監督:クリス・バック、ファウン・ヴィーラスンソーン、声の出演:アリアナ・デボーズ、クリス・パイン、アラン・テュディック、アンジェリーク・カブラル(アマヤ王妃)、ヴィクター・ガーバー(祖父サビーノ)、ナターシャ・ロスウェル(母サキーナ)、ジェニファー・クミヤマ(ダリア)、エヴァン・ピーターズ(サイモン)ほかのディズニーのアニメーション映画『ウィッシュ』。

 

どんな願いもかなうと言われているロサス王国。魔法を操り国を治めるマグニフィコ王は、国民から慕われているが、お城で働く17歳のアーシャは、ある秘密を知ってしまう。それは、人々の願いがかなうかどうかを王が決めていること、王は国のためになる願いだけをかなえており、国民が王を信じてささげた願いのほとんどはかなえられることがないということだった。王国の秘密を知ってしまったアーシャは、王を信じて託した人々の願いを救いたいと、夜空の星に祈る。すると、空から魔法の力をもった願い星のスターが舞い降りてくる。スターの魔法によって話すことができるようになった子ヤギのバレンティノやスターとともに、アーシャはみんなの願いのために奮闘する。(映画.comより転載)

 

ネタバレがありますので、これからご覧になるかたは鑑賞後にお読みください。

 

ディズニー創立100周年記念作品。長篇アニメ作品62作目。

 

僕は日本では2011年に公開された『塔の上のラプンツェル』以降、これまで『くまのプーさん』(2011) を除く全作を劇場で観てきたのですが、去年の『ストレンジ・ワールド/もうひとつの世界』はスルーしてしまって、だからディズニーアニメを観るのは2021年の『ミラベルと魔法だらけの家』から2年ぶり。『ミラベル~』は少し前にこの『ウィッシュ』公開記念として金曜ロードショーで放送されていましたね。

 

結構早い時期から流れていた予告篇を観るとおなじみのヒロイン物のようだし、だから久しぶりのディズニー作品を楽しみにしていました。

 

毎度、けっしてすべての作品を大絶賛というわけではないけれど、でもこうやって観続けてきたのはやっぱり面白いと思っているからで。

 

今回の作品の特徴として気になっていたのは、この10何年もの間、ディズニーの長篇アニメは3DCGで描かれてきたのが、『ウィッシュ』では3Dでありながらもキャラクターや背景の美術などが2Dっぽいテクスチャになっていて一見すると従来のセルアニメ的な質感であること。

 

だから、見た目が昔のアニメと最新の3Dの融合のようで新鮮でした(すでに『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』が似たようなことをやってはいますが)。

 

 

 

 

『ミラベル~』までは、描かれた絵が立体に見えること、実際にそこに存在しているように見えることを目指していたと思うんだけど、『ウィッシュ』はむしろ以前のように「絵」であることを強調していて、その表現の違いが面白かった。

 

3DCGによるアニメはいったん行きつくところまで行ったということでしょうか。次はそこに変化をつけよう、と。

 

ラプンツェルやアナ雪にしても、すでに3Dアニメには慣れてきていたから抵抗はなかったけど、今後ディズニーの長篇アニメはこの手法で描かれていくんでしょうかね。それとも今回だけの試みなのかな。

 

さて、他の地域ではどうなのかわかりませんが、僕が住んでるところでは字幕版は2館のみで、しかも上映回数も非常に限られているため、時間の都合もあってドルビーシネマ(12/28まで)で鑑賞。普段なら新作を2本観てお釣りがくる金額のチケット代(2700円!)はかなりフトコロが痛かったですが、座席にも余裕があってクリアな映像や音響で楽しめたから、まぁ、いいか。

 

 

 

『ウィッシュ』の前には短篇が上映されました。『ワンス・アポン・ア・スタジオ -100年の思い出-』。

 

 

舞台は米カリフォルニア州バーバンクにあるウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ。ここで生まれた数多くのディズニーアニメのキャラクターたちが集い、ディズニー100周年の記念写真を撮ろうとする。(映画.comより転載)

 

こちらは日本語吹替版で、日本語の字幕が付いている。

 

ミッキーマウスが呼びかけて、みんなでスタジオの前で記念写真を撮ろうとする。

 

たくさんの新旧歴代ディズニーアニメのキャラクターたちが登場して、しかも各自がかつての作品の中の彼らのデザインに忠実に描かれていて、手描きだったり3Dだったり、最新作『ウィッシュ』の主人公・アーシャもいれば『アラジン』のアラジンやジーニー、ピーター・パンやモアナ、『リロ・アンド・スティッチ』のスティッチだとか、おびただしい数のキャラクターたちが勢揃い。

 

 

 

 

 

また、過去作のアーカイヴからでしょうね、すでにお亡くなりになっている日本の声優さんたちの声も使われている。

 

吹替版で観る意味がしっかりありますね。

 

ミッキーが創業者ウォルト・ディズニーの写真の前で目を潤ませるところは、ウォルトさんはいろいろ毀誉褒貶のある人物だけに微妙な気持ちにもなりましたが、まぁ、でも歴代作品のオールスターキャストでスタジオの創立100周年を祝う、というのは粋な演出だし、「また100年後に集まろう」と言って別れていく彼らの姿にやはりちょっと胸が熱くなったな。

 

おなじみのキャラクターたちとともに僕が見たこともなくて作品も知らないキャラクターもたくさんいて、ディズニーの長い歴史を感じさせてくれました。

 

僕自身はディズニーアニメを意識して観るようになったのはこの10何年ほどだし、熱烈なファンというわけではないですが、それでも同スタジオがこれからもまた素敵な作品を送り出し続けてくれることを願っています。

 

そして、『ウィッシュ』。

 

主人公・アーシャの声はスピルバーグ監督の『ウエスト・サイド・ストーリー』でアカデミー賞助演女優賞を獲得したアリアナ・デボーズ。また、アーシャたちが住むロサス王国のマグニフィコ王の声をクリス・パインが演じています。

 

 

 

 

予告の時点で、すでに登場キャラクターの立ち位置、つまりヴィラン(悪人)かどうか、といったことがわかるような見せ方だったので、う~ん、また悪役が出てくる物語なのかなぁ?と思ったんだけど、そのままでしたね。

 

昔々のお話、王国、魔法、ヴィラン。

 

今までに何度も描かれてきたような物語。

 

その「ありがちな物語」をどのようにアレンジするのか、どんな新しい要素を入れて描くのか、ということが重要だと思うんですが。

 

あとで触れるように、多少、それは実現している。

 

…う~ん、でもなぁ。

 

いや、この映画を楽しまれたかたがたも大勢いらっしゃるだろうから、断言調に決めつけるつもりはないですが、個人的にはだいぶ物足りなかったなぁ。最初に述べたように、映像の面では新しいことをやってたからそこは見どころではあるでしょうが。

 

ロハス…じゃなくてロサスはイベリア半島の沖合にあって世界中からいろんな人々が集まってきた王国、という設定だし、アーシャの声を担当するアリアナ・デボーズさんはプエルトリコ系やイタリア系、アフリカ系の血を引いているそうで、アーシャや彼女の母親の髪の形や肌の色などからもデボーズさんのルーツに近いのだろうし、一方でアーシャの父方の祖父は白人っぽい。亡くなった父もはっきりとはわからないが、おそらく肌の色は祖父に似ているんでしょう。

 

このおじいちゃんが最後に奏でる曲が…♪

 

国の人々もさまざまな顔立ちで、またアーシャの親友でクッキー作りを担当しているダリアは杖をついている。

 

ダリア役のジェニファー・クミヤマさんは実写映画『セッションズ』に出演していたけど、彼女自身、普段から車椅子を使用している。

 

そういう部分では「多様性」を意識しているのはわかるし、さまざまな属性の人々が作品に参加して登場人物にそれが反映されるのは歓迎なんですが、いろいろと揶揄されるようにそれがただの「やってる感」に見えてしまうともったいないわけで。

 

アニメに限らずマーヴェル映画にしてもそうだけど、最近のディズニー関連作品はマイノリティ(少数者)や女性の描かれ方、劇中での扱われ方に「やってるフリをしてるだけなのではないか」という批判も出てきているので、そこはもうちょっと物語の内容と絡めてほしいところではある。

 

…いや、女性にしてもマイノリティにしても、そこにいるのが当たり前、というふうに描いてこそだろう、という意見もあるから、あえていちいち彼らの存在に理由をつけたりしない、ということなのかもしれませんね。「杖をついてること」に別に“意味”なんかなくて、だって普通にどこにでもそういう人はいるから、と。

 

なので、今はまだそれが「普通」「当たり前」になる前の、作る側だけじゃなくて観る側も慣れていく段階、過渡期なのかもしれない。

 

ただ、映画が面白ければどんな属性の登場人物が出てきたって気にならないんだけど、そこで描かれる物語やキャラクターたちのやりとり、ドラマに魅力を感じられなければ、やれ「ポリコレがー」「コンプラがー」と文句を言われてしまう。

 

これは、もともとは人々の「願い」をかなえるために国を作った男がやがて独裁的な思考に取り憑かれて彼らを支配するようになり、一人の少女がそれに疑問を持って声を上げる、というお話で、それって今いろんな国で為政者たちに言えることでもあるから(もちろん日本だって例外ではない)、題材としてはありきたりでも描きようによってはとても共感できて入り込めるものになると思うんですよね。

 

だけど、本作品のヴィランであるマグニフィコ王がもう最初から悪役然としてるしキャラクターとして浅くて薄過ぎるので、理想に燃えていた人物が堕ちてしまった、というふうに見えなくて。

 

もっとマグニフィコのキャラクターを深く掘り下げるべきだったんじゃないだろうか。

 

善良で人のために尽くそうとしていたはずの彼が次第に国政や国民たちに失望して、誘惑に負けて怠惰になっていく過程を端折ったために、昔ながらの単純な悪者以上ではなくなってしまっていて、そうするとそんな男を倒すことはただの予定調和の勧善懲悪でしかなくなる。

 

この映画の前に続篇の予告が流れたピクサーの『インサイド・ヘッド』や今年の夏に公開された『マイ・エレメント』ではもはや悪役は登場せず、もっと高いレヴェルのお話をやっていたし、現時点でのディズニーの到達点といえる『ミラベル~』も同様で、悪い奴を倒してめでたしめでたし、なんてことをやらなくても主人公の挫折や成長、キャラクター同士の「ドラマ」は描けることを証明してもいた。

 

なぜ2023年の今、ディズニー創立100周年の記念すべきこの時にこんな「やっつけ」みたいなシナリオで作品化したのか、ちょっと理解できない。シナリオが雑過ぎやしませんか?

 

クリス・バック監督は「アナ雪」シリーズの人だし、脚本に参加しているジェニファー・リーさんも「アナ雪」の共同監督と脚本、『シュガー・ラッシュ』の脚本などにもかかわっているのに、このスカスカぶりはどうしたことだろう。

 

逆に、あえて再びヴィランを登場させるならば、そこにちゃんと大きな意味を込めるべきでしょう。

 

そして、マグニフィコはけっして特殊な人間ではなくて誰もが彼のようになりうるし、だからこそ自分自身の「選択」が大事なのだ、という結論になるはず。

 

そういう物語を描くことは可能だったと思う。

 

そのためには、主人公であるアーシャの中にある弱さや隙についても触れなければならないだろうし、彼女が失敗して友人たちの心が離れそうになる展開も必要だろう。

 

この映画は、特別な力を持った主人公がみんなを救うのではなくて、彼女の声に応えて大勢の人々が歌声で圧制者に立ち向かうという結末だった。

 

また、アーシャは恋をしない。恋人になりそうな人さえも登場しない。彼女は最後にお姫様にはならない。

 

お姫様は別に登場して、それがマグニフィコの妻であるアマヤ王妃なんだけど、夫を愛するがゆえに彼の抱える問題に目をつぶってきたアマヤは、やがてアーシャとともにマグニフィコに反旗を翻す。

 

 

 

従来の物語の「お姫様」の型から抜け出したアマヤもまた、彼女のこれまでの生き方、価値観が覆される過程をもっと丁寧に描き込めば、より魅力的なキャラクターになったでしょう。

 

アーシャの友人たち(画像がみつからん)がやたらと人数が多いけど一人ひとりのキャラが立ってなくて、くしゃみさせたりしてキャラを立たせようとはしているが彼らはさほど活躍しないし、その特技や特徴が物語に寄与することもなくて、ほとんどモブに近い扱いだったのも残念だった。

 

属性でキャラクターを型にはめたくない、ということかもしれませんが、だったら『ズートピア』のようにそれを逆手にとって登場人物たちを個性的に描くことだってできただろうと思う。ステレオタイプを避けるためにキャラクターたちの個性が死んでしまったら、本末転倒ではないか。

 

アーシャがいつも連れている子ヤギのバレンティノは予告でも可愛かったし、でも人間の言葉を喋るとイケボ(中の人は、ペットやロボットなどの声の吹き替えでおなじみのアラン・テュディック)、というのもディズニーではお約束っぽくて楽しいんですが、彼と空からやってきた願い星“スター”のキャラがカブってるというか、スターがあまりに目立ち過ぎててしかもオールマイティなので、せっかくのバレンティノの活躍の場が奪われてしまっていたように感じた。

 

 

 

 

君たちはどう生きるか』に出てきたようなスターのデザインがまるで日本のアニメのキャラみたいで、少々違和感が。これも「多様性」?^_^;

 

だけど、おいしいところは全部スターが持ってっちゃったみたいな感じで、アーシャが自力で頑張っているようにあまり見えなかったもんなぁ。

 

この“スター”というキャラクターは「ディズニーアニメ」を象徴する存在として登場したのだろうし(この“星”が映画の最後にどうなるか見ていればわかる)、だから目立たせたかったんだろうけど、スターがスゴい力を発揮する場面は、ここぞ、というところだけに限定した方がよかったんじゃないかなぁ。もっとダリアと友人たち一同に出番をあげてほしかったし、言葉を喋るようになった動物たちも、そのことにそんなに大きな意味を見いだせなかった。

 

 

 

偉い人に黙って従うのではなくて、自分で考えて自分の言葉で話す。「願い」は誰かに管理されて国のために役に立つからかなえてやるとか、役に立たないからかなえてやらないとか勝手に決めつけられるんじゃなくて、一人ひとりの胸の内で自由に育てたり、実現させようとするもの。

 

自分の「願い」を渡してしまったためにマグニフィコに操られてしまうサイモンの姿に、現実のこの世界の怖さを重ねることもできる。

 

伝えようとしているメッセージは今とても大切なことだから、それをもっとうまく「物語」の中に落とし込んでくれていたら、あるいは、その既存の「物語」を打ち破るぐらいのキャラクターたちの魅力で見せきってくれたら、この作品はずっと感動的になったと思います。

 

ミュージカル映画として作られていたのは嬉しかったし、アリアナ・デボーズさんの歌声もよかったから、けっして「つまらなかった」の一言では済ませたくはないし、アーシャやバレンティノはあっさり忘れてしまうには惜し過ぎる。

 

でも、「同時上映の短篇の方が面白かった」という感想を書かれてしまうのは、やっぱり残念。

 

 

 

101年目からディズニーさんにはまた気張ってもらいたいな。

 

『ミラベルと魔法だらけの家』を作れたんだから、きっとまた素晴らしい作品を生み出してくれるだろうと期待しています。

 

 

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