だいぶ疲労が蓄積されていたので、癒しを求め浜御殿へ。金曜日なので江戸城はお休みです。
浜御殿となる前は、一面葦原で将軍家の鷹狩り場として利用されていましたが、1654年に当時甲府藩主であった3代将軍家光の3男(2男ともされる)、4代将軍 家綱(いえつな)の弟 綱重(つなしげ)がこの地を拝領。海を埋め立て下屋敷を造りました。
始めは、甲斐甲府浜屋敷と呼ばれていたそうですが、綱重の長男 綱豊(つなとよ)が6代将軍 家宣(いえのぶ)となると、将軍家の別邸として『浜御殿』と称され大改修が行われます。
↑大手門。大手門は空襲にて焼失。
外郭は総石垣、門は枡形で櫓もあり、江戸幕府の海軍基地としても重要であったようです。
6代将軍 家宣は綱重の長男でしたが、母親の身分が低く、また綱重が正室を娶る直前に生まれたこともあり家臣に預けられ養子に出されていました。
綱重には他に男子ができなかったので、9歳で世嗣として呼び戻されます。17歳のときに父 綱重が亡くなり、甲府藩を継承します。 
4代将軍 家綱に嫡子がなく、5代将軍の候補となりますが、綱吉が将軍家を継いで5代将軍に。
↑汐留のビル郡が並びますが、静かです。
その綱吉にも嫡子がいなかったため、家光の孫でもあった家宣が6代将軍に就任します(家宣48歳)。将軍後継が決まった43歳の時、家宣は江戸城に入城。甲府徳川家は絶家となりました。後に甲府藩には柳沢吉保が入封しています。
家宣以降、歴代の将軍により何度か改修、造園がなされ11代将軍 家斉(いえなり)の頃には現在の形の庭園が完成されたようです。
↑可美真手命(うましまでのみこと)
明治天皇の銀婚式の記念に陸軍省から贈られたもの。軍神です。
↑燕の御茶屋
5代将軍 綱吉(つなよし)による『生類憐みの令』により、鷹狩りも中止されていましたが、8代将軍 吉宗(よしむね)により鷹狩り復活。
↑鷹の御茶屋
11代将軍 家斉と12代将軍 家慶(いえよし)の時には鷹狩り最盛期であったとのことで、将軍が休憩や暖をとる御見合所(おみあわせどころ)、御亭(ごてい)が建てられました。
↑松の御茶屋。
炉で芋や栗を焼いて楽しんだそうです。
明治維新後は、皇室の離宮となり『浜離宮』と名前を変え、饗応の場として御見合所・御亭は御茶屋と名称が変えられます。
↑日本庭園の外には近代建築。
東京湾の海水の満ち干きにより、池の水位が変わるのを楽しめる潮入の池の残る都内唯一の庭園。
↑まだまだ開発中。
↑左の緑のお屋根が中島の御茶屋。
中島の御茶屋は園遊接待のために、6代将軍 家宣が建てたもので中からの眺めが素晴らしいそうです。中で抹茶など頂けます。
享保の大火(1724年)で焼失してますが、1788年に11代将軍 家斉によって再建。1944年11月の空襲により焼失、1983年に宝くじ助成事業により再建されたそうです。
↑売店の案内板。
↑鷹の獲物となる鳥をおびき寄せるために造られた鴨場。