監督:バイロン・ハワード、ジャレド・ブッシュ、声の出演:ステファニー・ベアトリス、マリア・セシリア・ボテロ、ジョン・レグイザモ、ダイアン・ゲレロ、ジェシカ・ダロウ、ラヴィ・キャボット=コニャーズほかのディズニーのアニメーション映画『ミラベルと魔法だらけの家』。

 

日本語吹替版の声の出演:斎藤瑠希、中尾ミエ、中井和哉、平野綾、ゆめっち、木村新汰ほか。

 

コロンビア。まわりを高い山々に囲まれた谷エンカントに建つ家「カシータ」に住むマドリガル家では、そこで生まれた子どもたちは家から“魔法のギフト”を与えられて、その力を家族や町のために有効に使っていた。ただ、マドリガル家の三姉妹の末娘ミラベルは“魔法のギフト”を得られず、みんなのために働けないことを内心悩んでいた。ある日、従弟のアントニオがギフトを授かる儀式のあとで、ミラベルの目の前で家中の壁にヒビが入り、けっして消えないはずの魔法のロウソクの炎が消えそうになる。

 

物語の内容について触れますので、これからご覧になる予定のかたはご注意ください。

 

なお、『アナと雪の女王2』のネタバレも含みます。

 

塔の上のラプンツェル』『ズートピア』などの監督バイロン・ハワードと、やはり『ズートピア』で共同監督を務めたジャレド・ブッシュの最新作。ディズニー長篇アニメーション映画60作目。

 

ディズニーアニメは今年3月に『ラーヤと龍の王国』が公開されたけど、早くも11月にその次の作品ということでなかなかディズニーづいてますが。その代わり、ピクサーの方は去年の『ソウルフル・ワールド』に続いて『あの夏のルカ』もDisney+での配信のみだったので僕は観られず、来年劇場公開予定の作品までおあずけ。

 

映画の上映前に来年7月公開予定のピクサー作品で「トイ・ストーリー」シリーズのスピンオフ『バズ・ライトイヤー』の予告篇をやっていて、まるで「きれいなジャイアン」みたいな顔した主人公バズに吹きそうになりながらもデヴィッド・ボウイの歌にちょっとウルッとなって、これは絶対劇場で観たい、と思ったのでした。頼みますよ、ピクサーさん。ちゃんと映画館でやってね。

 

 

 

さて、『ミラベル』の前に上映されたのが短篇作品『ツリーを離れて』。監督はナタリー・ヌリガット。

 

 

浜辺にやってきたアライグマの親子。まだ小さな子どもの方は好奇心旺盛で夢中でそこら中のモノに手を触れたり無警戒で走り回ったりして親から厳しく注意される。恐ろしい捕食動物に襲われて顔に傷を負った子アライグマに、親アライグマはかつて自分もそうやって片目を失ったことを教える。やがて同じ浜辺を訪れた成長した子アライグマは自分の子どもに親からの教えを伝えて、木の上で親子で寄り添い合う。

 

今ではディズニーやピクサーのアニメ作品ではおなじみの3DCGアニメではなくて昔ながらの手描き風の2Dアニメとして作られていて、登場するアライグマや鳥、キツネ(オオカミだったかな?)など動物たちは過度に擬人化されてなくて人語も話さず、自然の動物っぽさを残している。

 

その一方で、子どものアライグマが目に溜める涙の表現に日本のアニメを思わせるところがあったり、どこか懐かしくてなんとも愛らしい一篇となっている。

 

『ミラベル』の方は3DCGだから両作品の見た目の違いもいいアクセントになっているし、ディズニーでは2Dアニメのノウハウもけっして失われていないのがわかって嬉しかった。

 

ぜひ、今後もこういうタイプの作品も作り続けてほしいなぁ。

 

そして、『ミラベル』。

 

前作『ラーヤ』は僕が住んでるところでは字幕版がやってなかったので日本語吹替版を観たんですが、今回は1館だけ字幕版をやってるところがあってそこで観ようと思ってたら、一日わずか1回の上映で時間が合わず、やむなく最寄りのシネコンで吹替版を鑑賞。

 

できれば、あらためて字幕版でも観たいんですが。

 

音楽は『モアナと伝説の海』のリン=マニュエル・ミランダ。

 

リン=マニュエル・ミランダは、今年は実写のミュージカル映画『イン・ザ・ハイツ』の音楽も手がけたり、今年度のアカデミー賞主演男優賞ノミネートの呼び声も高いアンドリュー・ガーフィールド主演のこれもミュージカル映画『Tick, Tick... Boom!:チック、チック…ブーン!』(あいにくこちらではまだ劇場で公開されていないので僕は観ていないし、今後上映されるかどうかも現時点では不明ですが)では、なんと監督を務めてもいて、ほんとに大活躍ですね。

 

まず『ミラベルと魔法だらけの家』を観て感じたのは、日本では2018年に公開されたピクサーの『リメンバー・ミー』と似てるなぁ、ということ。

 

全篇ほぼ白人らしき人物ばかりが登場する『ラプンツェル』や『アナ雪』と異なって、『ミラベル』の登場人物たちはラテン系の人々だし、これまでのディズニーアニメよりもむしろピクサー作品に近いものを感じる。ミラベルの顔立ちはちょっと『トイ・ストーリー3』と『』の少女ボニーに似ているし。

 

 

ストーリーが似ている、というよりも、舞台がラテンアメリカ(『リメンバー~』ではメキシコ、『ミラベル』はコロンビア)で、大家族が出てきて主人公と祖母の関係が描かれて「家族の絆」がキーワードになっていることが共通している。

 

ラテンアメリカの人々は家族同士や地域との結びつきが強いということなんだろうし、そこに含まれる問題点と、でも親子やきょうだい、人と人との関係はけっして疎かにできない、ということをこれらの作品の中で訴え続けている。

 

実際にアメリカにはラテンアメリカにルーツを持つ人々は大勢いるわけだし、だから今こうやってあちらの人たちを描いた作品がたくさん作られているのも、そのまま現実の世の中を反映しているんですね。

 

僕個人はいつもまわりに家族や大勢の人たちがいて賑やかな環境というのは無縁だったし、そういう生活には馴染めないんで「大家族」を描いた物語って共感を覚えたり憧れることがないんですが、でもフィクションの中のそういう世界を見ることで現実の社会の「大家族主義の人々」のものの考え方や行動原理を知ることができるのは面白いな、とは思います。

 

 

 

ああやって子どもの頃から自分以外の人の間で揉まれながら人間関係についていろいろと学んでいくんだな、と。

 

家族が多いっていうのは、その一人ひとりに丁寧に目が行き届かないということでもあって、だから時にはきょうだいの中でもないがしろにされがちな者も出てくる。

 

あるいは、身近だからこそわかっていると思っていた相手のことを実はちゃんと理解していなかった、と気づかされたり。

 

それは、まぁ、大家族に限らないでしょうが。

 

ところで、『プリンセスと魔法のキス』や『2分の1の魔法』など、ディズニーやピクサーの邦題にもたまに用いられるし、それ以外の日本製のアニメ作品にもしばしば使われている「魔法」という単語ですが、あまり多用するのはちょっと芸がなさ過ぎやしないだろうか。ちなみに前述の2作品の原題も『ミラベル』のそれも邦題とは違ってて「魔法」という言葉は使われていない(『ミラベル』の原題は“Encanto”)。

 

まぁ、この『ミラベルと魔法だらけの家』という邦題は、物語の内容がそのタイトルから思い浮かぶ先入観を覆すような役割を果たしているので、かえって効果的だったといえるかもしれませんが。

 

予告篇を観た時に、ミラベルと次姉ルイーサがケルベロスのような三つ首の巨大な犬に立ち向かっていたり、ルイーサがミラベルを抱いて空を飛んだり、従弟のアントニオが虎にまたがって大きな木を登っていくショットが続くので、これは主人公がちょうど『2分の1~』の兄弟のように冒険の旅に出るお話なのかと思っていたんだけどそうじゃなくて、映画の舞台となるのはマドリガル家の人々が住む家の中とその周辺だけで、ミラベルは「エンカント」と呼ばれる谷を出ることはないし、先ほどのルイーサとの冒険風イメージは彼女が唄うミュージカルシーンのもので作中の現実に起こったことじゃなかった。

 

『ラーヤ』や『アナ雪』が主人公たち一行が“外”にむかって出かけていく物語だったのに対して、この『ミラベル』は家族の“内側”を見つめる物語。「家族」の象徴としての「家」。

 

 

 

もちろん、ファンタスティックな要素はあるんだけれど、日常と地続きで、こういうのを「マジック・リアリズム」って言うんでしょうかね。

 

すごく面白いな、と思ったのは、この映画が『アナと雪の女王』とはまったく正反対のような作りになっていること。

 

魔法の力がまるで「呪い」のように描かれて、周囲に溶け込めないエルサが人々から追われる『アナと雪の女王』の1作目に対して、『ミラベル』では逆に魔法は“ギフト”で子どもたちみんなに与えられるものとされていて、でもその力のないミラベルが悩む、というもの。

 

ここでの「魔法」は役立つ特技のようなもので、ジブリの『魔女の宅急便』の主人公キキがホウキで空を飛べる能力みたいなもの。

 

ルイーサが自分の怪力が失われると家族の中で自分には価値がなくなってしまうのではないか、と恐れるのは、キキが不調になって空を飛べなくなるくだりを思わせる。

 

僕は『アナ雪2』の感想の中で、かつてエルサとアナの祖父が犯した大罪が最後にエルサの超常的な魔法の力で帳消しにされてしまう作劇を批判したんですが、『ミラベル』はその僕の批判に応えるような形で「魔法」を扱っていた。

 

主人公たちの危機を最後に便利な魔法が救ってくれることはなくて(魔法の家「カシータ」は崩壊して、消えないはずのロウソクの炎は消えてしまう)、お互いにすれ違った気持ちをもう一度寄せ合って“ハグ”することで、ヒビ割れ崩れてしまった「家」が再び元に戻る。

 

エンカントの他の家の人々もただのモブのままで終わっていない。彼らはマドリガル家の魔法に助けられっぱなしでいるのではなくて、今度は一緒になってマドリガル家の「家」を再建する。

 

みんなで助け合い協力し合って、ともに汗を流して築いた「家」。

 

アントニオに差し出されたドアノブをミラベルがブルーノに促されてドアに取り付けて廻すと、魔法の家「カシータ」は蘇った。ミラベルが与えられた“魔法のギフト”はこれだった。

 

 

 

従来の「魔法モノ」と順序が逆なんですね。魔法の力で最後に奇跡が起こるのではなくて、「愛」の結果としてまるで魔法のような“奇跡”に繋がる。それは現実に起こり得る。

 

ここでの「愛」とは、相手の本当の気持ちに耳を傾けて「ありのままの」その人を抱きしめること。重荷を一人で抱え込むのではなくて、分かち合い、手を差し伸べ合って互いを信頼し合うこと。

 

ミラベルとは仲が良くない長姉のイサベラはなんでも完璧を求められてそれに必死に応えようとして本当の自分を押し殺していたし、一見すると剛健で頼りがいのあるルイーサもまた自分への期待を一身に背負って押し潰されそうになっていた。

 

家族の中で異端視されて「家」から失踪したはずの“おじ”のブルーノは実は「家」の中の隠し部屋に閉じこもっていて、彼の母、そしてミラベルの祖母であるアルマに受け入れられることを望んでいる。

 

それはミラベルが祖母に求めていることでもある。

 

その祖母アルマはかつて故郷を追われ家を失って、逃れる途中で夫の命も奪われたために家族を守り存続させることに固執するあまり、その家族一人ひとりの気持ちを考えいたわることを忘れていた。

 

誰にも事情があって今の自分がある。倒されるべき“悪者”はいない。

 

別れてもまた戻ればいい。奇跡は魔法じゃない。

 

また、映画の中でミラベルは恋をしないし(恋愛そのものは否定しないが、劇中ではその役割は従姉妹のドロレスが担う)、プリンセスにもならない。

 

これまでもディズニーアニメで「プリンセスにならないヒロイン」はいたけれど(『ズートピア』のジュディはほんとに例外中の例外だが、ただし彼女は人間ではなくてウサギ)、王子様と出会ったり、結婚したり、一族の長の娘だったり、結局のところ彼女たちの多くは特別な存在だった。

 

特殊な能力を持つことでヒロインとしての役割を果たし、価値ある存在と見做されてもきた。

 

それに比べて、ミラベルは圧倒的に「普通」の女の子なんですね。

 

最初に予告でミラベルを見た時、それこそラプンツェルやエルサ、アナのような絵に描いたような美人顔ではないことが新鮮で、まるで脇役の一人のような彼女の容姿にはきっと意味が込められてるんだろうなぁ、と思った。

 

 

 

 

『ズートピア』の感想で、僕は“いつかディズニーアニメで「美形ではないヒロイン」が登場したら、その時はディズニーが何かほんとに大きな進化を遂げたことになると思う”と書いたのだけれど、もはや「プリンセス・ストーリー」ではない『ミラベルと魔法だらけの家』はまさにディズニーアニメの新しいフェーズの始まりといえるんじゃないだろうか。

 

「美人じゃない」とか勝手に決めつけてますけど、ミラベルを「美人」だと思うかどうかは観る人によってさまざまだろうし、表情が豊かでユーモアのセンスも持ったミラベルは魅力的な女性として描かれている(眼鏡っ娘だしw)。

 

ルイーサに力一杯抱きしめられて顔が潰れそうになったり、「儀式」の前に怖気づくアントニオを元気づけたり、姉たちの前では妹っぽくて、子どもたちの前ではお姉さんっぽいところとか、ほんとに近所に住んでる娘さんのような存在感がある。

 

映画を観ているうちにどんどん彼女が可愛く見えてくるんですよね。

 

いつも取り澄ましたような態度だったイサベラに自由に自分が望む生き方をすることを促すのもミラベルだし(この姉と妹の関係はエルサとアナっぽいですね)、ルイーサの悩みを聞いて彼女の重荷に気づくのも、ブルーノをみつけてアルマとの再会のチャンスを作るのもそう。

 

特別な魔法なんていらない。魔法のギフトを持っているからその人に価値があるのではない。そこに存在していること、それが愛おしい。

 

コロナ禍でこれまで以上に家族とか人と人との繋がりの大切さについて考えさせられることが多くなった現在だからこそ、今一度立ち止まって思い返してみる必要がある。

 

何が一番大切なのだろう、と。

 

ミラベルの両親がミラベルには優しく声をかけるのに長女や次女と親しく接してる場面がないのが奇妙だし、劇中でミラベルが姉たちにやってあげていたことはほんとは親たちの役割なんじゃないの?とも思ったけど。

 

 

 

『リメンバー・ミー』でも祖母の発言力が強くて、その娘夫妻=主人公ミゲルの両親の存在感が希薄なのが気になったんだけど、『ミラベル』にも同じような疑問を抱いた。親、もっとしっかりせぇよ、と。

 

あちらは女系家族で、だから祖母の力が強いんだろうけど、その娘であるミラベルの母親がなんだかずいぶんと大人しいんですよね。彼女の娘たちはそれぞれ個性的でインパクトがあるのに。

 

その母の穏やかさ、普通っぽさをミラベルは受け継いだのかもしれませんが。

 

ナオト・インティライミが唄うエンディングテーマはオリジナル言語版の劇中歌の日本語Ver.だけど、なかなかよかった。

 

 

 

ナオト・インティライミさんってこういう歌声だったんだな。なんか久々に彼の歌を聴いた気がする。

 

ひと頃、ご本人とは関係なくその名前の響きの面白さだけでネット上でやたらとイジられてたけど、あれはもう収まったんでしょうか。

 

吹替版のミラベル役の斎藤瑠希さんのハキハキとした声と喋り方はアニメ版『時をかける少女』の仲里依紗さんを思わせて聴いていて気持ちよかったし、声の演技も達者でした。ミラベルの性格とよく合ってたと思います。

 

アルマおばあちゃん役の中尾ミエさんは台詞の喋り方に癖があってわりと気になったんだけど、やはりアルマの気品がありながらもどこか距離を感じさせるキャラクターにマッチしていて、絶妙なキャスティングだったのではないかと。

 

『イン・ザ・ハイツ』は大好きな映画になったし、来年2月にはスピルバーグが監督した『ウエスト・サイド・ストーリー』も公開予定で、ラテンアメリカの人々と音楽やダンスは相性がいいから楽しみにしていたのが、正直、最初のうちは無理やりミュージカルシーンを入れているようにも感じられてしまったのと、アナ雪ほどには挿入歌に夢中になれなかったですが、それでも徐々に慣れてきて耳が心地よくなってきました。

 

もう一度観たら、さらに曲の方ももっと好きになれるかな。

 

ピクサー作品との違いが限りなく曖昧にありつつあるディズニーアニメは、これからどのような地平を目指していくのでしょうか。

 

 

※追記:

 

その後、字幕版を鑑賞。一日1回の上映だし週末ということもあって、客席はそこそこ混んでました。

 

…いやぁ、1回目以上に楽しめたし、もうお話は知ってるのにクライマックスでは涙ぐんでしまった。

 

吹替版もよかったですが、特にローカル色が強い作品ってオリジナル言語版の台詞や歌詞の中にはところどころ現地の言葉──今回ならスペイン語が混じっているので、よりリアリティが増すんですよね。

 

 

 

 

2回観たら歌ももっと好きになった。やっぱり『イン・ザ・ハイツ』を思い出したなぁ。ミラベルが「おばあちゃん」のことを「アブエラ」って言ってるのがわかったし。

 

クルクル変わるミラベルの表情(でも、彼女のとてもかすかで繊細な表情の変化も丁寧に見せている)も賑やかなダンスも一層可愛く感じたし、今回観たシネコンでは映像がスクリーン一杯に広がっていて、また音響も重低音がよく響いたので迫力ありました。

 

やっぱりミュージカル映画は「音」が重要だよなぁ、って痛感しましたね。1回目に観たシネコンが音がよくなかったというわけじゃなくて、2回目の別のシネコンはさらによかった、ってことですが。

 

これは観れば観るほど、どんどん愛着が増していく映画ですね(ディズニーのアニメーション映画はだいたいそうですが)。

 

ぜひ大勢の人たちに観てもらいたいな。

 

 

第94回アカデミー賞長編アニメ映画賞受賞。

 

 

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