徳川家と鶴ヶ城(会津若松城)
1590年秀吉による奥州仕置で、政宗が会津を没収され米沢安置で72万石に減封されたあと、蒲生氏郷が三重松阪(12万石)から120万石で会津入封。蒲生氏は織田信長の娘婿で、秀吉時代の五大老。朝鮮出兵の頃の名護屋城で40歳という若さで亡くなり、13歳の秀行が家督を相続したものの宇都宮に転封。1598年蒲生氏に代わり上杉景勝が入封。この時政宗は米沢も取られ、岩出山へ転封。秀吉時代、徳川と毛利に次いで3番目の大大名となった上杉家。秀吉没後、本丸だけで鶴ヶ城の2倍といわれる神指城の築城に取り掛り、家康さまが築城を止めるよう要請しますが聞き入れず、対立を深めます。家康さまの会津攻め、関が原では三成に加担した景勝は関が原後に米沢30万石に減封(1601年)され、上杉に代わり蒲生氏がまた会津に入ります。氏郷の孫の忠郷が26歳で嫡子ないまま亡くなると1627年に加藤嘉明が伊予松山から会津43万石で入封します。嘉明の嫡子の明成は会津騒動といわれるお家騒動を起こし、幕府が介入し会津は没収されました。葦名氏統治400年の会津 黒川を政宗が奪取してから、次から次へ入れ替る城主。鶴ヶ城のある会津若松には会津5街道と呼ばれる街道の要路が集まっているため、落ち着かないのは困るということか、幕府は1643年 出羽山形(20万石)保科正之を23万石で入封させます。保科正之は2代将軍 秀忠の子。庶子であることから出生は秀忠側近数名しか知らされておらず、3代将軍家光も知らなかった。初対面は1629年 正之18歳のとき。家光将軍は26歳。秀忠の死後(1632年)はことのほか正之を可愛がり、格別な扱いで将軍家の弟と知らしめます。秀忠の廟建立(増上寺)の責任者に任命し、家康さま17回忌の日光詣でに同行させ、10万石の大名に与える従4位下を3万石の正之に与え、桜田門外に上屋敷を与え、江戸城に招いては自分でお茶をたて振る舞う。1636年には出羽山形20万石を与えています。将軍家の弟として扱い、政務への参加をさせていきますが、正之もまた謹直で有能で、信州高遠から山形に入った時には、領民が正之を追って山形に移ったらしい。家光臨終の際、「肥後(正之)よ、宗家(将軍家:息子 家綱)を頼みおく」と言われた正之。1668年『会津家訓15ヶ条』を定め、第1条で「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と将軍家への絶対的忠誠の精神を会津藩に根付かせるのでした。育ての親も大事にする正之。松平姓の下賜は固辞し、保科姓を貫きました。3代藩主のときから松平姓を使用することとなります。9代藩主 松平容保(かたもり)は1862年に京都守護職を拝命し幕府と朝廷に忠義を尽くします。尊皇攘夷を掲げる倒幕派を禁門の変(1864年)で制圧。公武合体を望む孝明天皇から厚い信頼を得ていましたが、14代将軍家茂(享年20歳)の死去と孝明天皇の崩御で倒幕派は明治天皇を奉じて政治の実権を掌握します。1867年に大政奉還。王政復古を打ち出した新政府側と幕府側の対立で、1868年鳥羽・伏見の戦い、会津戦争、戊辰戦争へと会津藩は歴史の渦に呑まれていきます。会津藩は新政府軍に降伏、斗南(青森)に移封しますが、明治政府は戊辰戦争後も会津を警戒し、力を削ぎとっていったとのこと。