こちらも駅近。小諸城。
『懐古園』は徳川家達(いえさと:16代様)のお筆。幻の将軍。
関ヶ原の戦いに、将軍後継の秀忠が遅参したのは、上田合戦で上田城に籠城する真田家と相対し、小諸城を本陣とし指揮を執っていたから。
秀忠は9/2に小諸城に入城。
↑秀忠が陣営を敷いた二の丸。
秀忠の軍は関ヶ原に向かう予定の徳川別働隊の軍38000といわれ、対する真田軍は2000。まだ、秀忠21歳。これが初陣。
↑天守台
数からは楽勝なはずの戦でしたが、真田は信繁の父 昌幸が2人の息子と共に策略を練り、秀忠を翻弄しました。
秀忠は家康から信州平定を命じられていたとも言われており、まぁ上田城を陥落できず、ほぼ負けちゃったけど、関ヶ原に遅参したのも致し方…なし?
↑天守登り口
2人の兄やすぐ下の弟 松平忠輝と違って、武功についてはパッとしない秀忠。運も悪く、家康さまからの関ヶ原の開戦の連絡も悪天候に阻まれ、遅参っていうか馬籠で17日に戦勝の連絡を受けちゃった。
↑天守台は安全ロープとかなし。際まで行けます。怖い怖い…。
心無い家臣団からも、真田の策略に嵌っただの、大局(関ヶ原)ではなく上田如きに拘った器量不足などと言われたり。
家康さまは1週間会ってくれず、苦い初陣となった秀忠でした。
挽回しようと頑張った35歳での大坂の陣では、突っ走りすぎて軍を疲弊させたと家康さまに叱られる始末。もうこの時は将軍なのに…。
血筋でも秀忠は後継だけど、家康さまはできて間もない江戸幕府を守るため動じない秀忠をと考えてたみたいです。肝が据わってる…っていうか、判断の人?
幕府に抵抗しそうな外様、親藩、譜代の改易や処分。実の弟も改易し容赦なし。
治世では家康さまの路線を律儀に守り、江戸幕府の基盤を強固にすることができました。
↑小諸城 大手門。
諸外国との交易の制限だったり、大名の配置だったり、娘を天皇家へ入内させ、朝廷との関係も強固にしていきます。
↑大手門内側。
15代も続いた江戸幕府を安定させたのは秀忠の力量か…。
↑秀忠を困らせた真田家のお城 上田城。2度に渡る徳川との戦いで負け知らずだった不落のお城。
↑真田家のお城は鬼門の土塁が削られる隅欠(すみおとし)が為され、鬼門除けがされているそうです。