宮﨑駿監督によるスタジオジブリのアニメーション映画『君たちはどう生きるか』。

 

2013年の『風立ちぬ』から10年、スタジオジブリ作品としても2014年の『思い出のマーニー』以来9年ぶりの宮﨑駿監督の最新作。

 

事前に宣伝を一切せず予告篇も流さずに、声の出演者やあらすじさえも極秘のまま(公式サイトもなく、発表された画像もポスター1枚きり)公開を迎えた本作品、2日目に観てきました。

 

さて、さっそくですが、この映画については酷評めいたことを書くつもりなので、映画を楽しまれたかたは不愉快でしょうし、ジブリや宮﨑駿監督のファンのかたがたは「わかってねーな、こいつ!」とストレスが溜まると思いますから、お読みにならない方がいいです。また、以降はネタバレを含みますし、期待されているかたに先入観を与えたくないので、これからご覧になるかたはどうぞ鑑賞後にお読みください。

 

 

2017年に引退を撤回して最新作の制作発表から6年の制作期間を経て、前作から10年間という宮﨑駿監督作品としては最長の間隔をおいて完成、公開されたことをまずは喜びたいし、この映画を楽しんで賛辞を送られているかたがたに対してケチをつけるつもりはありませんので、それについてはご了承ください。

 

この映画を観てまず連想したのは、2001年の『千と千尋の神隠し』以降の宮﨑駿監督の作品群でした。

 

監督自身の頭の中にあるものを、わかりやすく従来の「物語」として整えて形にするのではなくて、ストーリーテリングを放棄して監督が思い描いたヴィジョンを連ねていく。時にそれは悪夢的なイメージのまま剥き出しで提示される。

 

劇中で描かれるさまざまな現象は、いちいち言葉で説明されないか、台詞で語られても意味がよくわからないものも少なくない。

 

以前、他の作品の感想でも書きましたが、僕はここ20年ほど続いた宮﨑駿監督のそのような作風には馴染めず、ずっと不満を感じてきました。

 

今回、この最新作でそれが頂点に達した感がある。

 

一方で、僕とは逆に『千と千尋』以降の宮﨑駿(息子の吾朗監督と区別するためにあえてフルネームで表記)作品を好むかたがたもいらっしゃるようだし、前作『風立ちぬ』も、それからこの『君たちはどう生きるか』も高く評価されている人たちもいる。作品について、いろんな考察がすでにされている。

 

実際、いくつか拝読したアメブロでの感想も、ほぼ肯定的なものばかりでした。

 

だけど、別に多くの人々の評価の逆張りをわざとしようとしているのではなくて、あくまでも率直に自分の意見を言わせてもらうだけですが、124分という必ずしも長過ぎるわけではない上映時間が僕にはとても長く感じられたし、それは結構苦痛なものでもあった。なんの苦行なんだろう、と。

 

戦時中に病院の火災で亡くなった母(あの火事が空襲によるものなのか、それとも事故なのかよくわからなかったが。サイレンは鳴ってたけど敵機は映っていなかったので)を忘れられずにいる主人公の少年・眞人(まひと 声:山時聡真)が、父の後妻となった叔母(母の妹)の夏子(声:木村佳乃)が姿を消した疎開先の廃墟から地下に降りて、人間の言葉を喋るアオサギ(声:菅田将暉)とともに夏子を連れ戻そうとする。──と、あらすじを書けば一見わかりやすい物語なんだけど、先ほど述べたように『千と千尋』以降の宮﨑駿作品って、場面ごとの「意味」を説明しない、あるいは「この世界ではそういうルールだから」ということで、そもそも意味や理由さえもあいまいなまま描写するので、途中で自分は今一体何を見せられているのだろう、とよくわかんなくなってくるんですね。

 

 

 

 

解釈はご自由に、ってことでしょうが、物語的な整合性やカタルシスさえも犠牲にして描かれる宮﨑駿の「ヴィジョン=幻影」が、僕にはひたすら気持ち悪くて、意味がよくわからないし気色悪いものをずーっと見せつけられていると具合が悪くなってくる。

 

久々にアニメ観ていて不快な気分になったのだった。

 

僕は普段、アニメってほとんど観ないんですが、でもつい最近観た『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』も『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』も楽しんで観て好きだったから、アニメだから受けつけなかったとかそういうことじゃないし、ましてや宮﨑駿監督の作品は1980年代からずっと観続けているんだから、最初から抵抗があったわけでもない。

 

ただただ「面白くなかった」としか。

 

宮﨑駿監督がここ20年ほど描き続けている、ヌルヌルベタベタグニョグニョしたものへの執着がいい加減我慢ならないほど耐え難い。いつまで糞尿遊びを続けるつもりなんだ。病院か介護施設の尿瓶にでもなったような気分だ。

 

群れになって押し寄せてくるペリカンやら擬人化されたセキセイインコの軍隊だとか、それらの描写にアニメーションとしての驚きや楽しさがあったかと言ったら、僕にはそれは感じられなかったし、今回大々的に使ったというCG映像にも同様に何一つ感動を覚えることはなかった。

 

廃墟の塔や空中に浮かぶ岩が崩壊する場面などにCGが使われていたんだろうけど、手描きのラピュタ崩壊の場面の方がよっぽど心を動かされましたよ。

 

昔話ばかりしている老害だと思われるでしょうが、ストーリーテリングも手放して肝腎の映像の方にも魅力を感じられないのなら、悪いけどそこから僕は「宮﨑アニメ」としての価値を見出せない。

 

『千と千尋』は主人公・千尋に寄り添いながら進む物語にまだなんとかついていけたし、『ハウルの動く城』はかなり気持ち悪かったけど、それでも老人を主人公にした目新しさや「動き」の面白さで楽しめる部分はまだあった。『崖の上のポニョ』も、波の上を走るポニョや水の表現などにアニメとしての意義を認めることができた。あれこれ文句を言いながらも、「耐え難い」ということはなかった。

 

当初は「最後の監督作品」と思われた『風立ちぬ』は、宮﨑駿本人と、おそらくは監督の父上を投影させたのであろう主人公の姿に、これまで何十年とその作品を観続けてきたクリエイター、アニメーション監督「宮﨑駿」の集大成を観ている、という感慨があった。

 

では、この最新作には何があっただろうか。

 

「母への想い」。

 

宮﨑駿自身は少年時代にお母様を若くして亡くされたわけではないけれど、病床の母との間には母子の深い絆と愛情があったのだろうし(それはきっと『風立ちぬ』のヒロインの描写にも現われていたと思うし)、だから巨匠が今この歳になって少年の姿に戻って母への愛を描こうとした、というのはわかるんですが、観る側がいろいろと作り手=監督の人生、その心情に思いを馳せて想像力を働かせなければならない、なんてゆーか、まるで“現代アート”を観ているような感じなんですよ。

 

コンセプトだとかコンテクスト、サブテキスト、作者本人の個人的な経験やら事情などを観る側が汲み取り、読み取らなきゃいけない。

 

それから、単純に物語の筋運びやキャラクターがパターン化してきた気がして。

 

僕が好きな80年代の宮﨑作品だって充分パターン化されてましたが、それは「心地よい」パターン化だったんですよ。

 

勧善懲悪や起承転結がハッキリした「物語」の王道を衒いもなくやっていたから。誰にでもわかるような娯楽映画を作っていた。一方で、『風立ちぬ』やこの『君たちはどう生きるか』を純粋な娯楽映画と呼べるだろうか。

 

『ポニョ』に出てきたような婆ちゃん軍団、『もののけ姫』のジコ坊や『ポニョ』の所ジョージ…じゃなくてフジモトみたいなトリックスター、または『千と千尋』のカオナシのように旅をともにするうちに浄化されて仲間になる者、それからサリマンやグランマンマーレ、カプローニのような神か悪魔のごとき絶対的な存在。

 

 

 

『君たちはどう生きるか』では、夏子の“大叔父”(声:火野正平)が、またぞろなんだかよくわかんないことを主人公に言って、インコの王様(声:國村隼)が急にキレて地下の世界が崩壊、みたいな…またそれですかい、と。

 

 

 

 

ここんとこずっと、偉い人が最後に何か言葉を残して強引に大団円、ってのばかりやってる。

 

昔から性懲りもなく“「ナウシカ」の原作漫画を完全映画化してほしい!”とずっと唱え続けてるかたがたがいらっしゃいますけど、『もののけ姫』に続いて『君たちはどう生きるか』こそがそれなんじゃないですか?これでご満足?

 

僕は「ナウシカ」の原作漫画は好きじゃないんですが(映画版は大好き)、それはこの『君たちはどう生きるか』を面白いと思わなくて嫌いな理由と共通しているものがあるから。

 

悩みや悲しみを抱えた主人公に語りかけてくるのは宮﨑駿自身なんだよなぁ。自分で自分と語り合って勝手に納得してるみたいな。それは果たして「物語」と言えるだろうか。

 

「ナウシカ」の原作漫画も中盤ぐらいまでは楽しんで読んでいたんですが、長い休載を経て(その間、ナウシカは腐海で眠っていた)連載が再開されると「物語」は急に飛躍が激しくなり、新しい登場人物がなんの前触れも説明もなく出てきて、ナウシカは敵と問答を繰り返すようになる。そこから最終回までの流れは、『君たちはどう生きるか』とほとんど同じなんですよ。

 

物語として納得のいくカタルシスもないまま、なんか突然終わる。

 

僕は、あれを絶賛している人たちの気持ちがほんとにわからないんです。だから気持ちが悪い。

 

この『君たちはどう生きるか』を観ていてだんだん具合が悪くなってきた、というのもそういうことで。

 

途中までは、やはり背景の美術の素晴らしさに見入っていたし、どこか懐かしさを感じさせる疎開先の屋敷も、あれは適当に描いたんじゃなくて監督にはああいう風景や建物がはっきりと「見えていた」んだろうなぁ、と思わせもする。

 

それが、地下の世界に行ってから、特に終盤あたりでは描かれている風景に何も感じなくなってしまった。

 

映像がつまんなかったんです。飽きてしまった。

 

それは僕にとってはとてもショッキングなことだったのですよ。宮﨑駿のアニメを観ていて、途中で映像に「飽きる」なんて…!!

 

若いキリコさん(声:柴咲コウ)に出会って、漁を手伝って食事する場面のあとに、今度はヒミ(眞人の母の若い頃の姿 声:あいみょん)とまた同じようなことを繰り返す。…どっちかいらなくない?

 

 

 

 

あと、「ジブリ飯」って昔からよく「おいしそう」って言われてるけど、この映画で出てきた食べ物は僕には旨そうにはまったく見えなかった。あのジャムを塗ったパンとか、ベタベタしてて気色悪かった。食べ物が不味そうな宮﨑駿のアニメも残念なことこのうえない。

 

この感想はあくまで僕の個人的な意見に過ぎませんから、『君たちはどう生きるか』をアーティスティックな作品として好まれるかたもいらっしゃるだろうし、そのことに文句を言うつもりもありませんが、僕はこういう作品をアニメに求めていない。

 

高畑勲監督の最後の作品で『風立ちぬ』と同じ年に公開された『かぐや姫の物語』もアーティスティックな映画でしたが、けっして独りよがりな内容ではなかったし、僕は大好きですからね。「物語」として、「アニメーション」として面白かった。

 

アニメじゃないけど、火事を描いてる映画なら同じ日にこの作品の前に「午前十時の映画祭」で観た『バックドラフト』の方がはるかに面白かったし好きだ。

 

…さぁ、ジブリファンのかたがたは血管ブチ切れそうになってるかもしれないですし、フォローしてくださってたのにやめちゃうかたもいらっしゃるかもしれませんが、世の中にこういう意見だってあるんだというサンプルの一つとして、残しておこうと思いますので。

 

『風立ちぬ』だって、公開されたばかりの時期には酷評もわりと目にしたんですよ。特に小さなお子さんのいるお母さんなどで、困惑したり「つまらなかった」と評されているかたはしっかりいた。

 

それがしばらくすると、いつの間にか絶賛評が溢れるようになって批判は掻き消されてしまった。

 

今現在、『風立ちぬ』が世間でどのぐらいの評価をされているのか知りませんが、忖度なく言えば「面白くなかった」と思ってる人だっているはず。だって、以前はいたんだから。

 

『君たちはどう生きるか』も客席はほとんど満席でしたが、上映後の皆さんの反応はさまざまでしたよ。絶賛一辺倒なわけがない。

 

「これまでのジブリの要素を全部合わせたような感じだったね」と言うカノジョ(面白かった、とは言ってない)と「う~ん」とあいまいな返事のカレシとか、「全然わからんっ」と笑いながら呟いてた男子軍団とか(^o^)

 

でもまぁ、リアルタイムで宮﨑駿の新作アニメを劇場で観たことが貴重な体験として記憶される日がいずれはやってくるわけですから、こうやって大勢で映画館に繰り出すことには大いに意味があるんでしょう、きっと。

 

宮﨑駿監督にはこの先90になっても百歳になっても、映画を作り続けていただきたいですけどね。

 

これだけ自分がやりたいことをやれたなら本望じゃないでしょうか。

 

いや、きっと監督ご本人は満足していないのでしょうが。

 

クリエイターってどこまでも貪欲だよね。

 

さぁて、僕はこれからどう生きようかな。

 

 

海外版の予告篇は作るんだなぁ…

 

 

 

第96回アカデミー賞、長編アニメーション賞受賞。

 

 

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