小谷(おだに)城は信長の妹 於市の嫁ぎ先。浅井(あざい)三姉妹 茶々(淀)、江、初の生まれたお城。
浅井家は於市の夫 浅井長政が3代目当主で、1545年生まれの於市の方より2歳年上。
今回は前日から朝まで雪。でも晴れてた。↑前回の登城は2年前で、雨。小谷城は左右正面のお山にお城が連なる山城です。
追手口からの登城だと、かなりの登山でした。
浅井家は北近江の大名で、京極家を制し下剋上を果たし北近江の主権を得ましたが、南近江を治める六角氏に敗れ六角氏に臣従することに。
15歳で元服した長政は、六角氏家臣の平井の娘との結婚を強いられますが、8月に六角氏を相手に野良田の戦いを主導。平井の娘とは離縁し、父の久政を竹生島に追放、家督を相続します。
翌年1561年に織田信長の妹 於市の方と結婚。信長と同盟を結びます。
↑分岐点。右に進むと長政が自刃した赤尾屋敷跡があります。
織田・浅井同盟には、『朝倉への不戦の誓い』が交わされていましたが、1570年に信長は家康と共に朝倉の城を攻め始めます。
長政は朝倉家との同盟を守り、信長を背後から急襲、撤退させました(金ヶ崎の戦い)。
同年6月には姉川で朝倉・浅井軍と織田徳川連合軍との戦いが行われ、織田徳川連合軍が勝利しました。後に上野東照宮を建てた藤堂高虎はこの時、浅井軍の足軽で武功をあげています。
この姉川での戦いで、信長に脅威を感じた石山本願寺は信長包囲網を結成。
浅井氏は協力関係にあった延暦寺の一向宗徒や朝倉氏と滋賀の陣に参戦。この戦いで森蘭丸の父、森可成は戦死しています。
1571年に比叡山の焼き討ちが行われ、1573年織田徳川連合軍によって囲まれた小谷城に籠城していた長政は信長からの降伏の促しには応じず、赤尾屋敷で自刃、29歳という若さで亡くなります。
於市の方と娘達は、信長の保護下に。於市の方は信長の死後、柴田勝家の正妻に。
歴史に翻弄された姉妹って言うか、それだけ信長が遺した影響が大きかったというか…。
↑前回登城時は山に入った時は雨でしたが、降りたら晴れてました。
↑分岐点。右に進むと長政が自刃した赤尾屋敷跡があります。
織田・浅井同盟には、『朝倉への不戦の誓い』が交わされていましたが、1570年に信長は家康と共に朝倉の城を攻め始めます。
長政は朝倉家との同盟を守り、信長を背後から急襲、撤退させました(金ヶ崎の戦い)。
同年6月には姉川で朝倉・浅井軍と織田徳川連合軍との戦いが行われ、織田徳川連合軍が勝利しました。後に上野東照宮を建てた藤堂高虎はこの時、浅井軍の足軽で武功をあげています。
この姉川での戦いで、信長に脅威を感じた石山本願寺は信長包囲網を結成。
浅井氏は協力関係にあった延暦寺の一向宗徒や朝倉氏と滋賀の陣に参戦。この戦いで森蘭丸の父、森可成は戦死しています。
1571年に比叡山の焼き討ちが行われ、1573年織田徳川連合軍によって囲まれた小谷城に籠城していた長政は信長からの降伏の促しには応じず、赤尾屋敷で自刃、29歳という若さで亡くなります。
於市の方と娘達は、信長の保護下に。於市の方は信長の死後、柴田勝家の正妻に。
茶々は秀吉の側室(淀殿)になり、秀頼を出産。初は従兄で浅井家主家、京極家に輿入れ。江は秀吉の甥で養子の秀勝と結婚。のちに家康の息子 秀忠の正室となり、家光を出産しています。
初は秀吉の死の際に領地を受領したほど、秀吉からの信頼が厚かったといわれ、豊臣側と徳川側との対立の中、両家を繋ぐ使者として奔走したそうです。↑お屋敷跡。お山なので、クマが出るらしい。寒いし怖いので、今回は登らず引き返すことに。
江の長女 千姫は茶々の息子 秀頼と結婚。4女の初姫は京極家後継の忠高と結婚。歴史に翻弄された姉妹って言うか、それだけ信長が遺した影響が大きかったというか…。
↑前回登城時は山に入った時は雨でしたが、降りたら晴れてました。