マシュー・ヴォーン監督、タロン・エジャトンコリン・ファースサミュエル・L・ジャクソンマーク・ストロングソフィア・ブテラソフィー・クックソンサマンサ・ウォマックマイケル・ケイン出演の『キングスマン』。2014年作品。R15+

原作はマーク・ミラーデイヴ・ギボンズによるグラフィック・ノヴェル。





ロンドンで母と幼い妹、そして母の暴力的な恋人と暮らすエグジー。彼の亡き父は英国の上流階級の人々によって作られた伝統あるスパイ組織「キングスマン」のエージェントだったが、任務中に仲間を救って命を落としたのだった。一方、アメリカのIT企業家ヴァレンタインは、その人脈と会社が生み出す莫大な利益を利用して世界規模の恐るべき計画を立てていた。キングスマンのヴェテラン・エージェント、“ガラハッド”ことハリー・ハートはかつての教え子の息子であるエグジーをヴァレンタインに殺されたメンバーの代わりに組織の一員にしようとする。スパイの試験を受けることになったエグジーは、他の候補者たちと空白になった“ランスロット”の座をめぐって競いあう。


キック・アス』のマシュー・ヴォーン監督による、前作『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』から4年ぶりの最新作。

『キック・アス』も『ファースト・ジェネレーション』も大好きな映画なのでマシュー・ヴォーンの新作をずっと心待ちにしていたんだけど、結局前述の2本の映画の続篇は手がけず、噂のあったスター・ウォーズの最新作にもかかわらずに、何を撮ってたのかといったら“スパイ映画”だった。

最初「若者がスパイになる映画」と知って「えっ、マシュー・ヴォーンが『スパイキッズ』みたいな映画を?」と思ったんだけど、彼が撮ったのはロバート・ロドリゲスの子ども向け映画とはまったく違っていた。

イギリスを舞台に往年の007映画を彷彿とさせるような設定やガジェット満載の、大人が愉しむ「正しいスパイ映画」でした。

ヴォーン監督は『ファースト~』でもショーン・コネリーが主演していた頃の007の世界観を再現していたので、今回は満を持して彼が好きだった頃の(ようするに明るくて荒唐無稽な、つまり最近の007映画とはまるっきり正反対の)ジェームズ・ボンド映画をやろうとしたわけね。

あと、TVドラマ「おしゃれ(秘)探偵」なんかも入ってたりするのかな。いや、よく知らないけど。

コリン・ファース演じるハリー(ガラハッド)の「最近のシリアスなスパイ映画は苦手」という台詞はマシュー・ヴォーン自身の本音だろう。

早速映画の冒頭に登場するキングスマンの1人、ランスロット(ジャック・ダヴェンポート)が思いっきりコネリー・ボンドしてるので笑う(ちょっとジョージ・レイゼンビーっぽかったが)。

この映画観ていて、マシュー・ヴォーンはショーン・コネリーやロジャー・ムーアが主演してた頃の007がほんとに好きなんだなぁ、ってつくづく感じました。

僕は007映画はリアルタイムではピアース・ブロスナン主演の作品をすべて劇場で観ていたので、まぁ、ヴォーン監督の最近の地味でシリアスな007への不満もわからなくはないんですが、でもたとえば劇場版「バットマン」シリーズが荒唐無稽の極み(『バットマン&ロビン』)までいってシリアス路線に向かったように、007もまたいったん行き着くところまで行ったからこその路線変更だったわけで、あのまま同じようなタイプの作品が延々続いても代わり映えしなくてどんどん退屈になっていっただろうから、僕はちょっと違うパターンにしてみたのは結果的にはよかったんじゃないかと今では思っているんですけどね。

その「ヒーロー物」(アメコミ映画含む)のシリアス路線も一段落ついたというか、最近また揺り戻しがきてるのかもしれませんが。

本家007の方も最新作ではついに“あの組織”が登場するし、再び規模が大きくなりつつあるのかな。

それにしても、今年は『ミッション:インポッシブル』にこの『キングスマン』、そして007の新作と、スパイ映画が花盛りですね。

そしてそれぞれの作品が異なるタイプのスパイ・アクションを描いているのが面白い。

で、どうだったかといいますと、面白かったです!(^o^)

ちょっと笑いも交えつつのB級アクション映画でした。

ここでいう「B級」というのは作品の質のことではなくて、予算のことですが。

『ミッション:インポッシブル』や007のような超大作ではない、という意味で。

マシュー・ヴォーンって、これまでに『スターダスト』や『ファースト~』のようにVFXを駆使した大作も手がけてはいるけど、基本的にはある一定の予算の範囲内で作品を仕上げる人なんだよね。

ヒット作を出しているにもかかわらず、超大作には行かない、という姿勢。お金がかかればその分口も出されるから、ってことか。

あくせく映画を撮る必要がないからか、ほんとに自分が撮りたいものだけ撮ってる感じ。自分の趣味にあった作品だけ選んでる。

さすが貴族の家系出身は違うなw

マシュー・ヴォーンの描く「笑い」って、『キック・アス』でもそうだったけど腹を抱えて爆笑、というのではなくて、グロや下ネタにクスッとなりつつアクションシーンでは気持ちよくさせてくれる、そのバランスが独特なんですよね。

『キック・アス』も『キングスマン』も後半になるに従ってどんどん荒唐無稽度が増していくんだけど、たとえばエグジーの日常生活の描写は妙にリアルだったりする。だからただの絵空事に終わらず、まるで白昼夢を見ているような不思議な感覚に襲われる。

ガイ・リッチーとの繋がりもあってか、暴力描写やユーモアのセンスなど作風に共通するものがあるし。

ちなみに、マシュー・ヴォーンはガイ・リッチーの代わりに監督を務めた『レイヤー・ケーキ』ではダニエル・クレイグと組んでいて、こんなところですでにのちの007と因縁があったってことですね。

『レイヤー・ケーキ』はおふざけなしのクライム映画だったけど、マシュー・ヴォーンがこういうジャンルを手堅く撮れる監督だということがよくわかる1作でした。僕は結構好きな映画。

『ファースト・ジェネレーション』は「X-MEN」というアメコミヒーロー物のビッグバジェット映画ということもあってグロや下ネタはまったくといっていいほどなかったけど、今回は人によってはヒくかもしれない一歩手前ぐらいの悪趣味すれすれのヴァイオレンス描写が『キック・アス』に近かったと思います(R指定だし)。

後述しますが、クライマックスの「花火」とバックに流れるエルガーの「威風堂々」なんかも『キック・アス』のプレスリーの曲の場面を思わせて、ああいう「おふざけ」入ってる不謹慎なところがいかにも“マシュー・ヴォーンっぽい”。




だから、『キック・アス』のテイストが好きな人はハマれるんじゃないかな。

コメディ集団モンティ・パイソンもそうだけど、自国のクラシック音楽を使って茶化しをやる、というのはイギリスの伝統なんですかね。

音楽は『キック・アス』や『ファースト・ジェネレーション』のヘンリー・ジャックマン(『ピクセル』も担当)。

だからこの映画のテーマ曲が『ファースト~』っぽかったり、クライマックスの曲が『キック・アス』っぽいんだな。

そんなわけで、これ以降はこの映画と『裏切りのサーカス』のネタバレがありますので、これからご覧になるかたはご注意ください。



まず、映画の冒頭にアーノルド教授役でいきなりルーク・スカイウォーカーことマーク・ハミルが登場するんで意表を突かれる。

しかもチョイ役。


元英国王に耳をもがれそうになるジェダイ騎士


なんでこの役にマーク・ハミルを?と思ったけど、もしかしてスター・ウォーズを撮れなかったことを根に持ってるのか?延々と007にこだわってるのもそうだけど(マシュー・ヴォーンは長らく007を撮ることを熱望していた)、意外と執念深い人なんだろうか^_^;

まぁ、マシュー・ヴォーンは仮に怨念があったとしてもそれをすべて映画に昇華させるから、クリエイターとしては素晴らしいと思いますが。

それにしても、年食ったなぁ、ルーク。

おじいちゃんになってて、腹も出てて、スター・ウォーズの1ファンとしてはなんかいろいろ考えちゃったよ。いくらなんでも老いさらばえ過ぎだろ(;^_^A

そりゃ子どもの頃に観てた僕がおっさんになってるんだから、彼がおじいちゃんになるのも無理はないけど(年取ってヒゲヅラになったりしてると顔がますますオリヴァー・リードに似てきた気がするんだけど、彼の場合はリードのような野性味は感じないんだよな)。

スパイたちに怯え、あっちゃり殺されるマーク・ハミルにちょっと泣きそうになった。

そーいや、ヴァレンタイン役のサミュエル・L・ジャクソンもスター・ウォーズ出演者だった。

新旧SWキャラの共演だったわけだけど、シリーズでは最重要キャラにもかかわらず俳優としての知名度や格では完全にルークはマスター・ウィンドゥに差をつけられてるのが哀しい。

サミュエル・L・ジャクソンは今回ノリノリで悪役を演じていて、お馴染みの“説教”はしないもののみんなの前で絶好調でまくしたてます。

またハンバーガーが出てきてたけど、『パルプ・フィクション』といい、どんだけハンバーガー好きなんだサミュエル。

 


「これが映画だったら」とメタ的な台詞を言うところとか、ちょっとM・ナイト・シャマランの『アンブレイカブル』を思いだした。


さて、この『キングスマン』を「何も考えずに気軽に見られるB級アクション」と評している人がいて、確かにストーリー自体は特筆するようなものではないしその通りだと思うんだけど、『キック・アス』の時と同様に別の見方もできると思うんですよね。

『アンブレイカブル』がそうだったように『キック・アス』もまた「ヒーロー論」、「ヒーローについての映画」でもあって、それはこの『キングスマン』も同じ。

そしてマシュー・ヴォーンが云わんとしていることも両者でよく似ている。

この映画の“スパイ”というのは『キック・アス』の“スーパーヒーロー”と同義語だ。

『キック・アス』では冴えないアメコミオタクの高校生が最後は空を飛んでヒロインを救う。

『キングスマン』でも、低所得者の集合住宅に住む未来が見えない主人公は、最後に“紳士のスパイ”に変身する。

信じて努力すれば人はなりたいものになれる。

たとえばジェームズ・ガンが監督した、頭のおかしいおっさんがヒーローを自称して暴れる『スーパー!』では、『キック・アス』で謳いあげられた夢の成就をものの見事に否定するような容赦ない現実の酷さが描かれていたけれど、マシュー・ヴォーンは少なくとも“映画の中”では無邪気な夢を見させてくれる。

この一貫した姿勢には、彼の強い信念が込められているように思う。

反対にジェームズ・ガンは、その次の『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』では一転して銀河を救うヒーローになる主人公を描いていて、まるっきり逆の映画を撮っていた。

「もしこれが映画だったら」というヴァレンタインの言葉に答えてエグジーが言う「だけどこれは映画じゃない」という台詞には、この映画の根底にあるテーマが集約されている。

僕たち観客が今観ているのは「映画」だが、でも「映画じゃないんだ」と。

無職の理由をあれこれ挙げて言い訳するエグジーをハリーは静かにたしなめる。

そしてパブの柄の悪い連中には「マナーが人を作る」と。

人間は生まれや職業でその価値が決まるのではない。

「紳士たれ」。

マイ・フェア・レディ』ならぬ“マイ・フェア・ジェントルマン”(『マイ・フェア・レディ』はイギリスの田舎娘が上流階級の男性の教育によって洗練されたレディに成長していく話)。

銃の弾丸を跳ね返す傘や毒の塗られた靴先の刃、ライター型手榴弾などの空想的な秘密兵器は映画の観客の目を楽しませてくれるガジェット(小道具)だが、マシュー・ヴォーンが愛するのは「余裕」だ。

貴族の持つ真の心の豊かさこそをマシュー・ヴォーンは「紳士的」と言っているのではないか。

彼がシリアス過ぎる最近の007に苦言を呈するのもそれで理解できる。

この映画には「紳士」と似て非なる存在として何度も「上流気取りの俗物(snob)」という言葉が出てくるが、もともと「低俗なもの」と考えられてきたアメコミヒーローやスパイ物などに興じる精神というのはまさしくその「上流気取り」の対極にあるもので、そういうジャンルで「紳士」について語る、という発想が僕にはとても面白く、そして共感できるのだ。

あんだけ偉そうにしていた「キングスマン」のボス、アーサー(マイケル・ケイン)はアメリカのIT企業家ヴァレンタインにまんまと懐柔されるし、無敵のエージェントに思えたハリーもまたヴァレンタインの罠にかかって教会で大暴れして殺される。

貴族だって絶対じゃないのだ。

自分たちは選ばれた特別な存在なのだ、と信じて疑わず、ヴァレンタインが企てる人類“間引き”計画に加担して自らは安全なところから高見の見物に興じようとしていたセレブたちの描かれ方は、まるでどこかの国の政治家や金持ち連中のようで観ていて虫唾が走るとともに、その末路は最高に痛快。

ざまぁ!!(°∀°)bと。

もっとも、世の中の偉いさん連中だけでなく、普通の人々だってこの映画ではけっして善良になど描かれてはいない。

ヴァレンタインが無料でばら撒いたSIMカードに群がって結果操られて互いに殺しあう姿もそうだし、教会に集まったレイシスト(差別主義者)どもなどまさしく愚の骨頂である。

だからこそ、ハリーが教会でレイシストたちを虐殺する場面では僕は心の中で「ヒャッハー!ヘ(゚∀゚*)ノ」と大喝采をあげていた。

こういう映画、日本でも誰か作らないかな。無理か?

この映画の中で、平民にはエグジー以外にまともな人間はいない。

この映画の中の「普通の人々」はみんな権力者や金持ちに操られるバカとして描かれている。

エグジーの母親ミシェル(サマンサ・ウォマック)は夫を失ってから身を持ち崩してクズとくっついて、挙げ句の果てには我が子を手にかける一歩手前までいく。

僕は観ていて、この「スマホでまとめて操られて自滅していく国民」の姿に思わずどっかの国の「マイナンバー制」を連想しちゃったんですけどね。

明らかにそういう寓意が込められてるし。

完全に偶然ながら、今この国で起こっていることのカリカチュア(戯画)に思えてきて。

モンティ・パイソンが貴族だろうが平民だろうが老いも若きも健常者も障害者も肌の色もすべてをひっくるめてコケにしまくって差別ネタで笑わせたように、イギリス人であるマシュー・ヴォーンもまた、どちらか一方に過剰に肩入れすることはなく、どちらも平等にその愚かさを描きだす。

そこには「貧乏人=善 金持ち=悪」(あるいはその逆)といったような単純な構図ではなく、一筋縄ではいかないイギリス的な意地悪な視線がある。

それでも精神的な「貴族」である彼は、「紳士」にこそ一縷の望みを託すのだ。

生まれなど関係なく、人は「紳士」になれる。

紳士であることが世界を救う。


ところで、『キック・アス』とこの『キングスマン』の共通点の一つに、母親の存在感が希薄、というのがある(原作はどちらもマーク・ミラー)。

『キック・アス』で主人公の母親はある日いきなり病気で死んでしまう。

ヒロインのヒット・ガールの母親は、夫が収監されて悲観して我が子をおなかの中に宿したまま自殺してしまう。

悪役レッド・ミストの母親もマーク・ストロング演じるギャングのボスに忠実な妻で、それ以上のキャラクターではなかった。

『キングスマン』でもエグジーの母親は無力で、ハリーから「困った時は連絡するように」と言われていたにもかかわらず、その後生活は荒れてDV男とつきあって息子や娘はほったらかしだ。

もともとエグジーの家がどれぐらいの経済状態だったのかわからないが、父親が生きていてキングスマンの一員だった頃はまともな生活をしていたように見える。

夫が殺された悲しみが癒えなくて自暴自棄になった、ということなんだろうけど、この愚かで無責任な母親は我が子を置き去りにして勝手に死ぬヒット・ガールの母親とほとんど同じだ。

一方で、これら2本の映画には父親や父性を象徴する男性キャラが登場して、それぞれ主人公とかかわる。

父性的、男性的なものについてはこだわるのに、母親の描写はほんとにとってつけたようでその存在はずいぶんとないがしろにされている。

これはどういうことなのか、とても興味深い。

“ヒーロー”を描く際に、いったん母親とは距離を置かなければならない、ということだろうか。


また、悪役のサミュエル・L・ジャクソンやエグジーの友人の一人はアフリカ系にもかかわらず「キングスマン」のメンバーがすべて白人なのは、そういうことに敏感な最近のハリウッド映画の“ポリティカル・コレクトネス”など無視してやる、という意思表示なのか。


みんな裕福でオシャレ


アジア系の俳優なんて1人もいなかったし。

これもイギリスが舞台のジェームズ・マカヴォイ主演映画『フィルス』が平然と日本人差別をカマしててイライラさせられたように、イギリス人ってのは笑顔で相手と接しながらシレッと人を差別するような奴らなので(大問題発言)油断ならないし、そういう人間たちが提唱する伝統を重んじる「紳士」にいかほどの説得力があるのかわかりませんが、でもそれはちょうど日本の「サムライ精神」みたいなもので「態度」や「生き方」のことでもある。

一般大衆の価値観ではないが、誇り高き戦士の矜持なのだ。

この映画の新しさは、紳士のスパイを登場させて「古き良きスパイ映画」的なテイストを復活させながらも、そこに今風のあんちゃんを融合させたところにある。

手癖の悪さを利用してアーサーのグラスをすり替えたように、エグジーは「貴族」と「平民」それぞれの知恵を併せ持った新しいスパイだ。

エグジーは元スパイの息子、といういわばエリートであり、しかし現在は貧しく劣悪な暮らしに甘んじている。

これは高貴な主人公がやがて英雄に返り咲く貴種流離譚である。

それは貴族の家の血筋だが長らくそれを知らずに生きてきた、アメコミ大好き人間のマシュー・ヴォーンの生い立ちとも重なる。

だからもしかしたらこの監督は、自らの作品で自分自身を描くタイプのクリエイターなのかもしれない(マシュー・ヴォーンは本作の原作コミックスにもかかわっている)。


最初に書いたように、「何も考えずに軽く楽しめばいい映画」だと思います。

でも僕みたいにいろいろこじつけて楽しむこともできる映画でもある、ってこと。『キック・アス』がそうだったように。ウォシャウスキー兄弟の『マトリックス』がそうだったように。

これが長篇映画デビューという主人公エグジー役のタロン・エジャトンは、いつもの服装はいかにもロウワー階級のあんちゃん、って感じなんだけど、スーツ着て黒縁眼鏡かけるとまるで背の低いディカプリオみたいで、その“とっちゃん坊や”っぽい顔つきもなかなかキュートでシブい“おじさま”たちとはまた違った魅力を放っている。

 

 
バディ犬“JB”は「24」のジャック・バウアーから命名


反抗的な目付きをした時なんか、ちょっと『トレインスポッティング』の頃のユアン・マクレガーを彷彿とさせもする。

凄くイイ面構え。リアルな人間ドラマでもいい芝居しそうですね。

劇中ではまわりがタッパのある人たちばっかなので小柄に見えるけど、結構マッチョだし、これからの活躍に期待。

観客にかなりのインパクトを残してくれるブレード付きの義足をした“女殺し屋1”ガゼル役のソフィア・ブテラはダンサーでもあるそうで、彼女が繰り出すまるでカポエイラかブレイクダンスのような足技には惚れぼれする。

 
もちろん義足は合成


女装したスタントマンたちと


ちゃんと見たいものをしっかり見せてくれるアクション映画っていいですよね。

悪のボスの右腕の女殺し屋、というのもいかにもこの手の映画っぽい。

もっぱら格闘担当でエロはないけど、サミュエル・L・ジャクソンはちゃっかり彼女のお尻にタッチしてました。

パラリンピック関連でTVで義足のアスリートの姿を目にする機会が多いけど、ああいう形で身体の一部を武器化するアイディアってなかなか斬新でした。

昔のアクション映画って悪役の身体の一部が欠損している設定が結構あったけど、これも最近のPC的な配慮からかあまり見かけなくなった。

そういう風潮へのアンチテーゼだったりするのかな?

ただ単純に「身体の一部が武器、ってカッコイイ」っていう幼稚な発想からかもしれないけど。

ガゼルのファンは多いみたいですね。だってほんとにカッコイイもんな。

俺も切断されたいw

しかし、この映画で特におねえさまたちがウフウフいってるのは、なんと言ってもおじさまたち。

劇中の多くのアクションを自分でこなしたというハリー役のコリン・ファースと、彼をサポートしエグジーたちを指導する教官マーリン役のマーク・ストロング。

 


紳士服のポスターか、ってぐらいにいちいちキマってるコリン・ファース。

そしてお馴染みのシブい声に今回は珍しく主人公側のいい人役で登場するマーク・ストロング。

TwitterのTLでは彼のパイロットの制服姿に鼻息を荒くしているおねえさまも。

 


これもイギリスのスパイたちを描いた『裏切りのサーカス』でこの二人は恋人同士だったが、ここでも共闘している(そして今回もコリン・ファースが先に死んじゃう)。

マイケル・ケインもおじいちゃん好きにはこたえられないようですが、この映画はコリン・ファースとマーク・ストロングを愛でる映画だと思いますね。




おじさまたちが最高にカッコよく戦う映画って、なんでこんなにワクワクするんだろう。


クライマックスの「花火」シーンには笑い声をあげてしまった。

脳ーみ~そバーン!ってw

最高にバカバカしいけど、あれ実際には大変なスプラッターシーンになってるはずで、それを想像したら可笑しくて。

ここまで人を食った描写はマシュー・ヴォーンの映画では珍しいのではないだろうか。

調子に乗ったセレブどものドタマが次々と破裂して花火になって上がっていく。

恐怖奇形人間』のラストシーンをポップにしたようなオチw


何度もクドいけど、これは“何も考えずに気軽に楽しめる映画”だ。

そういう映画は必要なんだということを、あらためて教えてくれた。

現実には貧乏人や弱い立場の人間を食い物にして自分たちだけ生き残ろうとする連中は、最後に頭が爆発して死んだりはしない。

悪人を退治してくれる正義のスパイなどいない。

そんなことはわかっている。

でもいつも現実の厳しさやツラさばかりを見ていたら気が滅入ってしまう。

せめてフィクションの中でぐらいクソ野郎たちが惨殺されてほしい。

クソどもから世界は救える。

そして、自分も変われるのだと信じたい。

それがバカげた妄想や幻だろうと、スクリーンの中で繰り広げられる弱者の胸のすく活躍こそが日々の生活に潤いを与えてくれる。少なくとも僕にとっては。

そして明日を生きる勇気をもらえるのだ。



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