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 生れた国で日本に関する書籍を読み、日本文化の奥にある精神に触れんがために日本で生活するようになったエハンさんと、武道(古武術)を使いこなせる故にこそ日本精神の大切を知っている榎本さんは、共に、現在の日本に危機感を持ち、日本人の意識喚起に努めている。
 また、以前からアセンション問題を語っていながら、前世の存在を認めていなかったエハンさんを、榎本さんが誘導瞑想で導いている様子も記述されている。2009年6月初版。

 

【エハン・デラヴィさんの来日理由】
エハン  物質主義だからこそ物足りない。じゃ、どこへ行けば教えてくれるのか。日本しかないわけなんですよ。まだ残っているんじゃないかと思ってきたわけです。でも、私は最後のチャンスだったと思いますね。
 例えば今はもう、すごい先生たちはもういなくなった。 ・・・(中略)・・・ 。復活するような感じがありますか。
榎本  全体のレベルは非常に落ちていると思います。 ・・・(中略)・・・ 。日本にはいろいろな武術がいっぱいある中で、エハンさんが日本にいらして、どうして弓道を選ばれたのか。何で弓道に目をつけられたのかをちょっと聞きたいのですが。
エハン  弓道の別名、別の言い方は立禅です。私がなぜ日本に来たのか。これは禅の修行をするためだったわけです。
 なぜ禅かといいますと、ちょうどあの時代、 ・・・(中略)・・・ 西洋において一番最初に禅の本を英語で出したのが鈴木先生だったわけです。 ・・・(中略)・・・。彼が登場することによって、一遍に欧米人は、こんな哲学でもない、宗教でもない、枠には入れられない何物かという、いわゆるすごいスピリッチュアル・トレーニング・システムがあるということを、初めて知ったわけです。・・・中略・・・。こんなにシンプル、ピュア、パワフルで、全く枠がない世界が日本にあるんだと。これは鈴木先生のおかげなんです。(p.56-57)
 産業革命の知的原動力であったスコットランド出身のエハンさんが、鈴木大拙の著作によって、物質主義の対極側が残っているらしい日本に想いを馳せて来日したのは22歳の時だったという。京都の大徳寺に直行したらしい。
   《参照》   『次元「超」突破』 エハン・デラヴィ×中丸薫 (ヒカルランド)《前編》
            【スコットランド、ケルト、テンプル騎士団】
エハン  当時、オイゲン・ヘリゲルという人によって書かれた『Zen in the Art of Archery』(邦訳『弓と禅』)という本が出て、ベストセラーになっていた。弓道の先生たちは、「あの外国人の弓は下手くそだ」とみんな言うわけですけれども、「禅について説明するのは上手だ」と。(p.57)
エハン  外国人が、今ものすごく日本のカルチャーを身につけたいという強い気持ちがあるからこそ、逆に東洋的なことは、今西洋の方で復活しつつあるのではないかと私は思うのです。(p.63)
 外国人が禅や武道に秘められている日本の精神に興味を抱いているのに、日本人がこれらに関することどもを全然語れないのは、ちょっと困る。
   《参照》   『無我と無私』 オイゲン・ヘリゲル 講談社
   《参照》   日本文化講座⑧ 【 武士道 】

 チャンちゃんがこの読書記録のブログを残そうと思ったのも、このことを思ったが故である。若者たちがもっと日本のことを知って考え語るキッカケになるなら嬉しい。
    《参照》   『日本人て、なんですか?』 呉善花・竹田恒泰 (李白社)

 

 

【弦音(つるね)】
エハン  ピューン、ウェン。すごくいい音がしたときは、先生たちも「今だれが当てたのか」となる。
 弦音はすごい。だから、昔の日本人はいい弦音を出した後、その弦が切れると、妊婦さんがお腹に入れて、安産のお守りにするという伝統が昔からあるらしい。あれは鬼を追い出す音だというんですよ。(p.60-61)
 この記述を読んでいて、今回のソチ・オリンピックで金メダルをとった羽生結弦くんの名前を思い出してしまった。「冴えた弦音を残して弦が切れて以来、放置されていた弓の“弦を結び”、日本人は再度、“羽を生やして”羽ばたきなさい」という神意ではないだろうか、と。
 しかも、礼儀正しく頭を下げ謙虚な19歳の羽生結弦くんは、表彰台の上でちゃんと 「君が代」 を歌って、日本人に立派な範を示してくれていた。そのことに感動した日本人も決して少なくないだろう。

 

 

【武道と武士道】
エハン  武術をやる、やらないの違いが非常に大きいと思うのですが、どういう影響があるのでしょうか。私は自分の経験から多少言えるのですが、武術をやったことによってのいわゆるメリットは何ですか。
榎本   それはあらゆるジャンルに影響しますね。 ・・・(中略)・・・。本来の武士道というのは、神道も仏教も儒教も、全部のエッセンスを集めてできたもので、その生き方に基づいて生きていた日本人というのは、私は美しいと思っている。(p.66)
エハン  私は武士道のその美しさに魅せられて、長い旅をしてここに着いたわけなんです。(p.71)
 武道は、礼儀や姿勢を重視する。武道という動きの中にある身体表現は、精神に影響するのである。
 古来の日本人は、「姿勢=至誠=死生」であることを知っていたから、同音の言霊で表現したのだろう。
   《参照》   『道徳力 「まこと」 の甦りが日本を正す』 丸山敏秋 風雲舎
            【 「誠」 の道 と 「死」 の道 】

 

 

【意識の話に通ずる土地柄の九州】
 鹿児島出身の榎本さんは、田舎は武道が盛んで男らしくしなきゃいけないという風土だったという話を語った後、エハンさんは以下のように言っている。
エハン  確かに私も、九州の男は違う、というふうに感じました。私の講演の内容に対して、一番最初から受け入れてくれた人たちは九州人だったわけです。・・・中略・・・。これだけ古い伝統を受け継いだ人達がいる。男たちは男らしいという感じが強い場所なのに、なぜ西洋人の、ある意味ではぶっ飛んだ意識の話を受け容れてくれるのか。これは不思議でしょうがないと思っていました。でも、・・・中略・・・そういう古い伝統がまだ強く残っているからこそ、人間の心、人間の意識のパワーに関して直感的に受け入れる素地があったということですね。(p.52)
    《参照》   『誰も知らない開運絶対法則』 白峰・有野真麻 (明窓出版) 《前編》
              【武道とは】

 武道には、意識を個の領域から普遍の領域へ拡散させる術が託しこまれていることを九州人は知っていたからなのだろう。女性は生まれながらにして(脳科学的に)直感的なのだけれど、男性は武道を通じてでなければ、女性の直観力に相当する感覚の深さが獲得できないことを、体験的に知っていたのだろう。
 男性は武道を通じて男らしく、そして女性は、男性化することによってではなくより従順に大いなる委ねの境地にいた方が、女性ならではの直観的威力を発揮するのである。
 つまり、男性も女性も中性化するのは最悪なのである。
 ウーマンリブやフェミニズムやジェンダーフリーの思想は、日本人のみならず世界中の人々のアセンションを抑止するための仕掛け(企み・陰謀)である。
    《参照》   『アシュタール×ひふみ神示』 宇咲愛 (ヒカルランド) 《前編》
              【女神性の中には「委ねる」という性質がある】

 

 

【変わってしまった日本人の身体の使い方】
榎本  江戸時代以前の身体の使い方と、明治以降の西洋の発想が入ってきてからでは、日本人の身体の使い方が全く変わっています。
エハン 例えばどんなふうに?
榎本  例えば昔の日本人は「ナンバ」という歩き方をしていた。右足と右手が連動する、左足と左手が連動する歩き方なんです。・・・中略・・・。
 それからもうひとつは、飛脚というのがあって昔の郵便屋さんです。これは飛脚走りとも言いますけれども、文箱をつけた飛脚棒を肩にかけ、体がかしいだまま走ったのです。そうやって、今のキロ数で言うと、1日にほぼ100キロ近く走っていたという事実がずっと残っている。でも、その次の日も100キロ走っても平気なんですよ。信じられませんでしょう?
 ところが、このように上体がかしいだまま走ると、疲れ方が全然違うんですね。これは「ナンバ走り」と同じく、上体をひねっていなくて、このまんまの状態です。前へ倒れないために足が出る。この状態を延々と繰り返すわけです。(p.46-48)
 力を込める西洋に対して、力を抜く日本という違いがある。
 椅子を常用する西洋式の生活形態と、西洋伝来のスポーツが隆盛を誇るようになって以来、日本人の体の使い方が変わってしまったらしいことは、下記の著作に詳しく記述されている。
    《参照》   『意識のかたち』 高岡英夫 (講談社)
 武道は「型」から学ぶのが手順なんだけど、西欧化に毒された知性は、自由とか個性を主張して「型」を尊重しない。日本文化が崩れつつあるのは、日本の「型」が失われてきたからである。
    《参照》   『考えるヒト』 養老孟司 (筑摩書房)
              【型の喪失】

 

 

【物置と床の間】
榎元  戦後は、特に昭和40年代ぐらいからは、日本の場合は生と死が全部病院に入ってしまいました。私が生まれたのは、自宅の納戸、布団部屋とも言いますけれども、要するに物置ですね。
エハン 物置で!
榎元  日本の風習としては、生まれる行為というのは、余り日の当るところではだめなんです。
エハン はーっ。
榎元  ちょっと暗いところ、そういう場所で産まれたんですよ。
エハン これはキリストと一緒だ。
榎元  ふだんは閉め切っている一番奥の部屋へ御産婆さんが来て、そこで産まれた。
 死んでいくときには、床の間といいまして、家の中で一番いところに寝かせて、そこで家族が見守る中で、お医者さんが来て脈をとって、こうして(瞳孔が開いているか確かめて)、「ご臨終です」という。
エハン すばらしいですね。 (p.69-70)
 イエスは馬小屋で生まれたと言われ、聖徳太子は「厩戸の皇子」とも言われている。
 日本文化における床の間の意味に関しては下記を。
   《参照》   『日本人の忘れもの』 中西進 ウェッジ 《後編》
              【床の間】

 

 

【本能としての礼儀】
榎本  人間が生きていく上で本能が持っている、人間対人間がとても心地よく生きていくための決まりごと、本能と言ってもいいかもしれませんけれども、お互いが仲良く暮らしていくすべ、方法、そのひとつが礼節だと思います。(p.187)
 礼儀を、お互いが仲良く暮らしていく上での「本能」として位置づけている榎本さんの意見に、エハンさんは驚いている。チャンちゃんも驚いている。
 武道を通じて高次元世界にまで参入した人は、礼儀の普遍性を認識しているはずである。つまり、本能というより普遍的な世界のあり方として認識しているはず。「敬いの気持ち」の重要性を、昔の日本人はよく知っていた。
   《参照》   『アミ3度目の約束』 エンリケ・バリオス (徳間書店) 《前編》
             【叡智と敬いの気持ち】
   《参照》   『Descention ~自らを下げる~』 中里尚雄 ぶんがく社
             【愛しき日本の姫君達☆】

 

 

【国境とお金】
榎本  私の究極の目的は、国境をなくすこと。もうひとつは貨幣経済をなくすこと。お金ではなく、物々交換ですね。物もそうですが、気持ちのやりとりですね。
 私の発想だと、相手のために何をしてあげられるかということをお互いが考えていくことが理想の世界だと思っている。(p.191-192)
 これってアセンション後の世界。そして、ジョンレノンが『イマジン』で語っていた世界。
   《参照》   『今あなたに知ってもらいたいこと』 オノ・ヨーコ (幻冬舎)
              【イマジン】

 全ての人々が、「自分のために働く」のではなく、「人のために奉仕する」ようになれば、お金は要らなくなる。
    《参照》   『プレアデス星訪問記』 上平剛史 (たま出版) 《前編》
              【諸悪の根源】【神の力を招く方法】
              【階級制度と貨幣制度は不要】

 

 

【私を使ってください】
榎本  私のお祈りの仕方は、昔からちょっと変わっていた。・・・中略・・・。「私を使ってください」とお祈りしていたんです。・・・中略・・・。西郷隆盛さんたちをはじめ薩摩武士は、おそらく私と近いお祈りをしていたんじゃないか。自分たちを使うことで世の中が変わるんだったら喜んで死んでいけるという心境に成るには、別にこっちからのお願いごとじゃなくて、自分を捧げることの方向性。だから、全くベクトルの違いがあったんじゃないか。そういう気がぼくはしています。(p.203-204)
 自分の天命や使命が分からなくとも、このような祈りを祈っているなら、神さまの御用に使っていただけるかもしれない。

 

 

【距離を測る】
エハン  インカは距離を測るのに1キロ、2キロとはいいません。130回とかコカの葉をかじった回数が距離でした。(p.225)
 「1回かじるのに何分?」と聞くようでは、インカの文明に溶け込めない。純粋に学ぼうとするなら、自分の慣れ親しんだ尺度で考えてはいけないのである。

 

 

【旅の目的】
エハン  今までいろいろな国々に行かれてますが、そういう体験によってどう変わったんでしょうか。
榎本   その結果、今をどう生きるかだけが問題だと思うようになりました。今を大切にすれば過去も未来も関係ない。過去と未来は今に内在しているといってもいいですけれども、一期一会の体験が身にしみていく。そうすると、ひとつひとつに対してとても真剣な対応ができるようになります。
 以前チベットを旅していて、ある家族に1週間お世話になりました。・・・中略・・・。だから、その別れはとても切ないし悲しい。お互いに涙が流れたりするけれども、とってもピュアな気持ちになれる瞬間で、そのピュアな感覚を味わうために私は旅をしてきたんだなと実感できる。(p.237-238)
 榎本さんの旅は、計画された旅ではなく行きあたりばったりの旅。宿泊場所なんて最初から決めていない。そういう旅の方が、想定外の事象に出くわして心がときめく機会が多いだろうことは想像に難くない。
 “ピュアな気持ち”と“今を生きることの深さ”は、おそらく比例している。心が曇っていると感じているなら、自分をリセットするために、変わり映えのしない日常から飛び出して外国に旅立つのがいいかもしれない。
 異文化への旅は、「狎れ親しんだ文化的基準からの脱出」と位置付けた方がいい。従来の自国の文化的尺度が意味をなさないからこそ、潔くそれを捨て去ることで、今という瞬間をより深く受け容れることができる。
 今に生きるとは、只今一点に心と意識を集中することであり、「思考放棄」の旅でもある。
 それって、武術にも通ずるものがある。
榎本  武術というのは一瞬の勝負です。そこで自分の頭が何かを思考してしまったらアウト。命をなくすかもしれません。そうじゃなくて、普段やっていて体が覚えていることをそのままやったら、結果的に勝利を得る。そこにおいては、よかった、悪かったかの思考は要らないんです。(p.241)

 

 

【安定社会の代償】
エハン  緊急事態になると、皆さんは結構パッショネイトになるんです。だから、戦争中のロマンスは一番カッコいい。あした死ぬかもしれないときにはものすごいパッションが出るわけです。安定した社会になってしまうと、犠牲にするのはパッションの面ですね。(p.291)
 戦争中のロマンスを描いた作品なら、何と言ってもヘミングウェイの『武器よさらば』。人生に障害がないと、人間って燃えないのが宿命らしい。その視点で考えた場合、総じて日本人は逆説的な危機の中にある。世界の国々に比べると日本は様々な加護によって平穏無事に過ごせている国なのだけれど、それ故にこそ「日本人にはパッションが欠乏している」のである。
   《参照》   『賢者たちのメッセージ』 光田秀編著 (PHP) 《前編》
             【平穏な人生は、成長のない人生】

 

 

【神に対するパッション】
エハン  今、私は、スーフィーの詩人であるルーミーの詩を翻訳したり、本を書いたりしています。彼の中心的な言葉はパッションです。・・・中略・・・。神は The friend、内在神的な心の友で、その心の友である神に対するパッションがなければ、人間は絶対進化できない。だから、何があっても、どんなに苦しいことがあっても、そのパッションをずっと維持しなければならないと断言しています。(p.291)
 ルーミーについては、
   《参照》   『トニー流 幸せを栽培する方法』 トニー・ラズロ (ソフトバンククリエイティブ)
              【セマー】

 ルーミーの言う「パッション」を、日本人好みの表現に変えるなら「恋い慕う気持ち」だろうか。これもピュアネス(純粋さ)と不可分な感情である。世馴れして感動を忘れたオジサンやオバサンにならないように・・・。
    《参照》   『神との語らい』 深見東州 (たちばな出版)
              【神と話がしたいのなら】

 

 

<了>