★第五十八代光孝(こうこう)天皇は平安時代の天皇です。


仁和寺の像



御父仁明天皇の第三皇子、御母は藤原澤子(たくし)。先帝陽成天皇の祖父文徳天皇の弟。 

 

 

御名は時康。

 


八三十年生。

 


在位八八四年から八八七年。

 


第五十七代陽成天皇は乱行・奇行があり群臣を悩ましたため、何度も退位を迫られ、手続き的には十七歳で譲位の形をとり光孝天皇が即位となります。

 


次の天皇を決めるため太政大臣であった藤原基経が何人もの親王を訪ねるとどの親王も大騒ぎをした中、破れた御簾の中で縁が切れた畳に座り泰然としていたのが時康親王でした。そのため、このお方こそ帝位につくべきだと思わせたといいます。また政治に無関心であるのも、基経にとって適任とされた理由であるともいいます。(だから泰然としていた?)

 


しかし、百人一首の15番歌は光孝天皇の御製を知ると、政治に無関心だったとは思えません。

君がため
春の野に出でて
若菜摘む 
わが衣手に
雪は降りつつ



「ねずさんの日本の心で読み解く百人一首」から簡単に説明します。

この歌は時康親王の時代に詠まれた歌ですが、百人一首では天皇の歌としてあげられています。天皇が詠む歌で、君といえば天皇以上の人を指します。「き」と「み」は男と女、男女であるとともに世の中全ての人々表します。つまり君民一体の我が国で天皇以上の人達といえば、民です。そして、「春の野に出でて若菜つむ」、とは、若い(才能ある)人材を登用することを指しています。しかし、民のために若い人材を積極的に登用すれば、そこに必ず既存の権力からの反発が生まれます。そうすると、そこでは才能がつぶされたりしてしまうようなことも起きてしまいます。しかし、民のためには若菜を摘み続けなくてはいけない。だから下の句では、その悲しみを「わが衣手に雪は降りつつ」で表しているのです。

天皇が民を思う心を大御心(おおみこころ)といいます。
これは大御心の歌なのです。

詳細は是非本で読んでいただきたいのですが、大御心を知ると、こういう志を継いだ次の宇多天皇が、菅原道真を起用したわけだと理解することができます。

親王が歴任する官職のほぼすべてを歴任し五十五歳で即位されましたので、若く即位する帝と違い世の中が見えていたと思います。ですから、即位後も不遇な時代を忘れないよう、かって自分が炊事をし黒い煤がこびりついた部屋をそのままにしていたという逸話もうなずけるのです。


即位と同時に先帝陽成天皇の同母弟で時期天皇として即位される可能性のある貞休親王(十五歳)をはばかって、御自身の皇子は全員臣籍降下させ、子孫に皇位を伝えない意向を表明されました。しかし次代の天皇の候補者が確定する前に病に倒られました。


在位中、肥前国に来着した新羅使を受け入れず帰国させています。統一新羅の国情は余程酷かったらしく、日本は国交断絶状態を続けます。受け入れた帰化人が度々反乱を起こし到底国交を開ける状況になかったといいますから、現在の状況にも重なってきます。


また自然災害が多くありました。仁和元年(八八五年)には薩摩国の開聞岳が大噴火を起こし、幾つかの集落は放棄されました。そして仁和三年には仁和地震が東海・南海で同時発生し、五畿七道が被災、大阪湾を巨大津波が襲いました。


五十五歳で即位しわずか三年の仁和三年(八八七年)秋、崩御されました。


天皇が重体となると、臣籍降下されていた皇子の源定省(さだみ)が急遽還俗されて親王に復され翌日皇太子となりましたのは、臣籍降下してもこの皇子を後嗣に臨み侍従として側近にして側に置いたいたことを、藤原基経が察し奏請したといいます。その同日に天皇は崩御され即位されました(宇多天皇)。基経の外孫に当たる陽成天皇の同母弟である貞保親王は即位されませんでした。基経と貞保親王の母である高子とは仲が悪かったためといいます。

 


御陵は後田邑陵、京都市右京区宇多野馬場町にあります。御田邑陵は、元は小松山陵という名前だったため、小松帝ともいわれました。北朝の後小松天皇は、光孝天皇の後加号となります。


「光孝」の号は、傍系から即位した父のため、光仁天皇の例にならって宇多天皇が贈られた漢風諡号です。以降、「光」の字は皇統の変化を表す諡号となっていきます。


 

京都の仁和寺は光孝天皇が西山御願寺と称する一寺の建立を発願されたことから、次の宇多天皇がその遺志を継がれて完成したお寺です。

 

 


★第七十五代崇徳(すとく)天皇は平安時代末期の天皇です。


NHK大河ドラマ「平清盛」での崇徳天皇


御父は鳥羽天皇、御母は藤原璋子(待賢門院)。

 


御名は顕。(あきひと)


千百十九年生。


在位千百二三年から千百四一年。

 


白河法皇の意向により鳥羽天皇が譲位して五歳で即位。しかし法皇が崩御された後、鳥羽上皇寵愛の美福門院に体仁親王が産まれると譲位を迫られて体仁親王が即位(近衛天皇)し上皇となります。上皇といっても実権は鳥羽上皇にありました。しかも、体仁親王は崇徳上皇の養子の形となっていたので、皇太子に譲位のはずが皇太弟に譲位の宣命に記されたため、崇徳上皇の院政が不可能となったことが遺恨となっていました。

 


その後病弱だった近衛天皇は十七歳で崩御し、崇徳上皇は再度皇位につくか我が子の重仁親王の即位を望まれますが、即位の器量にないと言われた弟の雅仁親王が即位(後白河天皇)することとなり、望みを絶たれました。

 

 

なお、崇徳天皇が白河天皇落胤説がありますが、これは、実は近衛天皇践祚のタイミングで盛んに言い立てられるようになったともいい、この直後には美福門院や近衛天皇を呪詛したとして待賢門院が落飾をよぎなくされましたが、いずれも美福門院の仕業といわれています。この3年後に、待賢門院が危篤の際には鳥羽法皇が駆けつけて看取り磬(仏具)を打ちながら泣き叫んだと伝わります。鳥羽院と待賢門院の間には、五男二女の皇子女が誕生されており仲睦まじかったことが伺えるのです。待賢門院は鳥羽天皇とその父堀河天皇二代の乳母であった藤原光子の子であり、乳母兄妹でもありましたから、若い美福門院に寵愛が移っても情愛は変わらずあったのでしょう。なお、白河法皇にとり崇徳院は曾孫にあたり、皇室が曾孫をみるのは開闢以来初めてのこととして白河法皇が大いに喜んだともいわれており、こうしたことから落胤説も生まれたのかもしれません。だからこそ異常にかわいがり、またそれに鳥羽上皇が反発したことでの「叔父子」説ということです。もしこれが本当であればそのような相手と7人もの子供を成すでしょうか?また、崇徳天皇が朝覲行幸に訪れた際には、自ら名人といわれる笛の演奏をして歓迎したことも伝わっています(通例として子である天皇が院である父や母に楽器を演奏する場)。父方での養育がないため、親子や兄弟間での齟齬が生じやすい時代でしたが、それでも情愛が伝わってくる逸話です。

 

 

いずれにしましても、そのような噂に乗じて待賢門院を陥れ落胤説を言い立てていた美福門院にとって、近衛天皇が若くして崩御された後、崇徳院の皇子が践祚し崇徳院が院政を行う事に恐怖して策謀したとしても不思議はありません。平安最大の怨霊を生じさせ、仲の良かったともいわれる崇徳天皇と後白河天皇を永遠に引き裂いたのは美福門院であり、それを許してしまったのは鳥羽法皇といえるかもしれません。

 

 

翌年鳥羽法皇が危篤になりましたが見舞いに御倖された崇徳上皇は会わせてもらえずに還御されます。そして鳥羽法皇が崩御された後の葬儀からも排除されるのです。しかも崇徳上皇が近衛天皇を呪詛したという噂や叛乱の準備をしているという噂が流れるのです。

 

 

崇徳上皇は身の危険を感じ挙兵の準備を始めますが、鳥羽法皇が崩御後数日、後白河天皇の軍に先制攻撃され讃岐に配流となりました(保元の変)。保元の変では上皇と天皇の兄弟同士、藤原忠通と頼長の貴族の兄弟同士、そして源為義と源義朝の武士の親子と肉親同士がぶつかり合ったものとして特筆されるものがあります。

 

 

なお、この変を治めたことが平清盛が勢力を増す要因ともなっていきます。天皇もしくは上皇の配流は藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇の淡路配流以来400年ぶり、また薬子の変を最後に行われなかった死刑が346年ぶりに復活した事件でした。

 


上皇は、讃岐では仏教に帰依し穏やかな日々熱心に写経し鳥羽院の墓所に納めようと届けるも後白河院により拒絶されます。崇徳院は激怒し呪いの言葉を写経に書いて海に沈めた後に憤死されたといいます。

一一六四年崩御。


崇徳院は崩御前より生霊となったとされ、平治の乱が起き、保元の変で後白河天皇方だった武士が相次いで討たれました。また崩御後も後白河院の身内が相次いで落命し、大極殿の火災焼失まで起きたとされました。

すめらぎの話・・・大怨霊から神様となられた天皇

 



歌川国芳の有名な崇徳天皇


ここから崇徳院の鎮魂が始まります。後白河院は保元の宣命を破却し、「讃岐院」の院号は「崇徳院」に改められ保元の変の古戦場には「崇徳院廟(後の粟田宮)」が設置されました。また御陵の近くに建てられた頓証寺(現在の白峯寺)に対しても保護が与えられたといいます。ちなみに非業の死を遂げた天皇の諡号に「徳」を贈るようになったのは崇徳天皇からの慣例です。(それ以前の天皇にも「徳」が号に使用されている天皇があります。)

 


崇徳天皇崩御700年祭の年、禁門の変が起き御所に銃が向けられました。その四年後、明治天皇は即位にあたって、讃岐に勅使を遣わし、崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建しました。

 


また東京五輪の年は崇徳天皇800年祭の年にあたり、昭和天皇は御陵に勅使を遣わして式年祭を執り行い、東京五輪の成功を祈ったといいます。

 


御陵は白峯陵、香川県坂出市青梅町にあります。

百人一首の七十七番歌は崇徳院です。

瀬をはやみ
岩にせかるる
滝川の
われても末に
逢はむとぞ思ふ

この歌もねずさんの百人一首から、簡単に解説します。

何か大きな対立、戦に近いほど意見が対立する相手と、今は互いに別の道を歩むことになるけれども、いつか再び出会い、今度は同じ道を歩んで行きたい。この歌は崇徳院が何度も推敲し、一番激しく表現されたものが百人一首に選ばれているといいます。

この別の道を歩んでしまうのは、崇徳天皇とその同母弟、後白河天皇です。崇徳天皇は後白河天皇の面倒をよく見ていた兄でした。ところがその二人が貴族同士、武士同士の政争に巻き込まれ縁遠くなってしまい、後には京と讃岐にまでも離れてしまうのです。700年後、御霊だけでも京に帰還していただいたのは喜ばしいことでした。

白峯神宮は、蹴鞠の館だったことからスポーツでお参りされている方が多く、それも崇徳天皇のパワーではないかと思います。京都で是非お参りしていただきたい神社の一つです。
白峯神宮の朝陽

 

白峯神宮では毎月21日を月命日として月次祭が行われています。

また本日は崇徳天皇祭として薪能が奉納されます。

 

また四国の金比羅宮にある白峰神社では、崩御された8月26日を新暦で命日としており、例祭が行われています。


参照:「宮中祭祀」
「天皇のすべて」
「歴代天皇事典」
「旧皇族が語る天皇の日本史」
「怨霊になった天皇」

 

天皇を知る上で避けて通れない字


☆宮中祭祀については、以下をご参照くださいませ

神代在今の国
年間102日あります

宮中祭祀 新嘗祭①
宮中祭祀 新嘗祭②
宮中祭祀 新嘗祭③
豊明節会、新米解禁!

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