フアン・アントニオ・バヨナ監督、クリス・プラット、ブライス・ダラス・ハワード、イザベラ・サーモン、レイフ・スポール、テッド・レヴィン、ジャスティス・スミス、ダニエラ・ピネダ、B・D・ウォン、トビー・ジョーンズ、ジェラルディン・チャップリン、ジェームズ・クロムウェル、ジェフ・ゴールドブラム出演の『ジュラシック・ワールド/炎の王国』。

 

恐竜展示施設「ジュラシック・ワールド」崩壊から3年後。恐竜保護グループ「DPG」で活動していたクレア(ブライス・ダラス・ハワード)は、ロックウッド財団のミルズ(レイフ・スポール)にヴェロキラプトル「ブルー」の生存を知らされ、火山活動によって絶滅の危機にある恐竜たちの中からその保護を依頼される。ブルーの育ての親であるオーウェン(クリス・プラット)とDPGのメンバーのジア(ダニエラ・ピネダ)とフランクリン(ジャスティス・スミス)、そしてミルズに雇われた傭兵部隊とともに再びイスラ・ヌブラル島を訪れるクレアだったが、彼らを火山の噴火が襲う。

 

IMAX3D字幕版と通常吹替版を鑑賞。

 

1993年のスティーヴン・スピルバーグによる『ジュラシック・パーク』から続く「ジュラシック」シリーズ第5弾。コリン・トレヴォロウ監督による『ジュラシック・ワールド』の続篇。

 

 

コリン・トレヴォロウは今回は製作総指揮と脚本にまわり、スペイン出身のJ・A・バヨナことフアン・アントニオ・バヨナが監督を担当。

 

僕はバヨナ監督の作品は初長篇作品の『永遠のこどもたち』をDVDで観ていますが、その作風はハリウッドのVFX超大作とはずいぶんと異なるものだったから、その監督さんが「ジュラシック・ワールド」を手がけるというのはちょっと意外でした。

 

彼はギレルモ・デル・トロ監督と関係が深く、デル・トロ監督はハリウッドで大作を何本も撮っているからそういう繋がりもあるんだろうか(今回もエンドクレジットにデル・トロの名前がある)。

 

前作に関しては主にストーリー面についてわりと辛口な感想を書いたんですが、アトラクション映画としては好きだったから続篇も普通に観るつもりでいました。

 

IMAXで観ればスクリーンが大きいから迫力があってより楽しめるだろうけど、3D効果はさほど感じなかったので、公開が始まったばかりで一番大きなスクリーンで観られる間は通常の上映でも充分かと。来月には『ミッション:インポッシブル』の新作が始まるから、大きなスクリーンで観るなら今のうち。

 

早速結論からいうと、僕は結構面白く観られましたね。

 

また詳しく述べますが、前作で僕が引っかかった点について登場人物たちの台詞などでいろいろとフォローが入れられていて、単に恐竜がたくさん出てきて暴れることの繰り返しではなく(もちろんしっかりとたくさん出てきて暴れるんですが)、シリーズ物としてそれ以上の物語的な進展があったから。

 

『ジュラシック・パーク』から設定も物語もしっかりと繋がっていて(最初の予告篇にも顔を見せていたように第1作、2作に登場したジェフ・ゴールドブラム演じるイアン・マルコム博士も再登場する)、しかも一種の仕切り直しでもあった『ジュラシック・ワールド』から一つの続き物になっている。逆に今回のこの1作だけでは物語は完結していないんですが。

 

前作あっての本作であり、引き継いでるものも多いから単独では成り立っていないけど(だから未見の人は前作の予習は必須)、そういう意味では、これはたとえば「スター・ウォーズ」シリーズにおける第2作目『帝国の逆襲』のような作品、ということができるかもしれない。つまり新たな展開がある。

 

今後、続篇が何本作られるのかは知りませんが(さらなる続篇は3年後の20212022年公開予定。監督は再びコリン・トレヴォロウが担当)、この2作目は「序破急」でいうところの「破」、起承転結の「転」の部分を担う作品といえる。個人的には三部作にまとめてくれるといいなぁ、と思うんですが。

 

そしたらなかなか完成度の高いシリーズになるんじゃないかと。

 

僕は前作に対してぶつくさ文句を言ったように今回は観る前からストーリー面には期待していなかったので、かえって新鮮だったんですよね。あぁ、こういう切り口があるんだ、と。

 

…まぁ、これだけ広げた風呂敷を最後にどううまくたたむかが最大の課題ではあるんですが。

 

そんなわけで、このシリーズをずっと観てこられたかたなら引き続き楽しめる映画ではないでしょうか。

 

これ以降は前作と本作品、そして「エイリアン」シリーズのネタバレがありますのでご注意ください。

 

 

まず、前作のどこが不満だったのか端的に述べると、登場人物たちが皆互いに無責任な行動を取って、しかもそのことに最後まで無自覚だったこと。主人公のクレアとオーウェンも、自分たちがしでかしたことを劇中で咎められることはない。

 

しかし、そもそもすべての元凶となったインドミナス・レックスをジュラシック・ワールドのCFOのマスラニ(イルファーン・カーン ※ご冥福をお祈りいたします。20.4.29)とともに生み出したのはクレアだし、凶暴なヴェロキラプトルを人間の言うことを聞くように調教したのはオーウェンだ。

 

彼らのせいですでに多くの犠牲者が出ている。

 

今回、そのことを彼らはミルズからあらためて指摘される。ハイブリッドの恐竜を創り出そうとしている者や、あるいは恐竜たちを競売にかけて売りさばこうとしている者と、君たちは同類だ、と。

 

 

 

その理屈は間違っていない。

 

だから、映画の終盤にそれを自覚することでクレアは映画のキャラクターとして大きな成長を遂げる。

 

また、僕は前作にはこれまでこのシリーズで描き続けられてきた「父親に成長する男性主人公」という大事な要素が抜け落ちていて、オーウェンには生身の男性のリアリティが感じられない、と批判したんですが、この続篇でその理由らしきものになんとなく気づきました。

 

これまでは『ジュラシック・パーク』第1作目のように男性の主人公が成長していく話だったのが、「ジュラシック・ワールド」シリーズでは“女性側”からの視点になっているのではないか、ということ。

 

前作は未婚で子どももいないクレアが姉の息子兄弟を恐竜から守る話だったわけで、僕はクレアの無責任さに呆れて腹が立ったということを感想に書いたんですが、今回、クレアは前作から打って変わってかなり性格がマイルドになっている。強気であることには変わりがないが、少なくとも人の話に耳を傾けるようになっている。

 

 

 

できれば、前作でクレアの代わりに彼女の甥たちの世話をさせられた挙げ句にモササウルスに食われてしまった秘書のザラ(ケイティ・マクグラス)についての言及が欲しかったけど。クレアが今もザラへの罪の意識をずっと持ち続けているという描写があれば満点だったんですが、まったく触れられてなかったんでそこは実に残念。せめて墓参りするシーンの一つでもあればなぁ。

 

それに、この人のジュラシック・ワールド崩壊における法的な責任についてはどうなったんだろうか。3年前の大惨事についてなんだかずいぶんと軽く語られていたけど、インドミナス・レックスにゴーサインを出したクレアは安全管理面で刑事責任を問われても不思議じゃないと思うんだが。明らかに彼女の過失が原因で人が死んでるわけですから。

 

そういう納得いかない部分もあるんですが、3年、という歳月が若干その辺をうやむやにしてるところはある。

 

彼女が恐竜を救うためにオーウェンのもとを訪れるのは前作の反復だけど、その関係は変化している。彼らはどうやらあれからしばらく付き合っていたが、つまらないことで口論になって別れたらしい。その二人が再び協力し合って任務にあたる。

※追記:オーウェンとクレアが付き合っていたのは前作以前のことで、彼らがビールを飲みながら語っていたのは昔の話だったのかも

 

だから僕は、なるほど、オーウェンがこのシリーズで人間離れしたスーパーヒーローのように描かれているのは(今回も走って火山の噴火から逃れてクレアたちを救出したり、傭兵たちを一人でバッタバッタと倒していく超人的な活躍を見せる。ほとんど『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』の主人公w)、このシリーズは彼の成長を描くのではなくて、クレアが成長していく物語だからなのかな、と思ったんです。前作で鼻持ちならないキャラだった彼女がだんだんまともになってきているから。

 

そして考えてみたら、このシリーズに登場する恐竜たちはすべてが“メス”なのであった。

 

『ジュラシック・パーク』1作目と前作に続いて登場するティラノサウルス「レクシィ」ことTレックスも、そしてオーウェンが他の何頭ものラプトルとともに育てた「ブルー」も全部メス。

 

 

 

 

台詞の中でもオーウェンはブルーに「Girl.」と呼びかける。

 

だからオーウェンというキャラは、クレアから見ても、そして恐竜から見てもある種の理想の男性像なのではないか。

 

そして今回は人間の子どもも女の子。

 

 

 

この新登場の少女メイジー(イザベラ・サーモン)は母親がおらず、最初僕は義理の父親なのかと思っていたミルズもそうではないことがわかる。

 

メイジーとオーウェンたちが合流するのは映画の中盤になってからだが、そこでは島から運ばれた恐竜たちが競売にかけられて、前作で最後にモササウルスの餌食になって海に没したインドミナス・レックスとラプトルを掛け合わせた新たなハイブリッド「インドラプトル」がお披露目される。

 

 

 

 

同時にミルズの口からオーウェンたちにメイジーの“正体”が明かされることで、恐竜と人間のドラマが交差する。

 

メイジーは亡くなった彼女の母親の“クローン”だった。メイジーはミルズに殺されたロックウッドの本に挟まれていた、彼女とまったく同じ顔をした少女時代の母の写真を見つける。

 

前半のヒロインはクレアだけど、後半はメイジーがヒロインになる。この「転調」が僕はちょっと面白かったんですよね。

 

僕が想像していたようなクレアが「母性」に目覚めていく、みたいな単純な話ではなくて、これはクレアの物語でもあり、ブルーの物語でもあり、そしてメイジーの物語でもある、「女性たちの話」だったんだな。

 

また、前作に引き続き登場して、もはや完全な悪役になってしまったヘンリー・ウー博士は「怪獣映画」におけるマッドサイエンティストそのもので、生命を創造することに執着する彼は、命を産む性である女性と対比されると思う。ウー博士を演じるB・D・ウォンがどこか中性的な外見と物腰なのは意図的なのかどうかわかりませんが。

 

 

 

このシリーズが一体どこに向かっているのかは僕には予想もつかないけれど、ハッキリ意識するのはシガニー・ウィーヴァー主演の「エイリアン」シリーズとの共通点。

 

僕は前作の感想で、ラプトルたちに「待て」のポーズをとるオーウェンの姿が『エイリアン2』でクイーン・エイリアンと対峙した時のリプリーにソックリだなー、なんてことを書いたんですが、それはあながち的外れな連想ではなかったのかもしれない。

 

「エイリアン」シリーズでは企業がエイリアンを兵器として利用しようとするし、リプリーは4作目でクローンとして登場する。

 

女性や母を主人公にしてきた「エイリアン」シリーズと、この「ジュラシック・ワールド」2作との類似は果たして偶然だろうか。

 

先ほどちょっと述べたけど、この『ジュラシック・ワールド/炎の王国』では前作のいろんな要素が反復される。ブルーが最後にオーウェンたちを助けるのも、前作を観ていると意図的に繰り返されているのがわかる。そしてそれらは微妙に変化している。

 

 

 

インドラプトルとの戦いのさなかにクレアがオーウェンにするキスは前作のそれとは観客が受ける印象が異なるし、終盤に檻を開けて恐竜たちを外に出すことをためらうクレアにも前作から明らかな変化が見られる。

 

僕は前作の感想でクレアのことを散々こき下ろした(「Tレックスに食われりゃいいのに」とかw)けど、あらためてお断わりしときますが、クレアを演じるブライス・ダラス・ハワードご本人は好きな女優さんなので、今回彼女が魅力的に描かれていたことは嬉しかった(映画の公開前の来日時に、トイレの便座の蓋が自動で上がるのに驚いて叫んでる動画をクリス・プラットがSNSに投稿していた。カワイイw)。

 

もう、身体のいろんな“部位”がヴォリューム満点でw わざわざ彼女にピッチピチのはち切れそうなパンツを穿かせてるのもよかったし、しっかり胸の大きさや谷間も強調してたし。

 

新登場のジアのやたらと頼りがいのある姐御肌なところとか、道化役を一身に引き受けるフランクリンも適材適所で、すべての登場人物が直接危険に晒され、そこから辛くも脱出する。

 

 

 

これも前作の「反省」を踏まえているようにすら感じられる。

 

前作では悪人じゃないのに恐竜に殺されてた人がいてそこにも引っかかったんだけど、今回は殺されるのは見事なまでに全員悪人。ミルズをはじめ、恐竜を捕まえて密売する奴らはみんな悲惨な最期を遂げる。

 

また、メイジーは前作で勝手に行動して騒動を大きくするクソガキ兄弟と違って、ミルズの企みを“祖父”のロックウッド(ジェームズ・クロムウェル)に伝えようとしたり、屋敷の壁をつたって逃げ道を確保したりと(壁をつたうシーンもやはり劇中で“反復”されている)、大いに活躍する。彼女自身が物語に大きくかかわってもいるし。

 

メイジーがクローンであることはただの「どんでん返し」ではなく、映画の前半で乳母のアイリス(ジェラルディン・チャップリン)の背後で恐竜のように素早く身を隠したりする場面で暗示されている。

 

非常に周到に布石が打たれているんですよね。

 

話しかけてくるメイジーに「うるさい!」と怒鳴るミルズは「悪い大人」。怯えて逃げようとする彼女に優しく声をかけるクレアとオーウェンは「良い大人」。

 

メイジーが実験室のヴィデオ映像で見たオーウェンに気づいて彼に抱きつくのは、彼女がヴィデオに映っていたブルーに自分を重ねているから。

 

 

 

巧いなぁ、と思います。

 

だって、安易に「クローン人間」なんて出したら、下手するとこの「ジュラシック・ワールド」の世界観が台無しになってしまう。

 

でも、実はシリーズの中でも今までになかったかなりの冒険をやってるにもかかわらずメイジーの存在にリアリティのなさやバカバカしさを感じずに済むのは、映画の前半からずっとクレアたちの島からの脱出行とメイジーの話が並行して描かれていて、彼女がブルーや恐竜たちに重ねられていたから。

 

だから終盤でメイジーと恐竜たちの関係がわかった時に、カタルシスを感じるんです。

 

そして、ロックウッドがどこか『ジュラシック・パーク』第1作目のジョン・ハモンド(リチャード・アッテンボロー)と重なって見える(彼ら二人で恐竜を蘇らせた、と説明されるし)ように、これはかつてのハモンドと恐竜の関係を模してるんですよね。

 

 

 

正直、予告篇を観た時点ではそれほど期待してなかったんですが、前作とこの続篇を続けて観ることで、前作の粗に見えたところさえもが意味のあるものに思えてくるという、最初から計算していたのならまんまと騙されたし(嬉しい敗北感)、もしも前作のあとで頭をひねって考えたのならお見事な挽回劇。

 

だってほんと、前作の感想で僕がケチつけたところをことごとく覆していくんだもの。

 

…ベタ褒め状態ですがw もちろん文句をつけようと思えばつけられなくはなくて、最後にゲートを開けて恐竜たちを人間の世界に解放してしまうのは、いくらなんでもダメだろう、と。

 

いや、ロックウッドとメイジーの関係がハモンドと恐竜の関係と同じなら、メイジーとともに最後は恐竜たちも自由になるのは当然だろう、と思われるかもしれないけど、普通に考えればそれはあり得ないでしょ。

 

だって、ジュラシック・ワールドがあったあの島でもあれほどの繁殖力を見せた恐竜たちが何十種類もカリフォルニアに散らばったんだよ?クマやイノシシが街なかに出没したって危険なのに、人間以外の天敵がいない恐竜がさらに増えて街に姿を現わせば、どう考えたって今後人間の犠牲者は出るに決まってるでしょ。「共存」なんてできるか?

 

 

 

ブルーがどんなに賢くてもラプトルは肉食なんだから、人間に出会えば襲うだろうし。

 

クレアやオーウェンは恐竜たちの解放を許すことで、今後起こる大惨事の全責任を負うことになる。

 

それでは前作で僕がツッコミを入れたことの繰り返しになるどころか、彼らはさらに大きな、もはや取り返しのつかない罪を重ねることになるじゃないですか。

 

あそこは、ゲートの開放ボタンを押そうとするメイジーに、オーウェンが「君は恐竜とは違う」と優しく言って止めるべきだったんじゃないだろうか。

 

それでこそメイジーは人間として受け入れられ、本当の意味で“自由”になれるのでは?

 

いやまぁ、次回作があることはもう決まってるから、そのためには何がなんでも恐竜たちを生き延びさせなきゃいけないのもわからなくはないけれども。

 

だけど、いずれにしろウー博士たちによって一部の恐竜が人間の世界に持ち込まれてしまったのだから、大幅に種類や数は減っても恐竜の再登場は可能だし、さらなる続篇で物語をちゃんと締めくくるためにもオーウェンたちには「けじめ」をきちんとつけてほしかったなぁ。

 

自らが生み出したからこそ、涙ながらにそれを始末して責任を取らなきゃいけない。罪を償うというのはそういうことなんじゃないだろうか。

 

人間たちの命が危険に晒されるとわかっていながら恐竜たちをその人間たちが住む場所に解き放つというのは、ほとんどテロ行為だ。

 

人間の命と恐竜の命、どちらを取るのかといったら、それは人間でなければならないんですよ。たとえ相手が絶滅危惧種だろうがなんだろうが。人間よりも恐竜の方が大事、という価値観はどう考えてもおかしい。

 

だから、このシリーズはあのラストにおいて、かなり危うい領域に踏み込んでしまった気がします。

 

次回作では『猿の惑星』ならぬ『恐竜の惑星』になってたりして。一体どうやって収拾つけるんだろう。

 

マルコム博士が言う「新しい時代」とは、いかなるものなのか。マルコムは恐竜が生き残るか否かに「神は関係ない」と言う。クローンと神との関係というのも、おそらくあちらの人たちにとっては切り離せない問題なのでしょう。

 

傭兵やオーウェンたちを乗せたアルカディア号は、選ばれた恐竜たちを新たな世界へ運ぶ「箱舟」として描かれている。沈みゆく島に取り残された恐竜の姿があまりに悲しい。

 

ここで描かれているのは、かつて『エイリアン』を撮ったリドリー・スコットが近年SF映画で追求しているテーマにきわめて近い。ここでもやはりエイリアン。

 

ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク』以来21年ぶりの再登場となるマルコム博士は、最初の予告を観た時には僕は物語の中でオーウェンたちと絡むのかと思っていたんだけど、この映画での彼の役割は物語の最初と最後に出てきて口上を述べる、ちょうど「世にも奇妙な物語」のタモさんみたいなストーリーテラー(語り手)。

 

 

 

最初は「核がどーのこーの」とか何を言いたいのかよくわからないんだけど、本篇を観終わって彼の最後の語りを聞くとようやく理解できる。生命は道を探し出す。成り行きに任せろ、と。

 

でも最初は「火山の噴火で恐竜の絶滅もやむなし」みたいなこと言ってたくせに、最後は恐竜と共存、ってどっちやねん。さすが謎の「カオス理論」を提唱してた人w …いや、だから恐竜たちが解き放たれたのは「生命が道を探し出した」んじゃなくて、オーウェンたちがやったことだから^_^;

 

マルコムさんは『ジュラシック・パーク』1作目の時からおかしなことを言ってたけど(あの映画でも恐竜が檻を出た原因は人為的なもので、別に恐竜が自分たちで生き残る方法を見つけたわけではない)。

 

その辺も作り手はわかっててわざと隙のあり過ぎるマルコムさんに再登場願ったんだろうか。

 

『炎の王国』のラストで世の中は恐竜が民家の近くを闊歩する『ロスト・ワールド』の後半のような状態になるので、『ロスト・ワールド』で主人公だったマルコムが再び出てくるのは理にかなってるとはいえる。

 

次回作ではサム・ニール演じるグラント博士が再登場して「彼は間違っている!」とか反論したりして(これも意外とあり得そうだが)w

 

ともかく、物語的に僕はかなり楽しめました。もちろん映像の方も文句なし。

 

前作に引き続き登場のモササウルスはマルコムさんと同様、最初と最後においしいところを持っていく。全長18メートルの巨大なモサさんはもはや巨獣。『ランペイジ』に登場してもおかしくない。

 

 

 

“彼女”の「来たぞ来たぞ」って感じの登場のしかたが大変よいですな。

 

思えばこのシリーズは「女子」たちが大活躍だ。

 

メイジー役のイザベル・サーモンちゃん(ちょっとヘイリー・スタインフェルドの子どもの頃に似てるよね)には続く3作目にもぜひ出てほしい。くれぐれも『エイリアン2』の女の子みたいな酷い扱いにならんよーに。メイジーは物語の要となるキャラクターで、当然、ウー博士の目論見と密接にかかわっているのだろうから(ウー博士は「母親が必要なんだ」と意味ありげなことを言ってたし)。

 

 

 

3年後にはだいぶ成長してそうだけど。

 

果たしてジェラルディン・チャップリンは次回作にも出るんだろうか。彼女は同じバヨナ監督の『永遠のこどもたち』にも出てましたが。ほんとに皺がスゴいことになってるけど、若い頃の写真はとても綺麗。このあたりも「年齢を重ねる」ということに何か含みを持たせていそうですが。

 

オーウェンたちを騙す傭兵の「おじさん」ウィートリーを演じている“テッド・レヴィン”という俳優さんの名前に覚えがあったんで確認してみたら、『羊たちの沈黙』でチ○コを股に挟んで踊ってたヘンタイだったw あぁ、“バッファロー・ビル”がこんなおじいちゃんになっちゃって。

 

『羊たちの沈黙』ではジョディ・フォスターに撃ち殺され、この映画ではインドラプトルの夜食に。ご苦労様です。

 

 

 

珍しく吹替版まで観ちゃったんですが、最初はオーウェンの声が玉木宏以外の何者でもなくて(クリス・プラットってもうちょっとおっさんっぽい声のイメージだし)、しかもクレアの声も木村佳乃以外の何者にも聴こえないんでしばらく慣れるまで時間がかかった。

 

でも、お話の方に集中できたんでそのうち気にならなくなって、これはこれでありだな、とも。まわりの登場人物の声を声優さんたちが固めてるんで(フランクリンの声は満島真之介)聴きやすいし。

 

メイジー役の住田萌乃ちゃん(朝ドラ「マッサン」のエマ役の子)もなかなか声の演技が達者でした。

 

ジェラルディン・チャップリンの出番はそんなに多くはないけど、吹き替えはメーテル、そしてオードリー・ヘプバーン役でお馴染み池田昌子さん。気品のあるお声は変わらず。

 

こちらも出番はわずかながら、マルコム博士の吹き替えは『ジュラシック・パーク』や『ロスト・ワールド』の時と同じ大塚芳忠。わかってるねぇ。

 

吹き替えだから家族連れが多くてほぼ満席状態での鑑賞でしたが、運よく観やすい席が一つ空いていたので助かりました。

 

ウィートリーの腕が食いちぎられる場面などがありながらも切断面や人が直接食われるアップの画は映さず血もほとんど見せずに処理してるので、小学生低学年ぐらいの子どもさんでも大丈夫。でもミルズはTレックスとカルノタウルスに全身食いちぎられてて(そこは遠景で撮ってる)、悪人には容赦ないところが好感持てましたw

 

このシリーズの信頼できるところは、恐竜をあくまでも現実に存在する(ように見える)生き物として描いていること。

 

初めて『ジュラシック・パーク』を観た時の感激の再現は難しいかもしれないけど、それでもやはり3年に一度夏にスクリーンで恐竜たちに出会えるワクワク感は格別。

 

やはりそれは彼らがかつて“実在”した生き物だから。

 

 

 

 

サファリパーク(行ったことありませんが)で猛獣たちを間近で見る感覚に近い。

 

仮に実在していない架空の恐竜を登場させても、「ほんとにいそう」と思えるように慎重に配慮してある。

 

幼獣の頃のブルーが見せたまるでアニメキャラのような度を越した賢さ(そもそもラプトルっていつから人間の次に賢いことになったんだっけ)や、前回のプレデターみたいに保護色になって消えるインドミナス・レックス、今回のインドラプトルのように眠ったふりして人間を捕食する知能の高さはかなりギリギリだとは思いますが。

 

“怪獣”と違って目からビームを発射したり口から火を吐いたり、重火器が効かなかったりということはなくて、生き物だから傷つくし死ぬ。動物と同じ。だからこそ、僕たち観客は映画を観ながら「命」について考えることもできる。

 

思わぬ夏休みのお薦め映画となったのでした。

 

 

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