リドリー・スコット監督、ホアキン・フェニックス、ヴァネッサ・カービー、タハール・ラヒム、ベン・マイルズ、マーク・ボナー、リュディヴィーヌ・サニエ、ルパート・エヴェレット、ユーセフ・カーコアほか出演の『ナポレオン』。PG12。
18世紀末、革命の混乱に揺れるフランス。若き軍人ナポレオン・ボナパルト(ホアキン・フェニックス)は目覚ましい活躍を見せ、軍の総司令官に任命される。ナポレオンは夫を亡くした女性ジョゼフィーヌ(ヴァネッサ・カービー)と恋に落ち結婚するが、ナポレオンの溺愛ぶりとは裏腹に奔放なジョゼフィーヌは他の男とも関係を持ち、いつしか夫婦関係は奇妙にねじ曲がっていく。その一方で英雄としてのナポレオンは快進撃を続け、クーデターを成功させて第一統領に就任、そしてついにフランス帝国の皇帝にまで上り詰める。政治家・軍人のトップに立ったナポレオンと、皇后となり優雅な生活を送るジョゼフィーヌだったが、2人の心は満たされないままだった。やがてナポレオンは戦争にのめり込み、凄惨な侵略と征服を繰り返すようになる。(映画.comより転載)
前作『ハウス・オブ・グッチ』の公開時には『Kitbag』というタイトルで報じられていた次回作は『ナポレオン』と改題されて完成。
まぁ、『キットバッグ』と言われてもなんのことだかわからないし、意味を教えられてもピンとこなかったので、『ナポレオン』にして正解だったと思いますが。
ナポレオンの妻・ジョゼフィーヌ役はもともとは前々作『最後の決闘裁判』で重要な役を演じたジョディ・カマーが務めるはずだったのが、コロナ禍で撮影が遅れたためにスケジュールが合わずに降板してヴァネッサ・カービーに交代。
ジョディ・カマーでも観てみたかったですが、代役とはいえ、ヴァネッサ・カービーもぴったりの配役だったと思います。
ちょい悪女っぽい役柄でどんどん顔が売れてきた人だから。今年は『ミッション:インポッシブル/デッドレコニング PART ONE』にも出てましたし、旬の俳優さんだなぁ、って。
それにしても、今さらながらリドリー・スコットの映画を撮るスピードは驚異的ですよね。前述の2作品と今回の最新作を続けて1年に1本のペースで公開している(『最後~』と『ハウス~』はいずれも21年作品)。コロナ禍で公開や新作の撮影が遅れても、全然そうは見えない。
そんな80代の半ばにして仕事の速さにもエグめの描写にも手を緩める気がまったくないリドリー・スコットがかつて『グラディエーター』(2000年作品。日本公開2001年)で一緒に仕事をしたホアキン・フェニックスを主演に迎えて撮ったこの最新作、そりゃ観ないわけにはいかないだろう。
ちょうど「午前十時の映画祭」で『ブラック・レイン』を観たばかりだし、もう今年の最後はリドリー・スコットで〆るぜ、みたいな感じで(いや、まだ他の映画も観ますが)。
で、期待満々で観たんですが。
予告篇だと、自分を古代ローマ皇帝・シーザーと並ぶ偉大な軍人、そして支配者と考えるナポレオンと、そんな彼に『氷の微笑』…じゃなくて昔TVの深夜番組でおねえさんがやってたようにお股をちょっと広げて「私があなたを作る」と告げる妻、というのが、もうイケイケドンドンな雰囲気満載で、全篇アッパーな映画を想像していたんですが、そして前半はまさにそんな感じで映画は進んでいくのだけれど、現実の歴史を知ってればナポレオンがその後どうなったのかは想像できるし、だから世間で前半の評価と後半のそれとがかなり差があるのもよくわかる。
マリー・アントワネットのギロチンでの斬首をしっかり彼女の斬り落とされた生首まで見せるポール・ヴァーホーヴェンちっくな冒頭や砲弾を食らって身体が破裂する馬、ピストルを使って自殺を図ったロベスピエールの頬の傷に指を差し入れる場面、王党派のデモに向かって大砲を放って人体が吹き飛ぶさまなど、前半はなかなか飛ばしまくる。
この勢いで最後までいってれば最高だったかもしれませんが、でも鑑賞後の印象は「上映時間158分の総集篇」というものだった。
どうやら4時間半の長尺版があるのだそうで、監督はそちらの公開も希望しているらしいですが、それはそうだろうな、と思う。
この規模の映画を──ナポレオンとジョゼフィーヌの出会いからセントヘレナでの彼の死まで──2時間40分に収めようとしたらダイジェストになってしまうのは当然で(4時間半ヴァージョンではナポレオンと出会う前のジョゼフィーヌが描かれているそうだが)。
最初は大尉だったのが、マッハで少将から将軍へ。
なぜ彼がエジプトに遠征していたのかもちゃんと説明されないので(4時間半ヴァージョンにはあるのかもしれないが)、その理由も事前か鑑賞後に確認しておいた方がいい。
ジャック=ルイ・ダヴィッドの絵画「皇帝ナポレオン一世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠式」そっくりな場面もある。
『グラディエーター』で病的なローマ皇帝を演じたホアキン・フェニックスが、今度は自ら皇帝を僭称する男を演じる皮肉。ナポレオンはヒトラーの憧れの存在でもあった
あと、フランスが舞台なのにナポレオンをはじめ、フランス人もロシア人もドイツ人も全員が英語を喋るので、観てると時々誰がどこの国の人なのか区別がつかなくなる時があったし、登場人物たちが話す言語にはこだわってほしかったなぁ(『最後の決闘裁判』でもフランス人が思いっきり英語喋ってたから、リドリー・スコットにそれを期待してはいけないのだろうけれど)。
そうすることで、互いに別の国の人間であることが台詞を耳で聞くだけでもよくわかるから。
劇中でいちいち通訳を介するのが面倒だったのかもしれないけれど、実際にはそうやって異なる言語で彼らはやりとりをしていたんだし。
イギリス人であるリドリー・スコットがフランス人のナポレオンを主人公にして、彼がイギリスと戦うのを描くという、なんとも不思議な映画なんだけど、劇中でナポレオンにイギリスをぶっ叩かせながらもどこかで彼を圧倒する相手として見せているところに何か屈折したものを感じる。だって、結局はナポレオンはイギリスをはじめとする対仏大同盟に敗れるんだから。
しかもこういうタイプの映画によくあるように、時間を前後させたり回想を挟んだりせずに時間の流れ通りに繋いでいるのでいささか単調ではあったし、「私がいなければ、あなたは何もできない」と豪語していたジョゼフィーヌは子どもができないことでプレッシャーをかけられ続けた挙げ句に離婚させられて、やがて病いで亡くなる。
ナポレオンの方も、劇的な最期を遂げるわけでもなく、定説に従ってセントヘレナ島であっけなく死ぬんで尻すぼみ感がハンパないんですよね。カタルシスがない。
大勢の登場人物が出てくるけど、どうしてもそれぞれの描写が限られることもあって1つの「物語」としての満足感が得にくいんです。
いやぁ、これだったら思い切って最初から4時間半の方を上映してほしかった。難しいでしょうけど。スコセッシの3時間半の映画だって大変だったんだろうから、さらに1時間長い映画じゃなおさら。
ほんとは間にもっといろんなエピソードがあったんだろうけど、どうやらこの158分版ではジョゼフィーヌとの関係に絞ったということなので、そりゃ映画がブツ切れ気味にもなるよなぁ。
158分あるのに、ジョゼフィーヌがあっという間に死んでしまったような印象。
“悪女”と呼べるほどでもなく、ナポレオンを振り回すというほどでもなく。
ナポレオンが彼女に挑むのに、毎回バックからなのが微妙に可笑しかったんだが。
必死に腰を振って息も絶えだえのナポレオンに対する、ジョゼフィーヌ役のヴァネッサ・カービーの事務的な表情に笑う。
いかにもな悪女のようにナポレオンを誘ったり、夫が遠征中に他に男を作ってナポレオンの逆鱗に触れると涙を流して彼に許しを乞うが、そのあとにはまったく逆の態度でサディスティックに接する。
ある種の共依存みたいな関係だったのかもしれない。
男同士のマウント大会の愚かさを描いた『最後の決闘裁判』(『ハウス・オブ・グッチ』も同様の題材を扱っていた、とは言えるかも。権力を手にした者の映画だったから)のあとに、今度は「お世継ぎ」の話というのがまた^_^;
日本の大河ドラマなんかでも感じるんだけど、「世継ぎ」とかなんの価値があるんだろうと思う。
だって、ここでの世継ぎ云々というのは、一般の夫婦だとかカップルが子どもを欲しがるのとは違うから。
世の中には望み通りに赤ちゃんを授かる人もいればそうでない人々もいる。そこでいろいろと試みる人たちも。
それは個人的なことだから別に不思議ではないけれど、権力者の場合はそういう個人的な事情や想い以上に支配体制を維持していくために「血統」というお墨付きが必要とされる。王とか皇帝などは「血が繋がっていること」それ自体を過剰に重視する。
でも、僕はそんなの滑稽なことに感じる。
これが事業や伝統などの継承ならば、血が繋がっていようがいまいが関係なく才能がある者を選んで後継者にすればいい。
しかし、権力者は「自分の血」にこだわる。また、その支配者、権力者を支持する者たちもまた同様に「お世継ぎ」をありがたがる。
日本だって例外じゃありませんよね。いまだにそういう意識が強い者が多い。古臭い価値観に凝り固まった大河ドラマに慣れまくって、頭の中が江戸時代や戦国時代あたりで止まってる。僕はそれってとても有害なことだと思う。
この映画でリドリー・スコットが何を訴えようとしたのかはわかりませんが、現代の世の中に照らし合わせて観れば、僕には権力の維持のために自分の子どもを作ろうとすることのバカさ加減を皮肉っているのだと感じられました。
今の日本の政界なんかもそうだし、けっして大昔の話じゃないですから。
流刑にされたセントヘレナで、遊んでいる少女たちに「モスクワの街を焼き払ったのは自分」と嘘をついたナポレオンは、彼女たちにそれをいとも簡単に見破られて「そんなの常識よ」と言われてしまう。
愛していたはずのジョゼフィーヌとの結婚を「なかったこと」にして別の妻を娶ってまで産ませた子ども(のちのナポレオン2世)は21歳の若さで病死し、ナポレオンの血筋は途絶えた。
なんというバカバカしさ。無意味さ。
それでも、彼も妻の名も、その息子の名前も歴史に残っているのだから、ナポレオンは満足だろうか。彼らの足もとには、戦場で死んだ兵士たちの無数の屍が横たわっているのだが。
離婚の手続きも、皇帝であってもいちいち書類にサインして記録を残すところが面白い。重要な記録を破棄したり歴史を改竄するような国はろくなものではないですもんね。
アベル・ガンス監督によるサイレント映画『ナポレオン』(1927) は有名だし(ワーテルローの戦いを描いたソ連映画もありましたな。観てないけど)、僕も部分的には観たことがあるけれど、スタンリー・キューブリックが企画しながら果たせなかったナポレオンの映画をリドリー・スコットが2023年にこういう形で映画化したということの意味を考える。
いわゆる「ナポレオン戦争」で命を失った兵士の数は300万人、と映画の最後に字幕で告げられる(ちなみに310万人以上の日本人が太平洋戦争で亡くなっています)。
「余の辞書に不可能の文字はない」という有名な言葉はこの映画には出てきませんが、そういう英雄譚ではないんですよね。
勇ましく死ぬことさえできなかった男の話。
だから、尻すぼみに終わるのも致し方ないのかもしれない。
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