デクスター・フレッチャー監督、タロン・エジャトン、ジェイミー・ベル、リチャード・マッデン、ブライス・ダラス・ハワード、スティーヴン・マッキントッシュ、ジェマ・ジョーンズ、チャーリー・ロウ、スティーヴン・グレアムほか出演の『ロケットマン』。PG12。

 

第92回アカデミー賞歌曲賞("(I'm Gonna) Love Me Again")受賞。

 

 

イングランド郊外のピナーで育ったレジナルド(レジー)・ドワイトは音楽の才能に恵まれ、王立音楽アカデミーで学び、やがてサポートミュージシャンを経て「エルトン・ジョン」と名乗るようになる。ソロになったエルトンは作詞家のバーニー・トーピンと意気投合、ともに仕事をする同志となる。同性愛者のエルトンは、異性愛者であるバーニーへの報われない愛を抱きつつもスターとして躍進していく。

 

内容について言及していますので、これからご覧になるかたはご注意ください。

 

 

伝説のロックバンド“クイーン”とフレディ・マーキュリーを描いた『ボヘミアン・ラプソディ』をブライアン・シンガーから引き継いで監督したデクスター・フレッチャーが、今度はエルトン・ジョンを主役にしてミュージカル化した作品。エルトン・ジョン自身が製作総指揮を務めている。

 

 

 

 

 

『ボヘミアン・ラプソディ』の感想にも書きましたが、僕は音楽に疎くて普段音楽を聴く習慣もないからミュージシャンやバンド、曲名などを全然知らなくて、音楽的な教養とか知識を必要とするような映画って好んで観たいと思わないので、この『ロケットマン』も鑑賞は保留にしていました。

 

ただ、『ボヘミアン~』はわりとお気に入りだったんで、また音楽モノに興味が湧いたのと、先日観たディズニー映画『ライオン・キング』の歌の作曲もエルトン・ジョンが担当していたこともあってちょっと面白い繋がりだと思ったので。

 

8月23日公開エルトン・ジョンの伝記映画「ロケットマン」を見る前に聞くと映画が100倍楽しめるエルトン特集 by 町山智浩

 

 

僕はエルトン・ジョンの歌をクイーンのそれ以上に知らなくて果たして楽しめるかどうか心許なかったんですが、結果的には問題なかった。2回観ました。2回目はいっそう沁みた。

 

聴き覚えのあった曲は超有名な「僕の歌は君の歌 (Your Song)」のみですが、タイトルにもなった「ロケット・マン」、そして「グッバイ・イエロー・ブリック・ロード (Goodbye Yellow Brick Road)」なども耳に残りました。

 

 

 

 

『ボヘミアン~』ではフレディ・マーキュリーの歌は本人の声が使われていたけど、この『ロケットマン』では劇中でエルトン役のタロン・エジャトンが実際に唄っている。僕はタロン・エジャトンは「キングスマン」シリーズ2本(3作目も作られるそうですが)でしか彼を見たことがないんだけど、アニメーション映画『SING/シング』にも声の出演をしてるように“唄える人”なんですね。なかなかの美声で。エルトン・ジョンは『キングスマン:ゴールデン・サークル』にゲスト出演しているし、もともと縁があったんだな。

 

また、「キングスマン」シリーズの監督のマシュー・ヴォーンが本作品の製作を担当している。

 

タロン・エジャトンは以前は「タロン・エガートン」と表記されていたし、今回の日本版のポスターも「エガートン」のままですが、最近やたらと「エガートンではなく“エジャトン”が本来の発音に近いので、エジャトンと表記してください」と主張している人々がいて、なんだ?と思ってました。

 

ジェイク・ギレンホールじゃなくて“ジレンホール”が正しい、とか、アマンダ・セイフリードじゃなくてセイフライドだ、いやサイフリッドだ、アーノルド・シュワルツェネッガーじゃなくてシュワルツェ↑ネガーだ…などとめんどくせぇこだわりが凄いですが、外国の名前を日本語で原音通りに表記することなんて所詮不可能なのできりがないし、だいたいあとから「正しい発音は~」とか言うんだったらなんで最初にテキトーにカタカナ表記したりせずにもっと前に本人やまわりに正確な発音を確認しとかないの?と思う。名前って大事なものですからね。確かに間違った呼ばれ方をされたくはない。

 

なので、一応今後は「エジャトン」と表記します。

 

名前はアイデンティティの源でもある。

 

『ボヘミアン~』でフレディは自分の本名を嫌って名前を変えるし、『ロケットマン』のレジーも憧れのジョン・レノンから取って(※このくだりはフィクションだそうだが)「エルトン・ジョン」と名乗るようになる。

 

フレディとエルトンは1歳違いで二人ともゲイで、劇中では「愛」を求め続けて呻吟、苦悶する。

 

 

 

 

マーキュリーとかハーキュリーズ(エルトンのミドルネーム)とか、どちらもローマやギリシャの神話の神からとった強そうな名前を付けてるのも面白い。

 

実は2本の映画で同性愛者への差別が直接的に描かれることはほとんどないのだけれど、それでもフレディもエルトンも自分がゲイであることに後ろめたさを感じているように描写されているし、同性愛者であるにもかかわらず女性と付き合ったり結婚したりする。

 

公けの場でカミングアウトするのが躊躇(ためら)われる時代だったんだろうし、二人とも英国人、というのも大きかったのかもしれない。何しろイングランドとウェールズでは1967年以前は同性愛は違法だったのだから。法律で認められても今よりもはるかに偏見や差別が多かったんだろう。

 

レジーの父親は、母の読んでいたファッション誌を手にとる息子に「女の読み物など読むな」と言う。

 

この父親は妻との関係が冷え切っていて、一人息子のレジーにも冷淡。妻の浮気を理由に家を出ていく時にもレジーに別れのハグすらせずに、さっさと立ち去っていった。

 

 

 

ちなみに、この父親を演じているスティーヴン・マッキントッシュは、マシュー・ヴォーン製作の『キック・アス/ジャスティス・フォーエバー』で妻とともに行方不明の我が子を捜すお父さんヒーロー役だった。いろいろ繋がりがありますなー。

 

僕はエルトン・ジョンの実人生の方は知らないからあくまでも映画で描かれていたことについて書きますが(結構史実とは違っているともいうが)、彼は父や母の愛をずっと求めていて、また恋愛に関しても互いに真に愛し合える相手を求め続ける。

 

…そんなの誰だってそーじゃん、って話だけど、なのでこの映画では特殊な「天才の孤独」ではなくて、僕たち普通の人々が感じる孤独や悩みのように描いているんですね。

 

だから感情移入しやすい一方で、「わりとありがちな話になってしまっている」という指摘もある。

 

愛する人とは永遠に結ばれない運命。また、互いに愛し愛されたと思っていた相手は彼を金づるとして利用しているだけのクズ野郎だった。

 

 

 

でも“エルトン”は、そんな彼らと仕事を続ける。ミュージシャンなのだから、自分にはその仕事しかできないのだから歌を作り唄い続けなければ。みんなが待っている。

 

自らの意志でなった、みんなが求める「エルトン・ジョン」であり続けようとして、無理をしていく。そして壊れる。

 

物語自体は、ミュージシャンの人生を描いたものとしてはありがちなものだ。

 

また、ラストに「彼はもうこの世にはいない」事実から否応なく迫ってくる悲壮感とすべてを燃焼させた者の魂の歌声に震えた『ボヘミアン~』と比べると、言い方は悪いけど収まるべきところに小ぢんまりと収まったような物足りなさを感じなくもなかった。

 

アルコールやドラッグの中毒のリハビリ施設から「戻ってきた」という話なので、カタルシスがないんですね。

 

あの施設での両親やマネージャーのジョン・リード、バーニーたちとのやりとりだって、あれはレジー=エルトンの脳内での会話で、なんか自己啓発っぽかったし。

 

だから、正直なところ『ボヘミアン・ラプソディ』の後半のようなググゥッ!とクるものはなかったなぁ、というのが第一印象だったんですが、それでも歌がとても耳に残ってけっして嫌いになれない映画だったので後日再び鑑賞したところ、1回目よりももっと入り込めたんです。

 

レジーの孤独を我が事のように感じることができた。

 

特に「愛されないとわかったから、自分からは求めない(※すみません、正しい訳を失念したので、なんとなくの記憶)」というレジーの言葉に泣きそうになった。

 

「シラフだと無能だったら?」というエルトンの怖れは、自分は愛されていない、という怯えからくる自信のなさなんだろう。酒を飲んでる時は“スター”でいられる。レジナルド・ドワイトという名を捨てて「エルトン・ジョン」という鎧で自らを覆い、別人となることでスーパースターを演じる。そうすれば愛してもらえると信じて。

 

 

 

 

けれども、そうやって成功した自分のまわりに寄ってくるのは本当に心から彼を愛してくれる人々ではない。

 

母親たちでさえも、そんな浮かれ騒ぎに便乗してくる始末。

 

ブライス・ダラス・ハワード演じる母親はよくわからない人で、レジーの祖母のおかげで彼の音楽の才能をプッシュされると息子がその道に進むことを許可するし、彼がゲイであることを知っていてもとやかく言わないし、一見すると物分かりのいい息子想いの母親にも思えるのだけれど、でも本音のところ、彼女はレジーに失望していたことがやがて彼女自身の口から打ち明けられる。心の中では彼女は「ありのままの」息子を愛してはいなかった。諦めていたんである。

 

 

 

 

ブライス・ダラス・ハワードのムチムチした見事な二の腕や二重アゴにちょっとビックリしたんですが、あれは「小柄で小太り」なエルトン・ジョンの母親の役作りのためなのか、それとも素でああだったのかちょっと気になってしまった。だってこれから『ジュラシック・ワールド』の第3弾だってあるでしょうに^_^;

 

タロン・エジャトンも「キングスマン」の頃からずいぶんとずんぐりむっくりな体型になってるけど、それはエルトン・ジョンご本人に寄せたんですよね、当たり前だと思うけど。

 

僕は以前『キングスマン』の感想でタロン・エジャトンのことを「小柄」と表現したんだけど、彼の身長は175cmということなので確かに大柄ではないものの、けっしてチビではないんだよね。並んでいるところをよく見てるとバーニー役のジェイミー・ベルの方が背は低いし、ジョン・リード役のリチャード・マッデンともそんなに背丈は変わらない。

 

『キングスマン』で彼が小柄に見えたのは、共演していたのがコリン・ファースやサミュエル・L・ジャクソン、マーク・ストロングなど長身の俳優たちだったからかも。あと、童顔っぽいのも小柄に見える原因の一つでしょう。

 

この映画ではエルトンことレジーの頭髪がどんどん薄くなっていくんだけど、それがなかなか痛々しくて^_^; まわりのみんなは変わらないのに一人だけどんどんハゲが進行していく。それもコンプレックスだったんでしょう。小柄(チビ)で小太り(デブ)で薄毛(ハゲ)って、ほんと他人に思えないというか…。

 

この髪の造形には物凄い技術が使われているそうですが

 

胸毛やすね毛の生えた男たちがキスしあったり裸で抱き合って足広げてる姿は、たとえイケメン俳優だろうと僕はちょっと苦手ではあるんだけど、イギリスまでジョン・リードがやってきてスタジオを訪ねてきて、もう辛抱堪らず!なレジーの様子とか微笑ましいというか、カワイイなぁ、とは思いましたね。もう完全に乙女。でもベッドでは上。

 

色男だが最低野郎ジョン・リード役のリチャード・マッデンってなんか見覚えがあったんだけど、『シンデレラ』の王子様やってた人じゃん!役柄が完全に正反対。そういや、『シンデレラ』も英国人俳優ばっかだったな。

 

 

 

 

ジョン・リードとの腐れ縁がなんともおかしいというか、腹立たしいけど仕事の上では切れないという苦しさ。でも傍から見るとやっぱり滑稽でちょっと笑えもする。

 

そういえば、ジョン・リードはクイーンのマネージャーも担当していた人で、『ボヘミアン・ラプソディ』にも登場していた。エルトンの名前も何度も出てくる。

 

スターになったレジーが再婚した父親に会いにいったところ、表向きは笑顔で穏やかに接しながらも父は相変わらず最初の息子には興味を示さず、ライヴに招いても「好きなジャンルではない」と断わり、勤めている会社の同僚のためにレコードにサインしてくれ、と他人行儀に頼む。

 

レジーは帰り際に車の中から、父が自分にはけっしてしてくれなかった親密さで新しい家庭の息子を抱き上げているのを見る。涙ぐむレジー。

 

この映画でエジャトンは口許を歪めて何度も泣き顔を見せるけど、いちいち母性本能がくすぐられる(私はおっさんですが)。

 

本当に僕を愛してくれて優しく温かく“ハグ”してくれる人を求めていただけ。たったそれだけのことなのに、そのぬくもりを得ることができなかった。

 

結局のところ、「愛されてるかどうか」というのは本人の実感によるもので、本人が「自分は愛されている」と信じていればそうなんだろうし(そう信じているのに現実は虐待されているという悲劇もあるが)、「愛されていない」と感じていれば、本人にとってはそうなのだ。

 

だから、エルトン・ジョンことレジナルド・ドワイトの両親にだってそれぞれ言い分はあるだろうと思う。

 

彼らもまた、息子と同様にそれぞれ「愛を求めていた」のだから。

 

完全な人間などいない。

 

誰しも何かが欠けていて、でも、だからこそ「人間」なのだ。

 

かつてエルトン・ジョンは「孤独」に押し潰されそうになってフレディ・マーキュリーのように生活が荒れ悩み苦しんだが、リハビリの末“戻ってきた”。2018年にツアーの引退を表明したが、72歳の現在も健在。心から愛せる、そして愛してくれるパートナーと子どもたちも得て幸せに暮らしている。

 

結果良ければすべて良し。

 

あのリハビリ施設でエルトン=レジーがやったのは、誰からも愛されなかった、抱きしめてもらえなかった「僕」自身をハグしてあげたこと。自分を許し、愛してあげた。だから立ち直れたんだろう。

 

バーニーの「自分で立ち直れ」という言葉は、そういうことだったんだろうと思う。

 

 

 

バーニー役のジェイミー・ベルはジェームズ・マカヴォイと共演していた『フィルス』ではチンピラみたいな役だったのが、今回は主人公に愛され続ける美青年役。バーニーはレジーと一時離れた時もレジーと女性シンガーとの結婚式に出席しているし(彼一人だけが浮かない表情をしている)、恋愛や結婚という形の「愛」ではないけれど、レジー=エルトンとはもう充分過ぎるほど人生のパートナーといえる。そんな友がいるなんてエルトンは幸福だと思う。そして本人もそれを実感できた。

 

愛情に飢えていたからこそ彼は苦しみ、自分は愛されることができる人間だという事実に長らく気づけずにいた。

 

子どもが嫌がるのを無理にする必要はないけれど、そうでないなら親はできる限り幼い子どもとスキンシップを取るべきで、手を繋いだりギュッと抱きしめる行為は彼らに安心感を与える。それが充分でないと、子どもは不安感を抱いたまま成長していくことになる。この映画はそういうことも語っているんだと思う。

 

だからエルトン・ジョンは今、家族との時間を持つためにツアーを引退することにしたんだよね。

 

「黄色いレンガ路 (Yellow Brick Road)」とは『オズの魔法使』でドロシーが旅の仲間の“かかし”や“ブリキ男”、“ライオン”とともに唄って歩いたオズの国の道、「夢の世界」だ。

 

イエロー・ブリック・ロードと「グッバイ」する、ということは、無垢で純粋だったあの頃から「大人」になって、厳しさや痛みも知って、この現実を生きていくということ。虚飾に溢れた世界はもう結構。ドロシーがカンザスに帰ったように、エルトン=レジーは彼が帰るべきところへ戻った。

 

 

 

でもそれは唄うのをやめることではなくて、生まれ変わって再びステージに立つことだった。

 

スーパースターは一度死んで蘇る。

 

エルトン・ジョンの人生を基にしてはいるけれど、劇場パンフレットにも「これは“自伝映画”ではなくて“ミュージカル・ファンタジー”」と書かれているように、それぞれの曲が作られた時期と劇中でそれらが流れる時代は一致していなくて、場面と歌詞の内容に合わせて自由に選曲している。

 

まぁ、『ボヘミアン・ラプソディ』だって映画用に史実がいろいろと変えられていたわけだから、構わないと思いますが。

 

やっぱり耳に残る歌はどんな言葉よりも説得力がある。

 

これは繰り返し観るたびに好きになっていく、そんな映画かなぁ。

 

 

 

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