前回の熊本城登城から、約3年(2019年当時)。
熊本城は再建に向かって頑張っていました。
1600年から約30年かけて、築城された熊本城。震災時、テレビから流れる映像に胸を痛めた人は多く、初登城時には現地の方が涙を流してお城のことを話してくれたのを思い出します。
来年の2021年には天守が内覧可能との記事も見ました。復興は進んでいると思います。
熊本(肥後国)は温暖な気候・豊かな水・広大な丘陵を持ち約28000年前(旧石器・縄文時代)から人々が住み、弥生時代には大陸との交流が始まり、いち早く稲作も始まったといわれています。
熊本城 城下町の旬彩館↑くまモンもお出迎え。
熊本(肥後国)は温暖な気候・豊かな水・広大な丘陵を持ち約28000年前(旧石器・縄文時代)から人々が住み、弥生時代には大陸との交流が始まり、いち早く稲作も始まったといわれています。
熊本城 城下町の旬彩館↑くまモンもお出迎え。
鎌倉時代になると武士が地頭や守護に任命され御家人も入国。室町時代には徐々に菊池氏の勢力が弱っていき、豊後の大友氏・肥前の龍造寺氏・薩摩の島津氏により戦国時代には争奪の地となりました。
↑城下町 旬彩館から、熊本城へ向かうと紫陽花が。
↑城下町 旬彩館から、熊本城へ向かうと紫陽花が。
御家人衆の束ね役でもあった豊後・筑前の守護大名の大友氏。代表的なキリシタン大名の1人 大友宗麟(そうりん)は1530年大友義鑑(よしあき)の嫡男として生まれました。傅役は義鑑の寵臣 入田親誠(ちかざね)。
1540年 元服の際、宗麟は12代将軍足利義晴から、1字拝領し義鎮(よししげ)となります。
義鎮は粗暴で人望もなく、傅役の入田とは不仲でもあり、父の義鑑は3男の塩市丸を溺愛していたため、後継を塩市丸にしようと1550年 入田と共謀し義鎮を湯治に行かせている間に義鎮派の家臣を殺害していきます。
身の危険を感じた義鎮派家臣筆頭の田口らに居館を襲撃された義鑑は自らも瀕死の重体となり、塩市丸とその母も殺害されてしまいます。
襲撃の2日後に亡くなった義鑑の遺言には義鎮に家督相続の旨が書かれており、無事義鎮は大友家を相続しました(瀕死なのにこんなに丁寧に書けるのか?っていう内容で義鎮が書いたんじゃ…とも)。
1551年 周防国(西広島)の大内義隆が家臣の謀反で自刃。義鎮は実弟の晴英(大内義長)を周防国の新当主として勢力を中国地方に伸ばします。
そして叔父の菊池義武の反乱を退け、菊池氏を滅亡させると、肥後を確保します。さらに少弐氏・龍造寺氏にも勝利した義鎮は肥前守護に。
1559年には足利義輝への多大な献金で、豊前・筑前の守護となり、九州探題を任されました。
1540年 元服の際、宗麟は12代将軍足利義晴から、1字拝領し義鎮(よししげ)となります。
義鎮は粗暴で人望もなく、傅役の入田とは不仲でもあり、父の義鑑は3男の塩市丸を溺愛していたため、後継を塩市丸にしようと1550年 入田と共謀し義鎮を湯治に行かせている間に義鎮派の家臣を殺害していきます。
身の危険を感じた義鎮派家臣筆頭の田口らに居館を襲撃された義鑑は自らも瀕死の重体となり、塩市丸とその母も殺害されてしまいます。
襲撃の2日後に亡くなった義鑑の遺言には義鎮に家督相続の旨が書かれており、無事義鎮は大友家を相続しました(瀕死なのにこんなに丁寧に書けるのか?っていう内容で義鎮が書いたんじゃ…とも)。
1551年 周防国(西広島)の大内義隆が家臣の謀反で自刃。義鎮は実弟の晴英(大内義長)を周防国の新当主として勢力を中国地方に伸ばします。
そして叔父の菊池義武の反乱を退け、菊池氏を滅亡させると、肥後を確保します。さらに少弐氏・龍造寺氏にも勝利した義鎮は肥前守護に。
1559年には足利義輝への多大な献金で、豊前・筑前の守護となり、九州探題を任されました。
↑2019年の熊本城天守。↓2016年。
その頃 中国地方では毛利氏が勢力を拡大しており、1557年 毛利元就に弟の大内義長が侵攻され、自刃し大内氏は滅亡となります。
1562年毛利氏に敗れた義鎮は出家し休庵宗麟となりますが、休むわけではなく、八幡宮に対毛利の戦勝祈願に行き、1567年に毛利氏に北九州を平定されると、貿易相手であったポルトガルの宣教師に「毛利はキリスト教を弾圧する者だ。私はキリスト教に寛大だ」と火薬の原料を要請し毛利には粗末な原料を売るように言ったりします。出家し、八幡宮へ神頼みしたにもかかわらず、思うようにいかなかったからでしょうか。1579年7月に宗麟はキリスト教の洗礼を受け『 ドン・フランシスコ』の洗礼名を授かりました。
足利氏が織田信長に敗れると、義鎮は信長に接近。
打倒毛利のために、島津との和睦を斡旋してもらい、毛利攻めに協力してもらう事も約束します。
1584年 和睦を破り島津氏は北上。1586年 今度は大坂城で秀吉に謁見し、軍事支援を懇願します。秀吉は九州平定も念頭にありましたから、4/17 連合軍10万を九州に送り込みます(根白坂の戦い)。島津軍は敗走、秀吉の九州平定は盤石となりました。
九州平定後、筑前に滞在した秀吉は肥前がイエズス会領となっていることを知らされ、キリシタン大名により寺社が焼き払われたり、僧侶が迫害されていることも知ります。また『日本人数百人男女を問わず南蛮船が買い取り、手足に鎖をつけて船底に追い入れた 』り、『 牛馬を生きながら皮を剥ぎ、手で食べる。親子兄弟も無礼の儀、畜生道の様子 』を目の当たりにした秀吉は『 キリスト教を許容すれば、たちまち日本が外道の法になってしまう』とバテレン追放令を発令することに。
大名のような力のある者の入信は認めず、平民への布教は認めていたようですが、イエズス会日本支部準管区長のガスパール・コエリョに疑念を持った秀吉は南蛮からの侵攻を避けるため、文禄・慶長の役に進んで行ったともいわれています。