コギト・エルゴ・スムという言葉 | 雷神トールのブログ

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ド・ゴール将軍は若い頃、第一次大戦に一将校として参戦し、ドイツ軍との戦闘で小隊長として指揮を執り、非常に困難な戦に勝つのですが、砲弾がすぐ近くで爆発しその衝撃で気を失い、死んだと見做されて運ばれてしまう。途中で意識を取戻し、後の宿敵となるペタン将軍に表彰を受けます。死んだと見做された人が息を吹きかえす時のことを後の引用文に関連してここで想像してみてください。

ふつう私たちは幼い時から体感を持ち、身体と五感により自分が生きていることを特に意識しなくても感じて知っています。よっぽど特殊な自意識の危機に陥らない限り、「私はいる」「私は存在している」「私は生きている」と意識して感じたり考えたりしないはずです。

20世紀前半のフランスが生んだ抒情詩人ポール・ヴァレリーは、17世紀にデカルトの意識に起こったある革命的な事件と似た自意識の危機を、同じような20歳を出たばかりの頃に体験しました。このことはいつかも少し詳しく書くことにして、ヴァレリーは20年間思索を続けた後、長編詩「若きパルク」を発表し、デカルトはやはり20年後の41歳になって「方法序説」を世に問います。

ヴァレリーにとりデカルトは生涯に渡って観念に付き纏って離れないドッペルゲンゲルのような存在でした。「テスト氏との一夜」「テスト氏との対話」「テスト氏のログ・ブック」など一連の「テスト氏」ものは、こうしたヴァレリーのデカルトに対する偏執的な観念を綴ったものといえます。

「私は哲学者ではないが」と断った上で、この詩人は、幾つかの哲学的論考を残しています。中でも重要なのがやはりデカルトに関してですね。そのうちのひとつ「デカルトの一面」というエッセーに面白い一節を見つけたのでご紹介します。

「私は、ここで、大変なリスクを冒そうとしている。これ(われ思う、故にわれ在り)は、まったく別な目で観ることができるのであり、これを提唱した人物の簡潔で雄勁な表現は、まったく意味がないと私は言おう。だが、同時に、これは人そのものの特徴を示す極めて大きな価値をもつものだと私は言いたい。

 コギト・エルゴ・スムは全然意味がないと私は言う。なぜなら、この小さな言葉 Sum には全然意味がないからだ。だれも、『私は居る』、と言おうと考えたり、言う必要を感じたりしはしない。ただ、間違って死んだと思われ、死んでないと抗議したりすることはあるだろう。それだって、私は生きてる、と言う方が自然だ。単に短く叫んだり、ちょっと身動きすれば済むことだ。『私はいる、または私は在る』は誰にも何も意味を与えはしないし、いかなる知的な問いに答えるものではない。だが、この言葉は、後で説明するが、別の事に応えている。ある定言が意味を持つならば、その否定形も定言と同じようになんらかの意味を持つはずだ。ところが、『私は在る』になんらかの意味があるとしても、『私は居ない(存在しない)』には、それ以上にも以下にも意味はない。」

念のため、フランス語の原文を写しておきます。

Je vais ici me risquer beaucoup. Je dis qu' on peut la considerer d'un tout autre regard et pretendre que cette breve et forte expression de la personnalite de l'auteur n'a aucun sens. Mais je dis aussi qu'elle a une tres grande valeur, toute carasteristique de l'homme meme.

Je dis que Cogito ergo sum n'a aucun sens, car ce petit mot Sum n'a aucun sens. Personne n'a, ni ne peut avoir, l'idee ou le besoin de dire : <<Je suis>>, à moins d'etre pris pour mort, et de protester qu'on ne l'est pas; encore dirait-on: Je suis vivant. Mais il suffirait d'un cri ou du moindre mouvement. Non: << Je suis >> ne peut rien apprendre a personne et ne repond ici a aucune question intelligible. Mais ce mot repond ici a autre chose, dont je m'expliquerai tout a l'heure. D'ailleurs, quel sens attribuer a une proposition dont la negative exprimerait le contenu aussi bien qu'elle-meme? Si le << Je suis>> dit quoi que ce soit, le << Je ne suis pas>> ne nous en dit ni plus ni moins. (アクサン記号は省略しました

(Une vue de Descartes, page 825, Paul Varely Oeuvres tome 1, Pleiade )

ラテン語の Sum はフランス語の être に当たり、直説法現在では Je suis, tu es, il est, nous sommes, vous êtes, ils sont と活用しますね。

普通、「私は幸せです Je suis heureux (heureuse) 」とか 「疲れた Je suis fatigue (e) 」とか状態を示すことが多いですが、 être には「ある」「いる」、哲学的に「存在する」という意味があるのです。「吾輩は猫である」というのと「リンゴがある」の「ある」と似てますね。

フランス語の元になったラテン語では sum es est sumus estis sunt と活用します。他の人称の形と少し違いますが Sum はêtre の原型と考えてください。なので状態を示す他に「ある、いる、存在する」という意味があり、デカルトはこの意味の Sum を使ったのですね。 Cogito ergo sum と。

ヴァレリーは「Cogito ergo sum 」にはまったく意味がないと、リスクを覚悟で言い放ったわけです。現代でも日常会話で、Je suis là と言う事はよくあります。「フランソワーズ! どこにいるんだい? 家族や友だちを見失った男が叫ぶ。「ここよ~!」って時にフランス人は「Je suis là !」と叫び返しますね。フランス人は「私」と言うんです。日本人はたいがい言わないですね。「ここよ~!」って客観的な場所で答える。「私は、ここよ!」って場所があるからまだ意味がある。単に「Je suis」だけでは、なんの意味もないとヴァレリーは言うわけです。

上に引用したヴァレリーのテキストで「後で説明する」と言っている事は、単純に「自己中心 egotisme エゴチスム」ってことです。拍子抜けを感じてしまうほど単純で済みません。でも、デカルトの「われ思う」があまりに大々的に取り上げられてフランスの学校教育では、必ず習う。フランスの子供はみな コギトが大切という教育を受ける。やがてルソーが出てきて「社会契約論」を唱え、個人主義の時代が到来する。社会的には分業が一般化し、労働は細分化され、各人の分掌が明確に決められ、契約が交わされる。

個人と集団とが契約という文章によって定義される。文章で定義するとは不可分な現実世界を切り分けてしまう。現実には漏れ落ちる部分が出来てしまう。個人が中心だから集団の利益は後回しにされる、ないしは気づかないふりをする。人間の自然な反応のレベルでは同僚が困っていれば手助けをしようと気持ちが動くのに、契約では、受け持ち外だから手助けするなとなる。分業の境目の部分をだれが担当するかは洋の東西を問わず問題ですが、分業意識が強く、個人主義と契約社会の西洋に特に、境界の問題が多いと、めのおは経験から考えます。

デカルトは、「われ思う…」の定言で、カントやハイデッガーやサルトルという後の哲学者に「存在、実在」という問題を提出したので重要と考えられていますが、サルトルも含めて彼らは官製の哲学者、フランスのバカロレア(大学入学資格試験)の問題に出される人たちですよね。庶民の日常生活に「超越的自我」とか「純粋理性批判」とかあんまり関係はないです。

哲学にはスコラ哲学からの伝統的命題を巡る思弁と、「いかに生きるか?」とか「正義とはなにか?」とか「生きる意味とはなにか?」とか生(活)を巡っての庶民が日常考えるに際して手助けとなるような哲学がある、という意味のことを、毎年夏、ノルマンデイーのカーンという町で「民衆大学」を作ってラジオでも聴ける講義を行っているオンフレイ Onfray という哲学者が言っています。

デカルトが近代に及ぼした功績は、解析幾何学の創設にある、とヴァレリーは忘れず言っています。


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