ベン・リューイン監督、ジョン・ホークスヘレン・ハントウィリアム・H・メイシームーン・ブラッドグッドアニカ・マークスロビン・ワイガート出演の『セッションズ』。2012年作品。R18+



1988年。ジャーナリストで詩人のマーク・オブライエン(ジョン・ホークス)は、6歳の時に罹ったポリオで首から下が麻痺しており、ヘルパーに身の回りの世話を頼んで一人暮らししている。しかしヘルパーの女性アマンダ(アニカ・マークス)に恋して結婚を申し込んだために、彼女はマークのもとを去った。マークは思い切って電話した大学病院の紹介で知ったセックス代理人(sex surrogate)のセラピーを受ける決心をする。


一昨年にラジオ番組「たまむすび」で映画評論家・町山智浩さんによる紹介を聴いて、昨年末には映画館で予告篇を観て興味を持っていました。

小児麻痺の男性が、一人のセックス代理人との出会いによってチェリーボーイを卒業する話。

実在の人物、マーク・オブライエン氏の記事が基になっている。

下半身が麻痺した主人公、実話の映画化、というと、2012年に日本で公開された『最強のふたり』を思いだすけど、あの映画の主人公は頚椎の損傷によって下半身の神経が完全に麻痺していたために感覚が一切なかったが、『セッションズ』の主人公マークは身体の自由は利かないが痛みや快感はある。




だから服が腕に引っかかれば痛がるし、性的に興奮すればアレも勃つし射精もする。

それは生きている証しでもあるが、感覚はあるのに自由に動かせない、というのは実にもどかしいだろう。

鼻が痒くても自分で掻くこともできず、誰もいなければ「頭の中で掻いたと想像して」我慢する。

鼻や背中が痒かったら1秒も我慢してられない僕なんかには拷問みたいな生活に思える。

でも、マークはそんな生活を6歳の時から続けていても世を拗ねることなくどこか明るく、仕事仲間や友人たちとの交流もあって活動的な人物である。

大学には電動式のベッドで通って無事卒業した。

電動式ベッドが事故で使用不可になってからはヘルパーを雇って自活している。

そんな彼が「障害者とセックス」というテーマでインタヴューした人々の話を聴いて触発され(そもそもベッドに寝たままのポリオ患者がインタヴュアーを務める、というのが驚きだったが)、自分には不可能だと思っていたセックスに挑戦してみることにする。

「仕事のネタのため」ということもあったんだろうけど、それにしても好奇心旺盛な人だな。

そして、それは彼にとって切実な願いでもあった。


主演のジョン・ホークスは、どこかで見た俳優さんだな、と思ったけど鑑賞中は思いだせなくて、あとでフィルモグラフィをチェックしてみるとこれまで観た何本かの映画に出演していた。

でも「あぁ、あの役ね」というのがなくて^_^; ここ最近の出演作は観てないし。

唯一覚えていたのが、ロバート・ロドリゲス監督の『フロム・ダスク・ティル・ドーン』のバーかどっかでジョージ・クルーニーたちに殺されてた男。






こう言っちゃ失礼だけど、ジョン・ホークスさんの普段の顔つきってどちらかといえば貧相なチンピラ面で、『フロム・ダスク~』のちっちゃな役を覚えていたのも、公開当時、僕がバイトしていたサ店の嫌なマスターに顔が似てたから。

名前すら知らなかったが、映画の中で彼がぶっ殺されるのを観て勝手に溜飲を下げていたのだった。

そんなジョン・ホークスが今回演じるのは、笑顔が爽やかな障害を持った「40歳の童貞男」ならぬ、38歳の童貞男。

チンピラどころか天使のような、それでいてまぎれもない生身の人間の欲求を追い求めて精一杯生きた男性を好演している。

ぶっちゃけ、僕はヘレン・ハントの裸が目当てだったんですが(ゲス野郎ですいません)。

 


つってもヘレン・ハントは現在50歳。なんというか、大ヴェテランのストリッパーのような貫禄のヌードを披露していて圧巻w

ヘレン・ハントは、90年代にビル・パクストンと一緒に竜巻を追いかけてた『ツイスター』や、ジャック・ニコルソンとイイ感じになるヒロインを演じてアカデミー賞主演女優賞を獲った『恋愛小説家』など、また2000年代に入ってもさまざまな映画でお母さん役などで活躍を続けている名女優だけど、僕はしばらくご無沙汰してたんで久方ぶりに彼女の出演作を観たのでした。

実話の映画化でストーリーに何かどんでん返しがあるわけじゃないからかまわないと思いますが、これから内容について書いていくので知りたくないかたは以降は鑑賞後にお読みください。

あと、今回は“セックス”を連呼しますから、そういうのがNGなかたはお読みにならないほうがよろしいかと。



この映画はR18+(18歳以上鑑賞可)だけど、それはヘレン・ハントの裸体が映るのと、性交場面があるから。

股間に無粋なボカシを入れなかったことはよかったけれど(本来それが当たり前なんですが)、これは高校生ぐらいの人たちが観てもいいんじゃないかと思いましたけどね。

セックスに妙な幻想を抱かないためにも。

まぁ、自分の母親ぐらいの年齢の女性の裸観てどう感じるかはわかりませんがw

これは障害者のセックスにまつわるエピソードだけど、思春期男子の性についての話ともとれるので。

というのも、マークは女性経験がないだけでなく物理的に自慰もできないので、これまで性処理全般についての経験がないのだ。

それはちょうど精通直後の思春期男子とほぼ同じ状態ということ。

または30代や40代で「魔法使い」や「妖精」になってしまってる男性たちの話、というふうに見ることもできる。

自分に自信がないために女性とお付き合いすることもセックスすることもできない男性たちの物語と捉えれば、共感の度合いも違ってくるというもの(;^_^A

セックスや自慰ができなくても、成人男性なのでアレが溜まる。

だから時々勝手に排出されるのだが、それを介護ヘルパーに見られるのがマークにとっては屈辱的。

寝たきりでの射精なんてようするにオシッコと同じ単なる排泄なわけだけど、長らくそういう生活をしていても恥ずかしいものなんでしょうか。

そんなマークは、自分自身はセックスの経験がないのに障害者たちにセックスについてインタヴューする仕事を受けたりしたものだから、そこでされる赤裸々な体験談に驚愕する。

マークの友人で車椅子で生活しているカルメンは、自分に可能な体位まで詳しくあけっぴろげに話す。

同じく車椅子の男性は、「クスリのやりすぎで舌の感覚が麻痺してるけど、テクニックには自信がある」と豪語する。

身体に障害があろうがなかろうが、人はセックスを楽しむということ。

カルメン役のジェニファー・クミヤマは実際にカルメンと同じ障害を持つ人だけど、彼女が演じたこの女性はなかなかインパクトがあって面白いキャラでした。




カトリック教徒であるマークは「性」については厳格な教育を受けてきたのだろうし、また幼い頃に事故で亡くなった妹の死に責任を感じていて、それらが自己抑圧や自己懲罰的な性格を形成してもきたのだろう。

セックスについてのマニュアル本読んで「そんなまさか!Σ(゚д゚;)」とか、中学生かっ。

で、彼は自分には不可能だと思い込んでいたセックスに挑戦する。

マークが無事セックスができるようになるまでセラピーを行なうことになったのが、セックス・サロゲートのシェリル(ヘレン・ハント)。

マークと同様に、彼女の仕事について知らない僕たち観客のためにシェリルが説明してくれる。

セックス・サロゲートは資格を持ったセラピストが実地で指導し、本番行為にも及ぶ。ただし売春婦ではない。

セラピーは6回までで、それが終われば二度と患者に会うことはない。

日本でも「セックス・ボランティア」という呼び名でおもに障害者の性処理の介助をする仕事があるというのは知っていたし、たしか本にもなってたはずなのでそういう職業自体の存在には驚かなかったけれど、その仕事についての映像作品を観るのは初めてだったので実に興味深かったです。

でも日本の「セックス・ボランティア」が実際には自慰の介助であるのに対して、こちらはばっちりセックスそのものを行なうわけだから、やはりちょっと想像を超えている。

シェリルさんには旦那も息子もいるんだし。

ちなみにこのセックス・サロゲートのシェリル・コーエン=グリーンさんも実在の人物で、映画でもそのまま実名で描かれてるけど、スゴいですよね。

だって、「治療」の一環であるとはいえ夫以外の男性との性行為を伴う仕事を正々堂々と実名で公表してるんだから(シェリルさんにはこの仕事についての著書もある)。

それだけ自分の仕事に誇りを持ってるということだろうけど。

これは20年以上前の時代が舞台の作品なので現在のシェリルさんは70代近いんだが、若い頃はさぞかし綺麗だったんだろうなぁと思わせる。


シェリル・コーエン=グリーンさんとヘレン・ハント

映画の中でヘレン・ハントはまさにプロフェッショナルとしてのセックス・サロゲートを演じてるんだけど、それは「熱演」というような「私、身体張ってこんなスゴいこと頑張ってやってます」的なものではなくて、もうほんとに自然というか、そういう職業の人のたたずまいなのだ。

シェリルはセラピストなので、患者を治療し、分析する。つねに経過をテープレコーダーに記録している。

「彼(マーク)は私に母親や恋人、教師…などの役割を求めている。でも私はそのすべてに応えることはできない」といった具合に。

彼女はプロだから、患者と精神的にどうこうということはない。

それがふと揺らぐエロティシズム。

映画の中でも、シェリルは夫とひと悶着ある。

セラピストと患者、という関係であることは百も承知でありながら、身体を重ねるうちに想いが募っていき、辛抱タマランくなったマークがシェリルに詩を書いた手紙を出す。

セックス・サロゲートはプライヴェートを患者に教えないし、仕事以外の付き合いもしないのが原則だが、シェリルはマークの手紙に心動かされる。

その前にマークから電話で誘われてお茶する場面では、マークの「もし今ここで古い友人にバッタリ会ったら、僕のことをどう紹介する?」と尋ねられて、「“夫”って言うわ。だってこれは“ごっこ”でしょ?」と答えるシェリル。




それを聞いてもマークは落胆するどころか嬉しそうに微笑む。

「障害者なのにあんな美人を連れてる、と思われるのが誇らしい」と。

僕はここで涙を禁じえませんでした。

繰り返しますが、これは身体にハンデを負った人に限った話じゃないですから。

世の中にはいろんな性にまつわる物語がありますが、あぁ、こういう愛や性の描き方もあるんだ、とちょっと新鮮な気持ちに。

つねに冷静であり、また夫を愛する妻、仕事は仕事としてきっぱり割り切ったシェリルが別れ際に車の中で見せた涙は、マークに対する愛情だったのか、それとも同情によるものだったのかはさだかではないが、セックスを解して生まれた「ある絆」であったことは間違いないだろう。

そういうことはある。

一緒に家庭を持つまでに至らなくても、“その人”とのあのひとときが人生においてかけがえのない一瞬であることが。

僕はなぜかイーストウッド監督・主演の『マディソン郡の橋』をちょっと思いだしたりなんかしました。

ちょうどマークが結婚まで申し込んだアマンダのカレシが障害を持つマークを「キモい」と言っていたように、他人から見たら二人の関係はキモチワルイだけかもしれないけれど、人によってさまざまな形の「愛」は存在する。

セックスを通したものもあればプラトニックなものも、友情や家族同士のような絆も。


僕はこの映画の基になった記事やシェリルさんの著書は読んでないからホントのところはどうだったのかわかりませんが、マークさんってスケベだったんだろうな、って思いましたよw

だって、ことの発端は彼が女性とエッチしたい、という欲望を持ったことなんだから。

ヘルパーのアマンダがポールダンスしてる、わかりやすすぎる妄想をしてみたりして(^o^)

生きる希望を失いかけた者がまず最初になくすのは性欲である。

でも、マークは一度として生きる意欲を失わないし、下半身はいつだって発情期。

シェリルさんの裸見ただけで果てちゃうし、アレがアソコに触れたら発射しちゃうし、頑張ったつもりでも持続時間が5秒だったりして悪戦苦闘なわけですが、シェリルが言うように「緊張しすぎて勃たない男性も多い」中で彼はいつもシェリルさんにムラムラしていて、それは精神的にも肉体的にも健常な男性なのだ。

亀頭が大きすぎると挿入時に女性器を損傷させてしまう危険が、という文章を読んでマークが取り乱す場面は笑ってしまった。

彼女が「大丈夫だから」と言ってんのにアセりまくったり、何かと言えば「君はイッた?」と聞いてきたり、あげくの果てにシェリルに「マニュアル本は読まないで」と叱られたりして。

「性」は「生」に直結する切実な問題であると同時に、しばしば滑稽でもある。

辛抱たまらずイッてしまったマークがそのたびにいちいち「うわぁー!!」と大騒ぎしたりすんのも可笑しくて。

いや、「一発いくら」とかじゃないんだから別にそんなにヘコまなくてもいいし、と^_^;

シェリルがマークの顔面に股間を押しつけての愛撫の練習でマークが呼吸困難になったり、ふたりとも大真面目にやってるだけにその涙ぐましい努力に観ていて肩が(笑いで)ワナワナ震えてしまった。

こうして性的に未熟であったマークは、シェリルから手ほどきを受けて一歩ずつ成長し、男性としての自信をつけていく。

シェリルはマークの家の壁にかけられた聖母マリアの絵のごとく、彼に生きる活力を与えてくれた菩薩のような存在だった。

これは医者や看護師と患者の恋、というある意味古典的な「ナイチンゲール症候群」を描いた物語でもあるのだが、実際に入院したり治療を受けていなくても女性に対してのこのような心理について心当たりのある男性は多いんじゃないだろうか。

恋人であり母でもある女性。

現実にそんなものを求められれば女性にとっては迷惑この上ないが、でも男性諸氏にはおそらくそういう女性は必ずといっていいほど存在する。

すいません、僕はいろんなことが走馬灯のように頭の中でグルグルと回って(^▽^;)

マークはアマンダを愛したが、彼女はマークを恋愛対象として見ることはできなかった。

続いて、彼が童貞を喪失することになったセラピストのシェリルは、けっして愛することができない女性だった。

彼女は患者すべてを愛する人だ。

逆にいえば誰も愛してはいない。だって既婚者だしプロの先生なので。

マークが求めたのは、自分が全身全霊をこめて愛せる人、そして自分を愛してくれる人、互いに愛しあえる存在だった。

マークの告白を教会で聴く神父役のウィリアム・H・メイシーの表情がたまらなくいい。




教会の神父というと教義でがんじがらめの人物かと思えば、この人はビールも飲むし人間の当たり前の欲求である性欲に関しても寛容で、相談を持ちかけたマークに対してもセラピーを受けることに賛成し、その経緯についてもいつも気にかけてくれている慈愛に満ちた「父」である。

「ハグしてください」と言われてマークを抱きしめる神父。

抱きしめられることでマークは勇気と安心感を得て、新たな世界に踏み込む。

映画を観ている限りにおいてはマークは両親と死別したのか、それとも意識的に一人暮らしを選択したのかはわからないが、シェリルと神父が彼の両親の代わりを果たしてくれているのは確かで、彼らの後押しによってマークはついに「大人」の男性として女性を愛せるようになる。


シェリルとはあと2回のセッションを残してセラピーは終了となるが(実際にはシェリルとはマークが亡くなる99年まで親交があったようだが)、マークは「母親」から巣立って成長した。

ある日、停電で家の電気が止まってしまい、彼が入っている人工呼吸器“鉄の肺”も停止。

この機械が動かなければマークは呼吸できない。電話でヘルパーに連絡を入れ、救急車を呼ぶマーク。

幸い救助されて病院に収容されたが、そこで知りあったボランティアの女性スーザンを回復したマークは早速クドく。

「私はボランティアで、セラピストじゃないから」と戸惑うスーザンに、「セラピストとは愛しあえない」と言ってなおもコクりまくるマーク。

同じベースボール・ファンだったことから惹かれあうことになったふたりは、マークが亡くなるまで人生のパートナーとしてともに生きることになる。

わずか90何分かの間に、童貞だった青年が一気に僕を追い越してはるか彼方へ行ってしまったこの映画を観て、別の理由で涙を禁じえないのですが。


クドいけど、マークさんはエロかったんだと思いますよσ(^_^;)

好きな人とエッチしたくてタマランかったのだ。

彼はそのチャンスを自分の力で掴み取った。

セックス・サロゲートのシェリルとの出会いがそのきっかけだった。

「これからセックスします」と友人やヘルパーたちに公言して彼らの協力のもとに事に及ぶ、というのはなかなかにして大胆というか、スゲェな、と。

ヘルパーの女性たちも綺麗で魅力的な人たちだし(おっさんもいますが)、なんたって場所は友人のカルメンに貸してもらった家ですし。

 


カルメンがうっかり約束を忘れてパーティやってて、しかたないので近くのモーテルでセラピーを行なうとことか、臨機応変というか、傍から見れば「あいつら何やってんの」って感じなんだけど、本人は真剣そのもの。

だって、女性と愛しあうことはすなわち生きることでもあるのだから。

大好きな人と愛しあうことができたからこそ、子どもの時に「病院に入院すれば大人まで生きられない」と言われた彼は恋人と出会って5年後の49歳まで生きられたのだ。


マークさんとスーザンさんご本人たち

享年49というのは短い生涯に思えるけれど、人生を「コップにまだ半分水が残っている」と考えるか「半分しか残っていない」と考えるか。

マークは前者を選んだのだろう。

彼はみずからの手で不可能と思っていたことをやり遂げて、日本中の童貞やチョンガーが泣いてうらやむ人生を送った。

そして彼には、涙を流して別れを惜しんでくれる人たちがいた。

こんな最高な生き方があるだろうか。


これはまた、カトリック教徒であるマークの“神”への挑戦でもある。

マークは創造主を「僕のような人間を作ったユーモアのある神」と形容する。

自分は生きている意味がないのではないか、という思いをつねに胸に抱きながら生きていたマーク。

彼が愛しあう人とめぐりあって充実した人生を送ることは、そんな“神”からの仕打ちへの精一杯の抵抗、自己主張だったのだろう。

『最強のふたり』の主人公が家族との間に複雑な感情を持っていて(彼の場合は事故によって障害を負ったということもあるが)、ゆえにどこか他者に期待しない諦めの気持ちで自分を覆っていたのに対して、マークは障害がある自分のために人生を捧げてくれた両親への感謝の念がある。

彼は親の温かい愛に包まれ、人を信じられる心を持っていた。

それこそが彼が友人や仲間たちから愛された理由なんだろうけれど、『最強のふたり』の主人公フィリップもマークも「人を愛することへの欲求」が彼らの生の原動力だったということでは共通している。

そして愛しい人に“愛の言葉”を贈るところも。

マークがシェリルに送った手紙に書かれていた詩は、そのまま彼の生涯の恋人となったスーザンへ贈られた。

それはまさに、あふれんばかりの想いがほとばしった言葉であった。

この映画でマークの詩が数多く引用されることはないし、英語がわからない僕には最後に朗読されるその詩の本当の意味はわからなかったけれど、僕の言葉で君に触れよう 優しく愛撫するから…という彼の詩は、詩人である彼はたとえ肉体的に彼女に触れることはできなくても“言葉”によって感じさせたい、という願いがこもっているように感じられた。

かつてシェリルが両方の乳房をマークの手に押し当てたあの時、髪や頬を撫でてくれたあの手、互いに触れあい、感じあったあの瞬間の恍惚、愛おしさ…ついにその喜びを得て世を去ったひとりの男性の物語に、僕は涙をこぼさずにはいられないのだ。



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