1600年関ヶ原の戦い前日、元々黒田長政を通じて家康さまと内通していた西軍 吉川広家(きっかわ ひろいえ)は東軍の井伊直政、本田忠勝と毛利家の不戦の誓いと本領の安堵を密約します。
吉川広家は毛利元就(もとなり)の孫で、本家 毛利輝元(てるもと)の従兄弟。毛利家の両川となるもう一家小早川隆景は叔父。裏切りの秀秋は隆景の養子。
広家は徳川側の勝利を確信していたと言われ、毛利輝元の西軍総大将就任を何とか辞めさせようと奮闘しました。
関ヶ原では長宗我部、毛利の軍を「霧が濃いし」「弁当食ってるから」と足止めにし、毛利家の不戦を守り、東軍の勝利で戦を終了します。
毛利家の本領安堵を叶えたと思ったものの、大坂城から出てきた連判状には輝元の花押があった事で約束は反故。毛利家所領は没収、改易。広家には長門・周防国が与えられる事とお沙汰がありました。
この沙汰に広家は「毛利の名を残してくだされ。輝元が家康さまに忠節尽くさなかったならば、私が輝元の首を届けましょう」と家康さまへ願い出て、長門・周防国は毛利家の所領となります。
関ヶ原前には112万石だった毛利家は30万石に減封され広家には岩国3万石を分領し、毛利家の東の守りとしました。家康さまからすると、毛利家の見張り…かな。
家康さまから岩国への築城を許可された広家は、1601年より岩国城の普請に取りかかります。
関ヶ原後、家康さまは西国大名の力を削ぐために、伏見城や江戸城の普請の手伝いをさせますが、広家もまた駆り出されます。
不在となっても岩国城の普請をお手紙で指示したりして、城郭は7年の歳月をかけ1608年に完成しました。
↑錦帯橋と、右側お山の上に岩国城。
吉田郡山城の麓にある毛利家の祈願所の清(すが)神社。