ゴジラ』では広島やビキニ環礁、福島を持ち出して妙にシリアスタッチで描いているために、真面目に観るべき映画なのかと錯覚してしまう。

でもやってることは基本的にパシリムと同じなのだ。怪獣同士のシバきあい。それ以上でも以下でもない。

僕はパシリムの方が何倍も誠実だと思います。最初からどういうタイプの映画なのか観客が了解できるように作ってあるから。

それに比べて、このゴジラの作り手のやり口は姑息で悪辣だと思う。

いや、監督とプロデューサーや会社の間でどんな攻防があったのかは知りませんけどね。

エドワーズさんは精一杯健闘したのかもしれないが。


本多猪四郎監督はインタヴューで「僕にとってのゴジラは最初のオリジナル版だけ」と語っている(「映画秘宝」9月号p.20より)。

ハリウッド発「GODZILLA祭り」に浮かれるのは人の勝手だ。

でもそういうあなたがたは、原爆や水爆で僕たちの国の人々を苦しめたアメリカにゴジラを売り渡したのだ。

むりやり奪われたんじゃない。

乞われて差し出し、彼らが作り変えたものを諸手を挙げて歓迎したのだ。

そのことは自覚しといてくれ。

僕には、今は亡き本多監督や円谷監督がこの事を喜んでいるとはけっして思えない。

「怪獣王」というアメリカから与えられた称号は、『怪獣王ゴジラ』の時と同様に今回のハリウッド版ゴジラにも冠された。

でも僕は言いたい。

「怪獣王」はアメリカ人の救世主かもしれないけれど、ゴジラは救世主などではない。

水爆大怪獣」だ、と。

まぁ、この映画は世界中で大ヒットだそうだから、映画会社にとってはまぎれもない救世主でしょうな。


僕は今後この作品が怪獣映画史、特撮映画史に残っていかにもてはやされようが、自分が今観て感じたことを記録しておこうと思ったのであえて長々と否定的な感想を述べました。

僕がこの映画に感謝するとすれば、それは日本の怪獣映画に対する愛着を再び蘇らせてくれたことです。

この映画を観て、あらためて日本のぬいぐるみ製のゴジラの顔、全身像、あの鳴き声、まるで意思を持っているようなしっぽの動き(ちょっと猫を思わせる)、それらがなんとも愛おしく感じられてきました。

やっぱり日本の怪獣映画が好きだ、って思った。

この映画は大ヒットして続篇の制作も決定、次回作にはラドンやモスラ、キングギドラが登場するんだそうで。

まるでX星人に地球の怪獣たちが連れ去られるのを眺めているような心持ちだ。

んー、まぁ次回作も観に行きますよ。そしてまたあれこれと文句言うでしょう。

ってゆーか、もう『ゴジラ対ガメラ』撮れば?



Godzilla vs. Gamera ラストにちょっとウルッときてしまった。


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『ジュラシック・ワールド』
『ジュラシック・ワールド/炎の王国』
『キングコング:髑髏島の巨神』
『ランペイジ 巨獣大乱闘』



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