1619年備後・安芸国(岡山の1部と広島)を任されていた福島正則が幕府に届出ずに城の修復をした咎で改易となり、代わりに備後・備中10万石で家康さまの従兄弟 水野勝成(かつなり)が西国外様の抑えとして入国。
当時の備後には神辺城がありましたが、何度も落城していたことから、武家諸法度制定後、異例の新規築城となったのが福山城でした。

幕府から石垣奉行も派遣され、伏見城の遺構も下賜されています。伏見城からは伏見櫓・月見櫓・御殿(伏見御殿)・御湯殿・筋鉄御門・追手御門・多聞櫓などが下賜され、築城開始から3年後の1622年に福山城は完成しました。
10万石の大名だけど、城は30~50万石規模で西国外様大名へ幕府の睨みを効かせたお城です。
伏見櫓(重文)
福山藩初代藩主の勝成は、1564年家康さまの母 於大の方の姉妹を母とし三河に生まれます。21歳違うけど、家康さまの従兄弟。秀忠の乳兄弟で近習。
勝成の父は家康さまへ仕えてましたが、信長に引き抜かれ、勝成は16歳で高天神城の戦いで初陣。首級を上げて信長からお褒めのお手紙を頂きます。
↑御湯殿(伏見城遺構 復元)
天正壬午の乱(勝成18歳)では鳥居元忠が出陣の命を受けたのを勝成に知らせずに自軍で動き、抜け駆けされたと憤慨した勝成は先頭に立ち敵陣に突入し、首級をいくつも上げたりします。
↑月見櫓(伏見城遺構 復元)
小牧・長久手の戦い(勝成20歳)では父に従い織田信雄の下で戦いますが、1番首を取り家康さまへ持参するなど武功を重ねます。でも、父には「先駆けは軍法に背く」と叱責されました。
さらに素行の悪さを告げ口した父の部下を斬り捨てて奉公構(ほうこうがまえ)を喰らってしまいます。勝成はどこの武家にも仕官できない状態で、流浪します。
信長→家康さま(父に勘当され流浪)→秀吉(信雄の口利き)→佐々成政→黒田官兵衛→小西行長→加藤清正→立花宗茂→家康さまと偽名も使いつつご主人様を替えて戦さ場で大活躍しています。ただ流浪中はけんかをして多数死者を出したり暴れまくってました。

1599年(勝成35歳)に家康さまの計らいで父と和解。翌年に父が殺害され、家督を継ぐことに。
関ヶ原では出陣を許されず、大垣城の抑えを命じられます。
大坂の陣(勝成36歳)では、家康さまから先鋒大将を任されます。「大将なんだから間違っても先鋒に立つな」と家康さまにくぎを刺されますが、一番槍を上げています。真田信繁(幸村)らと対峙した際には、隣に陣を構える伊達軍に「敵軍を討ち取りたい、討ち取りたい」と訴えますが、政宗さま直々にお断りされています。
血気盛んな勝成ですが、藩主としては治水や経済活動、農産業にも力を注いで福山藩を豊かにしていき、領民からも慕われていたようです。1698年5代藩主 勝岑(かつみね)の早世で水野家の治世は終了し、福山藩は一時的に天領となりました。