↑竹田駅から、バスで向います。
1441年 播磨・備前・美作守護の赤松満祐(みつすけ)が室町幕府6代将軍の足利義教(よしのり)を暗殺。但馬守護だった山名持豊(もちとよ)が一族を動員し播磨を攻め赤松満祐を滅ぼし播磨守護となりました。
↑山城の里で休憩。もやもや♡
↑山城の里で休憩。もやもや♡
竹田城築城は1441~1443年の室町時代。山名持豊が築城し、太田垣氏を但馬守護代とし入城させます。山名持豊は応仁の乱での西軍総大将。
1577年信長と毛利氏の関係が悪化すると、秀吉が播磨に派遣され、姫路城に入城します。
秀吉は弟の秀長に但馬の侵攻、竹田城の攻城をさせ、秀長を竹田城城代としました。
1579年に信長の命で秀長は光秀支援のために竹田城から丹波・播磨へと移動。その隙に毛利方の太田垣氏が一時入城しますが、秀長に再度攻められ降伏、竹田城を明け渡します。
その後、秀長配下の桑山重晴が入城、和歌山城に転封されると斎村政広が城主として入城します。
斎村政広により、今の竹田城は完成されたとのこと。政広は養蚕・漆器業を奨励したりし、領民にも慕われていたようです。
1600年 三成の西軍に与し丹波田辺城を包囲しますが、関ヶ原での西軍敗退を受けて撤退。旧交のあった亀井茲矩(これのり)に説得され東軍に降伏します。
「鳥取城が落とせないが、これに加わり武功を上げれば家康さまも西軍であった斎村家を信用するぞ」と亀井茲矩に誘われ、西軍 宮部長房の居城である鳥取城攻めに援軍として加わります。なかなか落ちなかった鳥取城を城下焼き討ちで落城させました。
焼き討ちは亀井茲矩の策であったようですが、家康さまの不興を買い、斎村政広は首謀者として城下の大火の責任を問われ1600年12月に鳥取城下で自刃させられます。
竹田城は山上に築かれた堅城で、攻城するには困難であり亀井茲矩を遣って斎村政広の籠城を防いだのではとも考えられているようです。
桜は満開でしたが、雨のせいで登城者は数人遠くにちらほら見える程度。お城の案内侍さんが丁寧に解説をしてくれました。秀吉は弟の秀長に但馬の侵攻、竹田城の攻城をさせ、秀長を竹田城城代としました。
1579年に信長の命で秀長は光秀支援のために竹田城から丹波・播磨へと移動。その隙に毛利方の太田垣氏が一時入城しますが、秀長に再度攻められ降伏、竹田城を明け渡します。
その後、秀長配下の桑山重晴が入城、和歌山城に転封されると斎村政広が城主として入城します。
斎村政広により、今の竹田城は完成されたとのこと。政広は養蚕・漆器業を奨励したりし、領民にも慕われていたようです。
1600年 三成の西軍に与し丹波田辺城を包囲しますが、関ヶ原での西軍敗退を受けて撤退。旧交のあった亀井茲矩(これのり)に説得され東軍に降伏します。
「鳥取城が落とせないが、これに加わり武功を上げれば家康さまも西軍であった斎村家を信用するぞ」と亀井茲矩に誘われ、西軍 宮部長房の居城である鳥取城攻めに援軍として加わります。なかなか落ちなかった鳥取城を城下焼き討ちで落城させました。
焼き討ちは亀井茲矩の策であったようですが、家康さまの不興を買い、斎村政広は首謀者として城下の大火の責任を問われ1600年12月に鳥取城下で自刃させられます。
竹田城は山上に築かれた堅城で、攻城するには困難であり亀井茲矩を遣って斎村政広の籠城を防いだのではとも考えられているようです。