1598年に秀吉が死去、1599年に前田利家が死去、三成の失脚で日の本を手中にすべく家康が動き出します。
三成もまた家康の勝手にはさせまいと、1600年9月15日 交通の要衝とされた関が原で、家康率いる東軍と石田三成の西軍の戦いが行われました。
↑↓家康は桃配山(ももくばりやま)に最初に陣を敷きます。
三成は北西の笹尾山に、裏切りの小早川秀秋は南西の松尾山に陣を構えていました(家康本陣を中心)。
↑右側に三成、左側に小早川。
深い霧で、戦いが始まると家康陣地からは、その様がよく見えず…本陣を移動します。
↑先陣を切ったのは東軍 井伊直政と家康4男で井伊家婿になった松平忠吉。開戦の8時に家康の後継である秀忠は間に合わず、家康の怒りをかいました。
午前11時 家康は本陣を陣場野公園に移動。西軍の優勢と動かない小早川に気の長いはずの家康もイライラが募り、威嚇射撃をしたともいわれます。
↑床几(しょうぎ)場。武功の判断をするために家康が首実検した所。
小早川秀秋が大谷吉継を攻めたのを期に、平野部に布陣していた西軍 赤座・小川・朽木・脇坂も寝返りし、大谷軍を総攻撃。吉継を自刃に追い込みました。
↑首塚(東西にありますが、東軍西軍分かれているわけではなく一緒に埋葬されています)
吉継が敗れると西軍は敗走を始め、大将の三成も離脱。午前8時に開戦され、午後2時に終了。6時間の間に戦死者6000人とも8000人とも…。
西軍で最後まで戦ったのが薩摩の島津軍。本隊を逃すために捨て奸(がまり)の戦術で東軍と対峙しました。全滅覚悟で殿様を守り、島津義弘を薩摩に帰還させました。
その島津との攻防で負傷した井伊直政と松平忠吉はその後この傷のために亡くなっています。