人吉城に行くために特急列車に乗るつもりが間違ってSLの切符を買っているのも気づかず、熊本では特急電車は乗客に乗車案内があるんだな~と思いながらホームに上ると、待ってたのはSL人吉。
途中寝落ちしたりしながら、撮影スポットなどに停車して人吉駅に着くと、七つ星も停車してました。↓人吉駅前には人吉城を模して作られたからくり時計。
鎌倉時代に源頼朝から、多良木荘を所領として受けた相良氏(さがらし)が、当時人吉荘を治めていた矢瀬氏を滅ぼし人吉を手にします。
1205年には相良長頼(ながより)が源実朝から、人吉荘の地頭を任されました。
城館や開拓した土地を洪水から防護するために、築堤・護岸・水制等が施工されていきます。

↑青井阿蘇神社(国宝)。
人吉に相良氏が入った頃から、球磨川沿岸では開田や利水事業が積極的に行われるようになります。城館や開拓した土地を洪水から防護するために、築堤・護岸・水制等が施工されていきます。
球磨川は日本3大急流の1つで、昔から洪水被害の多い川だったと考えられます。支流のダム建設が計画されていましたが、2009年に中止されています。

人吉城は平山城です。
相良氏は鎌倉時代に入国してから、35代670年ずっと転封されることなく球磨地方を治めます。
室町時代の頃、相良氏は薩摩・日向に攻め込み領地を拡大。11代長続(ながつぐ)の時には、多良木の上相良氏を滅ぼして球磨郡を統一します。
関ヶ原では西軍につき、伏見城などを攻めていましたが、本戦で三成が敗れると徳川方へ内応し戦功を上げたことで、領地は安堵されました。
室町時代の頃、相良氏は薩摩・日向に攻め込み領地を拡大。11代長続(ながつぐ)の時には、多良木の上相良氏を滅ぼして球磨郡を統一します。
12代為続(ためつぐ)は八代と豊福を。16代義慈(よししげ)は芦北を制圧して勢力を拡大していきました。
1581年水俣合戦で島津義久に敗れ、芦北・八代を取られちゃうんですが。島津氏に臣従しつつも、領地を取られることはなく球磨郡は相良氏が。
家督相続のゴタゴタや、大友氏や島津氏に脅(おびや)かされつつ、相良氏は城の修築を重ねます。城としての築城は1470年頃といわれています。
九州征伐では秀吉へ降伏することとなりましたが、家臣の働きで領地、城とも安堵。
秀吉天下の1589年 20代当主 相良長毎(ながつね)は豊後から石工を招き石垣造りの城として改修します。関ヶ原では西軍につき、伏見城などを攻めていましたが、本戦で三成が敗れると徳川方へ内応し戦功を上げたことで、領地は安堵されました。
人吉城には五稜郭や品川台場で使われた西洋式の武者返しといわれる石垣が残っています。↓